郡領任用抗争の特質ー大和国高市郡の事例からー

 


T はじめにー本稿の課題と手法ー

U 抗争の経過

V 抗争の直接的条件及び、存立要因・変質の意義

V 結びー郡領任用抗争の特質ー

 


〔T はじめにー本稿の課題と手法ー〕

1.本稿の課題とその意義

 本稿の課題は、律令制国家における郡領職の任用をめぐる抗争ー以下、「郡領任用抗争」ーの特質を把握することである。かかる課題設定の意義は、郡領候補者を擁する地域集団*1の活動と国家との関連を考えるための一つの素材を提供しうる点にある。郡領職を得ることの、地域集団にとっての意義が大きかったことは、郡領職の律令制国家における重要性、後述の激烈とも言える抗争の経過からも明白である。それ故、抗争は地域集団の種々の活動の中でも重要な位置を占めたことは想像に難くなく、かなりのエネルギーが注ぎ込まれたものと見られる。一方、郡領職は言うまでもなく、律令制国家における官職の一つであって、その任用には律令制国家の特質が反映する。郡領任用抗争は、地域集団相互によって戦われるが、以上の考察からすれば、各地域集団が国家というものと向き合わざるを得ない、一つの局面といえる*2)。

 尤も、重要な位置を占めたとはいえ、郡領任用抗争における活動は、地域集団の活動の一部に過ぎない。それ故、かかる分析をもって、地域集団と国家との関連を全面的に把握することは不可能である。しかし、一人一人の生き方が問われ、歴史的にも国家と個人との関係が緻密に把握されねばならない今日、かかる課題設定の意義を否定することはできないであろう。

2.考察の前提ー手法・視角・三つの条件ー

 かかる課題設定に対応するための手法として、大和国高市郡における抗争事例の分析を採用したい。八世紀において、郡領任用抗争が頻発していたことは、著名な神火事件*3などから知られる。しかしながら、その分析は格・勅などの法制史料が中心となり、地域における具体例の分析が立ち遅れていることは否めない*4。しかし、郡領任用抗争の分析を通して、地域集団の活動と国家との関連を考えるための素材を提供しようとする本稿にあっては、地域集団の活動をより具体的に把握できる実例分析の方が、手法として適していると言える。本稿で扱う高市郡の事例は、恐らく神火事件が確認されないために、抗争のみならず郡領任用研究としての専論は見られない。しかし、幸い、七三〇年代(天平期)〜七七〇年代(宝亀期)の抗争の具体相を、古代の地方官の抗争事例としては稀有と言えるほど、詳細に示している。本稿の課題に対応する上では、好個の素材と言える。

 高市郡の事例分析にあたっては、次の三つの視角を設定したい。第一は、「抗争の結果を規定する直接的条件は何か」である。ここで言う、「直接的条件」とは、抗争の各時期における結果を、いわば最終的に決定する条件のことである。抗争は、言うまでもなく、最終局面だけで決定するわけではないが、最終的に勝利できなければ、それまでいかなる活動を積み上げたとしても、ほぼ無意味になってしまう。それ故、抗争の結果を最終的に規定する条件は、地域集団の活動を強く規定したと見られるのであって、郡領任用抗争の分析を通して、地域集団の活動と国家との関連を考えるための素材を提供するという先の課題に対応する上で、有効な視角と考える。第二は、「第一の視角から析出した、直接的条件の存立要因は何か」である。言い換えれば、「第一の視角から析出した直接的条件が、なぜ、直接に抗争の経過を規定するのか。」ということである。かかる視角がなければ、抗争の直接的条件の析出も、個別的な事実の提示に留まらざるを得ず、先の課題への対応も不十分とならざるを得ないから、当然の視角設定であろう。最後に、本稿の検証から明らかなように、かかる直接的条件は、第四期(天平神護期)以降、変質が見い出せる。かかる変質がなぜ、生じるかは、存立要因の追究の中で、必然的に触れることとなるが、かかる変質を律令制国家の地方支配(ここでは、郡内統括)において、どのように意義付けるかも、律令制国家の変質、さらにはそれとの地域集団の活動との関連を考える上で、不可欠である。それ故、「直接的条件の変質の意義の追究」を第三の視角として設定したい。

