機構論における「人格的身分的結合関係」とは何か?
ー任用過程研究の意義ー
(目次)
T はじめにー本稿の目的と方法ー
U 石母田説の検討−機構論における人格的身分的結合関係とは何か?ー
V 他説の検証
W 結びー任用過程研究の意義ー
〔T はじめにー本稿の目的と方法ー〕
筆者は、先に、石母田正の国家機構論を分析し、律令制国家の国家機構の特質を把握するための課題(=機構論の課題)を、「天皇と官人との人格的身分的結合関係の特質の解明」とした*1)。本稿の目的は、かかる課題設定を受け、人格的身分的結合関係の、どの側面をどのような方法で明らかにするかを追究することである*2)。これは人格的身分的結合関係の特質に迫るための具体的課題(=以下、「具体的課題」)を設定するものであるから、機構論の課題をさらに具体化する作業ともいえる。
まず、律令制国家における、かかる関係の具体的形態を確認しておこう。本稿での「人格的身分的結合関係」は、石母田正が「古代官僚制」の第一項「有位者集団」*3)で提示した概念を、基本的に継承している。一般に、天皇と官人とのかかる関係は、位階を媒介として成立する。位階は、天皇から官人個人に対して与えられ、原則として終身、保持することができた。すなわち、かかる関係は、四等官のような官職による統属関係を媒介とするのではなく、天皇と官人個人の間で成立するので、人格的である。さらに、石母田は、官人を一つの身分とも考えているし、また、かかる関係自体に身分制的特徴を認めている*4)ので、身分的ということになるのであろう。
先に、筆者がかかる課題を設定した基本的根拠は、人格的身分的結合関係の秩序の維持が、支配階級の「第一義的課題」であることであった*5)。しかし、これだけでは「具体的課題」を設定することはできないから、独自の追究が必要である。
かかる追究に必要な作業は、何よりも、「『人格的身分的結合関係』という概念が何を『目的』として設定され、いかなる『内容』を持つべきか」を把握することである。これは、言わば「機構論における『人格的身分的結合関係』とは何か?」を把握する作業といえる。言うまでもなく、「人格的身分的結合関係」は、個人間の人格的関係一般を指すものではなく、古代国家論・機構論において、特定の「目的」を持って設定された概念である。かかる「目的」(以下、「設定目的」)が「内容」を規定することは言うまでもなく、「設定目的」「内容」が把握されなければ、「具体的課題」が把握できないことも多言を要さないであろう。
もっとも、「人格的身分的結合関係」の提起は、『日本の古代国家』の第四章「古代国家と生産関係」における在地首長制論の提起、さらに総体的奴隷制という形での、世界史的範疇におけるその特質の把握とも連動していると見られ、その「設定目的」は一様ではない。しかし、機構論において提起された概念・関係を分析するための課題を追究するという本稿の目的からすれば、まず、重要なのは機構論における「設定目的」−すなわち、機構論において、なぜ、かかる概念が設定されたのかーである。かかる「設定目的」は、「石母田がなぜ、古代国家論において機構論を設定したのか?」という、機構論の「意図」と連動するから、かかる「意図」をふまえて把握する必要がある。さらに、「設定目的」の把握が、概念の「内容」の把握をも課題とするならば、「設定目的」は、できるだけ直接的な目的とする必要がある。例えば、人格的関係一般であれば、律令制国家において、それこそ無数に存在するはずなのに、そのなかで位階を媒介とする天皇と官人との関係が、なぜ「人格的身分的結合関係」とされたかは、在地首長制との連動性や機構論の「意図」をふまえるだけでは把握できない。それを規定するのは、より直接的な「設定目的」であるはずなのであり、それによって「内容」もまた規定されたと見るべきである。かかる直接的目的を、ここでは「第一義的目的」とする。すなわち、まず必要なのは、石母田機構論の「意図」をふまえて、「人格的身分的結合関係」の「第一義的目的」と「内容」を把握することになる。いうまでもないが、かかる把握は、在地首長制論(生産関係論・共同体論)の特質の把握の深化の上でも不可欠であり、世界史的範疇におけるその把握の上でも同様である。
必要な作業の第二は、石母田の「第一義的目的」と「内容」が、現在の研究段階においても、意義を持ちうるのか、を検証する作業である。いうまでもなく、石母田説は発表からすでに三〇年以上を経過しており、そのままの形で成立するかは検討の余地がある。すなわち、石母田が想定したような人格的身分的結合関係が、律令制国家に存在するのかを、事実に即して検証することが必要となる。もっとも、石母田説との相違はあっても、位階を媒介とする天皇と官人との関係や、姓を媒介とする天皇と公民との関係が、律令制国家機構および律令制国家自体の歴史的特質を規定すること自体は、筆者のみならず多くの論者によって認められているので、石母田説を全面否定する結果になるとは考えにくい。しかし、一定の修正の必要が生じる可能性はあるのであって、かかる修正を経て、はじめて「機構論における人格的身分的結合関係とは何か?」が把握しうると考える。
以上の論点のうち、「設定目的」「第一義的目的」とは「問題提起の方向性」といい換えてもよい。すなわち、必要な作業は、石母田の「問題提起の方向性」をふまえ、「人格的身分的結合関係」を事実によって検証することであって、「具体的課題」の設定も、石母田説との緊張関係の中から行われなければならないことを示している*6)。そして、かかる基本的手続きさえ踏まえれば、本稿の目的は基本的に達成されるはずなのであり、それは後論からも明らかと考える。
しかしながら、現在の研究段階においては、以上に加えて第三の作業を行わなければならない。第一・二の作業によって把握した「機構論における人格的身分的結合関係」と、石母田説以外の学説との比較検証である。後述のように、現段階では律令制国家の「上部構造」を把握するために、「律令官人制」「人格的支配」「人格的関係」などの種々の概念が提示されている。これらは、名称こそ類似するものの、石母田説とは明らかに「第一義的目的」「内容」を異にしており、異説と見るべきである。とすれば種々の異説の中で、なぜ石母田説に基づき人格的身分的結合関係の「第一義的目的」と「内容」を把握するのかが問題となる。それは、なぜ、律令制国家の「上部構造」を機構論によって把握するのかという問題でもある。
もっとも、かかる異説は既述の緊張関係をふまえて設定されたわけではなく、かかる検証は必ずしも、「新しく何かを生み出す」作業にはなりえない。しかし、学界の現状と、そこにおける機構論の意義を把握する意味はあるであろう。
以上から、本稿で採用する方法は、
(一)石母田説の「第一義的目的」と「内容」の検証
(二)現在の研究段階における、石母田説の意義の検証
(三)機構論における人格的身分的結合関係と、他説との比較検証
の三点である。以上をふまえて、「具体的課題」を把握することにしたい。
〔U 石母田説の検討−機構論における人格的身分的結合関係とは何か?ー〕
1.石母田機構論の「意図」と「有位者集団」の位置
本章では、石母田の人格的身分的結合関係の概念の、「第一義的目的」と「内容」を把握するのが課題であるが、前提として石母田機構論の「意図」と、その中での「有位者集団」*7)が収録された「古代官僚制」の位置を把握しておこう。
石母田は、国家権力を
一つの階級が他の階級を支配し抑圧するための「組織された強力」
とするレーニンの見解(以下、「レーニンの見解」)に、機構論の問題提起の方向性を見出したと見られ、その「意図」は
(一)国家の「組織された強力」という属性を、日本古代の場において検証し、国家権力の持つ独自の特質を明らかにすること
(二)それを通して、かかる属性の日本古代における歴史的特質を明らかにすること
であったと見られる。
次に、かかる「意図」の下での、「有位者集団」の位置について確認しておこう。「古代官僚制」冒頭に考察の目的と「根本の視点」が記されている(三四一頁)。それによれば、考察の目的は、『日本の古代国家』第三章第三・四節での、機構についての立場と見解にたって
古代官僚制のいくつかの問題、とくにそれがもっている古代的特徴について考察する
こととされる。さらに、「根本の視点」は
(a)国家機構を運転する官僚という、社会の上に立つ独自の特権的集団
(b)その集団が準拠すべき非人格的な規範または法
とされる。官僚は、「組織された強力」たる国家の独自の、そして不可欠の存在である。したがって、「古代官僚制のいくつかの問題、とくにそれがもっている古代的特徴について考察する」ことは、先の機構論の「意図」を達成する上で不可欠であり、またその考察に当たっては、(a)社会から分離された特権性と(b)非人格的な規範・法とのかかわりが、根本的な視点とならざるを得ないと考えられる。
2.概念の「第一義的目的」とその意義
以上をふまえて、人格的身分的結合関係という概念が、石母田機構論において、なぜ、取り上げられたかを追究しよう。 「有位者集団」冒頭において、有位者集団について概括的記述(以下、「概括的記述」)がある*8)。有位者集団は、人格的身分的結合関係によって編成されるから、この記述の検討は、「人格的身分的結合関係」という概念の「第一義的目的」を把握するのに有効であると考えられる。まず、この記述について検討しよう。
冒頭において
国家の基本的な問題の一つは、どの階級または身分が、国家機構を専有し、それによって被支配階級を統治するかという問題である
と問題が提示される(以下、「第一の問題」とする)。しかし、続いて「この点については、律令制国家においては、他の前近代の国家と共通して、なんらまぎらわしい問題はない。」とされ、「大化前代の『臣連・伴造・国造』と呼ばれた階級または身分の後継者としての官人貴族層」を、国家機構を専有し被支配階級を統治する階級とする。
論は続いて
しかし、この支配階級が、どのような仕方において国家機構と結合されるかという問題については、律令制国家独自の形態としての「有位者」集団の存在を分析しなければならない
と展開される。根拠は、「制度的には、位階を保持する集団が、国家の官職を専有して、官位をもたないいわゆる『白丁』身分を統治するという形態が、律令制国家の特徴だからである」。ここに有位者集団・人格的身分的結合関係の分析は、直接には「支配階級が、どのような仕方において国家機構と結合されるかという問題」(以下、「第二の問題」とする)に対応するためであったことが知られる。すなわち、「第二の問題」への対応が、かかる集団・関係が提示された「第一義的目的」であったとすべきである。
では、なぜ、「第二の問題」が追究されたのであろうか。「第一義的目的」の意義が把握できなければ、それに基づいて「内容」を把握する意義も不明となるから、分析が必要である。
結論からいえば、支配階級の「具体的・歴史的な形態」を析出する上での不可欠の基本的視角とされたためと考える。
「第二の問題」提示後の「概括的既述」の論理展開を整理してみよう。まず、
(α)この問題に対応する上での、有位者集団分析の根拠(前掲引用)が指摘される。
次に、
(β)有位者集団と封建国家における御家人身分・侍身分との対比が行われ、国家の官職体系と官僚制の秩序からの自立性が指摘される。
最後に、
(γ)有位者集団の成立が、大化前代の王民制にかわる新しい組織原理に基づく結合体の成立であることが論じられ、「古代の支配階級が階級として存在する具体的・歴史的な形態」とされる。
以後は、有位者集団の「二、三の特徴」の具体的分析に入っているので、「概括的既述」は(γ)で終わっていると言える。したがって、「第二の問題」への対応が、(γ)の支配階級の「具体的・歴史的な形態」(以下、「具体的・歴史的形態」)の析出につながっていることが分かる。「第二の問題」は、かかる形態を析出するために設定されたと見るべきである。
なぜ、かかる形態が追究されねばならないかは、先の「古代官僚制」の「考察の目的」を考えれば明瞭であろう。「古代官僚制のいくつかの問題、とくにそれがもっている古代的特徴」を分析しようと思えば、古代における官僚とは何か、それが具体的にいかなる形態で存在していたかが明らかにされなければならない。石母田は、前近代の官僚を支配階級と見ているので、「古代官僚制」の第1項においては、支配階級の「具体的・歴史的形態」が追究されねばならないのである。また、かかる支配階級の「具体的・歴史的形態」を有位者集団とする際に、「根本の視点」ー(a):「国家機構を運転する官僚という、社会の上に立つ独自の特権的集団」が活きていることも明白である。官僚が「社会の上に立つ独自の特権的集団」である以上、被支配階級とは区別されねばならず、位階という独自の標識を持つ集団が注目されるにいたったと考えられる。
次に問題になるのは、「支配階級が、どのような仕方において国家機構と結合されるか」という「第二の問題」が、なぜ、支配階級の「具体的・歴史的形態」の析出につながるかであるが、これも先の「レーニンの見解」を踏まえれば、明白であろう。この見解によれば、支配階級は、国家機構に拠り、「他の階級を支配し抑圧する」ことになるのであって、現象的には機構を専有する階級として存在することになるはずである。実際、石母田が律令制国家の特徴とする「位階を保持する集団が、国家の官職を専有して、…『白丁』身分を統治するという形態」は、「一つの階級が他の階級を支配し抑圧する」ことの、律令制国家における具体的形態と見るべきで、この記述に「国家の官職を専有して」とあるように、有位者集団とは、ここではまずもって、国家機構を専有する集団と見られている。必然的に、その「具体的・歴史的形態」は「機構との結合の仕方」から析出されることになり、また、それなしには把握できない存在と見るべきであろう。したがって、「第二の問題」への対応は、支配階級の「具体的・歴史的形態」析出のための、不可欠の基本視角となるのである。
以上から、
(1)石母田説における「人格的身分的結合関係」の「第一義的目的」は、「支配階級が、どのような仕方において国家機構と結合されるかという問題」への対応であったこと
(2)かかる「第一義的目的」の意義は、支配階級の「具体的・歴史的形態」の析出のための基本的視角であること
の二点が明らかになった。
