八世紀における「譜第」・擬任郡司制ーその意義と特質ー


(目次)
T はじめにー本稿の課題とその意義ー
U 「譜第」の強調の意義
V 「譜第」の特質
W 擬任郡司制の意義・特質
X 結びー郡司制と国家の歴史的特質ー


〔T はじめにー本稿の課題とその意義ー〕
 本稿の課題は、郡司制の特質に関わる二つの問題ーすなわち、「譜第」*1)と擬任郡司制-の特質について、分析することである。ただし、詳細な分析は後考にゆずり、ここでは全体的・概括的な特徴を把握することを課題とする。また、対象とする時期は、その基本的出発点である八世紀とする。
 この課題の意義は、郡司制の特質の把握、さらに、そこからの当該期の国家の特質の把握の上で、不可欠の前提作業となる点である。
 八世紀においては、この二つは郡司制の基本的特質を規定する要素とは見なしがたい。「譜第」の系譜意識は、郡領任用基準制度の変遷の中で現れるが、史料上の初見は七三五年(天平七)である*2)。それ以前の令制の任用基準制度は「才用」主義を採っており*3)、「譜第」が「才用」にかわる任用の第一義的・基本的基準となるのは七四九年(天平勝宝元)の嫡々相継制*4)である。すなわち、八世紀前半においては、それは郡司制の基本的特質を規定したとは言えない*5)。擬任郡司制も、正員郡司への任用までの擬用に過ぎず、基本的な特質をなすのは正員郡司制である*6)。しかしながら、それらが郡司制の何らかの特質を反映しているとは言える。それ故、その意義・特質の把握を欠いたまま、八世紀の郡司制の特質を把握することは不可能であろう。
 また、平安期の郡司制の特質を把握する上では、これらの要素の意義は重要である。
 「譜第」の系譜意識は、八一一年(弘仁二)には「郡司の擬、先ず譜第を尽くせ。遂にその人なくんば、後に芸業に及べ。」*7)と、任用の第一義的基準となり、以後、変更されることはなかった。したがって、中央官司における郡領の任用手続きでは、擬任郡領が「譜第正胤」*8)であるか否かが、任用を行なう際の重要なチェックポイントとなる*9)。『類聚三代格』巻七の「郡司事」冒頭に八一一年の詔が置かれていることは、同詔が任用手続きの基本資料であったことを示している。
 もっとも、その一一年後の八二二年(弘仁一三)には正式の任用の前に三年間の擬用期間を設定することが定められ*10)、以後、擬任郡司制が主流となる。これに伴い、「譜第」を第一義的基準とする正員郡司は、史料上、見えなくなっていくので、平安期には「譜第」という系譜意識も、郡内統括における意義を喪失したようにも見える*11)。
 しかし、この「譜第」の系譜意識はー従来は、在地首長層の「伝統的支配」の復活と見られていたがー、八世紀を通じて新たに郡内に権威を確立していったことが、確認されている*12)。八一一年の措置も、「譜第」以外の者が郡領として郡務を遂行しても「政を為すに、すなわち物情従わず、訟を聴くに、すなわち決断に伏するなし」との状況に対応するためであり、かかる権威の確立に対応するものである。とすれば、少なくとも、八二二年の措置の後、直ちに「譜第」の系譜意識が意義を喪失したとは考えにくく、実例からも「九世紀以降も譜第郡領氏族が存続している例は多い」ことが指摘されている*13)。詳細な検討は後考に譲るとしても、九世紀以降も、相当程度、その意義は存続したと見るべきであろう。
 すなわち、「譜第」の系譜意識は、九世紀以降においても、都城における貴族層はもちろんのこと、郡内の民衆の活動までを、相当程度、規定したと見られ、当該期の郡司制の特質を把握する上で、看過できないと言える。
 また、後者の擬任郡司制も、九世紀に入ると、正員郡司に替わって郡司制の主流となるのは前記の通りである。したがって、平安期の郡司制の特質を規定していると言える。なお、こちらは主政・主帳も含み、郡領には限定されない。
 八世紀における意義・特質の把握が、これらの平安期における意義・特質の把握の前提となるのは言うまでもない。本稿では、別稿における郡司任用制度の分析を前提にこの課題に迫ることとする。
 「譜第」については、第二章で、「譜第」の強調(任用基準における「譜第」の優遇、さらには任用者のそれへの限定などを指す)の意義を把握し、第三章で「譜第」の特質を把握する。擬任郡司制については、第四章で意義・特質を分析したい。

〔U 「譜第」の強調の意義〕
1.郡領任用制度における系譜の意義ー在地首長層と天皇との人格的身分的結合関係の特質・特徴ー

 「譜第」の特質を考えるにあたって、重要なのは、郡領任用制度における系譜の意義である。「譜第」が、郡領任用基準制度における系譜意識である以上、その特質は、かかる系譜の意義に規定されることになる。
 この点は別稿で指摘したように*14)、まず、

(α)在地首長層と天皇との人格的身分的結合関係における「基本的紐帯」

であり、したがって

(β)任用における「基本的媒介」

であった。この内、令制における(α)の在地首長層と天皇との人格的身分的結合関係の特質については、

(1)在地社会の秩序に規定された在地首長層が、系譜を「基本的紐帯」として
(2)良人共同体の首長たる天皇と結合する

点にあることを指摘した。
 また、この人格的身分的結合関係の特徴たる、

(ア)人格的身分的結合関係の成立が、官職に先行する原則
(イ)身分制的差別が導入されていること
(ウ)(イ)にも関わらず、天皇の前では臣下として、同一平面下におかれること

の内、(イ)(ウ)については、それぞれにつながる要素は存在するが、特徴として貫徹できず、いずれも中途半端になっていることを指摘した*15)。以下、具体的に述べよう。
 すなわち、(イ)については、次の、(あ)(い)の問題を指摘できる。

(あ)系譜を「基本的媒介」とする任用は、閥族主義的任用を示すので、それ自体が身分制的差別につながる要素ではあるが、在地首長層の系譜に、位階における「三位(貴)・五位以上(通貴)・六位以下」のような明確な区分があるわけではなく、かかる差別が貫徹しているとはいいがたい
(い)令制において、かかる身分制的差別を具現化したのは外位と考えられ、「五位以上・六位以下」の区分も存在した。しかし、あくまでも個人の奉仕によって得られるものなので、

・「祖」以来の奉仕が反映しない
・四等官制のような官僚制の秩序と一致しない

といった問題がある。

 (あ)の系譜、(い)の外位のように、身分制的差別につながる要素は存在するのだが、両者は連動せず、中途半端な形になっていたと考えられる。
 (ウ)の特徴を端的に示すのは、「貴族も工匠も公民もすべて平等に臣下…たりうるという」ディスポティシズムの原理*16)であり、かかる原理に基づく任用は「才用」主義として現れる。郡領の任用基準制度も「才用」主義となっており、在地首長層もかかる原理に編成されたことが分かる。
 しかしながら、系譜が任用の「基本的媒介」である以上、任用は閥族主義的にならざるを得ないから、「才用」主義が貫徹するわけではない。「才用」主義は、(ウ)の特徴の反映だから、天皇への個人の奉仕が前提となるが、郡領の場合、かかる奉仕が不十分であっても、「祖」以来の奉仕によっては任用されうる(当然ながら、その逆もまた生じる)。すなわち、「平等性」「同質性」は否定しがたく、(ウ)の特徴も貫徹せず、中途半端になっていたと考えられる。
 以上に明らかなように、(イ)(ウ)の特徴が中途半端であるのは、人格的身分的結合関係の特質(1)から生み出される閥族主義的任用と、同じく(2)から生み出されるディスポティシズムの原理に基づく任用が、相互に矛盾するためである。
 以上の特質・特徴は、「譜第」の強調の意義を考えるための、基本的前提となる。
2.「譜第」の強調の意義
 「譜第」の系譜意識は、七三五年(天平七)の、任用にあたって「譜第重大四五人」を必ず副進させる、(A)「譜第」副進制において初めて見られる*17)。「譜第」の系譜に属する者は、必ず中央官司における銓擬に預かれるから、そういう意味でこれは「譜第」優遇策と言える。さらに、七四九年(天平勝宝元)の(B)嫡々相継制においては、「立郡以来譜第重大之家」に、郡領任用者が基本的に限定されることになった*18)。基本的に「譜第」の系譜が唯一、郡領に任用されうる系譜となったのである。かかる優遇・限定を、譜第の強調と本稿で述べるのは、前記の通りである。
 これらの措置は基本的に中央政府の主導と見るべきと考える。前記のように、(A)(B)の措置を、在地首長層の「伝統的支配」の復活とみる見解は修正されつつあり、この段階では、「譜第」という系譜は郡内統括の根拠としては脆弱であったことは、拙稿*19)で述べたとおりである。郡の構成員が必ずしも「譜第」の在地首長層に従う情勢ではなく、大和国高市郡のように(A)・(B)の措置後も、「譜第」ではない檜前忌寸が郡領職を独占していたと見られる郡さえあるにもかかわらず、すべての郡に一律に(A)(B)の措置がとられるのは、郡内の要請によるとは考えにくい。主導したのは、中央政府と見るべきであろう。
 では、このような「譜第」の強調の意義は何であろうか。
 それが、前項で述べた特徴(イ)の、身分制的差別の導入に準ずる措置であることは明らかであろうと思われる。
 そもそも、(イ)の身分制的差別は、「貴」の中の「貴」として神的性格を有する天皇と不可分であった*20)。一般官人の場合、天皇との人格的身分的結合関係の「基本的紐帯」は位階であり、かかる差別も位階において現れる。しかし、そもそも位階は昇進すべき階段を示すだけで、身分制的な秩序ではなく、さらに上位者と下位者の間に権力関係・命令関係は存在しない。にもかかわらず、位階に「貴賤」の差別が付帯するのは、その本質的意義が、前記のような性格を有する天皇を頂点とする序列であることにあるからである。それ故、その不徹底は、律令制国家における天皇の位置・人格的身分的結合関係の意義に関わる問題であった。
 例えば、前記の(イ)−(い)に示したように、「祖」以来の奉仕が身分制的差別につながらず、かかる奉仕を蓄積したからといって、五位以上の「通貴」の立場が得られるわけではない。とすれば、かかる奉仕か、差別の具体化たる「通貴」の立場か、いずれかの意義が問われざるを得ない。それは奉仕の対象たる天皇・「通貴」の立場・さらには、人格的身分的結合関係の、それぞれの意義につながりかねないであろう。令制におけるこの問題は、早急に是正されねばならなかったのである。
 (A)「譜第」副進制・(B)嫡々相継制は、郡領任用において「譜第」の系譜が独自の位置を占めることを表す。そして、「譜第」は、後には「正胤」と呼ばれたのであって、その位置は独自の身分に準ずるといってもよいであろう。
 一方、「譜第重大」とは、郡領として「祖」以来、奉仕を積み重ねてきたことを示すから、かかる奉仕の蓄積が、その独自の位置につながることを示す。奉仕の蓄積が、「貴」「通貴」の身分につながるのと、その点は同じ構造である。
 また、令制において、かかる差別を具現化した外位に関する法令は、七二八年(神亀五)以降*21)、姿を消す。(イ)の身分制的差別の問題が、外位制の修正によって解決したわけではないのは明らかなのに、その後、外位制に関する法令が出されないのは、系譜意識において「譜第」を強調する形で、この問題の克服が目指されたためと見ることができる。
 以上から、「譜第」の強調の意義とは、在地首長層と天皇との人格的身分的結合関係における身分制的差別の設定に、準ずる措置たるところにあるといえる。

