住友赤平炭鉱跡  探検: 北の細道 二坑総排気立坑

赤平炭鉱 二坑総排気立坑で赤上に遭遇する





 明治期における三大財閥、三井・三菱・住友の鉱山分野への投下は
どのような疆域であったのだろうか。

三井財閥はご存じの通り 美唄、そして 芦別と 炭鉱業に特化し、
住友財閥は金属鉱山業に比重を置き、特に四国の別子銅山からの利潤は、
その屋台骨を支え、他の事業分野へ進出、事業の多角化への足掛かりとなった。
三菱財閥においては、 美唄炭鉱大夕張炭鉱、端島炭鉱などと共に、
宮城県の細倉鉱山、秋田県の尾去沢鉱山などの金属鉱山をも経営し両者の中間的立場であった。

住友が炭鉱業に進出したのは、明治26年(1893)の九州 庄司炭鉱と、
三井・三菱の炭礦進出からは一歩出遅れることとなり、
すでに九州の立地条件の良い炭鉱群は各社の手で開発が進んでいる状況で、
北海道でも残るは老齢期のヤマと、スタートから足枷を履いた状態であったのは否めなかった。

そんな中の昭和初め、赤平地区も隣接する鉱区の操業が盛んとなっていた。
北海道炭礦汽船(株)による 赤間砿、 昭和肥料(株)による 豊里炭鉱
そして 茂尻坑上歌と なぜか赤平中央部のみが未開発の状況であった。

そこで発生した満州事変の軍事特需は住友財閥の赤平進出の引き金となり、
昭和12年(1937)8月、赤平炭鉱が開坑する。


赤平に限らずすべての坑道を伴う炭鉱では通気が回避不能の問題となる。
坑道延長に従い、扇風機の大型化や通気系統の整備、通気抵抗の減少など、
坑内換気は採炭と同じく重要な設備であり、その効率は安全に関わる。
ガス爆発の防止や坑内温度の調整など、石炭増産のための深部開発に
坑内通気の限界拡大が目標とされている。

通気を計測し、その抵抗を減少させ坑道断面を拡大、不要坑道の整理など、
扇風機の性能や設置法の改善と共に坑内通気技術は進歩してきた。

今回は炭鉱の風洞、風を吸い出す排気立坑を探索する。


通洞・扇風機室・電動機・・・



扇風機室
放射塔





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