「第二の問題」は、「レーニンの見解」に直ちに変更・再検討を迫るような論点ではない。しかしながら、支配階級の「具体的・歴史的形態」の析出につながるこの論点は、−かかる析出において、齟齬が生じれば、「レーニンの見解」に再検討の余地が生じる可能性があるからー、律令制国家の支配に関する諸事実による「レーニンの見解」の一層の検証でもある。と同時に、後述のように、かかる形態が律令制国家機構の歴史的特質を規定するとすれば、律令制国家の国家機構・官僚制の支配の具体相を豊かに捉えるための前提となる論点であるはずであり、よって、国家機構・官僚制の諸問題についての古代国家研究の立場からの独自の提起につながると言える。単に「レーニンの見解」の正しさを、律令制国家において証明するというだけであれば、ー少なくとも、石母田にとってはー「第一の問題」に対応するだけで事足りたはずである。それに留めずに、「第二の問題」を設定し、「位階を保持する集団が、国家の官職を専有して、官位をもたないいわゆる『白丁』身分を統治する」という、律令制国家の統治の特徴に関する独自の知見や、竹内理三以来の位階制研究の成果*9)によって、「レーニンの見解」の検証をさらに練磨した点にこそ、圧倒的成果を収めた『日本の古代国家』の手法的特質の一端をうかがうことができる。それによって、石母田は、律令制国家機構の支配の豊かな把握と、官僚制・国家機構の一般論への提起につながる論点を、具体的に示したのであった。
3.石母田正の「人格的身分的結合関係」
前項で論じた「第一義的目的」からは、直ちに以下の「内容」が必然化される。
第一は、支配階級全体を編成する関係であること、である。支配階級の「国家機構との結合の仕方」を追究しようとすれば、支配階級の中の一部のみを編成する特殊な関係を取り上げても、対応できないことはいうまでもないから、この「内容」は必然化される。「有位者集団」の中で、特に触れていないのは、自明の前提だからであろう。
第二は、かかる関係によって編成された支配階級が、官職体系と官僚制の秩序から自立した存在であること、である。(α)支配階級が、(β)国家機構に埋没すれば、「(α)支配階級が(β)国家機構と結合する」という状況自体が成立しないことになり、「第一義的目的」自体が成立しないことになるから、これも当然である。そもそも、 (α)支配階級が、被支配階級を支配し抑圧するために、(β)国家機構が存在するという立場においては、(α)が存在して、はじめて(β)の存在意義が生じる。もとより、(β)の成立に伴い、(α)の「具体的・歴史的形態」が王民制から有位者集団へ変化しているように、(β)が(α)に影響を及ぼす場合は見られるが、本質的には、(α)が(β)に埋没してしまえば、(β)の存在意義も喪失すると見るべきであろう。
石母田が、かかる認識を成立させる上で、重要な役割を果たしたと見られるのが、『ドイツ・イデオロギー』の記述から導きだされた次の見解である。
個々の武士団または領主は、封建制独自の(A)連合体または結合体を構成することによって(B)はじめて、階級全体として、また個々の領主として、農奴階級を支配し得るのであって、(C)この原則は古代においても変化はないのである
この指摘は、前掲の論理展開(γ)ーすなわち、「有位者集団の成立が、大化前代の王民制にかわる新しい組織原理に基づく結合体の成立であること」の指摘ーにおいて提示されており、文中の「連合体または結合体」(太字部(A))が、律令制国家においては有位者集団とされていると見られる。かかる結合体自体は、機構を介して成立すると考えられているわけではないから、その秩序は、官職体系と官僚制の秩序から自立する(前述の論理展開(β))。「概括的記述」においては、(α)かかる結合体を成立させる人格的関係を媒介とする結集と、(β)機構を媒介とする結集の、二重の形態による階級結集は、前近代の支配階級の一般的な結集形態とされているが、それは、かかる自立性を持った「結合体」の成立によって、はじめて支配が可能であることが、少なくとも中世・古代の原則と考えられている(太字部(B)・(C))からであろう。(α)の(β)に対する自立性は「概括的記述」において、再三、強調されているが、それは、恐らくこの見解を下敷きにしたものであり、また、支配階級の「具体的・歴史的形態」の析出の上でも、不可欠であったと見られる*10)。
以上の「第一義的目的」「内容」はーそれを欠けば、もはや「人格的身分的結合関係」ではないのだから−、石母田の、かかる概念の成立条件とも見なすことができる。あらためて、かかる条件を提示しておけば
(a)「支配階級が、どのような仕方において国家機構と結合されるかという問題」への対応を「第一義的目的」とすること
(b)支配階級全体を編成する関係であること
(c)かかる関係によって編成された集団が、官職体系と官僚制の秩序から自立した存在であること
となる。以上の三条件の位置づけを改めて整理しておけば、(a)は内容から明らかなように概念の「第一義的目的」を示し、(b)・(c)は、この「第一義的目的」を達成するための必要条件ということになる。
〔V.石母田説の検討〕
1.大町・吉村説
以上の石母田説は、現在の研究段階でも成立するのであろうか。ここでは、石母田説を事実関係に即して検証することにしたい。この際、問題となるのは、本稿の目的からすれば、第一に、「第一義的目的」の意義である。すなわち、支配階級の国家機構との「結合の仕方」の追究が、支配階級の「具体的・歴史的形態」、さらには国家機構の歴史的特質の把握につながる、という見解が、今なお成立するかが問題となる。
この場合、問題となるのは、現在の研究段階では、律令制国家においては、被支配階級のそれとは区別される、支配階級独自の「具体的・歴史的形態」が存在しない可能性があることである。第一に、大町健によって提起された村落首長制論が存在する*11)。大町によれば、在地の共同体の支配者である村落首長は、被支配階級たる共同体成員と同じく公民身分に編成されるとされる。第二に、吉村武彦によって、官人が有位者と無位者によって構成されるとの見解が提起されている。すなわち、吉村は、官人を有位者集団とする見解(石母田説が代表格と見られる)を批判し、無位の官人の存在を指摘して、律令制国家においては「有位と無位の官人が百姓に対峙する」*12)とする。
大町説においては、村落首長が共同体成員と同様に公民身分に編成されるとする一方、村落首長と機構を専有する官人を編成する独自の紐帯は指摘されていない。したがって、律令制国家における、支配階級の独自の編成は指摘されていないことになる。この学説においては、律令制国家は、支配階級が被支配階級を支配し抑圧するために存在するのではなく、支配階級の一部たる村落首長の私富追求を抑止し、社会の分裂を阻止するための、諸階級の利害を超えた第三の権力として存在することになる。律令制国家における人格的編成は、共同体成員・村落首長・貴族官人層が、ひとしく天皇の下に編成されるという、天皇の下での同一性という幻想を体現するものであり、村落首長の階級支配を隠蔽するためのものとされる。村落首長の階級支配の隠蔽とは、いうまでもなく、村落首長が支配階級の一部であることを隠蔽することに他ならない。したがって、支配階級であることを明示する村落首長と官人との独自の紐帯は、必ずしも必要ないともいえる。
また、吉村説においても−仮に、機構を専有する集団を支配階級としたとしてもー、有位者と無位者を編成する独自の紐帯の存在は指摘されていない。したがって、支配階級独自の編成が指摘されていないという点では、同様の結果となる。
以上から、支配階級独自の「具体的・歴史的形態」が、律令制国家においては存在しない可能性があるといえる。「第一義的目的」の意義は、かかる形態を析出することにあるから、この問題は、必然的に「第一義的目的」の意義に検討の余地があることをしめすことになる。
加えて、仮に支配階級独自の「具体的・歴史的形態」が存在したとしても、「国家機構との結合の仕方」の追究からかかる形態に迫れるか、も問題となる。大町説によればー紛れもなく支配階級に属する村落首長が国家機構に編成されない以上ー、国家機構に編成される官人は、支配階級のすべてではないことになるのであって、かかる追究が直ちに、上記の形態の析出につながるかも疑問の余地が生じる。
さらに、吉村の指摘のように、官人が有位者と無位者から構成されるとすれば、有位者集団の分析が、直ちに官人の「具体的・歴史的形態」を示さないことになる。すなわち、有位者集団の分析の意義も、問題となる。
すなわち、
(1)支配階級の「具体的・歴史的形態」が存在しない可能性がある中での、「第一義的目的」の意義
(2)国家機構に編成されない支配階級が存在するとされる中での、「第一義的目的」の意義
(3)有位者集団が、官人全体を示すものではないとされる中での、有位者集団分析の意義
の三点が問題になる。
2.石母田説の検討
まず、問題(1)について。大町説によって、官人を直ちに支配階級と見なせなくなったことは認めてよいであろう。しかしながら、『ドイツ・イデオロギー』の記述に基づく見解を下敷きにした
支配階級が、官職体系と官僚制の秩序から自立した存在である
という認識は、「支配階級」の語を「官人」と置き換え、
官人が、官職体系と官僚制の秩序から自立した存在である
とすれば、現在でも通用すると見てよい。もとより、官人は統治のために存在し、その統治は、律令制国家においては国家機構なしにはありえないから、現象的には、官人が国家機構から離れて存在しうるわけではない。しかし、これらの研究によって、官人の官人たる本質的特徴が(β)官職体系と官僚制の秩序によって規定されるとされたわけではないのであって、実際、官人の大多数が編成される有位者集団の、(β)官職体系と官僚制の秩序からの自立性は、むしろ積極的に承認されているといってよい。したがって、かかる意味での自立性は、認められていると見るべきであろう。
そして、(α)官人が、(β)官職体系と官僚制の秩序から自立しているとすれば、国家機構の歴史的特質を規定するのは、(α)官人の具体的形態と見るべきであろう。(α)官人は、国家機構を運転する存在であり、それ故、かかる自立性を有するとすれば、あくまで機構の専有主体とみるべきである。とすれば、前記のように、(α)の本質的特徴が、(β)官職体系と官僚制の秩序によって損なわれれば、(α)官人が国家機構を専有する意義はなくなるはずであるから、(α)が(β)の特質を基本的に規定すると見なければならない。
すなわち、支配階級の「具体的・歴史的形態」が、律令制国家において存在しなかったとしても、国家機構の歴史的特質の把握という観点からすれば、官人の「具体的・歴史的形態」の析出が問題となる*13)。
そして、官人の「具体的・歴史的形態」を析出しようとすれば、官人の「国家機構との結合の仕方」が課題となることは認めてよいであろう。前記のように官人の存在意義は統治にかかっており、それはーその本質的目的が、被支配階級の抑圧であれ、村落首長の私富追求の抑止であれー国家機構と結合することによって、初めて、可能となる。(β)官職体系と官僚制の秩序から自立しているとはいえ、官人はあくまで国家機構と結合すべき存在なのであり、その「具体的・歴史的形態」の析出が、かかる「結合の仕方」の追究によってなされるのは、むしろ当然であろう。以上は、いうまでもなく、かかる仕方を追究するという「第一義的目的」が、現段階においても、基本的に意義を有することを示すものといえる。
すなわち、問題(1)については、
(1)’支配階級の「具体的・歴史的形態」が存在しないとしても、官人の「具体的・歴史的形態」が国家機構の特質を規定すると見られる以上、「第一義的目的」は、十分に意義を持つ
といえる。
次に、問題(2)について。これも、官人の「具体的・歴史的形態」が、国家機構の歴史的特質を規定するとすれば、ほとんど問題にならないであろう。村落首長が含まれなくても、官人の「具体的・歴史的形態」が析出されれば、ここでの問題は解決されるわけであるから、「第一義的目的」の意義に、関わるとはいえない。
最後に問題(3)について。これも、「第一義的目的」の意義が認められるとすれば、ほぼ問題にならないといえよう。官人の全てではないにせよ、有位者集団は、官人の大多数の「国家機構との結合の仕方」を示すのであって、それは無位の官人の「国家機構との結合の仕方」の追究にも知見を提示しよう。
以上のように、「第一義的目的」は、今なお、意義を持ち、それは石母田説が、現段階においても、基本的に通用することを示している。ただし、大町・吉村説によって、一定の修正は必要である。以下、かかる修正を検討して、「機構論における人格的身分的結合関係とは何か?」を把握することにしよう。
3.石母田説の修正ー機構論における人格的身分的結合関係とは何か?−
前記のように、大町説によって、官人を、直ちに支配階級と見なすことはできなくなった。それ故、前記の三つの条件の内、
(a)「支配階級が、どのような仕方において国家機構と結合されるかという問題」への対応を「第一義的目的」とすること
は、修正の必要がある。前記の様に、「第一義的目的」の意義が、官人の「具体的・歴史的形態」の析出にあることを考慮すれば、
(A)「官人が、どのような仕方において国家機構と結合されるかという問題」への対応を「第一義的目的」とすること
とすれば、通用すると考えられる。
(b)支配階級全体を編成する関係であること
も、同様の理由で、「支配階級」の語を修正する必要がある。(A)に従えば、「官人全体を編成する関係であること」となるが、前記のように、有位者と無位者を編成する独自の紐帯が確認されないことを考慮すれば、「官人全体を編成する関係」が独自に存在するかどうかも、疑問がある。しかし、国家機構の歴史的特質を把握する上で、官人の「国家機構との結合の仕方」が問題になることは前記の通りであり、有位者集団の分析が無位者のかかる結合に一定の知見を提示する可能性があることからすれば、
(B)少なくとも、官人全体の編成を展望できる関係であること
とすれば、通用可能なのではないだろうか。
最後に、官人の(β)官職体系と官僚制の秩序からの自立性が認められているとすれば、
(c)かかる関係によって編成された集団が、官職体系と官僚制の秩序から自立した存在であること
は、そのまま認めてよい。
すなわち、機構論における人格的身分的結合関係とは、
(A)「官人が、どのような仕方において国家機構と結合されるかという問題」への対応を「第一義的目的」とすること
(B)少なくとも、官人全体の編成を展望できる関係であること
(C)かかる関係によって編成された集団が、官職体系と官僚制の秩序から自立した存在であること