〔V 「譜第」の特質ー「才用」主義と「譜第」ー〕

1.「才用」主義と「譜第」
 「譜第」の強調は、前記のように(A)「譜第」副進制、(B)嫡々相継制において行なわれる。郡領任用制度の中の任用基準制度については、令制では「才用」主義が取られていたが(前述)、これらの措置は、明らかにその「才用」主義の修正であり、特に(B)がその改変であることは明白である。
 前章で述べた、「譜第」の強調の意義をふまえれば

在地首長層と天皇との人格的身分的結合関係において、(イ)身分制的差別の導入が中途半端になっている状態を是正し、かかる差別の設定に準ずる措置を講ずるために、任用基準制度において「才用」主義が修正・改変され、(A)「譜第」副進制、(B)嫡々相継制が採用された

ということになる。
 以上のような「才用」主義との関係もあって、(A)(B)は「才用」主義の転換・挫折とも見られてきた*22)。
 しかし、この見解は本当に正しいのだろうか。まず、踏まえるべきは、令制の「才用」主義の本質的意義とは、ディスポティシズムの原理の具現化にあったと考えられることである*23)。したがって、「譜第」の強調と「才用」主義との関係は、この意義との関連で把握しなければならない。
 次項で、この関連を追究することにしよう。
2.「譜第」と、ディスポティシズムの原理・「才用」主義
(1)「譜第」とディスポティシズムの原理ー嫡々相継制とディスポティシズムー
 従来、先行学説において、(A)(B)と「才用」主義との相違について強調されているのは、前者における閥族主義的任用である*24)。しかし、閥族主義的任用自体は、直ちに「才用」主義の転換・挫折を意味しない。令制の郡領任用制度は、制度の中に閥族主義的任用を組み込んでおり、「才用」主義とはそれをふまえて、なおかつ在地首長層をディスポティシズムの原理に組み込むことに意義があったからである*25)。「才用」主義が、閥族主義的任用と原理的に矛盾することは確かだが、令制の郡領任用における「才用」主義は、閥族主義的任用を否定するために採用されたのではないのであって、後者の採用を以て前者との断絶性を強調し、その転換・挫折とすることは無理である。
 しかし、それがディスポティシズムの具現化という、「才用」主義の本質的意義と抵触するのであれば、その挫折・転換と解釈し得る余地は生じることになる。そして、(A)(B)における「譜第」の強調は、かかる原理と抵触するようにも見える。かかる原理の後退、あるいはそれからの逸脱にも見えるからである。ディスポティシズムの原理とは、前記のように「貴族も工匠も公民もすべて平等に臣下…たりうる」ものであるが、「譜第」が優遇されれば、かかる「平等性」はそれだけ損なわれる。とりわけ、(B)の嫡々相継制においては、基本的には「譜第」の系譜でなければ郡領という臣下になりえないのだから、かかる原理からの逸脱とも見える。これが正しいとすれば、前記の解釈が成立することになる。
 しかし、筆者はかかる見方・解釈は成立しないと考える。「譜第」の系譜意識、及びそれに基づく(A)(B)の措置は、ディスポティシズムの原理の枠内にあると考えるべきである。ここでは、主として、閥族主義的任用の徹底である(B)が、ディスポティシズムの原理からの逸脱なのかを考えることから、「譜第」の強調と「才用」主義との関連について把握することにしよう。
 まず、全体的な状況から考えて、かかる逸脱は想定しにくい。
 (B)の「譜第」の強調の意義は、あくまで身分制的差別の設定に準ずる措置たるところにある。かかる身分制的差別は、前記のように「貴」の中の「貴」たる天皇と不可分であり、それ故、(ウ)天皇の前では、臣下として同一平面に置かれるとの特徴とも相即不離である。したがって、(ウ)から生み出されるディスポティシズムの原理とも不可分なのであって、それから逸脱することは、本来、ありえない性格の措置である。
 また、八世紀半ばの律令制国家・天皇のあり方から考えても、同様である。
 前記のように、かかる逸脱を認めるとすれば、人格的身分的結合関係の特徴(ウ)の変化を認めなければならないが、律令制国家におけるかかる関係の位置を考慮すれば、国家の基本的体制に変化があったことにならざるを得ない。しかし、この段階でのそのような想定の方が成立困難と思われる。
 また、天皇がデスポット(専制君主)であることはー律令制国家の類型的特質については諸説があるものの*26)ー、異論がないところである。(B)において、前記の逸脱を認めるとすれば、当該期の天皇のかかる性格を否定することになりかねない。ディスポティシズムの原理とは、天皇の側から言えば、自らの統治に必要な人材を自らの意思に従って登用できることを示すが、(B)は、天皇によるかかる登用を否定する措置になるからである。しかし、この段階で、天皇がデスポットであることを否定する措置がとられるというのも考えにくいと思われる。
 以上をふまえて、「譜第」それ自体の分析に入ることにしよう。
 筆者が(B)をディスポティシズムの原理の枠内と考える最大の根拠は、「譜第」という系譜意識自体がかかる原理を前提にしている点である。
 「難波以還」「立郡以来」の文言に明らかなように、「譜第」の系譜意識の基本的起点は孝徳朝である。この孝徳朝は、八世紀においてディスポティシズムの原理の歴史的起点と認識されていたと考えられる。
 その根拠は、著名な「改新詔」*27)である。ここでは、(1)子代・屯倉、部曲・田荘が廃され、(2)都城・地方官司他が設置され、(3)戸籍・計帳・班田収授法が定められ、(4)田調を行なう、旨がそれぞれ定められたとされる。無論、その信憑性については、種々の議論が提示されているが、八世紀には、かかる「改新」が断行されたと認識されていたと言える。
 さて、この内、(1)の部曲(及び子代)の廃止は、首長の民衆の直接的把握の廃止を示し、(3)の内、戸籍の作成は、民衆が姓を媒介にして天皇と直接、人格的身分的に結合するようになったとの認識を示す。かかる結合関係のあり方*28)が、令制における位階を「基本的紐帯」とする、支配層の天皇との一般的な人格的身分的結合関係の基礎であり、そこからディスポティシズムの原理が生み出されることも前述の通りである。ディスポティシズムの原理とは、前記のように、天皇が自らの統治に必要な人材を自らの意思に従って登用できることを示すが、八世紀において、かかる存在としての天皇の歴史的起点となったのは、この孝徳朝と認識されていたと考えられる*29)。
 孝徳以来の天皇に、郡領として奉仕してきたことにこそ、「譜第」の系譜の意義は存在するのであるから、その権威の根拠はデスポットとしての天皇への奉仕にあると考えるべきである。後者がなくなれば、前者の意義も存在し得ないから、「譜第」の系譜意識とは、あくまでディスポティシズムの原理を前提にしたものである。すなわち、前者は後者の枠内にあると考えるべきであろう*30)。
 かかる系譜意識は、単に「イデオロギー」上の問題ではなく、具体的な人事をも規定していたと考えられる。「譜第」の者の任用自体は、前章での考察を踏まえれば、郡領任用において身分に準ずる独自の位置を占めることによると考えられる。しかし、かかる「譜第」の系譜意識の位置づけからすれば、その独自の位置もディスポティシズムの原理が前提である。(B)とは、天皇が自らの統治に必要な人材を、自らの意思によって登用できることを踏まえたうえで、単行法令によって、郡領任用者を「譜第」に限定したに過ぎないのであり、その任用もまた、かかる原理に規定されている。
 それ故、国造制・評造制などとは異なり、状況によっては、いつでも「譜第」以外の者を郡領に任用することが可能であったと考えられる。実際、(B)発令のわずか三年後の、七五二年(天平勝宝四)には、官物欠失の場合には郡司の見任を解くことを命じ、さらに「重大の譜第ありといえども、子孫を任用すること得ざれ」としている*31)。「譜第」であっても、官物欠失の責任を問われた場合には、「子孫」は任用されないということだから、当然ながら、それ以外の系譜の者が任用される可能性が生じる。さらに、大和国高市郡においては、(B)の下でも「譜第」ではない檜前忌寸が大領職を得たことは、拙稿で述べたとおりである*32)。
 もとより、(B)は、基本的には「譜第」の者に郡領を限定する措置であって、これらは言わば特例である。したがって、基本的には「公民」や「工匠」が直ちに郡領に任用される機会は失われたのであり、かかる原理が直接的な形で、言わば「顕在化」して郡領任用を規定することはなくなったと考えるべきであろう。しかし、それは、あくまで前記の、令制における身分制的差別の問題の是正に伴う措置であって、ディスポティシズムの原理を否定するものではない。「譜第」の者の郡領任用さえも、かかる原理の規定を受けていたことを考えれば、ディスポティシズムの原理は、(B)の下においては、言わば「潜在化」した形で郡領任用を規定していたと考えるべきであろう。
(2)「譜第」と「才用」主義 
 以上の検討からすれば、(B)は「才用」主義の挫折・転換を示すものとは言えないであろう。むしろ、後者の延長線上にあるとすべきである。
 まず、前記のように、「譜第」の系譜意識がディスポティシズムの原理の枠内にあるとすれば、かかる原理の具現化という「才用」主義の本質的意義を否定するものではない。むしろ、かかる原理があって、はじめて(B)が存在する形になるから、政策的な位置づけとしては、「才用」主義の延長線上に(B)が存在することになる。
 また、歴史的な前後関係から言っても、(B)は「才用」主義の延長線上にあるとするべきである。中央政府の主導とはいえ、「譜第」の系譜が郡内に一定度の基盤を有するには、ディスポティシズムの原理の浸透が前提になければならない。先の本質的意義を考慮すれば、「才用」主義がかかる浸透の一翼を担ったことは認められるであろう。すなわち、「才用」主義によるかかる原理の浸透の結果、(B)の措置が成立したともいえるのであり、かかる意味でも、後者は前者の延長線上と捉えなければならない。
 以上のように、政策的な位置づけとしても、歴史的な前後関係としても、(B)は「才用」主義の延長線上で、前記の令制の身分制的差別の問題の是正を図ったものと考えるべきであろう。閥族主義的任用の徹底たる(B)の位置づけが、このようなものであるとすれば、(A)も基本的には同様と考えるべきであろう。すなわち、(A)(B)は、「才用」主義の修正・改変を示すものではあるが、その挫折・転換を示すものではなく、むしろ、両者は、連続的に捉えるべきと考える。
3.「譜第」の特質
 以上の、「譜第」の強調の意義、さらにそれとディスポティシズムの原理との関係からすれば、「譜第」の系譜意識の特質とは、

