エヴァーゼのために



まずは歌志内/赤平間の旧春光台地区からの入山だ。
旧道があるようだがほぼ笹薮で覆われている。
5月初旬のベストシーズンを狙っての探索だ。 アプローチ


地形図にも載る送電線を超えると
道は大きくえぐれている。
ここは歌志内と赤平の市境である。 廃道


当時の住友鉱区としても上赤平炭鉱と赤平炭鉱の交わる地点であった。
その中間地点は北炭の鉱区域であり、
本体鉱区から離れた上赤平坑の操業は原価高要因となっていた。 平場


廃道は水没しながら続く。
そこで起案されたのは北炭との鉱区交換という具体的な提案をもっての交渉、
つまり住友/北炭、お互いの効率を図るために鉱区を整理したのだ。 廃道

広大な平場の荒地に到達した。
鉱区交換の裏事情としては赤平大手四炭鉱の攻防が垣間見える。
大手四炭鉱とは 茂尻(大倉鉱業→雄別炭鉱)、 豊里(昭和肥料(株)) そして北海道炭礦汽船(株)赤間坑、住友赤平である。 荒地


河床にはレールの一部が残存する。
平和的な鉱区交換に至った経緯には 上赤平側も茂尻坑に対して、防衛上捨て置けない区域であったことが要因にある。
これが二坑開坑に着手する昭和16年(1941)の時代背景である。 坑口


平場を少し進むと坑口のような部分が見える。
これは通洞三区間東口で昭和30年代の上歌坑と赤平坑の合併に伴う、
連絡用の通洞だ。 通洞三区間東口



こちらが上歌/赤平境にある通洞入口。
昭和19年(1944)から昭和28年(1953)まで使用された
坑内電車への歩行階段用坑口だ。 通洞
写真提供は nociw_urar様

谷の対面には封鎖された通洞四区間西口が残る。
この東部二坑区域は、層序も安定しており、
昭和17年頃に散発した坑内自然発火の減産を補うこととなる。 通洞四区間西口


昭和16年と二坑開坑の着工が早かったことは、
結果的に経営負荷に対してのタイミングが良かった訳で、
強いては北炭との鉱区交換が非常に価値の高いものだったことになる。 通洞


ここで二坑の存在について確認してみよう。
図の通り、立坑完成後のレイヤーは-180L/-200L/-350L/-550Lの4階層であり、
-180Lの二坑だけが独立していることがわかる。 二坑


向かい合う通洞の先には建屋の遺構が見える。
ダクトやパイプ、
これは恐らく排気立坑のようだ。 遺跡


逆円錐の筒は放射塔と呼ばれる排気煙突。
小屋内部に電動扇風機が設置され坑内の空気を吸いだし放出、
通気確保のための施設跡だ。 積出設備


上部が広がった放射塔は『末広装置』と呼ばれ、
一名拡散装置またはエヴァーゼーと称される。
上部を大気圧より高圧にすることで排気抵抗を低減する装置である。 末広装置


建屋の内部には巨大な安川電機製電動機(モーター)が鎮座する。
炭鉱で電動扇風機が普及しだしたのは明治40年代と言われるが、
当時の主要68炭鉱の内、扇風機が使用されたのは16炭鉱と普及率は24%に留まる。 電動機


昭和の初期には長壁式採炭法と呼ばれる大規模な坑道採掘が進み、
採掘区域の深部化と共に通気量の増加に迫られ、
扇風機の大型化が確立された。 扇風機


電動機の出力軸は巨大なカップリングに固定され、
ピローを介して奥のターボファンと接続されている。
残念ながらファン自体は確認できなかった。 (マウスon 機器)


腐食した制御盤が残存する。
上部には電流計と恐らく電圧計、下部の交流アーク溶接機のようなハンドルで
出力電流を調整したようだ。 制御盤


安全啓蒙の看板が残る。
整理整頓、運転時の心得、火災の防止。
本施設の完成は昭和27年(1952)10月なのでおよそ70年の経過だ。 啓蒙看板


その昭和27年当時の赤平坑は深部開発と機械化が推進された時期である。
昭和34年着工の立坑計画と共に、 幹部の海外視察により、
敗戦後の遮断された技術交流を復活させるべく暗黒時代に終止符を打つ時期であったと言える。 廃祉


『増員による増産』ではなく、350m以下の深部開発と、
新鋭機器や新技術導入などによる能率向上・コスト低減が叫ばれたのである。
そこで構想が持ち上がったのが上歌志内炭鉱との合併操業つまり『赤上合併』である。 扉


当時の上歌(住友上歌志内炭鉱)は開坑の大正2年(1913)から既に35年以上経過しており、
初期立坑も深度250mの坑底から-390mの斜坑が伸び、
運搬系統は複雑化、旧式立坑巻上機の能力限界に達していた。 窓


出炭の頭打ち、通気保安の未確保と上歌独自での解決は合理化投資額の面から困難とされた。
そこで計画された合併構想は、運搬坑道の延長接続、排気立坑の兼用化、
選炭機の増設、レール幅(軌間)・炭車の統一などとなりこれに資金が投入された。 ファン


赤上合併は稼業中の二山を操業停止することなく推し進められ、
特に年末年始4日間で延長9qに及ぶレールの張替えや炭車620台の車輪取替を、
赤・上全坑軌道夫を総動員して完了させたこともあった。 扇風機室


合併は昭和28年(1953)新春に実施され、
上歌の全出炭は赤平連絡坑道を経て新造選炭機に投入されることとなる。
ところが合併によって新出したのが労働問題であった。 風洞室


そもそも上歌側の通気、運搬問題の打開策としての合併であったが、
労働組合としては合併を理由とする労働者の解雇は行わないことを本社と協議した。
時代はちょうど炭鉱労働組合の集約期であった。 拡散装置


本施設は昭和33年(1958)11月には閉鎖される。
平成6年(1994)の赤平炭鉱閉山の遥か前である。
原因は扇風機の故障による操業停止であり、わずか6年の稼働である。 扇風機室


冒頭で述べた通り、住友が赤平に進出した時、
その鉱区中央部のみが未開発であった。
これは隣接した未開発鉱区は既存炭鉱に委ねて採掘する風潮があった事に起因する。 扇風機室


石炭需要の根源は軍需にあり、格差が生産増強を図る中で、
お互いの鉱区を守る、この考えが根強く、
この未開発鉱区は『休眠鉱区』と呼ばれ大きく開発が遅れる一画が存在した。 扇風機坑道







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排気立坑
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