の三点を、最低限の成立条件とするといえる。
〔V 他説の検証〕
ここでは、石母田説以外の諸説を検討し、古代史学界の現状と前章で把握した機構論における人格的身分的結合関係の意義を確認することにする。
1.坂本・井上説
まず、学界の現状を確認するための前提条件として、石母田説発表以前の(1)坂本太郎の「非律令的性質」*14)、ほぼ同時期の(2)井上光貞の「氏族制」*15)、の概念を検討することにしよう。
まず、(1)・(2)の概要を整理しておこう。
(1)坂本の「非律令的性質」は、郡司制の特異性(坂本によれば「守旧的性質」)を捉えた概念である。かかる性質は、(@)官位非相当、(A)任用基準における氏姓の制約、(B)国司に対する路上敬礼規定、(C)考限、(D)終身官、(E)職分田の独自規定と規模、の六点にわたって表れる。これは、「清新な形式と整然とした秩序」を特徴とする「律令制」に対応できない、「社会の実質と、国民生活の動き」を体現するものとみなされ、「非律令的性質」とされる(引用は、二八四頁から)。
(2)井上光貞の「氏族制」は、「氏姓制度にもとづく国制」をさし、「より原初的な形態においては、血縁的集団にもとづく政治制度としての氏(うじ)、それと密着した氏(うじ)による部民の支配、官職と不可離な姓(かばね)の世襲的秩序などを基礎とするもの」(一三七頁)である。したがって、「大化前代」の基本的国制をさすことになるが、律令制国家においても、否定されることなく止揚され、(@)氏姓制、(A)品部・雑戸制、(B)食封制、(C)郡司制に表れる。「氏族制」を「大化前代」と連続的に捉える以上、この概念は、律令制国家段階においては、いわゆる「固有法」的部分を指すことになる*16)。そして、井上はこの「氏族制」を、「律令制」とならぶ、律令制国家の特質をなす独自の要素と捉え、律令制国家の支配を、両者の二元的支配とした。
(1)は、「律令制」(いわば「律令的性質」)に対して、「非律令的性質」を対置したものであるが、(2)井上説のような二元論の先駆形態ともされ*17)、次項で検討する異説の淵源ともなっている。また、(2)「氏族制」に基づく二元支配論は、石母田の、在地首長制の支配を本源的生産関係とし、律令制国家を、そこから派生する二次的生産関係とする二重支配論と類似する学説ともされてきた*18)。ここでは、機構論における人格的身分的結合関係という概念の意義を把握することが、最終的な目的であるから、かかる概念の意義・有効性を検討することにしよう*19)。
かかる検討に当たって、まず注意するべきは、人格的身分的結合関係と坂本・井上説は、分析対象が異なることである。前者は、官人全体を対象とし、また、基本的にそれに限定されるが、後者はそうではない。(1)「非律令的性質」は、官人の中でも特異な性格を有する郡司に限定される。(2)は、(@)氏姓制は、官人に限定されるものではなく、(A)品部・雑戸制、(C)郡司制は、官人の中でも特異な性格を持つ。(B)食封制は、そもそも、給付制度であって官人ではないし、給付される官人も限定されている。それ故、これらの説を直ちに比較しても、生産性は期待できない。そこで、ここでは、まず概念の意義・有効性を、設定手続きから検討し、かかる比較はその後に行うこととしよう。なお、この比較の際には、前項の条件(A)〜(C)を媒介とする。
まず、これらの説によって指摘された現象と、石母田の在地首長制論や人格的身分的結合関係との間に、何らかの関連性を見出すことは不可能ではない。例えば、(1)「非律令的性質」で指摘される(@)〜(E)の諸現象が、在地首長を任用するという郡司制の特異性によることは、十分想定されるのであり、したがって、かかる諸現象が在地首長制の特質に規定されることも、また、予想されるところである。また、(2)「氏族制」の(@)〜(C)の諸現象が、人格的身分的結合関係を含む、律令制国家の人格的編成によることも想定されるといえる。
しかしながら、これらの現象を捉える概念の設定手続きは、人格的身分的結合関係とはまったく異なっており、具体的にいえば、(1)「非律令的性質」、(2)「氏族制」は、国家の一般理論との緊張関係の中で生み出された概念ではない。それ故、意義・有効性に即して考えれば、両説(人格的身分的結合関係と坂本・井上説。以下、同じ)は、まったく異なる概念と考える。
第一に、律令制国家、あるいは国家一般の基本的特質を捉える上での、概念の意義が明確ではない。換言すれば、かかる意味での、概念の「設定目的」が明らかではない。
(1)「非律令的性質」は、そもそも律令制国家の基本的特質を明らかにするための概念ではない。坂本論文においては、「律令制」の特徴を「清新な形式と整然とした秩序」に求めているように、律令制国家を、近代国家の表象としての「中央集権国家」として捉える伝統的認識*20)が継承されている。したがって、律令制国家の基本的特質も、かかる「中央集権」に見出されていると考えるべきであろう。そして、「非律令的性質」とはー「非律令的」という名辞が端的に示しているようにー、このような「中央集権国家」における例外的要素を指摘したものに過ぎないのであって、かかる律令制国家に対する認識に変更・再検討を迫る概念ではない。実際、坂本の律令制国家に対する認識が、晩年にいたるまで不変であったことは、その諸論考を一読すれば明らかであり、律令制国家の基本的特質を捉える上での、独自の意義を与えられた概念ではないのである*21)。
(2)「氏族制」は、井上自身により、律令制国家の基本的特質をなす独自の要素と見るべき旨が明記されており、律令制国家論における位置づけは、(1)「非律令的性質」とは異なっている。しかしながら、なぜそれを独自の要素と見なければならないのか、そうすることによって、律令制国家・国家一般のいかなる特質が明らかになるのかが、明確にされているわけではない。石母田が、人格的身分的結合関係という概念によって、律令制国家における支配階級の「具体的・歴史的形態」を明らかにし、かつ「レーニンの見解」を深化させる知見を提示したような、明確な方向性がここにはないのである。
第二に、概念を構成する諸要素ー「非律令的性質」・「氏族制」的特質を示す諸現象ーの、相互の位置づけと連関が明確でないことである。
すなわち、(1)「非律令的性質」を構成する(@)〜(E)の要素のうち、郡司制の特異性を生み出すもっとも基本となる要素はどれであり、派生的要素はどれか、さらに両者がどのような連関にあるか、といった点は、明らかにされているわけではない。この点は、(2)「氏族制」も同様である。したがって、(1)「非律令的性質」は、一般官人と異なる郡司制の特異な要素を、(2)「氏族制」は、律令制国家における「固有法」的要素を、それぞれ網羅的に一括した概念というべきである。しかしながら、これは、第一に指摘した点を考慮すれば、ある意味で、当然の事態ともいえる。概念によって、何を明らかにするかが明確ではない以上、現象それ自体を指摘できれば、用は足りるのであって、それらの位置づけや連関を整理する必要は必ずしもないといえる。支配階級・官人の「具体的・歴史的形態」の析出は、人格的身分的結合関係の一つの「設定目的」といえるが、とすれば、「国家機構との結合の仕方」が問題とならざるを得ず、したがって、人格的身分的結合関係とは、基本的に位階を媒介とした関係になる。そのため、位階制が、かかる関係を示す諸現象の中の基本的要素となるが、概念の「設定目的」が明確でなければ、ここまで構成要素を絞り込む必要はないのである。
第三にー第一・二の諸点から必然化されるがー、これらの概念・研究の検討によっては、律令制国家、あるいは律令制国家を特徴付ける諸要素(本稿でいえば、国家機構)の歴史的特質に迫るための、具体的な課題を把握することは不可能であるということである。支配階級・官人の「具体的・歴史的形態」を明らかにする以上は、「国家機構との結合の仕方」が問題とならざるを得ず、「具体的課題」に迫るための手がかりを得ることができるが、「設定目的」も、構成要素相互の位置づけ・連関も明らかではない以上、これらの概念によって明らかにされた諸現象の、何をどのように分析すれば具体的な課題に迫れるのかを把握することは不可能である。
以上から、坂本・井上説は、国家の一般論との緊張関係が設定されておらず、概念の「設定目的」が不明確であること、そのため、概念を構成する諸要素の位置づけ・連関が不明確であり、具体的な課題が把握できないことが分かった。概念の意義・有効性の点で、人格的身分的結合関係と同一視できないのは明らかといえよう。
以上、両説の相違を明らかにしたが、なお、前項で整理した条件(A)〜(C)ー就中、(C)ーに即して、検討してみよう。後述のように、条件(C)は、人格的身分的結合関係と一見、類似しており、両説の相違がふまえられなかったり、次項で検討する「異説」が乱立する、一つの原因ともなったと見られるからである。
まず、坂本・井上説においては、条件(A)「『官人が、どのような仕方において国家機構と結合されるかという問題』への対応を『第一義的目的』とすること」、条件(B)「少なくとも、官人全体の編成を展望できる関係であること」は、備えていない。(1)坂本説は、官人の中でも特異な性格を有する郡司制のみを対象としているし、(2)井上説は、必ずしも官人に対象を限定したものではないから、(A)のように官人の「国家機構との結合の仕方」を問題にする必要はないし、(B)のように「官人全体の編成を展望」する必要もない。この内、国家機構の歴史的特質に迫る上では必須である条件(A)を備えていないことは、これらの学説によって具体的な課題を把握することが不可能という先の指摘と対応するものといえる。また、条件(B)の欠如は、(A)の欠如に付随するものといえよう。
さて、問題の条件(C)を検討しよう。条件(C)は、前記のように「かかる関係によって編成された集団が、官職体系と官僚制の秩序から自立した存在であること」であるが、この条件からは、必然的に(α)人格的身分的結合関係(に基づく秩序)と、(β)官職体系と官僚制の秩序は対比されざるを得ない。この点、坂本・井上説は、一見、類似する特徴を持っている。すなわち、(1)坂本説においても(α)’「非律令的性質」は(β)’「律令的性質」(「律令制」)と対比され、(2)井上説でも(α)”「氏族制」と(β)”「律令制」が対比されるのである。対比される二つの区分に、機構とも関わる諸現象を弁別するという点においては、両説とも同様なのである。
しかしながら、前記した三点の差異を考えれば、両説は、機構に関わる現象の特質の把握の仕方がまったく異なっていると考えるべきであり、条件(C)についても、同一視することはできない。
そもそも、概念の構成要素について齟齬がある。例えば、(1)「非律令的性質」の(B)国司に対する路上敬礼規定は、国司ー郡司の統属関係に基づく以上、(β)官僚制と官職体系の秩序を示すものとすべきであり、(α)人格的身分的結合関係の秩序の具体的内容にはならない。もとより、路上敬礼規定において郡司にのみ、かかる統属関係による敬礼が規定されることは、在地首長制の特質によると見られることは前記の通りだが、(B)国司に対する路上敬礼規定という現象自体は、(β)官職体系と官僚制の秩序を示すものとしなければならない*22)。また、(1)「非律令的性質」の(@)に官位非相当が挙げられ、(2)「氏族制」にも官位相当制・位階制が挙げられていないことからすれば、官位相当制・位階制は(β)’「律令的性質」、(β)”「律令制」に含まれるとしなければならない。しかし、これらは(α)人格的身分的結合関係の基本的媒介であるから、石母田説・機構論においては、(β)官職体系と官僚制の秩序には含まれない。
これは、(α)人格的身分的結合関係と(β)官職体系と官僚制の秩序とは、それぞれ官人(官司)が取り結ぶ二つの関係の特質を示す概念であるのに対し、坂本・井上説はそうではないことに由来する。(α)は、その名の通り、官人が天皇と取り結ぶ関係を示す。(β)も、官司・官人間の統属関係である以上、直ちに、官人・官司が取り結ぶ関係を示す。この場合、(1)−(B)国司に対する路上敬礼規定に見える国司ー郡司の統属関係は、−如何に官人秩序の中で特異であったとしてもー、位階を媒介とする天皇と官人との関係と一括することは許されない。また、かかる位階を媒介とする関係の独自性をふまえなければならないから、それを四等官制や官司間の統属関係と一括することもできない。しかし、坂本・井上説は、その概念の構成要素を見れば明らかなように、かかる関係の特質を示す概念ではない。したがって、(1)−(B)国司に対する路上敬礼規定を、その特異性をもって「非律令的性質」とすることは可能だし、位階制・官位相当制を、「中央集権的」「継受法」であることをもって、(β)’「律令的性質」、(β)”「律令制」と、他の要素と一括しても差し支えない。 しかしながら、官人の「具体的・歴史的形態」が、それを取り巻く諸関係に規定されることはいうまでもなく、かかる関係を捉える概念であることと、それに応じて必然化される構成要素は、人格的身分的結合関係が、官人の「具体的・歴史的形態」・国家機構の歴史的特質を把握する概念であるために、不可欠である。とすれば、これらを欠く坂本・井上説によっては、かかる特質を把握できないということになる。この点を無視して、機構とも関わる現象を二つの区分に弁別したというだけで、両説を一括すれば、概念の意義・有効性を見失うことは明らかといえる。したがって、(1)「非律令的性質」、(2)「氏族制」とも、条件(C)を備えていないと見るべきであろう。
なお、坂本・井上説が関係を捉える概念ではないことが、設定手続きの検討の際指摘した、概念の「設定目的」の曖昧さと対応することは明らかである。官人の「具体的・歴史的形態」を捉える概念であるから、人格的身分的結合関係は関係の特質を捉えなければならないのであって、かかる目的がなければ、そうである必要性はない。「設定目的」は国家の一般論との緊張関係に対応するから、条件(C)の欠如も、かかる緊張関係の欠如によるものとすることができる。
以上、概念の意義・有効性における両説の相違を検討し、それが国家の一般論との緊張関係の有無によることを明らかにした。石母田は、一九六七年の段階で、古代・中世国家を問題にする際、「国家理論と歴史的事実との緊張関係が足りない」*23)ことを指摘しているが、一九二九年に発表された坂本説は勿論のこと、一九七一年発表の井上説においても、問題は基本的に克服されていないと見るべきであろう。