ディスポティシズムの原理の枠の中の、郡領任用における、身分に準ずる独自の位置たる点

に求められよう。

〔W 擬任郡司制の意義・特質〕
1.擬任郡司制と律令法・機構
 まず、擬任郡司制の意義に関わる一つの問題を提示したい。
 擬任郡司とは、前記のように正員郡司までの擬用とされており、郡務を執行することができた。実際、擬任郡司が署判した文書は多く伝来しており、それらが有効であったことは、彼らが、擬任郡司としての資格において、国家機構の一員として権力を行使したことを示している。
 しかしながら、国家機構の一般的特質を考慮すれば、奇異とせざるを得ない点がある。擬任郡司、またその郡務執行の根拠が、律令法に明示されていない点である。
 「単一的支配」*33)を特徴とする国家機構においては、「公」「私」の分離は不可欠である。恣意的任用は、「私的権力」発生の原因となるから、排斥されねばならず、それ故、官人の任用については選叙令に規定がある。
 しかし、擬任郡司については、かかる規定がまったく存在しない。
 擬任郡司を選定するのは、国司による銓擬ーすなわち、国擬ーであるが、そもそも職員令70大国条には「国擬」の規定は存在しない。ただし、律令法上の根拠がまったくないのかというと微妙であるが*34)、法的根拠の曖昧さは否定できない。ましてそこで選定された擬任郡司が郡務執行を行なう旨を認める規定は存在しないのである。
  すなわち、擬任郡司は律令法における根拠が曖昧なまま、郡務を執行しているのであって、先の機構の一般的特質からすれば、これはあってはならない状態のはずである。実際、郡以外にかかる形態の職務執行を見出すことはできない*35)。
 もとより、このような指摘については、次のような回答が予想される。
 すなわち、

郡司の任用は年一回、行われるに過ぎず、最大で、郡司の欠員が一年間、続く可能性がある。かかる郡務の不便を解消するために、特に擬任郡司制が採用された

というものである。
 しかし、擬任郡司制が機構の一般的特質からはあってはならないものであることからすれば、この回答の想定は成立し難い。そもそも、郡司の任用を年一回に限定する積極的理由はなく、欠員の長期化が予想される場合には、臨時に任用を行なえばよいはずである。実際、一般官人の場合、正月の任官(除目)のみならず臨時に任用が行われていることは周知の通りである。さらに郡司の任用も状況に応じて柔軟に対応することが可能であった。七六六年(天平神護二)には、「試練」の対象者が多く、諸務を妨げるために、擬任郡司を一括して任用するのではなく、「且つ試み、且つ任じ、終わるに随い、遣わすに随うべし。」と、試練が終わり次第、任用する措置が取られているのである*36)。
 なぜ、擬任郡司が法的根拠が曖昧なままに郡務を執行できるのかは、擬任郡司制の意義に関わる問題と言える。ここでは、この問題の検討を通して、その意義・特質に迫りたい。 
2.擬任郡司制の意義
 結論から言えば、筆者は、擬任郡司が郡務を執行できるのは、(1)郡司という官職が、「祖」以来の奉仕に対する「君恩」と認識されていたこと、(2)国司(長官)が、天皇の「代理人」という独自の性格を有したこと、の二点から、(3)擬任郡司という官職が、国司(長官)による独自の「君恩」−言わば「擬似君恩」−としての意義を有したため、と考える。
 以下、(1)〜(3)のそれぞれについて検討したい。
(1)郡司と「君恩」
 筆者が、郡司という官職が、「君恩」と認識されていたと考える根拠は、人格的身分的結合関係における、奉仕ー「君恩」の論理*37)である。一般官人の場合、天皇に対して奉仕を行い、それが一定基準を満たしていると判断されれば、「君恩」として位階が与えられる。奉仕が一定基準を満たしていると判断されれば、「君恩」を与えるのが、人格的身分的結合関係における原則である。
 郡司に任用される在地首長層・首長層の場合、系譜が「基本的紐帯」であるから、「祖」以来の奉仕に対して「君恩」が与えられると考えられる。しかしながら、令制において郡領に対する「君恩」と位置づけられていた*38)外位は、郡領という官職に付随するもので、「祖」以来の奉仕に対して直接、与えられるものではないし、そもそもあくまで個人に対して与えられるものなので、かかる意味での「君恩」とはいえない。しかし、前記の原則からすれば、かかる「君恩」が存在しなければならない。
 「祖」以来の奉仕に対して与えられるのは、郡司という官職であるから、「君恩」を想定するとすれば、これを措いて他にはないであろう。
 もっとも、郡司という官職が「君恩」と認識されていたことを、直接、示す史料は存在しない。この点については後述するが、その中で傍証と見なしうるのは神火事件*39)である。
 これは、周知のように、郡領に任用されなかった「譜第」の系譜に属する者が、正倉に放火し、現任郡領を失脚させようとしたものである。この事件は、史料上は七六三年(天平宝字七)に初めて見え*40)、前記の(B)嫡々相継制がその直接の原因と考えられる。確認される事例は東国に限定されるが、正倉の管理責任を郡領も負った点*41)をついて、郡領職を奪おうとしたものといえる。
 しかし、郡領職を奪うという目的と正倉への放火という手段の間には飛躍がある。正倉は「ミヤケ」*42)とされた、天皇への貢納物たる留国官物*43)を納める倉であるから、公民と天皇との人格的身分的結合関係を象徴する施設でもある。それへの火災は、律令制国家の支配の基礎である、かかる関係に基づく秩序の動揺とも受け取れるのであって、当時においてはすこぶる重大事であった。それが単なる火災ではなく「神火」とされたのはそのためであり、当初は郡領任用抗争とは見なされず、「国郡司などの国神に忝しからぬ咎なり。」とされ*44)、七七一年(宝亀二)にも正倉の火災について卜占が行なわれている*45)。(B)嫡々相継制下においても、単に郡領職を奪うために正倉の管理責任を問おうとするのであれば、他にも種々の工作が可能だったはずで、必ずしも正倉への放火に及ぶ必要はないはずである。
 かかる行為の前提には、天皇との人格的身分的結合関係の破壊をいとわない心理がなければならず、その心理は天皇への忠誠関係の希薄化、あるいは天皇への反発に基づくものと考えるべきである。嫡々相継制が採用された以上、郡領に任用されなかった「譜第」の系譜に属する者は、それへの任用の機会を基本的には失ったと考えるべきであるが、それが「君恩」からの疎外と認識されたとすれば、かかる心理の原因となるであろう。すなわち、郡領という官職が「君恩」と認識されたことを示唆するものといえる。
(2)国司の独自性ー天皇の「代理人」の根拠ー
 国司が、天皇の「代理人」というの独自性を有することはよく知られている。かかる性格を如実に示すのは、儀制令18元日国司条である。これは、国司が「僚属郡司等」を率いて「庁」に向かって朝拝した後、「賀」を受けるものである。この「受賀」は拝礼のこととされるが、儀制令9元日条において、元日における親王以下への拝礼が原則として禁止されている中、国司のみが拝礼を受ける旨が定められていることから、国司が天皇の「代理人」であることを示すとされる*46)。
 筆者も、前記のように国司のかかる性格が、擬任郡司の郡務執行の根拠の一つと考えている。しかし、その性格がいかなる根拠に基づくかについては、必ずしも明らかにされていない。郡司制の問題からは外れるが、擬任郡司の意義を論ずる前提としてここで詳論しておこう>*47)。
・先行学説の検討ー国司=「クニノミコトモチ」説批判ー
 一般には、国司が天皇の「代理人」である根拠を「クニノミコトモチ」であったことに求める*48)。これは、例えば、次の薗田香融*49)のような見解が継承されていると考えられる。筆者なりに、論証過程を整理して示してみると次のごとくである。なお、その後の研究状況の進展や本稿における用語の統一などに照らして、用語などを変更しているところがある。