 以上の視角を有効たらしめるために、抗争の経過を規定する条件として、次の三つを措定したい。第一は、郡領(評造)として郡内(評内)を統括する根拠である。郡領として郡内を統括する以上、「なぜ、その郡領の統括に従わなければならないか」という論理・根拠が存在したはずである。かかる根拠が脆弱で郡内に通用しないとすれば、郡内を統括しえず、郡領任用は困難であるし、仮に任用されたとしても郡領職維持は困難である。すなわち、結局は抗争に敗北することになる。したがって、ここで述べる三つの条件のうち、抗争のもっとも基底的な条件といえる。

 もっとも、「なぜ、その郡領の統括に従わなければならないか」という問いに対する回答は種々の次元で存在し得、本稿で明確な回答を提示するのは困難である。本稿では任用の根拠に注目することで、可能な限りかかる根拠を明らかにしたい。

 かかる根拠は、当該期には「才用」「立郡以来譜第重大之家」など法令に規定があるのが一般的であり、次に述べる法的根拠と重複する部分がある。しかし、現実に郡内に通用する根拠を析出しようとする本稿においては、両者を同一視することはできない。第一に、後述のように法令の内容が曖昧で具体性がない場合があること、第二に、法令の内容と現実の情勢とが乖離している場合があること、がその根拠である。第二の例としては、延暦期に「才良」の者を郡領に取ったところ、郡内の民衆は「政を為すに、則ち物情に従わず。訟を聴くに、則ち決断に伏することなし。」という情勢に陥り、結局、「譜第」を任用の第一義的基準にせざるを得なかった事例*5)が挙げられるが、この事例を見ても、かかる根拠は、基本的には郡内の諸関係・諸情勢に規定されると見られる。

 条件の第二は、法的根拠である。郡領は在地首長層を任用するが、「単一的支配」*6)を特徴とする国家機構の官僚としての側面を持つ。任用が恣意的に行われれば、「組織された強力」としての律令制国家の存立に関わるのであって、法令によって「客観化」される必要があった。第一の条件について述べたような限界があるとしても、当然ながら、郡領の任用に関する法令が抗争に大きな影響を与えたと見られ、その経過を規定する条件の一つと想定される。

 第三は地域集団と中央政界との関係である。郡領任用は概要としては、(1)国擬(推薦)→(2)任用候補者の選定・奏上→(3)裁可の三段階で行われ、それぞれ(1)国司→(2)式部省・太政官→(3)天皇が担当する。しかし、郡領職を得ることが地域集団にとって大きな意義を有していたことを考慮すれば、かかる官司間の統属関係に限定されない、種々の関係が影響を与えたことが想定される。

 ここでは、このような種々の関係の内、官司・官人間の統属関係とは区別される関係を「非機構的関係」としておく。「非機構的関係」を「官司・官人の統属関係」と区別する基準は、第一に、関係自体が、「所管ー被管」「因事管隷」のような官司間の統属関係、四等官のような官人間の統属関係とは、異なること*7)である。第二に、関係を構成する個人、あるいは集団の影響力が、機構を媒介としていないことである。この場合、「機構を媒介とした影響力」の一般的な例は、律令制国家の官僚(武官を含む)としての立場を、影響力の基本的根拠とする場合であり、「官僚としての立場を基本的根拠とする影響力」の典型例は、官僚としての職務権限に基づく影響力である。以上、二つの基準が満たされていれば、人事への影響力を、機構に基づくそれと区別して見ることが可能であると考える。

 「非機構的関係」のうち、中央官司に影響を及ぼしうる、中央政界との関係は抗争に重要な影響を与えたと見られる。したがって、地域集団と中央政界との「非機構的関係」を、第三の条件として措定しておく。