筆者は、坂本・井上説の背景に、長年の研鑽による史料の博捜・律令制国家に対する知見が存在することを否定するつもりはない。とりわけ、(1)坂本説が、律令制国家を、近代国家の表象としての「中央集権国家」と捉えることが一般的であった時代に、それとは異なる現象に注目し、さらに、それらを孤立した現象ではなく一つの「性質」と捉えたことはー例外的要素とされたはいえー、画期的意義があったと考えるべきであろう。しかしながら、以上の検討を踏まえれば−国家機構の歴史的特質を把握しようと思えばー、まず押さえるべきは、人格的身分的結合関係との差異性である。しかし、現状ではこのような差異性が必ずしも踏まえられているわけではなく、それはかかる歴史的特質に迫るための道筋が把握されないまま、国家機構に関わる研究が進展していることを示している。次項で検討してみよう。
2.今日における「上部構造」に関する代表的諸説の検討
前項の検討をふまえて、今日の段階における、律令制国家における「上部構造」を扱う諸説を検討しよう。以下、検討する学説は、必ずしも石母田説を継承したものとはいえない*24)。しかし、石母田説発表後、一五年以上を経て、公表されたものであり、その影響の大きさを考えれば、まったく無関係とすることはできない。実際、名称や、いずれも天皇(大王・太上天皇)と官人との関係を捉えたものであることなどから、人格的身分的結合関係との類似性がうかがえる。これらを検討することで、今日における、機構論における人格的身分的結合関係の概念の意義を、確認することにしよう。
(1)検討する諸概念
まず、代表的といえる概念を挙げておこう。
(1)吉川真司「律令官人制」*25)
これは提起者によって、石母田説の修正型とされる概念である。「律令官人制」に基づく関係の媒介には、位階のみならず禄も含まれる。平安期に入ると位階と禄による「君恩」が収縮し、特定の官職と「恩寵」に預かる人のみが優遇を受ける体制が成立するとする。
(2)古瀬奈津子「人格的支配」*26)
この概念は天皇の政務への出御を重視する。すなわち、八世紀の天皇が毎日大極殿に出御して政務を視、官人たちは天皇御前の朝堂で執務するという政務形態を以て、律令制国家における「人格的支配」の表出とする。これは、佐藤進一の「主従制的支配」を、一般化し、古代に適用したものとされる。律令制国家におけるかかる支配は、七世紀以前の支配の継承であり、八世紀においては官僚機構の未熟な面を補完する役割を有していたとする。平安期に入ると、官僚機構の確立によって、その補完の役割が減少し、内容を変えていくとする。
(3)大平聡「人格的結合関係」*27)
これは、主に「大化前代」の大王と群臣との間で結ばれる関係をさす概念である。時期の関係から、基本的に軍事・外交の主導や生産・再生産の管理などの人格・資質に基づいて支配を行う大王と、群臣の間に結ばれることになる。ただし、大平論文は、八世紀を主たる検討時期としているので、分析の基礎概念としては使われていない。一方、律令制下の天皇と官人との関係を捉える独自の概念を提示しているわけではないので、結局、大平は、石母田説に類する概念をまったく用いないまま、律令制国家の「上部構造」ー具体的な検討素材は、皇太子制と「仏教イデオロギー」であるがーを分析していることになる。
(4)仁藤敦史「人格的関係」*28)
これは、太上天皇と、それと私的な関係を有する臣下との間に結ばれる関係を捉えた概念であり、「主人と従者の関係」ともされる(四〇頁)。「大化前代」の大王と群臣との関係を継承したものとされ、その意味では(3)「人格的結合関係」と共通性がある*29)。
(2)国家の一般論との緊張関係
まず、前項で坂本・井上説の問題として指摘した、国家の一般論との緊張関係について検討しよう。結論から先にいえば、問題はまったく改善されていない。石母田が、「レーニンの見解」に見出したような問題提起の方向性が示されていないからである。
(1)の吉川は、「政治の形式」*30)研究を主題とし、(1)の論文もその一環とする。また、(2)古瀬論文は「政治の場」・日唐比較を「研究視角」とし*31)、(4)仁藤論文は、天皇・太上天皇を、それぞれ「国家内権力」「国家外権威」と把握する*32)。しかし、それぞれの主題・「視角」・把握の仕方が国家の特質の把握とどのように関わるのかは明らかではない*33)。以上は、問題提起の基本的方向性がつかめておらず、「国家のどの側面をどのような方法で分析するか」も不明であることを示している。
問題提起の方向性が、曲がりなりにも示されていると見られるのは、(3)大平論文である。例えば、大平論文巻頭には次のようにある。
(A−1)天皇制を原理的基盤とし、(A-2)自らの階級結集をまがりなりにも官僚制によって構造化した支配層が、彼らの支配権力を永続的に、円滑・不断に機能させ続けていくために与えられた不可避の課題、それは(B)天皇そのものの再生産システムの完成であった。
ここでは、先に示した二つの素材のうち、皇太子制分析の意義が述べられていると見られるが、
天皇を頂点とする(A−1)、官僚制(A−2)が成立した以上、「天皇そのものの再生産システム」(B)−すなわち、皇太子制ーが必然化する
という理解が示されているといえる。この理解をそのまま敷衍すれば、
皇太子制の分析を通じて、天皇を頂点とする官僚制の特質を分析することが可能である
ということにもなる。基本的な研究の方向性を示すのは、通常、冒頭であるから、(A-1・2)部に問題提起の方向性を見出しているといえなくはない*34)。
しかし、仮に大平の問題提起の方向性がこのようなものであるとしても、ここでの「天皇を頂点とする官僚制」とは、、律令制国家という個別具体的な国家の特徴であって、国家の一般論ではない。したがって、皇太子制研究の国家論的意義は、極めて曖昧になっている。
官僚制(A−2)は、国家が「組織された強力」であることの端的な表明であるが、ここからは、直ちに皇太子制研究の意義を必然化することはできない。いうまでもなく、国家のかかる特性は、君主制でない国家にも当てはまるからで、官僚制の独自の特質が皇太子制によって明らかにされるとはいえない。実際、石母田が「古代官僚制」において、「単一的支配」を貫徹する手段とした俸禄制・規律と分業、官人を自発的に労働し規律に服従させる「意識の内部の支配」の手段とした昇進、「公」「私」の分離の媒介とした法・文書主義に比べれば、かかる特質に迫る上での皇太子制の意義は不明確といわざるを得ない*35)。
以上から明らかなように、律令制国家論において、皇太子制研究を必然化するのは、官僚制(A−2)というよりも、それが天皇制を頂点とすること(A−1)である。かかる必然化の根拠としては位置づけを異にする、(A−1・2)が並列されている状況ーすなわち、それぞれの意義の相違が踏まえられていない状況ーは、皇太子制研究の国家論的意義が未整理であることを示している。簡単にいえば、「皇太子制を通して、律令制国家の何を明らかにしようとしているのか」が曖昧となっており、必然的に、皇太子制を「どのような方法で」分析するかも曖昧になっている。実際、皇太子制分析の素材となった、『書紀』によるイデオロギー操作や「皇太子制に対する観念」(三五頁)がいかなる意義を持つかは明らかにされていない。
「組織された強力」としての国家の特性を明らかにするという問題提起の方向性は、律令制国家論における皇太子制の位置づけ・意義を把握する出発点ともなるが*36)、(3)大平論文では、かかる方向性として設定されているわけではなく、かといって替わるべき国家の一般論が示されているわけでもない。したがって、国家論・律令制国家論における皇太子制の位置づけと分析方法が把握されていないといえる。すなわち、基本的な問題は、(1)・(2)・(4)と変わらないというべきである。
(3)吉川の石母田「批判」
また、(1)吉川論文には、石母田「批判」が見え、石母田が「レーニンの見解」に問題提起の方向性を見出したことも「批判」の対象となっている*37)。吉川の石母田「批判」の最大の問題は、石母田が提起した論点の基本的意義を十分にふまえないままに展開されていることである。そのため、「批判」をどのように律令制国家機構論につなげればよいのかが、不明にならざるを得ないし、そもそも「批判」のほとんどが誤読に基づくものになっている。以下、「レーニンの見解」に問題提起の方向性を見出したことに即して、具体的に検討してみよう。
吉川が「批判」の対象とした石母田の論点は二点である。一つは、「支配階級の結集の二重の形態」という理解であり、もう一つは人格的身分的結合関係の秩序が官僚制の秩序を規定するという理解である。前者は、周知のように、前近代の支配階級の結集が、「@機構や制度を媒介とする結合、A人格的・身分的従属関係を媒介とする結合」(本稿の用語でいえば、(β)機構や制度を媒介とする結合、(α)人格的身分的結合関係を媒介とする結合)との二重の形態で行なわれるとすることを指す。ここで問題とする、「レーニンの見解」に問題提起の方向性を見出したことへの「批判」は、前者の論点に関わって提示される(後者の論点との関わりがないわけではないが、基本的に後者の論点の検討で提示された見解に依拠する形になっている)*38)。
前者の論点に対する「批判」を行った上で、吉川は、以下のような石母田の見解(三六頁)を問題にする。
(A)支配階級の結集の仕方、その権力の集中には、大づかみにいって、二つの段階がある。(B)発達した段階では、天平期に典型的にみられるように、支配階級は個々の人格または氏族から相対的に独立した「国家」という体系的な機構を媒介して結集する…。(C)それ以前の段階においては、支配階級内部の、あるいは対外的諸矛盾を解決する一形態としての権力集中は、特定の人格…を媒介としておこなわれる(以下、「見解」)。
この「見解」は、「支配階級の結集」(A)が、特定の人格を媒介としておこなわれる段階(C)から、「国家」という体系的な機構(国家を「組織された強力」とする見解と対応すると見られる)を媒介とする段階(B)へ、移行することを述べたものである。吉川は、この「見解」について、まず
石母田が@・Aを「二重の形態」「相対的に独立した体制(秩序)」と述べながら、驚いたことに別文ではAから@への発達を想定し、これを「二つの段階」と位置づけている(「批判」−1)
とする。さらに、
システム=「機構や制度」が未開社会においても存在した(人格的関係のみではなかった)という当たり前の事実が看過されている(「批判」−2)
として「批判」を加える。
そして、「レーニンの見解」に問題提起の方向性を見出したことは、ここで問題とされる「Aから@への発達」を想定せしめた原因とされ、次のように述べる(「批判」−3)。
(A)そもそも石母田の国家論は、レーニン流の「国家=階級抑圧機構」論である。(B)それゆえ支配階級の「共同利害」を実現する官僚機構が、そのまま「階級結集の仕方」と理解されることになるらしい。また、(C-1)国家の公共機能という論点が欠落しているので、(c-2)国家が「公的」たりうる根拠は「私的」ではないという理解に求めるほかなく、(D-1)しかも石母田にとっては「私的」と「人格的」はほぼ同義であるから、(D-2)「人格的ならざるがゆえに公的」という珍妙な理解に落ち着くことになる。かくして(E)〈官僚機構ー機構的ー公的〉〈有位者集団ー人格的ー私的〉という単純な図式化がなされ、そこから(F)〈人格から機構へ〉という〈二つの段階〉論も導かれるのである(五一頁。注(63))。
以上の、「批判ー1〜3」は、明らかに誤読に基づく。
まず、「レーニンの見解」と関わる「批判ー3」を検討しよう(ただし、(B)はこの「批判」以前の、「階級結集の二重の形態」に対する「批判」を受けた指摘である。この「批判」については、後論で検討するので、ここでは検討対象から除外する)。
さて、ここでは、「レーニンの見解」は「Aから@への発達」を想定せしめた原因とされるが、(C-1・2)(D-1・2)から、その論証過程においては、石母田の律令制国家における「公」「私」の弁別が問題となることが分かる。吉川は、石母田が国家を「公的」としたのは、「私的」ではなく(C-2)、また人格的ならざるがゆえ(D-2)とするが、これは明らかな誤読である。石母田機構論において、「公」「私」の弁別が問題となるのは、国家が「組織された強力」だからであり、「古代官僚制」において「官僚という、社会の上に立つ独自の特権的集団」が「根本の視点」の一つになるのもそのためである(前記)。それ故、国家や国家機構・官僚が「公」であるのはー例えば、俸禄制による官僚の直接生産過程からの分離などのようにー、社会から分離しているからであって、「『私的』ではない」(C-2)からでも、「人格的ならざるがゆえ」(D-2)でもない。
(C−2)(D-2)が、そもそも誤読であるとすれば、その根拠とされた(Cー1)(D−1)も、根拠としては機能していないことになる。というより、これらの指摘自体も、誤読であるか、少なくともその可能性が高い。
まず、(C-1)の、石母田には「国家の公共機能という論点が欠落している」という指摘について。この指摘の評価は、「論点が欠落している。」という意味によるが、仮に、石母田が「公」という問題を論じなかったという意味であれば、これは誤りである。石母田が、「レーニンの見解」に問題提起の方向性を見出していることは明らかなので、一見、「公共的」にみえる国家の機能も、本質は階級抑圧のためと見ていることは確かであろう。したがって、「国家の公共機能」が、本質的な意味では存在しないことになるから、論点にならないことは確かである。しかし、だからといって「公」という問題を度外視していたかといえば、これは別である。実際、「レーニンの見解」によっても、国家が「組織された強力」である以上、国家・国家機構及びそれを運転する支配階級は、社会の上に立つ「公」的存在にならざるを得ないのであって、国家機構論自体がすでに「公」論であるといっても過言ではないほどである。実際、既述のように「古代官僚制」においては、「公」「私」の分離が再三、問題になっている。なお、仮に「論点が欠落している」という意味がこうではなかったとしても、かかる石母田の「公」論に触れないで、(C-1)のように断ずるのはやはり無理であろうし、この指摘を根拠として(C-2)の結論を導き出すことができないことは、前記の通りである。