(@)七世紀以前において「宰」は「ミコトモチ」と読まれ、天皇の「代理人」という意義を有したと考えられる*50)。
(A)「宰」は、現地人の首長を監督する行政官であった。
(B)七世紀後半において、地方の在地首長層・首長層を監督する「国宰」も、「クニノミコトモチ」であったと考えられる。
(C)八世紀以降の、諸国においても、畿内に本貫を持つ官人貴族から選ばれた国司が「ミコトモチ」となって赴任し、在地首長層・首長層の上に君臨したと考えられる。

 しかし、筆者はこの見解は成立しないと考える。根拠は以下の通りである。
 第一に、(@)〜(B)までは、その通りだが、それらと(C)の間には飛躍がある。七世紀以前の「国宰」が「クニノミコトモチ」だったからと言って、「国司」が同様であったことにはならない。
 第二に、八世紀に、「国司」の語が「クニノミコトモチ」と訓まれた実例はなく、また国司が特に天皇から「ミコト」(言葉)を与えられたことを示す史料も確認されない*51)。
 第三に、中央から派遣され、在地首長層・首長層の上に「君臨した」国司が、すべて「代理人」であったわけではない。天皇の「代理人」たるのは、国司全員ではなく、原則としては長官(一般的には守)のみであったと考えられるからである。
 この点を示すのは、前記の儀制令18元日国司条である。ここでは、国司が天皇の「代理人」として拝礼を受けるが、条文には「長官、賀を受けよ。」とあり、拝礼を受けるのは長官のみである。次官以下も、「官人貴族から選ばれた国司」であって、「在地首長層・首長層の上に君臨した」(以上、(C))と考えられるが、そもそも「代理人」ではなく、したがって「クニノミコトモチ」でもありえない。
 特に第三点は、七世紀以前の「クニノミコトモチ」とは状況・特質を異にすることを示しており*52)、両者を無媒介に一括することには無理がある。
・天皇の「代理人」の根拠ー鎰ー
 では、国司(長官)を天皇の「代理人」たらしめる根拠は何か。筆者は、正倉の鎰を管掌していることによると考える。
 国司の権力を象徴するものとしては、(1)国印、(2)鎰、が基本であり、史料上、「印鎰」と併称されることも多い。他に、(3)駅鈴が加わる場合もある(別表参照)。
 (1)国印は、律令法においては、公式令40天子神璽条「諸国印〈方二寸〉。京にたてまつる公文及び案、調物、すなわち印せよ。」*53)に基づく。太字部に明らかなように、中央政府へ進める文書(及びその案文)と調物に捺すことになっており、国印がなければこれらのものは有効性は認められなかったことになる。もとより、実際の国印の用途はこれに留まるものではないが*54)、法制上は、中央政府に正式な文書・調物を進める権限を示すものと言える。
 しかし、より正確には天皇に文書・調物を進める権限を示すものと言えよう。前者の文書に国印を捺す規定は、天子神璽条の「内印…諸国に下す公文に、則ち印せよ。」(前掲引用部より前文)との、「諸国に下す公文」に内印を捺す規定に対応するものと見るべきであろう。内印を捺されている以上、国への下達文書は、太政官などの中央官司から発給されたものであっても、天皇から下されたものと認識されていたと見られる。したがって、これに対応する国からの上申文書も、直接には中央官司宛のものであっても、天皇に進めるものと認識されていたと見るべきであろう。また、後者の調物が天皇への貢納物と認識されていたことはすでに指摘がある*55)。
 (2)鎰は、正倉の鎰のことである。正倉は、前記のように、公民からの天皇への貢納物たる留国官物が納められる倉であるから、その鎰の管掌は、かかる留国官物の管理・運営権を示す。律令法上の根拠は、職員令70大国条の「倉廩」による。
 (3)諸国の駅鈴については公式令43諸国駅鈴条「諸国、鈴を給うは…、大上国三口、中下国二口。…」による。この駅鈴を持たなければ、駅馬を使用できないから、直接にはかかる使用権を示す。しかし、駅制とは、「『緊急用』の文書伝達制度として律令法に規定されている。」*56)とされるので、より正確には「緊急時」に文書を進上する権限を示すものである。さらに、天皇の使者の意と思われる「朝使」が「駅使」と言い換えられているように*57)、駅路の使用は天皇との連絡と認識されていたと見られるから、進上の先は天皇と認識されていたとすべきである。すなわち、(3)駅鈴は、「緊急時」に、天皇へ文書を進上する権限を示すもので、(1)国印と共通する性格を持つ。基本的には、後者の延長線上にあると見られ、国司の権力の象徴として触れられる機会が少ないのもそのためであろう。
 なお、駅鈴の管掌については、同条に「みな長官執れ。無くは次官執れ。」とあり、原則として長官が管掌することになっていた。
 さて、以上の(1)〜(3)の内、国司(長官)を天皇の「代理人」たらしめ、また国擬を行なう根拠となるものは、前記のように(2)鎰と考えられる。
 まず、(1)国印と(3)駅鈴は、天皇大権の象徴たる「鈴印」(中務省主鈴が管理する駅鈴と内印)と共通するので、一見、「代理人」の根拠にも見える。しかし、(1)の印については、前記の天子神璽条において、国印のみならず、太政官が管掌する外印も、さらに養老令においては諸司印の規定も設けられていた*58)。すなわち、その管掌は、国司の独自の職掌というわけではなく、特に国司のみが天皇の「代理人」とされる根拠にはならない。また、(3)駅鈴も、場合によっては印鎰と併称されるというだけであって、必ずしも国司の権力の象徴として強調されたわけではないから、同様と考えるべきであろう。駅鈴が(1)国印の延長線上にあるという前記の位置づけも、かかる想定を支える。(1)・(3)は、天皇へ文書・調物を進上する権限を示すので、「代理人」が管掌するには相応しいと言えるが、これらを管掌するから「代理人」になる、という性格のものではないと言える*59)。
 また、これらは、一般的な行政の根拠を示すものではない。(1)・(3)が象徴する権限は前記の通りだが、国司の行政の中では限定された権限に過ぎず、それ以外の行政との関連は必ずしも明らかではない。例えば、本稿で問題とする国擬を行なう権限の、直接の根拠とはならない。
 これに対し、(2)鎰は、国司(長官)が天皇の「代理人」たる根拠、さらには一般行政の根拠として相応しいと考える。
 第一に、鎰の管掌に象徴される、ミヤケたる郡家の正倉の管理・運営権は、国司の独自の職掌である。当然ながら、都城にも、天皇への貢納物を納める倉は存在するが、それらは基本的に調庸物を保管するもので、穎稲・穀稲などは収納されないから、田地の経営拠点を淵源とするヤケ*60)にはならない。
 第二に、留国官物は、天皇への貢納物であって、本来、天皇が運用すべきものである。それを独自に運営するのは、天皇の代理人たる根拠に相応しい。ちなみに、中央官司も、当然、調庸物を運用するが、公式令3論奏式条に「国用を支度せんこと」が論奏事項とされているように、法制上はその運用には天皇の裁可が必要であり、官人が独自に行なうものではなかった。もとより、留国官物の運営も、正税帳・郡稲帳などの公文勘会により中央政府のチェックを受けるが、運営それ自体に天皇の裁可が必要なわけではない。かかる運用権をも象徴する鎰は、天皇の「代理人」たる根拠として相応しいといえよう。
 第三に、それは一般行政の根拠として相応しい。まず、当然ながら、留国官物の運用は諸国行政全般に関わる。次に、天皇への貢納は、それとの人格的結合を示し、その管理・運用権は天皇の統治の根拠でもある。「代理人」としての、その管理・運用は国内行政の根拠ともなると言えよう。以上から、留国官物の管理・運用権を示す鎰の管掌が、国擬を含む一般的行政の直接の根拠となるのは、必然性があると言える。
 第四に、鎰は、基本的には長官が管掌したと考えられる。律令法に正倉の鎰の管掌に関する規定は見えないが、長官の鎰の管掌が、以下の根拠から推定される。
 (a)鎰と共に、国司の権力の象徴ともされた駅鈴は、前記のように、公式令43諸国駅鈴条に長官の管掌が規定されている。(b)国印の管掌については、令文には規定がないが、諸史料による限りは、これも長官と考えられる。管掌者が確認できるのは、いずれも長官であり(別表ー2・3・4・6・7・8・12)、次官以下、或いは長官と次官以下との共同管掌の事例は確認されない。特に、bQは、八世紀において、介の「官長を経ずして恣に国政を行い、独り自ら館に在りて公文に印し…」といった行為が糾弾されている。この例から、介が単独では捺印できないことが分かるが、他の例もあわせて考えれば、国印が長官の単独管掌であったこと、さらにそれが八世紀まで遡ることを示唆する例と言える。(a)に指摘した駅鈴の管掌を考慮すれば、令制まで遡るとすべきであろう。(c)正倉ではないが、公文を保管する公文庫のカギ(令の記載は「鑰」)を長官が管掌すべき旨が、倉庫令(8)置公文庫鎖鑰条に見える。公文庫に対する一般的規定である本条は、諸国にも適用されたと見られ、正倉の鎰がこれに準じた可能性が想定される。(d)実例を見れば、鎰を管掌したのが長官であるのは、ほぼ明らかである(別表ー4・6・7・8・12)。特に、4は、史料中に守小野朝臣真野・介茨田宿禰文足が共に新任として赴任したことが述べられているのに、印鎰の管掌者として挙げられているのは、守の真野一人であって、長官の単独管掌であったことを示すと考えられる。8も、次官以下の誣告の結果、長官が印鎰を没収される記述となっているので、同様の可能性を指摘できる。そもそも、国司の長官を指す「受領」の語は、国府の資材を前任者から受領するところから来ており*61)、その管理責任者であることを示すから、留国官物の管理権をも示す鎰を長官が管掌するのは当然と言える。なお、鎰の管掌について確認される史料は、いずれも九世紀以降のものであるが、これまで挙げた(a)〜(c)の根拠を考慮すれば、鎰の長官の単独管掌も令制に遡ると見るべきであろう。
 鎰の管掌者が長官であったという事実は、先に指摘した、天皇の「代理人」が基本的に長官であったという事実と符合するものである。
 以上から、国司(原則として長官)は、正倉の鎰を管掌し、天皇に代わってそれへの貢納物である留国官物を管理・運用するために天皇の「代理人」とされたと考えてよい。筆者は、国司制が、七世紀以前の「ミコトモチ」の歴史的伝統の上に成立すること自体は否定しないが、八世紀にはそれとは異なる独自の根拠に基づいて「代理人」たり得ていたと考える。『書紀』において、「クニノミコトモチ」と見られる「東国国司」が「国司」と表記されているように、八世紀に国司と「クニノミコトモチ」が近似する性格と認識されていたことは確かだが、それは、第一に天皇の「代理人」としての側面、第二に、鎰の管掌に象徴される、前者の、ミヤケに納められた留国官物の管理・運営権と、屯倉を巡行し「郡県を巡行して、田租を収斂む」*62)という後者の職掌が、共通するからであろう。
 なお、かかる「代理人」の立場は、長官に、次官以下とは異なる、独自の、権威と行政執行に対する権限を与えたと考えられる。
 諸国の行政は「主典已上共知」が原則であった*63)。決裁権についても職員令1神祇官条の規定が準用され、次官は長官と同じ「総判」、判官は「糾判」の権限が与えられていた。この内、「糾判」は内容不明な概念で、「総判」との相違も明確ではないから*64)、決裁における権限上の相違は曖昧になっている。すなわち、実質的には、決裁において判官以上は同等の権限を与えられているとも言える。
 しかし、律令制国家における天皇の位置を考えれば、「代理人」であることは、現代の我々が想像する以上の権威を長官に与えたと考えるべきであり、国司制を考える上でかかる権威の意義は無視できない。また、印鎰が国司の権力の象徴として、争奪の対象になるような事態(別表ーbU・7、9〜13)は、鎰(文書進上については印)の管掌者たる長官の決裁が得られなければ、国務を執行し得ないことを示している*65)。この点は、諸国行政において長官に独自の権限を付与したと見られ、官職体系と官僚制の秩序において、国司の長官は次官以下に対して優越的な地位を占めたと考えられる。
 国擬の有効性も、基本的な根拠は、長官の決裁にあると見なければならない。
(3)擬任郡司制の意義ー「擬似君恩」ー
 以上をふまえて、擬任郡司制の意義が、「擬似君恩」にあることを論じよう。
 まず、擬任郡司制の前提となる国擬について見てみよう。『続紀』天平勝宝元年二月壬戌条(前述)によれば、国擬においては郡領の「譜第の優劣、身才の能不、舅甥の列、長幼の序」を審査するとされる。特に注目されるのは、冒頭の「譜第の優劣」で、国擬で系譜が審査されたことを示す。これは前述の郡領任用における系譜の意義を考えれば、「祖」以来の天皇・律令制国家への奉仕の優劣を審査するものと考えられる。この記述は、(B)嫡々相継制を命じた勅に見えるものであるが、系譜が「基本的紐帯」、任用の「基本的媒介」であることが令制に遡るとすれば、八世紀半ばのこの国擬のあり方も、基本的に令制に遡ると考えるべきであろう。また、これは郡領に関する事例だが、主政・主帳も、郡領同様、系譜を「基本的紐帯」「基本的媒介」とすると考えられるとすれば、基本的な国擬のあり方は同様と考えるべきであろう。
 すなわち、国擬では「祖」以来の奉仕が郡領任用に値するかを審査されると考えられ、この結果、擬任郡司に選定するとすれば、それはかかる奉仕が一定基準を満たしていると判断されたことを示す。これは、(1)「祖」以来の奉仕が「君恩」に値すると判断されたこと、(2)擬任郡司という立場がかかる判断に基づいて与えられること、をも示す。
 しかし、問題となるのは、国司が、「祖」以来の奉仕を「君恩」に値すると判断し、擬任郡司という立場を与えると、なぜ、郡務執行が可能になるのか、にある。筆者は、これは擬任郡司という官職が「擬似君恩」であるためと考えるが、以下、根拠を述べる。