 以上、三つの条件の措定は便宜的性格も強い。一方、本稿で分析する高市郡の事例は、言うまでもなく現実に行われた人事抗争である。それ故、抗争を構成する諸要素は微細であり、且つその相互の関連は複雑・微妙であることが想定される。したがって、かかる諸要素を便宜的な三つの条件に弁別し、且つその相互の関連を「直接」「間接」といった、相対的、かつ区分の曖昧な概念で捉えることは、かえって抗争の具体相を見失わせる恐れもある。

 しかし、以上のような措定によっても、律令制国家における郡領任用抗争の一般的特質を把握することは可能であり、したがって地域集団の活動と律令制国家との関連について、一つの素材を提供することは可能である。不十分な措定であるが、本稿の課題に対応する上では、十分な有効性を持つと考える。

 

〔U 抗争の経過〕

1.高市郡における二つの在地氏族

 諸史料に見える高市郡領を整理したものが、表1である。ここから、高市郡領に就いていた二つの在地氏族が知られる。一つは、高市連氏である。まず、bPの六七二年(天武元)に「高市郡大領高市県主許梅」が見える。この高市県主氏は、「大化前代」には高市御県を統括していた。また、bSの七五六年(天平勝宝八歳)に「擬大領高市連屋守」「擬少領高市連広君」が見える。高市県主は、六八三年(天武一二)に高市連氏となっている*8)ので、bSの高市連氏は、bPの高市県主氏の後裔である。bPは、評制段階である。また、bSは「今より已後、前の例を改め、立郡以来譜第重大之家を簡び定め、嫡々相継ぎて、傍親を用いることなからしむべし。」*9)という嫡々相継制の段階であるから、高市連氏の中の二つの「家」が、八世紀半ばの国擬において、「立郡以来譜第重大之家」に認定されたことが分かる。したがって、高市連氏は「立郡」以来郡領任用者を多く出してきた*10)、「譜第」*11)の系譜と考えられる。

 もう一つは檜前忌寸である。檜前忌寸は、倭漢氏の中の、その故地とされる檜前村を拠点とするグループとされる*12)。bQの七三一年(天平三)に初めて少領任用者を出す。後掲の〈史料1〉には、高市郡内には「他の姓の者は、一〇にして一・二なり。」とあり、高市郡内にかなり大きな勢力を有する集団であったと見られる。

2.抗争の経過

 この両氏族を中心とする地域集団は、七三〇年代以降、郡領職をめぐって抗争を繰り広げていた。その経過を整理すると、次の通りである*13)。

(1)第一期(七世紀半ば〜七二八年)

 この時期に確認されるのは、bPの「高市県主許梅」のみである。しかし、前記のように高市連氏は「譜第」の系譜と考えられるから、この時期を通じて評造職・郡領職を基本的に継承していたと見るべきであろう。一方の檜前忌寸の郡領任用は、bQの七三一年に始まるから、この時期には郡領職は得ていない。また、当時の郡領任用は別姓併用が一般的とされている*14)ので、高市連氏とは別に、郡領職に就いていた在地氏族が存在した可能性はある。しかし、現在のところ、確認することはできない。

(2)第二期(七二九〜七四八年)

 檜前忌寸が郡領職を獲得・独占する時期である。まず、七二九年(天平元)に明確な抗争の勃発が確認される。『続紀』宝亀三年(七七二)四月庚午条(以下、「宝亀三年条」)は、坂上苅田麻呂の申請によって、嫡々相継制下において「譜第」ではない檜前忌寸が郡領任用資格を得たことを記すが、同年に至るまでの、檜前忌寸の郡領任用の経緯が記されており、抗争の経過を知る基本史料の一つである。その同条に次のようにある。

・〈史料1〉 『続日本紀』宝亀三年(七七二)四月庚午条

…檜前忌寸を大和国高市郡司に任ずるの元由は、(A)先祖阿智使主、軽嶋豊明宮に馭宇しし天皇の御代に、一七県の人夫を率いて帰化せり。詔して、高市郡檜前村を賜いて居らしめき(B)凡そ高市郡の内には、檜前忌寸と一七県の人夫地に満ちて居り。他の姓の者は、一〇にして一・二なり。是を以て、(C)天平元年一一月一五日、従五位上民忌寸袁志比ら、その所由を申しき。