次に、(D−1)の、石母田においては、「『私的』と『人格的』はほぼ同義である」という指摘について。これは明白な誤読である。まず、吉川自身が根拠をまったく示していない。また、「A人格的・身分的従属関係」によって編成される有位者集団は、「社会の上に立つ」官僚・支配階級の「具体的歴史的形態」である以上、まさに「公」的存在であって「私」的存在ではありえないし、機構が成立する以前の、人格を媒介とした結集がなされる段階は、「公」「私」が未分離な状態とされているのであって、「私」的な状態とされているわけではない*39)。
以上から、まず「レーニンの見解」が、〈二つの段階〉論の原因となるという理解は成り立たないことが分かる。そもそも、「支配階級の結集」(A)が、特定の人格を媒介としておこなわれる段階(C)から、国家を媒介とする段階(B)へ、移行するというのは、ごく一般的な見解で、「レーニンの見解」とは直接の関係はないというべきである。
次に、「批判ー1・2」について述べよう。まず、「批判ー1」について。これは、「見解」は「二重の形態」論と矛盾するというものであるが、「見解」をA→@の発達を想定するものとする以上、(C)国家段階における「A人格的・身分的従属関係を媒介とする結合」が無視されていると考えるものであろう。しかし、これも明らかに誤りである。石母田は、「見解」において、支配階級の結集の媒介が、(C)人格→(B)国家へ移行すると述べているが、「二重の形態」論で述べているのは、(B)国家の段階において、@・Aの「二重の形態」によって結集が行なわれるということである。図示すれば「(C)人格→(B)国家(=@+A)」なのであって、決して、「A→@」への発達ではない。したがって、吉川の「批判」は成立しない。
次に、「批判ー2」について。吉川が「システム=『機構や制度』が未開社会においても存在した」という意味は、次の指摘によって明らかとなる。
…例えば、倭国の大王は一個の人格であるとともに、列島社会で一定の機能を果すシステム=「機構や制度」でもあった。新大王は特定人格として即位を確認されるが、彼の即位を確認するシステムや、彼が依拠する支配システム(例えば部民制)は確固として存在し、彼の「人格」のみによって政治が行なわれたわけではないのである(五一頁。注(63))。
以下、「システム」の偏在が強調されて、「〈人格〉から〈機構へ〉と見える現象は、システムの発達・整備の問題として捉え直すべきである。」と提起される。
これも、必ずしも批判として正鵠を射ているとはいいがたい。「システム」を「列島社会で一定の機能を果す」(太字部)という意味に捉えるのであれば、石母田とさして変わりはない。機構の成立以前の組織を、「公」「私」が未分離な状態としていることは、一定の「公」的機能を有するという意味でもあるからである。したがって、かかる意味での「システム」の存在を、石母田が看過したという「批判ー2」は当たらない。というより、(C)人格→(B)国家への移行は、まさにかかる意味での「システム」の発達・整備として論じられていると見るべきである。両者の相違は、「大化前代」の大王段階のような組織を「機構や制度」とみるか否かであるが、吉川のように、これも「機構や制度」に含むのであれば、石母田がそのメルクマールと見ていたと考えられる「権限配分に関する意識的・計画的原則」の問題*40)に触れなければ、何を以て「機構や制度」とみるかが曖昧にならざるを得ない。これは、議論を単に言葉のすれ違いで終わらせる危険があるのみならず、組織・権力体一般と異なる「機構や制度」・国家の特質を見失うことにつながろう。ということは、「システム」の発達も把握できないということである。
以上から、吉川の石母田「批判」は、吉川が問題とした論点もその論証となる論点も、ほとんどが誤読に基づくことが分かる。そして、その原因が石母田の論点の意義が把握されていないことにあることも明らかである。例えば、石母田機構論における「公」「私」の分離(あるいは未分離)という問題の意義がふまえられていれば、「批判ー2・3」のような誤読はありえない。「見解」において、有位者集団の存在が無視されているという「批判ー1」も、「二重の形態」論が、本来、国家機構を専有する支配階級の、「具体的・歴史的形態」の析出の中で提示されており、国家段階に限定されることがふまえられれていれば、生じないはずである。
また、「批判」をどのように律令制国家論につなげるかが不明なことも明白であって、「批判ー1」を以てどのように「システム」の問題を論ずるのか、「批判ー2・3」を以てどのように、律令制国家の「公」「私」の問題を論ずるのかといった点は、不明になっている。これは、前記の論点の意義の未掌握によるとともに−「政治の形式」論の、国家論的意義の不明確さに端的に表れているようにー吉川が「レーニンの見解」に替わるべき問題提起の方向性を提示したわけではないこととも対応している。
なお、念のために付言しておけば、冷戦が終結して二〇年近くが経過した今日においても、石母田が「レーニンの見解」に問題提起の方向性を見出したこと自体は、問題にならない。石母田は、「レーニンの見解」を「適用」するのではなく、事実を以て検証しているからであり、その古代国家論は石母田が「新しく生み出した」ものだからである。それ故、レーニンが造り上げたソビエト連邦が崩壊しても、石母田の古代国家論は生き続けるのであって、石母田を批判するのであれば、かかる実証過程を事実を以て批判しなければならない。しかし、この際、重要なことは論点の基本的意義がふまえられなければ、本来の批判は成立せず、かかる意義をふまえようとすれば、問題提起の基本的方向性がふまえられなければならないということであろう。すなわち、「拙稿」で使用した用語を使えば、石母田説の「意図」と「方法」がふまえらなければならないといえる。
以上は、石母田が「レーニンの見解」に問題提起の方向性を見出したことを「批判」する以前に、その意義を把握しなければならないことを示す*41)。かかる把握を行なわないまま、展開されてきた(1)〜(4)の諸研究が、国家一般論との緊張関係を欠いていることは当然というべきである。この点は、(1)〜(4)の諸概念の意義・有効性と連動すると思われるが、次項で具体的に検証してみよう*42)。
(4)諸概念の検討
(1)〜(4)の諸概念の検討に入るが、(3)は基本的には「大化前代」を問題とする概念なので、検討から除外することにする(適宜、言及することはある)。(1)・(2)・(4)は「上部構造」の枠において、基本的に、天皇(太上天皇)と官人との関係を捉えた概念であるから、人格的身分的結合関係と一定の共通性がある。それ故、前章で把握した条件(A)〜(C)を媒介にした比較・検討が可能である。本稿では、かかる手法を持って、諸概念の意義・有効性を検討したい。
・条件(A):「官人が、どのような仕方において国家機構と結合されるかという問題」への対応を「第一義的目的」とすること
これは、いずれの概念も備えていない。(1)「律令官人制」では、前記のように位階と禄が媒介とされるが、位階はともかく、禄*43)は「機構との結合」の媒介ではない。(2)「人格的支配」の出御も同様である。(4)「人格的関係」も、太上天皇との関係を、律令制下における「機構との結合」における基本的媒介と見るのが無理なのは当然であろう*44)。すなわち、いずれの概念によっても、官人の「国家機構との結合の仕方」という問題に対応することはできない。
・条件(B):少なくとも、官人全体の編成を展望できる関係であること
これも、いずれの概念も備えていない。(1)「律令官人制」は、平安期において、六位以下の下級官人が「君恩」から疎外されることを指摘するに留まっている。仮に、六位以下が直接、「君恩」に預からなくなったとしても、「特定の官職と『恩寵』に預かる人々」のみで国家機構が運営されるわけではなく、下級官人たちも、「国家機構と結合」する。直接の分析対象が、五位以上であったとしても、そこから析出される人格的身分的結合関係は、下級官人たちが編成されるそれを展望できる内容でなければならないから、単に「『君恩』の縮小」を指摘するのみでは、(B)が踏まえられているとはいえない。(2)では、前記のように、大極殿への天皇出御や節会が素材とされる。しかし、前者は地方官人が除外されざるを得ないし*45)、後者は、参加者が五位以上に限定されるから、六位以下が除外される。したがって、(B)を備えていないことは明らかである。(4)も、対象が太上天皇周辺の官人に限定されるのを見れば、同様である。
・条件(C):かかる関係によって編成された集団が、官職体系と官僚制の秩序から自立した存在であること
これについては、一見、類似の条件を備えているかのように見え、前項で検討した坂本・井上説と共通の現象が見える。しかし、仔細に検討すれば、必ずしもそうではないことが分かる。
(1)「律令官人制」(「官人制」)は、官司間・官司内の階統制秩序を示す「律令官司制」と対比されるので、一見、(α)人格的身分的結合関係と(β)官職体系と官僚制の秩序の対比と類似するかのように見える*46)。しかし、平安期には六位以下の官人は「君恩」から疎外され、「下級官人が諸司(官職的集団)と諸家(家産的集団)へ帰属する体制」(三七六頁)となったとされるのを見れば、(C)をふまえたものとはいえないことが分かる。当該期における「諸家」の位置づけについては、ひとまず措くが、下級官人が、「君恩」から疎外され「諸司」に帰属するという体制は、「官人制」の秩序が、「官司制」*47)の秩序に埋没したことになりかねない。それを、「官人制」の再編とする以上、「官司制」に対する自立性は、「官人制」という概念の成立条件ではなく、律令制国家におけるその具体的形態たる「律令官人制」についても同様ということになる。もとより、(α)人格的身分的結合関係と(β)官職体系と官僚制の秩序との関係は、歴史的事実に即して検証されるべきであるが、(α)人格的身分的結合関係の場合、(β)官職体系と官僚制の秩序に埋没すれば、もはや、「人格的身分的結合関係」ではないから、両者は異なる概念と見るべきである。
(2)「人格的支配」も一見、(C)をふまえているように見える。「人格的支配」(α’)は「天皇を中心とした秩序による支配、すなわち儀式を通じた支配」とされ、「律令官僚機構による支配、すなわち法による支配」である「統治権的支配」(β’)と対比されている(二四九頁)からである。しかし、(α’)「人格的支配」の内容たる「天皇を中心とした秩序」の中身が具体的に明らかでないので、(β’)「統治権的支配」からの自立性が明らかにされているとはいえない。例えば、(α’)「人格的支配」の変化について、八世紀には呪術的・マジカルな要素が強かったが、九世紀に唐風化が進み、唐礼の合理性・論理性が追求されるとする。しかし、これは八・九世紀間の一定の傾向の相違を述べているだけであって、「呪術的・マジカルな要素」あるいは「合理性・論理性」によって、いかなる秩序が表現されているかが具体的に論じられているわけではないから、(β’)「統治権的支配」との相違は、結局、(α’)が「儀式を通じた支配」、(β’)が「法による支配」という、支配の手段によって弁別されることになる。しかし、法・儀式は支配の手段ではあっても、それ自体が秩序であるわけではないから*48)、かかる弁別によって、(β’)に対する(α’)の自立性が明らかにされているとみるのは無理である。結局、この説においても、(C)が十分、ふまえられているわけではない。
なお、(3)「人格的結合関係」も、「律令制国家という…非人格的装置」*49)と対比されているので、(C)を備えているかのようにも見える。しかし、ここで基本的に強調されるのは、前者の不安定さであって、後者によって克服されていくものだから、(C)をふまえたものとはいえない。
(4)「人格的関係」も、かかる関係を媒介にして意思を発言する太上天皇(α”)に対して、機構を媒介とする天皇(β”)の存在が対置されているので、一見、人格的身分的結合関係と類似しているように見える。また、平安期以降も、両者の対比は存続するとされているので、(β”)に対する(α”)の自立性はふまえられているといえる*50)。しかし、これは、(α”)「国家外的権威」の(β”)「国家内権力」に対する独自性・自立性と見るべきで、必ずしも(C)が踏まえられているわけではない。
なお、この条件(C)に関わる現象として、(1)以外の(2)〜(4)は、七世紀以前の関係を指すか、それと直ちに連続するものとされていることを挙げることができる。前記のように、(2)は七世紀以前の支配の継承であり、(3)は「大化前代」の大王と群臣の関係を指す概念であり、(4)も、(3)のような関係の律令制下における継承とされる。この点は、これらの概念を、「統治権的支配」や「律令制国家という…非人格的装置」「機構を媒介とする天皇」と対比させる、一つの根拠ともなっている。
この点は、人格的身分的結合関係とはまったく異なる点である。石母田は、有位者集団が七世紀以前に存在したとしたわけではなく、かかる「具体的・歴史的形態」をとる支配階級が、「大化前代の『臣連・伴造・国造』」の後継者であるとしたに過ぎない。「具体的・歴史的形態」自体は、八世紀の独自のものと見ているのであって、したがってかかる形態の紐帯たる人格的身分的結合関係も、七世紀以前と直ちに連続するわけではない。この点では、これらの概念は、むしろ坂本・井上説に近いのであって、これは当時、盛行していた畿内政権論*51)を通じて、坂本・井上説の影響が拡大したものと見ることができる。
以上から、(1)〜(4)の諸概念は、条件(A)〜(C)のいずれも備えていないことが分かった。
条件(A)の欠如は、概念を設定する際の「第一義的目的」が人格的身分的結合関係とは、まったく異なることを示している。しかし、「官人が、どのような仕方において国家機構と結合されるかという問題」への対応は、官人の「具体的・歴史的形態」・国家機構の歴史的特質に迫る上での基本視角ともなる論点であるから、その欠如は、概念の意義・有効性を把握する上で看過できる問題ではない。
また、条件(B)・(C)は、条件(A)の「第一義的目的」を達成する上での必要条件である。したがって、その欠如は、「第一義的目的」を達成する上で、これらの概念を援用することも不可能であることを示している。
すなわち、国家機構の歴史的特質の把握に当たっては、これらの概念をー少なくとも、そのままの形ではー使用することはできない。そして、これらが素材とした、(1)位階・禄など、(2)政務・儀式、(3)皇太子制*52)、(4)太上天皇制は、「組織された強力」たる国家の一部として機能する以上、これらの概念によっては、その特質・意義を捉えられないと考えるべきであろう*53)。