 第一に、擬任郡司の郡務執行は、在地首長層と天皇との人格的身分的結合関係における、奉仕ー「君恩」の論理に基づくと見られる。根拠は以下の通り。
 (1)前記のように擬任郡司の郡務執行は、「単一的支配」の維持という観点からは、あってはならない性格のものである。にもかかわらず、それが行なわれるということは、強固な論理に基づいていたと考えなければならない。(2)律令制国家におけるかかる論理として考えられるのは、奉仕ー「君恩」の論理である。当時の支配層にとっての「第一義的課題」は、天皇と良民との人格的身分的結合関係に基づく秩序の構築・維持にあったからである*66)。奉仕ー「君恩」の論理の破綻は、かかる関係の破綻を意味するから、その維持は、「単一的支配」の維持に優先する課題であった。(3)前記のように郡司という官職が「君恩」であり、擬任郡司が「祖」以来の奉仕に対して与えられるものとすれば、奉仕ー「君恩」の論理と関係する可能性は、十分想定される。
 第二に、擬任郡司の郡務執行は、天皇の「代理人」という国司(長官)の独自性を根拠の一つとすると見られる。前記のように、かかる形態は郡を除いては見られず、それは国擬の性格にも規定されると考えられる。その国擬が、天皇の「代理人」たる長官の決裁を基本的根拠にしているとすれば、かかる独自性に規定されることは、十分、想定される。また、かかる執行が、奉仕ー「君恩」の論理と関わるとしても、天皇が直接に介在しないまま、行なわれるのは、本来、ありえない。言うまでもなく、「君恩」とは天皇が与えるものだからである。しかし、天皇の「代理人」という性格を根拠の一つとするとすれば、郡務執行が行なわれることを説明できる。天皇に代わって、独自の「君恩」(「擬似君恩」)を与える可能性が生じるからである。
  そして、七世紀中葉の「ミコトモチ」については、「擬似君恩」の先行形態*67)を見出すことができる。前記のように、国司は「ミコトモチ」ではないと考えられるが、「代理人」という立場、権限・職掌などの点で共通するので、参考にすることができる。
 かかる形態の実例は、『常陸国風土記』に見える「建郡」(立評)記事である。
 周知のように、同『風土記』には、(1)行方、(2)香島、(3)多珂、(4)信太の各「郡」の「建郡」記事が載せられているが、これらは、いずれも惣領高向大夫・中臣幡織田に申請されている。しかし、評とは、在地首長層の奉仕に対する、オオキミからの「恩恵」と認識されていたと見られるのであって、本来、申請はオオキミに対してなされねばならない。にもかかわらず、惣領が申請の対象になったのは、オオキミの「代理人」ーすなわち「ミコトモチ」−であるからである*68)。
 さて、「擬似君恩」の問題を考えようと思えば、問題となるのは、「恩恵」たる評を立てることの裁可である。『風土記』の記事によれば、「建郡」を示す「別けて郡家を置けり。」などの主語は、いずれも立評申請者と読める。しかし、在地首長層たる申請者が、自分で立評の裁可を下すことは考えられないから、裁可の主体は(1)オオキミか(2)「ミコトモチ」たる惣領のどちらかである。この内、(1)のオオキミは、「難波の長柄の豊前の大宮に馭宇しめしし天皇の世」と、時世を表すために触れられるに過ぎないから、申請の対象であったことから見ても、裁可者は(2)の惣領と見るべきであろう。もとより、本来、裁可を下すのはオオキミであり、この場合も中央において手続きがとられたであろうが、現地においては、「ミコトモチ」が独自に裁可を下したと考えられる*69)。
 さて、前記の評の性格からすれば、かかる裁可は、在地首長層の、個人あるいは「祖」以来の奉仕*70)が「恩恵」に値すると認め、「恩恵」を施すことを意味する。それを「ミコトモチ」が独自に行ったということは、オオキミの「代理人」として、擬似的な形で「恩恵」を施した、ということになろう。すなわち、これは「擬似君恩」の先行形態と見なすことができる。
 「ミコトモチ」において、かかる形態を見出せるとすれば、「代理人」という点では共通する国司(長官)が、「擬似君恩」を与えていたとしても、不自然ではない。
 第三に、擬任郡司が「擬似君恩」であるとすれば、それによる郡務執行の必然性を説明できる。官職の本質的意義は権力行使にある。仮に、それが「擬似君恩」であるとすれば、単なる「郡領候補者」では意味をなさない。郡務執行を伴って、はじめて「擬似君恩」として意義を持ちうるであろう。
 以上の考察からすれば、擬任郡司制とは、在地首長層・首長層に対する「擬似君恩」であった点に、独自の意義があったと考えられる*71)。
 ただし、念のために付言しておけば、長官と在地首長層・首長層の関係は、基本的に前者の国司という官職(直接にはその職権による鎰の管掌)によるものである。したがって、あくまで官職体系と官僚制の秩序に基づくものであり、人格的身分的結合関係の秩序に基づくものではない。「擬似君恩」は、前者の関係の中で、擬似的な形で後者の関係が存在することによるのであり、国司という官職を離れれば、長官の「代理人」の立場が解消されることを以ても、両者の関係は人格的なものではあり得ない。在地首長層・首長層は、系譜を「基本的紐帯」として、あくまで天皇とかかる関係を結ぶのである*72)。
 また、長官からの「擬似君恩」の賜与も、あくまで「上下共知」の原則の中で行なうのであり、長官の独断によるものではなかったと考えられる。
3.擬任郡司制の特質
 以上をふまえて、擬任郡司制の特質を把握することにする。
 まず、擬任郡司が「擬似君恩」であるのは、基本的には郡司が「君恩」であるからであり、それは、在地首長層・首長層と天皇との人格的身分的結合関係が、系譜を「基本的紐帯」とするからである。もちろん国司(長官)が天皇の「代理人」であることも根拠の一つだが、基本的根拠はかかる関係の特質に求めるべきであろう。そして、かかる関係自体は、前記の特徴(ウ)からも、かかるディスポティシズム原理を否定するものとは考えられず、むしろその枠内にあるものである。この点は、かかる特質の具体的形態の一つである「譜第」の系譜意識の前記の特質からも、裏付けられる*73)。
 したがって、擬任郡司制の特質も、