(5)古代史学界の現状と、人格的身分的結合関係の意義
前述のように、これらの研究は、八〇年代後半から九〇年代における、「上部構造」を分析した代表的研究というべきものである。また、石母田機構論と比較した場合、検討対象となる、素材と時期の点で、独自性を指摘することができる。すなわち、検討素材としては、(2)では、天皇の大極殿への出御などの政務形態や、節会などの儀式が取り上げられ、(3)では、皇太子制、(4)では太上天皇制が分析されるが、これらは石母田が主たる検討素材とはしなかったものである。(1)の位階制と禄制は、石母田も検討しているが、石母田が律令法の分析からその特質に迫ったのに対し、(1)では、式や儀式書が基本史料となっている点で、独自性がある。検討対象となる時期については、石母田の分析が八世紀を中心としていたのに対し、八世紀のみならず、九世紀以降も検討対象となっている。
しかし、以上の検討に明らかなように、(1)〜(4)の諸概念は、国家機構・国家の歴史的特質に迫るための意義・有効性を保持しておらず、依拠することは不可能である。これが、前項で問題にした国家の一般論との緊張関係の欠如に起因することは明らかであり、問題提起の方向性が曖昧であることから、「いかなる方法で」素材を分析するかが不明となっていることが確認できる。すなわち、坂本・井上説で指摘した事実と理論の緊張関係の欠如(不足)という問題は、一九六七年の石母田の批判、それをふまえての『日本の古代国家』の刊行にもかかわらず、拡大したと見るべきである。
しかし、以上はある意味で当然の事態である。かつて、浅野充・高橋浩明の研究*54)においても、事実と理論の緊張関係の欠如ないしは著しい不足が生じていたことを指摘したが*55)、これらは、「国家論の一部門としての、国家史をつくり上げるという理論的責務」を明確化して*56)提起された研究である。それさえも、かかる緊張関係の欠如・不足に陥っている以上、かかる明確化を経ない研究が同様の事態となることはいうまでもない*57)。すなわち、かかる欠陥は、一九八〇年代後半から九〇年代において発表された「上部構造」を分析した諸研究の大部分が共有しているという意味で、全体的な傾向である。しかし、事実と理論の緊張関係とは、いかなる場合でもふまえなければならないという意味で一般的原則であり、それを欠いては、何も明らかにすることができないという意味で基本的手続きである。いかなる国家理論であっても、歴史的事実による検証にたえられなければ放棄されねばならないことが、かつて「学問の約束」とされたのも*58)、この点を根拠とする。したがって、かかる欠陥を有しては、律令制国家における「上部構造」に関する個別事実と権力組織の独自の特質・意義の把握、国家の一般論への古代国家研究の立場からの独自の問題提起は不可能であり、本質的な欠陥とすべきである。以上をふまえずに、対象となる素材*59)や時代*60)を変えても、状況は基本的に変わらないだろう*61)。
機構論における人格的身分的結合関係の特質の追究は、かかる状況を打開する試みとなるはずである。
〔W 結びー任用過程研究の意義ー〕
ここでは、以上をふまえて、人格的身分的結合関係の特質を把握するための「具体的課題」を把握することにする。とはいえ、ほぼ答は出ているといってよい。すなわち、「第一義的目的」からすれば、検討すべきは、官人の「国家機構との結合の仕方」である。必然的に、「具体的課題」とは、叙位を含む、官人の官職への任用過程総体(ここでは「任用過程」とする)になる。
また、かかる関係の特質を把握するための基本視角ともなる問題は、石母田が有位者集団の「二、三の特徴」とした次の諸点である*62)。ただし、石母田の指摘では「位階」となっている部分を「人格的身分的結合関係」と一般化して示す。
(1)人格的身分的結合関係の成立が、官職に先行するという原則
(2)身分制的差別が導入されていること
(3)(2)にも関わらず、天皇の前では臣下として、同一平面におかれること
主たる地方官人である国司・郡司の「任用過程」のあり方を具体的に分析して、この三点について検討することが、次の課題となる*63*)。
註
*1)拙稿「機構論の意義と課題」(http://www7b.biglobe.ne.jp/^inouchi/igitokadai))。以下、「拙稿」といえばこれを指す。
*2)石母田正は国家の「どの側面をどのような方法で」分析するかを把握するために、理論の練磨が必要であることを述べている(「国家史のための前提について」〔『石母田正著作集四 古代国家論』岩波書店、一九八九年。初出は一九六七年〕八四頁。
*3)『石母田正著作集三 日本の古代国家』岩波書店、一九八九年。初出は一九七三年。以下、原則として、石母田の見解は同書による。また、引用文中の太字や(A)(B)などの記号は、基本的に引用者による。
*4)「結び」でふれる有位者集団の特徴の(2)や、註(42)でふれる礼の秩序との関連の指摘などを参照。後述のように、現在では、律令制国家における官人独自の編成が確認できないので、人格的身分的結合関係を、直ちに官人独自の身分標識とはできない。それ故、官人の身分を示すという意味では「身分的」とすることはできないが、身分制的特徴は認めてよく、また、天皇と官人の関係も、姓を媒介とする良人身分であることに基づく(すなわち、良人共同体の一員であることに基づく)と考えられるので、「身分的」の語をいれ、「人格的身分的結合関係」と称する。
*5)註(5)「拙稿」、Vー2「機構論の課題」参照。
*6)石母田註(2)論文。
*7)前記のように人格的身分的結合関係は、この論文において提起されている。なお、本稿では論文名としての「有位者集団」を示すときは、カギカッコを付し、集団名を示す場合は、カギカッコを付さない。また、機構論の「意図」については、「拙稿」による。
*8)三四一頁〜三四三頁六行目
*9)「律令官位制に於ける階級性」(『律令制と貴族政権』第T部、お茶の水書房、一九五七年)。「有位者集団の二、三の特徴」(三四三頁以下)の析出の際に、かかる実証的研究が使用されている。
*10)この(α)・(β)の「二重の形態」論をめぐっては、後述のように、吉川真司や東島誠が見解を提起し、議論が集中している観がある。しかし、そもそも支配階級の「具体的・歴史的形態」析出の必要から提起された見解であり、「有位者集団」・石母田機構論においては、副次的位置しか持たないことを確認しておきたい。
*11)『日本古代の国家と在地首長制』(校倉書房、一九八六年)
*12)「古代の社会編成」(『日本古代の社会と国家』岩波書店、一九九六年)、一四八頁。
*13)ここでいう官人とは、有位者と無位の官人をさしている。ただし、前記のように、有位者と無位者をつなぐ独自の紐帯は、確認されていないから、それらが集団として独自に存在していたかは、疑問がある。
*14)「郡司の非律令的性質」(『坂本太郎著作集七 律令制度』吉川弘文館、一九八九年。初出は一九二九年)。
*15)「日本の律令体制」(『井上光貞著作集五 古代の日本と東アジア』岩波書店、一九八六年。初出は一九七一年)。
*16)ただし、筆者自身は、日本の律令制国家の法を「継受法」「固有法」に弁別する手法に従うわけではない。
*17)佐藤泰弘「律令国家の諸段階」(『日本中世の黎明』京都大学出版会、二〇〇一年。初出は一九九五年)五九四頁。この佐藤の見解については後述。
*18)吉田孝『律令国家と古代の社会』(岩波書店、一九八三年)
*19)なお、(1)「非律令的性質」や、石母田説と(2)井上説を同一視する見解については、すでに批判が提示されている。(1)については、米田雄介が、(1)−(@)〜(E)の諸現象が、律令の規定である以上、律令的特質とすべきとしている(『郡司の研究』法政大学出版会、一九七六年、一六五頁以下。大町註(11)書、一四三頁以下も参照。)。また、石母田説と(2)井上説の関連については、前者が生産関係論を基礎とする二重構造論であることが強調され(大町健「在地首長制論の成果と課題」〔註(11)書〕)、前者と異なる旨が指摘されている(佐藤註(17)論文、五九六頁)。ここでは、機構とも関わる現象の特質を捉える上での意義・有効性に即して、坂本・井上説を検討する。また、(1)坂本説については、「非律令的」という用語の含意にも注目したい。
*20)嵯峨正作『日本史綱』(一八八八年。日本近代思想体系一三『歴史認識』〔岩波書店、一九九一年〕所収)などに見える。
*21)それ故、律令制国家論としては、坂本の見解は、あくまで「律令制」による一元論であり、「坂本氏は新しい律令制と古い郡司性の二元構造を論じた」(佐藤註(17)論文、五九四頁)とするのは問題がある。「非律令的性質」の意義は、それが「社会の実質と、国民生活の動き」を示すものとされたように、むしろ当時の「社会」をも「中央集権的」とみる見解(嵯峨註(20)書など)に変更を迫ることにあったと見られる。ただし、それは「中央集権」的な「国家」に対して、「守旧的」な「社会」を対比させることになるので、「国家」は、「社会」から隔絶して存在することになる。
*22)石母田は、この(B)を、官僚制の秩序が、人格的身分的結合関係の秩序によって支えられることの例証とする(註(42)参照)。この場合の、「人格的身分的結合関係の秩序」とは「礼」を示すので、国司ー郡司の統属関係は明らかに「官僚制の秩序」とされている。
*23)註(2)論文、八三頁。
*24)後述の(1)〜(4)の内、(1)を除いては、石母田の人格的身分的結合関係との関連は明示されていない。(4)仁藤論文では、「人格的関係」に基づいて意志を表現する太上天皇と、国家機構を媒介とする天皇との「二重構造」を、石母田説と関連付けているが、それは「国家と行基と人民」で提起した「律令制国家の成立における国家内権力と国家外的権威の分離」の問題とされており(四〇〜四一頁)、人格的身分的結合関係との関連は明示されていない。
*25)「律令官僚制の基本構造」「律令官人制の再編過程」(『律令官僚制の研究』塙書房、一九九八年。初出は一九八九年)。以下
、吉川の見解は同書による。
*26)ここでは、主に「格式・儀式書の編纂」(『日本古代王権と儀式』吉川弘文館、一九九八年。初出は、一九九四年)による。以下、古瀬の見解は同書による。
*27)「天平期の国家と王権」(『歴史学研究』五九九、一九八九年)三三頁。
*28)「律令制成立期における太上天皇と天皇」、「太上天皇制の展開」(『古代王権と官僚制』臨川書店、二〇〇〇年五月。初出は、前者が一九九〇年、後者が一九九六年)
*29)ほかに、この時期の律令制国家の「上部構造」を扱った研究として大津透の研究が挙げられる(『律令国家支配構造の研究』岩波書店、一九九三年。『古代の天皇制』岩波書店、一九九九年)。しかし、人格的身分的結合関係に類するような概念は、索引の項目などとしても採用されておらず、分析の基礎概念として使用していないと見られるので、ここでは検討から除外する。
*30)「さまざまな政治行為、つまり政治意志の形成・発動、政治組織の運営、政治秩序の維持などに際してとられた形式や方法」(八頁)とされる。
*31)一〜二頁。
*32)四〇〜四一頁(前掲)
*33)念のため、付言しておけば、個別の研究素材や「研究視角」、「国家内権力」「国家外権威」の追究それ自体を否定するわけではない。
*34)もっとも、この巻頭の文は仏教イデオロギーの問題に触れていないから、研究の基本的方向性を示したものとしては不十分である。大平自身も、かかる方向性を示した文としては執筆していない可能性がある。しかし、他に、かかる方向性を明示している箇所は見られない。大平は「本報告で述べたかったことは、国家の権力構造とイデオロギー装置とのあいだには有機的連関があるという点であった。」(四二頁)としているが、結論の扱いになっているので、「国家の権力構造とイデオロギー装置とのあいだ」の「有機的連関」を明らかにするための方法が整理されているわけではない。これらは、後述の国家論的意義の未整理と対応しており、かかる未整理とその原因を明らかにする上で、この巻頭文の分析は意義がある。
*35)皇太子制を「次期大王(天皇)となるべき唯一人の資格者であることを定めた制度」とし、その意義を、それまでの王位継承者が複数、存在する状況の克服に求める見解は、浄御原令がその画期とされていることもあり、一見、国家機構の成立と対応しているように見える(荒木敏夫『日本古代の皇太子』〔吉川弘文館、一九八六年〕、二〇八〜九頁参照。ただし、荒木が、皇太子制を直ちに国家機構論に収斂させる議論を展開したわけではない)。しかし、国家機構の維持の上で、皇太子制が必ずしも、問題とならないのは、他ならぬ大平の研究によって明らかである。大平によれば、「国の固・鎮」としての皇太子制の意義が、支配層の共通認識となったのは天平期以降であって、石母田が独自の意義を与えた前記の諸点のうち、俸禄制や昇進制度、法・文書主義が令制当初から、施行・改善されているのを見れば、皇太子制の成立が支配層にとっては喫緊の課題ではなかったことーその意味では「二次的課題」であったことーを示している。筆者は、皇太子制もまた、「組織された強力」の一部と捉えるべきと考えており、その成立・運用が支配層にとって「不可避の課題」であったことを否定するつもりはないが、それを直ちに、国家機構論に収斂する議論は、皇太子制の独自の意義・特質をも見失わせるとすべきであろう。
*36)「組織された強力」としての特性を直ちに明らかにできないからといって、皇太子制の国家論的意義が否定されるわけではない。
*37)以下の吉川の見解は、原則として四二〜三頁から
*38)ここで検討する吉川の石母田「批判」については、すでに東島誠が批判を加えているが(「非人格的なるものの位相ー石母田正『日本の古代国家』で再構成されたものー」〔『歴史学研究』七八二、二〇〇三年。なお、この論文が収載された特集については、註(61)参照〕)、根拠となる石母田説の理解などにつき、見解を異にする点が多いので私見を提示しておく。なお、近年では、東島や古尾谷知浩(『律令国家と天皇家産機構』塙書房、二〇〇六年)のように、石母田説と、ウェーバーが提起した「理念型」との関わりに注目する見解が提示されている。この中で、東島は@・Aを「理念型」と断定しており(前掲論文、三二頁)、論旨から推測すれば古尾谷も同様と考えられる。しかし、これは明らかに誤りである。