ディスポティシズムの原理の枠の中の、「擬似君恩」である点

に求めることができる。

[X 結びー郡司制と国家の歴史的特質ー〕
 以上、本稿で述べてきたことをまとめると、次のようになる(ただし、第二章の結論は、第三章のそれと重複するので省略する)。

(1)「譜第」の特質は、ディスポティシズムの原理の枠の中の、郡領任用における、身分に準ずる独自の位置たる点、に求められる。
(2)擬任郡司制の特質は、ディスポティシズムの原理の枠の中の、「擬似君恩」である点、に求められる。

 ただし、以上の結論の前提となる「譜第」・擬任郡司制の意義を直接、示す史料は確認されない。「譜第」が、位階で言えば「三位以上・五位以上・五位以下」の区別に相当するような機能を有していると述べたり、まして郡司という官職が「君恩」、擬任郡司が「擬似君恩」であると述べたりする史料は確認されないのである。
 これは、在地首長層・首長層がディスポティシズムの原理に編成されていたことによると考えられる。かかる原理からすれば、身分制的差別を設定する場も「君恩」も、あくまで位階でなければならず、郡司の場合は原則として外位でなければならなかった。「譜第」・擬任郡司制がかかる原理の枠内にあることは、前記の通りだから、それを否定することができず、上記の意義も、史料上は明記されないと考えられる。
 したがって、かかる意義が史料上に、直接、明示されないことを以て、本稿の結論を否定することはできないし、むしろ、この二つがかかる原理の枠の中にあることを示すものとすべきであろう。
 また、擬任郡司の郡務執行についても、律令法上の規定は存在しなかった。擬任郡司が「擬似君恩」であることを述べなければ、ディスポティシズムの原理とは必ずしも矛盾せず、「単一的支配」の維持の上からはかかる規定を制定した方が望ましかったはずである。にもかかわらず、そのような規定が存在しないのは何故であろうか。
 これは、かかる郡務執行の根拠の一つでもある、国司(長官)が天皇の「代理人」であるという独自性が、律令法上、特に積極的に規定されなければならないものではなかったためと考える。前記のように、当時の支配層の「第一義的課題」は天皇と良民との人格的身分的結合関係に基づく秩序の構築・維持にあり、かかる課題からすれば、ディスポティズムの原理に端的に表現される、官人としての「平等性」「同質性」の実現が律令編纂時における優先事項であったと考えられる。国司自体は、位階を「基本的紐帯」として天皇の人格的身分的結合関係を結んだ有位者集団の一人であり、直ちに「平等性」「同質性」と矛盾するわけではないが、天皇の「代理人」という立場は、天皇の下での「平等性」「同質性」という秩序の中では独自の位置を占めることは確かである。かかる秩序の実現が最優先される律令法においては、その独自性を示す規定は、積極的に制定されねばならないものではなかったのであろう。実際、鎰の掌握の法的根拠となる「倉廩」は、本稿の想定からすれば、国内行政一般の法的根拠ともなるはずであるが、職員令70大国条においては、総括的な国司の職務規定の一つとして規定されているに過ぎず、特に強調されているわけではない。また、鎰の管掌についても、特に律令法に規定は存在しなかった。とすれば、擬任郡司の郡務執行を、特に明記する必要はなかったであろう。
 なお、国司(長官)の独自性を端的に示す儀制令18元日国司条の拝礼規定は、儀制令9元日条の親王以下への、元日における拝礼禁止規定の適用を防ぐための措置と見るべきで、かかる明記はむしろ例外的と考えるべきである*74)。
 さて、以上の結論に明らかなように、「譜第」・擬任郡司制に共通する特質は、

ディスポティシズムの原理の枠内にある点

である。冒頭にも述べたが、これは八世紀はもちろんのこと、平安期の郡司制の特質を考える上でも重要である。
 もっとも、これも冒頭に述べたように、本稿は全体的・概括的な特徴を述べたに過ぎず、この二つをも要素とする郡司制の展開の詳細な分析は、後考に譲らざるを得ない。たとえば、(B)嫡々相継制の導入については、「その族門多く、苗裔なお繁く、濫訴次なし。」が理由とされ、その意義は、令制の身分制的差別の問題の是正と言うよりは、直接には郡領任用抗争の抑止とされている。もとより、これには前述の、「譜第」の強調が身分制的差別に準ずる措置であることは史料上、明記されないという事情とも関わるとは思うが、当時の情勢を考えれば、郡領任用抗争との関連は否定できない。かかる各政策の個別的・直接的意義と、本稿で述べた全体的・概括的意義との関連が今後の課題となる。
 しかし、各政策の個別的・直接的意義の追究のみに終始するのであれば、いかなる歴史的条件の下、各政策が直面した問題の解決が図られたかが不明となり、各政策の個別的・直接的意義を本来の意味で把握することも、郡司制から国家の歴史的特質を把握することも不可能となろう*75)。
 郡司制の研究を、単なる個別の制度・政策の集積にするのではなく、国家の機能・特質の把握のための一素材とするためには、本稿のような作業は不可欠と考える。


*1)本稿で言う「譜第」とは、基本的に、孝徳朝以来、評造・郡領を出した系譜、という比較的、一般的な意味で、『西宮記』『北山抄』(いずれも神道大系本による)に見える(1)「立郡譜第」、(2)「傍親譜第」、(3)「労効譜第」の全てを含む。なお、後述の(A)「譜第」副進制、(B)嫡々相継制の内、(B)の適用は(1)「立郡譜第」に限定されるとの説もあるが(山口英夫「郡領の銓擬とその変遷ー任用関係法令の再検討ー」〔『日本律令制論集』吉川弘文館、一九九三年〕)、ここでは「譜第」一般の意義・特質を把握することが目的なので、(B)の意義は「譜第」の強調とする。なお、本稿での史料の引用は、特に注記のない場合は新訂増補国史大系本による。
*2)『続日本紀』(以下、『続紀』)同年五月丙子条。なお、『続紀』の引用は新日本古典文学大系本による。また、本稿で用いる「任用基準制度」「任用手続き」「任用制度」の概念については、別稿「在地首長層と天皇ー令制郡領任用制度の特質ー」(http://www7b.biglobe.ne.jp/~inouchi/zaichi.htm。以下、別稿と言えばこれを指す)参照。
*3)選叙令13郡司条。なお、養老令文の引用は『日本思想大系三 律令』(岩波書店、一九七六年)による。
*4)『続紀』同年二月壬戌条
*5)なお、七九八年には任用基準が改変されている(『類聚国史』巻一九 神祇一九 国造 延暦一七年三月丙申条)。
*6)擬任郡司制については、さしあたり、米田雄介『郡司の研究』(法政大学出版会、一九七六年)など参照のこと。近年の関連研究として、磐下徹「擬郡司帳管見ー郡司任用日程の変遷ー」(『続日本紀研究』三六六、二〇〇七年)がある。なお、擬任郡司制の前提となる国擬については、『続紀』文武二年(六九八)三月庚午条から、浄御原令制下まで遡ると考えられる。
*7)「同年二月二〇日詔」(『類聚三代格』巻七 郡司事)
*8)「天徳三年(九五九)四月五日 摂津国司解」(『類聚符宣抄』第七 諸国郡司)など。
*9)郡領の任用を裁可する「郡司読奏」において、系譜が重要なチェックポイントであったことは、別稿参照。
*10)「同年一二月一八日太政官奏」(『類聚三代格』巻七 郡司事)
*11)また、七三八年(天平一〇)以降、労効二世以上(郡司を二人以上、出した系譜)は「譜第」と認定していたが、八二七年(天長四)にはかかる基準が廃止され、「譜第」という系譜も固定化されることとなった(「天長四季五月二一日太政官符」〔『類聚三代格』巻七 郡司事〕。七三八年の措置については、同官符所引の「同年四月一九日太政官符」に見える)。
*12)須原祥二「郡司任用制度における譜第資格ー譜第選の確立を中心にしてー」(『日本史研究』四八八、二〇〇三年)、拙稿「郡領任用抗争の特質ー大和国高市郡の事例からー」(http://www7b.biglobe.ne.jp/~inouchi/kousou.htm)
*13)森公章「九世紀の郡司制とその動向」(『古代郡司制度の研究』吉川弘文館、二〇〇〇年)三一三頁。
*14)以下、本項の記述は、別稿の「V 在地首長層と天皇との『基本的紐帯』」「X 在地首長層と天皇との人格的身分的結合関係の特徴」による。なお、かかる意義が主政・主帳に任用される首長層においても同様であることは、拙稿「主政・主帳小考ーその職務遂行と在地における存在形態ー」(http://www7b.biglobe.ne.jp/~inouchi/syusei.htm)参照。
*15)(ア)については、特に一般官人と異なる点は見られない。
*16)石母田「有位者集団」(『石母田正著作集三 日本の古代国家』岩波書店、一九八九年。初出は一九七三年)、三四八頁。
*17)註(2)前掲『続紀』同年五月丙子条。
*18)註(4)前掲『続紀』同年二月壬戌条。
*19)註(12)前掲拙稿。ただし、何らかの権威を有していた可能性は否定しない。
*20)石母田註(16)論文、別稿参照。
*21)「同年三月二八日太政官奏」(『類聚三代格』巻五 内外五位等級を定む事)、「同年三月二八日勅」(『同』巻七 郡司事)
*22)平野博之「平安初期における国司郡司の関係について」(『史淵』七二、一九五七年)、米田註(6)書など。
*23)別稿参照
*24)従来、郡領任用基準制度研究で使用される「譜第主義」の語は、このような閥族主義的任用を指す場合が多い。この語は(A)(B)の、令制と対比される特質・意義を示すものとして使われることも多かったが、本文で述べるように、閥族主義的任用自体は令制の「才用」主義との本質的相違を示すものではない。そのため、本稿ではこの語は使用しないこととする。
*25)別稿参照
*26)さしあたり、大町健「律令国家は専制国家か」(『争点 日本の歴史 三』(新人物往来社、一九九一年)など参照。
*27)『日本書紀』(以下、『書紀』)大化二年正月甲子条。なお、『書紀』の引用は日本古典文学体系本による。
*28)姓を媒介とした天皇と民衆との人格的身分的結合関係については、吉村武彦『日本古代の社会と国家』(岩波書店、一九九六年)第二部など参照。
*29)(2)においては、すでに指摘があるように中央官司関連の記事がないが(関晃「新稿 大化改新」〔『関晃著作集一 大化改新の研究 上』吉川弘文館、一九九六年〕など参照)、本文で述べたようにデスポットとしての天皇の歴史的起点は孝徳朝と認識されていたと見るべきであろう。すなわち、『書紀』は、官人を自らの意思に従って登用できる、デスポットとしての天皇制がまず孝徳朝に成立し、その後、中央官司が成立していく、という歴史叙述になっていたと考えられる。
*30)なお、(B)の下でも、式部省における郡領の銓擬は「試練」とされており(「天平神護二年(七六六)四月二八日勅」〔『類聚三代格』巻七 郡司事〕に「諸国郡司を銓擬するに、多くの人を課試す。」とある)、筆記試験が課せられたと見られる。この筆記試験は、在地首長層・首長層がディスポティシズムの原理に編成されていることを象徴的に示すために行なわれたと考えられるので(「拙稿「郡領の『試練』の意義ー早川庄八説の意義と課題ー」〔http://www7b.biglobe.ne.jp/~inouchi/shiren.htm〕、註(14)前掲拙稿)、「譜第」の系譜意識がかかる原理の枠内にあることと対応すると考えられる。
*31)『続紀』天平勝宝四年一一月己酉条
*32)註(12)前掲拙稿
*33)「最高の指揮命令権に服従する」こと(石母田註(16)書、三五〇頁)
*34)国擬の法的根拠として準用しうる可能性があるものとして、大国条条及び職員令68摂津職条・69大宰府条中の「貢挙」がある。「貢挙」については、(1)一般に、職制律2貢挙其非人条などにより、「」が諸国貢人、「挙」が別勅挙人・大学挙人とされる。なお、前者の諸国貢人とは「諸国から太政官宛に貢送される国学生など」(「貢挙」〔『国史大辞典』吉川弘文館、一九八五年。野村忠夫執筆〕)である。が、大国条では、「貢」のみならず「」も、国司の職掌とされているから、この解釈は適用されない。そのため、(2)「貢」が諸国貢人、「挙」が諸国学生とする解釈(註(3)前掲『律令』本条頭註〔青木和夫執筆〕)、(3)「推挙・貢進」というだけの、一般的な意味であり、官人候補生としての推薦のみならず、戸令33国守巡行条における表彰者の推薦なども含む(尾崎陽美「慶雲三年格における『貢挙』と蔭位制」〔『ヒストリア』一六五、一九九九年〕)、といった説が提示されている。
 擬任郡司の進上も、本条の「貢挙」に含まれるとすれば、かかる進上の前提作業である国擬を、この規定を根拠を執行することが可能になる。そして、以上の(1)〜(3)のいずれの解釈に従っても、かかる解釈が成立不能というわけではないようである。「諸国貢人」・「推薦者」の範囲が確定されていないからである。
 (1)は、前記のように、本条の「貢挙」に援用することは不可能だが、仮に援用した場合でも、「諸国貢人」の範囲は「国学生など」であって、国学生に限定されるわけではない。それ故、ここに「郡司候補者」たる在地首長層・首長層を含めることは不可能ではない。(2)では、「諸国貢人」に国学生は含まれないことになり、その内容は一層、不明瞭であるから、(1)以上にかかる解釈の成立の余地はある。(3)も、一般的な「推挙・貢進」というだけであれば、同様の可能性を指摘できよう。そして、『続紀』天平一四年(七四二)五月庚午条には、擬任郡司の進上を、「貢挙」と述べた事例が見出せるのである。
 しかし、仮にこのような解釈が成立したとしても、「貢人」・推薦者の範囲が不確定であるということは、国司の職務として行なう「貢挙」とは何かが、明示されていないことと同じであり、特に(2)(3)の限りでは法規定として機能していないといっても過言ではないであろう。それ故、数ある推薦行為の中で、擬任郡司の進上が、なぜ本条の「貢挙」に含まれるのかが明示されなければ、法的根拠の脆弱性は否定できないと言える。
 また、当時、このような解釈が採用されたかについても確証がない。また、『令集解』諸説の中で、「貢挙」について、注釈しているのは、67左京職条・68摂津職条の朱説であるが(ただし、後者は「この記、京職の『貢挙』の下にあり」とあり、本来は前者の注釈であったと考えられる)、これも特に擬任郡司の進上には言及していない。。前記の『続紀』天平一四年(七四二)五月庚午条の「貢挙」も、本条を前提にしたものかどうかは不明とせざるを得ない。
*35)もとより、官人の職務執行の形態のすべてが律令法に規定されているわけではない。例えば、員外官・権任官のような形態は律令法には規定がない。しかし、員外官は、律令制国家によれば「事の務、やや繁きときは、すなわち劇官を量りて、仍て員外官を置く」(『続紀』天応元年〔七八一〕六月戊子条)とあり、事務繁忙な際に特別に置いた官職とされているので、任用基準・任用手続きは正規の官職に準ずるとされていたと見るべきであろう。権官も「権(カリ)の官」の意であるから、同様と考えるべきである。員外郡司・権任郡司の任用手続きについては、五位以下の者がほとんどと考えられるので、『続紀』に記述がなく明証はないが、基本的には式部省・太政官において行なわれたと考えられる(員外郡司・権任郡司については、米田註(6)書二四五〜六頁参照)。それ故、人事権の法的根拠もはっきりしない国司によって選定されたにもかかわらず郡務執行を行なう、擬任郡司とは状況を異にしていると考えるべきである。なお、以上は員外官・権任官の法的位置づけの問題なので、その本質的意義(近年の研究として、小原嘉記「権任国司論」〔『続日本紀研究』三五五、二〇〇五年〕がある)や官人の任用基準・任用手続きの実効性(別稿参照)とは、さしあたって関係がない。なお、七九八年(延暦一七)には、副擬郡司が禁止されている。その理由については「公務に益なし。すでに私門を潤し、百姓を侵漁するは、この甚だしきに過ぐることなし。」と、機構の維持よりは財政上の問題が挙げられているが(「同年二月一五日太政官符」〔『類聚三代格』巻七 郡司事〕)、これについては、後考にゆずる。
*36)註(30)前掲「天平神護二年(七六六)四月二八日勅」
*37)奉仕ー「君恩」の論理については、吉川真司「律令官僚制の基本構造」(『律令官僚制の研究』塙書房、一九九八年。初出は、一九八九年)など参照。ただし、吉川の「律令官人制」の概念については、拙稿「機構論における『人格的身分的結合関係』とは何か?−任用過程研究の意義ー」(http://www7b.biglobe.ne.jp/~inouchi/jinkaku.htm)参照。
*38)別稿参照