そもそも、まず石母田は「理念型」の概念を引用していない。『日本の古代国家』の「はしがき」において、国家の属性や機能の総括に「無概念、無前提に接近する」(四頁)ことを否定した石母田が引用していないということは、「理念型」をかかる接近のための基礎概念とは見ていないことを示している。仮に、石母田が、それを基礎概念としたとすれば、ウェーバーの理論と律令制国家に関する諸事実との間に緊張関係を設定したことになるが、引用の形で明示しなければ、ウェーバーの理論との関連さえ明らかにならず、かかる緊張関係の不足を再生産することになるからである(なお、ここで石母田がウェーバーの理論との間に緊張関係を設定したというのは、あくまで仮定の話である。この「はしがき」に対する東島の見解や、ウェーバーの理論との緊張関係の可否については後述。)。
実際、本稿で検討したように、人格的身分的結合関係は、マルクス・エンゲルスの『ドイツ・イデオロギー』に基づく見解を一つの下敷きにした、「レーニンの見解」との独自の緊張関係の中から、生み出された概念であり、その意味では石母田は、まず以て、マルクス・レーニン主義者であった。ウェーバーの影響を否定するつもりはないが、それはあくまで参考に留まるものであり、基本的分析手法とすることはできない。そもそも、古尾谷論文が指摘するように(六頁)、(1)「経験的、歴史的に実在する支配秩序の類型ではない」ために実体化できず、また、(2)国家支配のみならず「家の内部、企業の内部、等々で行なわれている支配を含む」以上、雑多な「支配」を一括せざるを得ず、さらに(3)「歴史的発展段階を示しているものではない」概念を以て、「日本の古代国家」の属性や機能の総括に迫ることは不可能である(当然ながら古尾谷が問題にする、律令制国家における「支配の正統性」の特質に迫ることも不可能と見るべきである)。実際、人格的身分的結合関係とは、支配階級の「国家機構との結合の仕方」の分析を通して、その「具体的・歴史的形態」に迫るための概念であり、明らかに実体化を目指したものであった。
以上の検討からすれば、前記の「はしがき」において、石母田がウェーバーの見解を念頭においているとする見解も誤りであろう(東島「価値自由と歴史学」〔『公共圏の歴史的創造ー江湖の思想へー』東京大学出版会、二〇〇〇年〕)。石母田は、前記の否定に続いて、歴史的検証に耐えられない理論は否定されるべき旨を述べているが、太田秀通が「理念型概念の一種の魔力」の一つとして、「実証的にこの点はこのばあいにあてはまらないという批判に対しては、『それは観念の構成物たる理念型だから』と答えることができる」ことを挙げているように(「マルクスとウェーバーの古代把握」〔『世界史認識の思想と方法』青木書店、一九七八年。初出は一九七六年〕、四六〜七頁)、実体を伴わない概念を用いた理論を、歴史的事実を以て否定することは不可能だからである(以上は、かかる理論の一般的意義を否定するものではなく、あくまで歴史学の立場からは、緊張関係を設定することができないことを述べたに過ぎない)。前記のように、石母田が影響を受けていることを否定するつもりはないから、ここで問題とされる「理論」からウェーバーが完全に排除されているとするつもりはないが、その位置は大きいとは言えないと考えられる。なお、石母田の在地首長制論と「理念型」との関連については、大町健「律令国家と村落首長制」(『日本古代の国家と村落』塙書房、一九九八年)を参照のこと。
*39)三三六頁には、地方行政機構が成立する以前の地方の首長制の社会について「『私』の領域と『公』の領域との分離が本来欠如していた」とある。
*40)「拙稿」参照。
*41)伊藤循「国家形成史研究の軌跡ー日本古代国家論の現状と課題ー」(『歴史評論』五四六、一九九五年)は、一九七〇年代以降の、国家形成史研究を、国家の本質について、(a)支配階級による階級抑圧機関と見る見解と、(b)分裂した社会を総括する第三権力と見る見解の相克と捉え、基本的には(b)による(a)の「克服」の過程と見る(ただし、一九九〇年代に入って、(a)の復活が見られるとする)。石母田は、(a)に属するので、(b)によって「克服」されたことになる。しかし、『日本の古代国家』の意義は、単にレーニンなどの(a)の見解の正しさを証明したことにあるのではなく、(a)との緊張関係の中から、律令制国家の支配の具体相を豊かに捉え、以て国家の一般論への提起につなげるための論点を具体的に提起した点にある。かかる論点の意義をふまえないまま、ただ、国家の本質を第三権力としても、律令制国家の支配の特質の把握と、そこからの国家の一般論への独自の提起を豊かに行なうことはできない。実際、伊藤によれば、第三権力論提起以後の、古代国家論の課題は、(1)村落首長の階級意思の国家意思への転化の過程、(2)村落首長が階級支配者であることの前提条件の論証、とされるが(二二頁)、在地社会に関する史料の希少な古代史にあっては、実証困難な課題といってよく、伊藤自身が、この課題の提起から一〇年以上を経た今日においても、未だに畿内政権論批判に留まっている(「畿内政権論争の軌跡とそのゆくえ」〔『歴史評論』六九三、二〇〇八年〕。なお、畿内政権論は、前記のような石母田の論点の意義をふまえて展開されているわけではないので、いくら批判をしても、律令制国家の支配を豊かに捉えるための課題を把握することはできない)。国家の本質論や、その具体的回答である第三権力論の意義を否定するつもりはないが、石母田説における(a)と、それとの緊張関係から生み出された各論点の意義をふまえないまま展開しても、石母田説の「克服」にはならないであろう。
*42)なお、前記のように、吉川は、石母田の、(A)「支配階級の結集の二重の形態」という理解と(B)人格的身分的結合関係の秩序が官僚制の秩序を規定するという理解について、「批判」を加えている。以下、それぞれについて検討しよう。
(A)の内容は前述したから、吉川の「批判」を検討しよう。 吉川は、Aの「人格的身分的従属関係を媒介とする結合」に対しては
・例えば有位者集団などを指すのだろうが、それが位階制などの「機構や制度」によって「媒介」されていたことは、改めていうまでもない(「批判」−1)。
@の「機構や制度を媒介とする結合」に対しては
・第一義的には集団(権力)の機能に基づく階統制的機構への官人の配置なのである(「批判」-2)。
として「批判」する。その上で、
・正確には、階級結集は有位者集団という形で行なわれ、彼らが国家機構を占有してこれを運転したというべきであり(「批判」−3)
・統治機構の問題(統治形態論)を支配階級の編成の問題(階級論)に埋没・解消させてはならない(結論)。
とする。
まず、この「批判」について述べれば、これはほとんど批判になっていない。「批判」−1・2は、「批判」−3に収斂されると見るべきだが、「批判」−3で提示された見解は、石母田説とほとんど変わらない(本稿「U−3」参照)。実際、批判を展開した後、吉川自身、自らが提示した概念と、石母田のそれとが「極めて近い」ことを認めている(もっとも、筆者はまったく異なる概念と見ている。類似する側面はあるが、「第一義的目的」と「内容」を異にするからである。後述)。
相違は、石母田が階級結集の一形態と見た、国家機構の占有(便宜的に、吉川の表記に従う。石母田は「専有」)を、吉川はそうは見ていないという点にあり、「結論」の論拠ともなりうる。しかし、この見解では、支配階級が何のために機構を「占有して運転した」かが、不明にならざるを得ない。吉川は、機構を占有する集団を支配階級としており、その限りでは石母田の見解を継承している。とすれば、その「運転」・支配は階級支配にならざるを得ない。機構はそれなしには支配が成立しないから、導入されたと見るべきであり、吉川説に従えば、階級支配を維持するために導入されたことになる。階級支配が成立しなければ支配階級は支配階級たり得ないから、(本質的には有位者集団が支配階級の「具体的・歴史的形態」であるとしても)現実には支配階級は、支配階級として存在するために、機構に結集していることになる。とすれば、その占有は階級結集と見るよりないであろうし、そうでなければ何のための占有・運転なのかが不明にならざるを得ないであろう。なお、以上は機構による支配の意義を把握するためのものだから、階級論への「埋没」には当たらない。
また、「批判」−1には「A人格的身分的従属関係」も、位階制などの「機構や制度」によって「媒介」されていたことが指摘されるが、それを以て、「@機構や制度を媒介とする結合」との質的相違を否定するのは無理であろうし、四等官の統属関係などの@は、「機構や制度」を根拠に成立するのに対し、天皇に対する忠誠関係・従属関係に代表されるAはー機構や制度が支える部分があるにせよー、そうではないから、厳密には「機構や制度」が「媒介」しているとはいえないであろう(なお、本稿ではごく一般的な「なかだち」の意で「媒介」の語を用いる)。
次に、(B)の論点は、以下のようなものである。
古代官僚制の歴史的特質は、…その秩序が官僚制外の権威的秩序によってささえられていること、いいかえれば官僚制の特徴である職務体統制自体が要求する自律的秩序よりは、むしろその外部に存在する有位者集団の秩序、すなわち礼の秩序によってささえられているという点にある(三六二頁)
これは、律令制国家機構・官僚制の歴史的特質を、その秩序(=(β)官職体系と官僚制の秩序)が有位者集団(=(α)人格的身分的結合関係を媒介とする結合)の秩序によって、規定される点に求めた見解だが、吉川はこれを「((α)・(β)による)二元論の一元化」とした上で、次のように「批判」する。
二元論は二元論のままでよく、天皇権力が二元的に構成されていたと見て、何ら不都合な点はない。
しかし、律令制国家機構・官僚制の歴史的特質に迫る論点である以上、単なる「批判」に留まって、代替となる論点を提示しなければ、「不都合な点はない」わけがない。「二元論」自体は、近年の律令制国家論の中で定着している観があるが、それをどのように深化させ、律令制国家の歴史的特質に迫るか、それを以て国家の一般論にどのような提起を行なうかは、不断の課題である。吉川自身は、「二元論」のままでどのようにかかる歴史的特質に迫るかを示したわけではないから、律令制国家論の停滞を招くものとすべきである。実際、八世紀の郡領任用抗争において、「非機構的関係」が、抗争の経過を規定する直接的条件となり、法やその政策意図と矛盾する人事を現出せしめる事例が存在することは、「二元論」では把握することはできない(拙稿「郡領任用抗争の特質ー大和国高市郡の事例からー」(http://www7b.biglobe.ne.jp/^inouchi/kousou/htm。なお、吉川は、佐藤進一の、中世の将軍権力を二元的に捉える見解〔「室町幕府論」『日本中世史論集』岩波書店、一九九〇年。初出は、一九六三年〕との連携を強調するが、中世史研究との連携も、本来、歴史学からの国家の一般論への豊かな提起のために行なわれるべきものである。したがって、連携に当たってまず、問題となるのは、古代史側にとっては古代国家論の、中世史側にとっては中世国家論の、それぞれの深化であり、次に、そこからの国家一般論への提起の深化が問題となる。古代史における、かかる深化の道筋を見失わせては、連携自体の意義も失われるとすべきであろう)。
もっとも、いかに意義ある論点であっても、事実によって否定されれば、放棄せざるを得ないが、石母田の実証過程に対する「批判」は、石母田説の誤読及び不正確な理解に基づいており、「批判」として成立していない。吉川は、前記の石母田の理解の根拠が、(1)下馬・動座などの官司内の「礼」、(2)詔書の尊厳性、(3)機密上奏の存在、の三点にあるとし、(1)は官司内階統制の運用、(2)は官司間階統制の最高「機関」の属性の問題、(3)は通常の階統制秩序を前提とするサブシステムとしての運用、であるから、根拠としては成立しないとする(五一頁、註(67))。すなわち、石母田が根拠とした現象は、官司内・官司間の階統制の問題(本稿の用語でいえば、(β)官職体系と官僚制の秩序の問題)であるから、有位者集団の秩序((α)人格的身分的結合関係の秩序)の規定性を示す根拠としては成り立たないという「批判」であると考えられる。
しかし、まず(1)が石母田説の根拠であるというのは誤読であり、(2)・(3)が根拠であるというのも、不正確な理解というべきである。石母田説の論証は、まず次の二つの論点によって成り立っている。
(一)官司の長官とその統属下の官人や、国司と郡司の関係のような、(官職体系と官僚制の秩序に基づく)上級官人と下級官人の関係さえも礼の一部として規定されている
(二)かかる礼の特徴は、頂点にある天皇の権威を土台にして構成されている点にある
四等官制のような官僚制の秩序が、「天皇制的な、権威主義的・身分的構成をとらざるを得なかった(引用者注。人格的身分的結合関係の秩序に規定されることを示す)」(三六二頁)とする根拠は、この内の(二)である。吉川が「根拠」とした(1)下馬・動座などは、(一)の論拠として提示されているので、これを「批判」しても、石母田説の批判になるわけではない(ちなみに、下馬・動座などの儀礼が、官司内統制の運用であることは、長官とその統属下の官人、あるいは国司と郡司の関係であることから明らかであるが、問題はそれが「礼の一部として規定されている」ことにあるので、吉川の(1)に対する指摘自体も石母田説批判にはならない)。
(2)・(3)についても論及しているが、(2)は、(一)・(二)(基本的には(二)と見られる)に対応する現象とされており、(3)は(2)の「真の動因」たる「支配階級は、自ら生み出し、かつ再生産しつつあるこの専制的権力に臣下として従属することによって、官僚制の秩序そのものを破壊することを辞さない」ことの例証としてあげられているのであって、前記の理解の積極的根拠として提示されているわけではない。
それ故、石母田説批判に必要なのは、(二)に対する批判である。では、(二)の根拠は何かというと、この指摘の直前に「位階の秩序について述べたように」とあることから分かるように、「有位者集団」における分析であり、具体的には三四六頁の
(二ー1)「『礼』の本質は『貴賤』の区別にあった」こと、
(二ー2)それ故、天皇によって制定された「礼」が、天皇を頂点とする序列を本質的意義とする有位者集団の、内部秩序を規制する規範として、重要視されたこと