*39)塩沢君夫「八世紀における土豪と農民」(『古代専制国家の構造』増補版、一九六二年。初版は一九五八年)
*40)『続紀』同年九月庚午条
*41)註(31)前掲『続紀』天平勝宝四年一一月己酉条
*42)「ミヤケ」の訓は、『皇太神宮儀式帳』(神道大系本による)による。郡家について、直接、「ミヤケ」と訓じた例は確認されないが、郡家が郡の象徴であったこと(『続紀』霊亀元年〔七一五〕一〇月丁丑条、『常陸国風土記』など)は、ヤケとしての特質によると見られ、正倉へは天皇への貢納物が納められたから、八世紀にも「ミヤケ」と認識されていたと考えられる。なお、『常陸国風土記』の引用は日本古典文学体系本による。
*43)一般に正倉には正税を納めるとされるが、七三四年(天平六)の官稲混合以前は、郡稲をはじめとする「雑色官稲」(『続紀』天平六年正月庚辰条)も納められていたと考えられるので、ここではこれらの総称として「留国官物」の語を用いる。
*44)註(40)前掲『続紀』天平宝字七年九月庚午条
*45)「宝亀三年一二月一九日太政官符」(田中卓「新史料『延暦八年、勅旨所牒』と『宝亀三年太政官符』」〔『田中卓著作集一〇 古典籍と史料』国書刊行会、一九九三年。初出は一九五七年〕)
*46)栗林茂「国庁(国府中心施設)初現形態に関する一試論ー儀制令元日国司条を通してー」(『史友』二一、一九八九年)など参照。なお、国司の管轄する「国」が、「日本国」などの「国」を模したものであることは、石上英一「律令国家と天皇」(『律令国家と社会構造』名著刊行会、一九九六年。初出は一九九二年)参照。
*47)以下の問題は、かつて「国評制・国郡制支配の特質と倭王権・古代国家」(『歴史学研究』七一六、一九九八年)で若干触れたことがあるが(三八頁)、十分に展開できなったので、ここに見解を記しておくことにする。
*48)栗林註(46)論文など。国司=クニノミコトモチ説は、近年の佐藤信『古代の地方官衙と社会』(日本史リブレット 八、山川出版社、二〇〇七年)でも継承されている。
*49)「律令国郡政治の成立過程」(『日本古代財政史の研究』塙書房、一九八一年。初出は一九七一年)
*50)なお、薗田は「宰」を常駐の行政官とする。
*51)井上亘「国司就任儀礼の特質」(『ヒストリア』一六七、一九九九年)は、儀制令6文武官条「それ五位以上、勅を奉りて差使せんは辞見せむこと、また之の如し。」の規定を以て、国司が天皇から「ミコト」を与えられたとするが、(1)五位の国司は大国・中国の守のみであるし(官位令)、(2)そもそも公式令53京官条によって国司は外官とされており、その派遣は、律令法上「差使」にはならない。したがって、この見解は成立しない。
*52)例えば、二等官以上の構成をとったことの明らかな「東国国司」は(『書紀』大化二年三月癸亥条)、明らかにオオキミの「ミコト」を受けて派遣されており(『同』大化元年八月丙申条)、すべて「ミコトモチ」と考えられる。
*53)<>は注記を表す。
*54)土地売券などの中央政府に上申されない文書にも捺印されているのは、周知の通りである。
*55)石上英一「日本古代における調庸制の特質」(『歴史学研究』一九七三年度別冊)
*56)永田英明「駅制運用の展開と変質」(『古代駅伝馬制度の研究』吉川弘文館、二〇〇四年。初出は、一九九六年)八九頁。
*57)永田註(56)論文、九六頁
*58)弥永貞三「大宝令逸文一条」(『史学雑誌』六〇-七、一九五一年)
*59)永田註(56)論文は、駅鈴を賜ることが、国司が天皇の「代理人」たることを保証するとするが(九五頁)、駅鈴を管掌することによって、直ちに国司(長官)が、元日に拝礼を受けるような、天皇の「代理人」になるわけではない。また、駅鈴の特質として「天皇に支給されたいわば『ミシルシ』としての性格」(九三頁)を強調し、将軍に下賜される節刀との共通性を指摘する。筆者も、駅鈴のみならず、印・鎰が、永田の言う「ミシルシ」のような、天皇との関係を象徴的に示す機能を有していたことは否定しないが、それぞれの象徴する権限については相違があり、それをふまえてこそ、印・鎰・駅鈴それぞれの象徴としての独自の機能・位置づけが明らかにできると考える。
*60)吉田孝『律令国家と古代の社会』(岩波書店、一九八三年)
*61)泉谷康夫「受領国司と任用国司」(『日本歴史』三一六、一九七四年)七五頁
*62)『書紀』顕宗天皇即位前紀
*63)『続紀』天平二年四月甲子条。「共知」については、吉川真司「奈良時代の宣」(註(37)書。初出は一九八八年)など参照。「共知」に見られる国司の「連帯責任制」については、原田重「国司連坐制の変質についての一考察」(『九州史学』一〇、一九五八年)、泉谷註(61)論文など参照。
*64)中田薫「養老令官制の研究」(『法制史論集 第三巻 上』岩波書店、一九四三年)六一〇頁以下。吉川註(63)論文。初出は、一九八八年)二〇二頁。
*65)ただし、九世紀には「百姓、過を犯す者あらば、長官というと雖も、すべからくこれを傍吏に委ね、理に任せ勘決すべし。」(『続日本後紀』嘉祥二年閏一二月庚午条)との認識が見られ、裁判権については例外とされていたようである。なお、元慶三年(八七九)には、次官以下の任用国司の、郡司・書生・国掌などに対する裁判権が停止されており(「同年九月四日太政官符」〔『類聚三代格』巻七 郡司事〕)、この時点までかかる裁判権が任用国司に認められていたことを示す(泉谷註(61)論文)。
*66)拙稿「機構論の意義と課題」(http://www7b.biglobe.ne.jp/~inouchi/igitokadai.htm)
*67)オオキミの「恩恵」を、律令制国家の君主である天皇の「君恩」と同一視できるかは、疑問の余地があるので、「クニノミコトモチ」の「恩恵」を「『擬似君恩』の先行形態」としておく。
*68)以上の点については、拙稿「地方行政機構論の必要性ー郡制の特質ー」(http://www7b.biglobe.ne.jp/~inouchi/syusei.htm)参照。
*69)『書紀』大化元年八月庚子条(「東国国司詔」)においては、在地首長層が「名を求め」、虚偽の事実を申告した場合の措置について述べられている。この「名を求む」とは、評造任用のみならず立評申請の意も含むと考えられる(註(68)前掲拙稿)。さて、この場合、「詐りのままに便く朝に牒するを得じ。審らかに実情を得て後に申すべし。」とあり、「実情」を調査して後、中央へ報告すべき旨が命じられている。この場合、「クニノミコトモチ」による独自の裁可は前提になっていない。しかし、この「国司」の活動は、評制施行の準備作業ではあっても、直ちに立評を任務としたわけではないこと、ここで述べられる虚偽の申告を行なう例とは、在地首長層相互で争訟がある場合と見られること(早川庄八「選叙令・選任令と郡領の『試練』」〔『日本古代官僚制の研究』岩波書店、一九八六年。初出は一九八四年〕)などから、立評一般の事例に敷衍することはできない。
*70)註(68)前掲拙稿参照
*71)ただし、以上の考察では、なぜ、擬任郡司の選定については「擬似君恩」を与えなければならないのか、そもそも「擬似君恩」とは国司の行政の中にいかなる部分に見えるのか、といった点が不明となるが、これについては後考を俟ちたい。また、令制上、「君恩」と位置づけられていた考えられる位階の昇進についても、国司は四つの基準(等第)に基づく単年度の考(勤務評定)の形で関係し(考課令67考郡司条)、これも「代理人」としての長官の決裁を基本的根拠に行なわれたと考えられる。この場合、在地首長層(郡司)への位階(君恩)の授与に、長官が実質的に関与することはありうる。郡司の考は一〇考であるから(選叙令15叙郡司軍団条)、一〇年目の考において国司がいかなる評定を行なうかは、実質的にはその郡司の奉仕が「君恩」たる位階の昇進(授与)に値するかどうかを決定することになる。しかし、位階の場合、擬任郡司のような「擬似君恩」は見られない。とすれば、そもそも「擬似君恩」なるものの想定自体が疑問視される可能性も出てくる。しかし、この場合は、国司が関与するのは、あくまで単年度の考(勤務評定)であり、その年度の勤務(天皇への奉仕)が考郡司条の四等第の内のどれに該当するかである。すなわち、国司の判断は、位階の昇進・授与自体ではなく、したがって、一〇年間の奉仕が「君恩」に値するかどうかではない。この点は、「祖」以来の奉仕が、「君恩」たる郡司という官職に値するかを判断する、国擬とはまったく異なっており、位階に関して、国司は「擬似君恩」を与えねばならない立場にはなかったと考えられる。
*72)なお、毛利憲一「外位制の再検討」(『立命館史学』二三、二〇〇二年)は、郡司等が(1)「君恩と奉仕の関係を天皇と直接的に取り結ぶことができなかった」(四七頁)ため、諸国においては(2)「国司を基点とする独自の秩序が構想された」(四五頁)とする(なお、毛利は本主ー帳内・資人の問題についても論じているが、ここでは国司ー郡司の問題についてのみ見解を述べる)。
 (1)は、在地首長層と天皇との人格的身分的結合関係が成立しないことを示し、(2)の「国司を基点とする独自の秩序」とは、国司ー郡司という官職体系によるものである。したがって、在地首長層については、(α)天皇との人格的身分的結合関係が成立しないため、(β)官職体系と官僚制の秩序がこれに代わるものとして位置づけられたということになる。
 しかし、この見解は誤りであろう。そもそも、律令制国家においては、支配層は、(α)天皇との人格的身分的結合関係によって支配層として編成され、(β)国家機構を専有する、のであって(石母田註(16)論文、註(37)前掲拙稿)、(α)の人格的身分的結合関係の秩序と、(β)の官職体系と官僚制の秩序は、相互に独立した秩序となる。それ故、(β)が(α)に代位するという事態は、そもそも考えられない。事実関係としても、本文で述べたように、在地首長層は系譜を「基本的紐帯」として天皇と人格的身分的結合関係を結んだと考えられる。
 なお、毛利も触れる、元日国司条と共に、国司の独自性を示すものとして挙げられる儀制令11遇本国司条の下馬規定については、長官のみに限られたものではなく、必ずしも天皇の「代理人」としての性格によるものではないと考えているが、詳しくは後考を期したい。
*73)もっとも、八世紀前半における、郡内統括の根拠となる系譜意識は、(1)その系譜(氏族)が、郡及びそれに編成された地域と何らかの歴史的関わりを有すること、(2)その関わりに「天皇」が介在すること、の二点が共通項であり、それ以外の内容は多様であったと考えられる。それ故、「譜第」の系譜も、かかる根拠として脆弱であった側面は否定できない(以上、註(12)前掲拙稿)が、ディスポティシズムの原理を否定するものとは位置づけられていなかったと考えられる。
*74)国司の「代理人」としての性格と対応するともされるコの字型配置の国庁の成立が、八世紀第二四半期であって(山中敏史『古代地方官衙遺跡の研究』塙書房、一九九四年、三八八頁)、令制当初ではないとする見解は、本稿の想定とも合致する。ただし、近年の佐藤註(48)書は、国庁が機能していた時期を「八世紀にはじまり十世紀に終る」(三八頁)としており、必ずしも山中の年代比定を支持していない。
*75)「譜第」・擬任郡司制については、郡領任用基準制度研究として追究されることが多い。近年の研究として、山口註(1)論文、須原註(12)論文、毛利憲一「郡領任用政策の歴史的展開」(『立命館文学』五八〇、二〇〇三年)などがある。



 

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