の二点と考えられる。
すなわち、石母田説を、本稿の行論にしたがい、かつ適宜補足して要約するならば、
「礼」の本質は「貴賤」の区別にあり(二-1)、それ故、有位者集団の内部秩序を規制する規範として重要視された(二ー2)。したがって、その特徴は、頂点にある天皇の、(統治権の総攬者あるいは官司間統制の「最高機関」としての「権力」ではなく)権威を土台にして構成されている点にある(二)。儀制令に見える動座・下馬などの儀礼は、(規定の対象となる官人の関係から、儀礼が官職体系と官僚制の秩序に規定されているようにも見えるが、かかる「礼」の本質・特徴を考えれば)、官僚制の秩序が、「礼」によって支えられなければならないことを示し、職務体統制が要求する自律的秩序よりは、有位者集団の秩序によって支えられることを示す。
ということになろう。
以上から明らかなように、(二)の基本的根拠になるのは、(二−1)であるから、石母田説を批判するなら、これに替わるべき「礼」の本質論を提示しなければならない(吉川は、石母田が「儀礼的なものをすべて有位者集団の秩序に収斂させる」ことを「問題」とするが、それが「問題」であるか否かも、独自の「礼」の本質論を提示しなければ判断し得ない)。しかし、吉川がかかる議論を提示しているわけではないし、そもそもかかる本質論を否定するのは無理と考えられるから、基本的に吉川の石母田「批判」は成立しないといえる。
なお、(2)・(3)も、積極的意義は付されていないとはいえ、傍証としての意義はあるから、仮に吉川説が正しければ、石母田の根拠の一端が崩れることにはなる。しかし、(2)の詔書の尊厳性について、身分制的・権威主義的秩序の規定を否定するほうが困難というべきであり、(3)も、「通常の階統制秩序を前提とするサブシステム」であることは確かだが、「機密」「長官の事」する場合には、長官を経ずに上奏することが可能とされている以上、「天皇の権力の前に官僚制がその自律的秩序を放棄したことを意味する」とすることは可能であり、石母田説に修正の必要はない。
以上から、(A)・(B)いずれについても、吉川の石母田「批判」は成立しないといえる。
*43)位禄のように、位階制が禄制を規定することはあるが、逆はないから、律令制国家における禄制の機能を、位階制と同一視するのは無理である。石母田が、「俸禄制と家産制組織」で論じたように、禄制の独自の意義は、物的給付による官人の直接生産過程からの分離、それによる「公」「私」の分離にあるとみるべきであろう。
*44)(3)「人格的結合関係」は、基本的に「大化前代」を問題にすれば、「国家機構との結合の仕方」を問題にした石母田説とは異ならざるを得ないが、石母田が、「大化前代」における支配階級の「具体的歴史的形態」とした王民共同体との関連も、明らかにされていない。
*45)古瀬は、日本律令制国家の地方支配が、唐よりも地方官(国司)に委任された部分が大きいことを指摘し、この原因を官僚制の不徹底に求めるが(「唐令継受に関する覚書ー地方における儀礼・儀式ー」「『国忌』の行事について」〔註(26)書〕)、国司への「委任」は基本的に太政官と国との関係である以上、(β)官職体系と官僚制の秩序の問題であり、かかる秩序を、(α)人格的身分的結合関係の秩序が規定すると見られる以上、(α)の特質をふまえて論ずる問題である。
*46)前記のように、吉川自身は、「律令官人制」と人格的身分的結合関係を類似するものと考えている。
*47)吉川論文では「官司秩序」などの用語が使われているが、「律令官司制」は、「階統制という形で現れる律令国家の官司秩序と、それに則って運用される(かつ官司秩序を現実化する。)一般行政のシステム(官司制システム」とされる。
*48)いうまでもなく、法・儀式によって何が表現されるかが問題なのである。
*49)大平註(27)論文、三三頁。
*50)両者の並置による政情の不安定は、平安初期に一応、克服されるとするが、(α)が(β)に吸収されるとしているわけではない。
*51)吉田註(18)書、早川庄八『日本古代官僚制の研究』(岩波書店、一九八六年)など。
*52)なお、(3)大平論文がもう一つの素材とした仏教イデオロギーについては、それがイデオロギー論である以上、機構論の枠の中で論ずるべきかーすなわち、第一義的に「組織された強力」の一環とみるべきかーは微妙であるので、ここでは触れないこととする。
*53)これらの諸研究のうち、(3)皇太子制や(4)太上天皇制は、いわゆる「王権論」であって、国家機構の歴史的特質の把握を課題とするものでは、必ずしもない。また、前述したように、直ちに国家機構論に収斂させるのは誤りであろう。しかし、(一)前記のように、(3)皇太子制・(4)太上天皇制は天皇制を成立の前提とすること(したがって、天皇制の特質に規定されると見られること)、(二)律令制国家の天皇制の特質は、(α)政治的首長としての側面と(β)統治権の総覧者としての側面の、二面を持つ点にあること、(三)これは、「組織された強力」たる国家段階の、官人結集の「二重の形態」(前記)に規定されたものであること、の三点を考慮すれば、「組織された強力」の一部であるという認識を欠いたまま、それ自体を個別に分析しても、その特質・意義を把握することはできないであろう。個別分析の意義を完全に否定するつもりはないが、それはあくまで、機構論の一部として論ずるべきではないだろうか。実際、荒木敏夫が「王権論」深化のための「視点・方法」(「王権論の現在」〔『日本古代王権の研究』吉川弘文館、二〇〇六年。初出は一九九七年〕一二頁)の模索に当たって注目する、石母田の天皇大権に関する指摘は(荒木論文、一五頁以下)、機構論の枠の中でなされたのである(なお、(二)の天皇制の特質については、(3)大平論文の「準備ペーパー」〔『歴史学研究』五九三、一九八九年〕で言及されているが、論文では捨象されている。
*54)浅野「日本古代宮都の成立・展開と社会・国家」(『日本古代の国家形成と都市』校倉書房、二〇〇七年。初出は、一九九四年)、高橋「国郡制支配の特質と古代社会」(『歴史学研究』六五一、一九九三年)。
*55)拙稿「『上部構造』論と律令制国家論ー石母田説と浅野・高橋説の検討からー」(http://www7b.biglobe.ne.jp/^inouchi/joubukouzou.htm)
*56)歴史学研究会日本古代史部会「首長制論の新展開にむけて」(『歴史学研究』六二六、一九九一年)
*57)石母田は、「国家論の一部としての国家史をつくり上げるという理論的責務を自覚しなれければ、いつまでたっても理論と論理を欠く歴史的事実の集積体にとどまるだろう」(註(2)論文、八五頁)としている。なお、(3)大平論文は、前記のように「国家の権力構造とイデオロギー装置とのあいだには有機的連関がある」(四二頁)ことを述べたかったとしているように、国家の支配の特質を強く意識しているが、高橋・浅野ほど、前記の責務を明確化しているわけではない。
*58)『日本の古代国家』「はしがき」(前記)
*59)近年では、『日本霊異記』(「特集 『日本霊異記』に古代社会を読む」〔『歴史評論』六六八、二〇〇五年〕)や「史書」を素材とする特集などが組まれている(「小特集 古代国家と史書の編纂」〔『歴史学研究』八二六、二〇〇七年〕)。
*60)これらの研究と異なり、国家成立期を対象とした特集に「特集 律令天皇の成立と日本」(『日本史研究』四七四、二〇〇二年)がある。
*61)なお、本稿同様に石母田の『日本の古代国家』を分析した特集として「特集 古代国家論の現在ー石母田正『日本の古代国家』発刊30年を契機としてー」(『歴史学研究』七八二、二〇〇三年)がある。朝鮮・中国古代史の論文も収録されているが、ここでは、日本古代史の論文のみ私見を述べておこう。
これらの論文に共通する現象は課題を具体化できないことである。例えば、(一)大町健「『日本の古代国家』における二元的構造論の克服と残存ー古代国家の成立と民族ー」は、(@)石母田の、二元的構造論から二重構造論への移行(前者の克服)を分析した上で、(T)二元的構造論の残存として、石母田における国家形成の前提が「社会が民族という統一性をもっていること」を指摘する。そして、石母田以後の研究にもコメントした上で、(A)「民族は近代国家の産物であって、前近代に遡らせるべきではないであろう」と批判する(一八〜一九頁)。また、(二)加藤友康「『日本の古代国家』と平安期の国家・社会」は、(a)未完に終わった『日本の古代国家』以後の石母田の中世社会論の構想、(b)中世史研究の動向と『日本の古代国家」の成果との関連に触れた上で、平安時代研究の課題として(A)官制大権、国家機構編成のあり方、(B)官吏任命権、(C)王位継承の大権、の追究を挙げる。しかし、(一)では、「古代国家の成立と民族の問題」(七四頁)をどのように分析するのかが、明らかにされているわけではなく、(二)でも、(A)〜(C)の特質の把握を深化させるべき論点は具体化されていない。実際、今のところ、両論文のみならず、この特集所収の諸論文が歴研大会などに影響を与えたことも、明確な形では、ないようである。
その根本的原因は学界の現状に対する批判的見地が弱いことにあると考える。もとより、両論文にも近時の研究に対する批判がないわけではないが、古代国家を論ずる方法として(換言すれば、事実と理論の緊張関係の上で)先行学説にいかなる問題があるのかが明らかにされているわけではない。
それ故、今日における『日本の古代国家』の意義の把握が弱い。もとより、本稿で検討した(1)〜(4)の諸概念・諸研究や註(41)で言及した畿内政権論のように、近時の研究は検討しても課題の具体化につながらないものも多く、したがって、それに対する批判は必ずしも必要ないともいえる。また、当然ながら、批判にのみ留まっていては、批判自体の意義も失われる。しかし、本稿の「T はじめにー本稿の目的と方法ー」で述べたように、それなくして、「なぜ、石母田説に基づき、課題を模索するのか」ーすなわち、今日における石母田説の意義ーを把握することは不可能である。石母田説検討の意義は、(一)では、『日本の古代国家』が多様な理解と解釈のされ方をされたために、「同書をいかに理解したかを明らかにする必要がある」(一五頁)とされ、(二)では、「日本古代国家の基本構造を理論化した書との評価が与えられ、刊行後30年を経た現在も学説史上の位置を占めている。」(三七頁)ことに求められると考えられる。しかし、同書の今日的意義は、第一に、「現代的課題、実証、理論的問題の三者のバランスのとれた総体的叙述を行なっている」こと(平澤加奈子「問題提起ー『日本の古代国家』と古代史研究の現在ー」〔本特集〕、二頁)、そして、第二に、今日に至るまで、かかる叙述を行ないえたほぼ唯一の学説であること、にある。したがって、それを検討するのは、(一)自己の理解を表明する必要があるためでも、(二)単に、日本古代国家の基本構造を理論化したからでもなく、それ以外には、個別事実から律令制国家の特質を把握し、国家の一般論への提起につなげる方法を(すなわち、歴史学に対する今日的要請に応える方法を)学ぶことができないからである。
そして、かかる方法を学ぶという観点からすれば、検討すべきは、(一)では「民族の問題」から、(二)では(A)〜(C)の論点から、石母田がいかに律令制国家の特質を把握したかである。それには、まず石母田国家論における問題や論点の位置づけ・意義が把握されねばならない。すなわち、必要な作業は(一)では、(@)の分析や(A)の批判ではなく、石母田国家論における「民族の問題」の位置づけであり、さらにそこにおける(T)の前提の意義の把握である。もっとも、(一)では、(T)が国家を独自の生産関係とする見解につながったことが指摘されているが(一八頁)、それはあくまで「認識」の問題であって、かかる見解を提示する上で、石母田が(T)に独自の意義を与えたということではない。したがって、それは「方法」や(T)の意義の把握ではなく、その限りでは「民族の問題」からいかに律令制国家の特質を把握するかをつかむことは不可能である。また、(二)に必要な作業も、(a)・(b)の把握よりも、石母田国家論における機構論の位置づけの把握であり、さらに機構論における(A)〜(C)の位置づけの把握である(なお、筆者は、人格的身分的結合関係の特質、及び変遷とその意義の把握を欠いたまま、平安期における(A)〜(C)の特質を把握するのは無理と考える)。以上の作業が行われず、(@)(A)・(a)(b)が検討されているのは、その必要性が認識されていないためと考えるべきであろう。しかし、かかる論点の位置づけ・意義の把握を欠いたまま、課題を具体化できないのは、本稿の作業を見ても明らかである。
すなわち、(一)(二)においては、『日本の古代国家』の今日的意義が弱いため、そこで提示された問題や論点の位置づけ・意義の把握の必要性が認識されず、課題が具体化できないことが分かる。これは、〔V−2−(3)吉川の石母田「批判」〕で述べた、学界において石母田の「意図」と「方法」がふまえられていないという現象の発露であって、この二論文に限定される問題ではない。そして、その根本的原因が、学界の現状に対する批判的見地の弱さにあることも、恐らくこの二論文に限定される問題ではないであろう。
なお、以上のように、先行学説の問題と、石母田の「意図」と「方法」を把握し、課題を具体化する作業は、事実と理論の緊張関係に即して、先行学説と石母田説を検討する作業とも言いうる。これに対し、両論文においては、(一)で、前述の『日本の古代国家』の「はしがき」を引用した上で、「古代国家の成立と民族の問題も、こうした独自の理論的追求と事実との緊張関係の中で解かれなければならない」(七四頁)とされるに過ぎず、かかる緊張関係が、学界の現状や課題を把握するための基本的視角・方法とされていないことが分かる。筆者は、これでは事実と理論の緊張関係が「新しく何かを生みだす」力になっていないと考えるが、基本的には、かかる緊張関係についての、見解の相違によると思われるので、詳しくは後考にゆずる。
*62)三四三頁。なお、特徴を二点とする場合は、(2)と(3)を一つの特徴とすると見られる。
*63)ただし、郡司については、官位非相当であることから見ても、人格的身分的結合関係において、一般官人とは異なる形態を取ったと見られるので、独自の分析が必要である。
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