 本条によれば、(A)「先祖」阿智使主が応神朝に一七県の人夫を率いて帰化した際、詔によって同郡檜前村を賜ったこと、(B)同郡内には檜前忌寸と一七県の人夫が地に満ちており、他姓の者は一〇の内、一・二に過ぎないこと、の二点を、(C)七二九年に民忌寸袁志比が申請したという。本条冒頭に「檜前忌寸を大和国高市郡司に任ずるの元由」を記したとあるので、この申請は(A)(B)二点を根拠に、郡司(郡領)任用を申請したものであろう。すでに、郡領職を獲得・継承していた在地氏族が存在したわけであるから、同申請はこれらの氏族を中心とする地域集団に対する抗争の、明確な開始を示すものである。

 以下、七三一年に内蔵少属であった蔵垣忌寸家麻呂が少領に任用される(bQ)。この後、七三五年に「国擬を除く外に、別に難波朝庭より以還の譜第重大なる四・五人を簡ひて副うべし。」*15)という法令が出される。これによって、「譜第」氏族四・五人は、必ず式部省・太政官における審査に預かれることとなり、その意味で「譜第」優遇策といえる。それだけ、檜前忌寸にとって情勢は不利だったはずだが*16)、七三九年には大領家麻呂・少領蚊屋忌寸子虫と郡領職を独占する(bR)。高市連氏はbQの段階では大領職を維持していた可能性があるが、bRの段階で郡領職を失ったことは確実といえる。檜前忌寸が勝利を収め、逆に「大化前代」以来の統括の伝統を有する高市連氏は失脚した時期といえる。

(3)第三期(七四九〜七六四年)

 この時期に確認されるのは、七五六年(天平勝宝八歳)に、擬大領高市連屋守・擬少領高市連広君と、擬任郡司ながら高市連氏が郡領職を独占していることである(bS)。(1)この時期に、郡領の銓擬が行われていること、(2)先の宝亀三年条には、bR以後、七六五年のbTまで郡領任用者の記事はなく、この間、檜前忌寸からの新たな郡領任用はなかったと見られること、の二点からすれば、(1)’檜前忌寸は、独占していた郡領職を七五六年以前に失い、(2)’さらに第三期を通じて奪還できなかったことは確実である。

 この時期の高市連氏の復権の法的根拠は、七四九年(天平勝宝元)に出された、前記の嫡々相継制と見られる。

 また、この二人の擬任郡領が、そのまま正員郡領となったかは、確認されない。しかし、筆者は以下の根拠から、恐らくこの二人がそのまま正員郡領になったと考える。第一に、少領職については、後述のように第四期には高市連氏が維持していたと見られる。とすれば、国擬で推されたこの時期に少領職を得たと見ておくのがもっとも自然であろう。第二に、大領職については、これを他氏族が占めた場合ー前記のように、檜前忌寸はこの時期、郡領職を奪還できなかったと見られるのでー、檜前忌寸でも高市連氏でもない在地氏族が、郡司の中の最上席を占めたことになる。しかし、嫡々相継制下であることを考慮しても、かかる事態は考えにくく、「大化前代」以来の統括の伝統を有する高市連氏が、大領職を得ていたと見ておくべきであろう。

 すなわち、第二期と異なり、少なくとも七五六年以降については、高市連氏が郡領職を独占する状況が生じたと考えられる。この場合、七三五年に出された「宜しく、一郡、同姓を併用するを得ざるべし。」*17)との法令に抵触するが、同法令の付帯事項「如し他姓の中において、用うべき人なくんば僅かに少領以上に用いるを得よ。」が適用されたと考えられる。

 高市連氏が巻き返し、勝利を収めた時期といえる。

(4)第四期(七六五〜七七一年)

 この時期に確認されるのは、七六五年(天平神護元)に檜前忌寸の文山口忌寸公麻呂が大領に任用されたことである(bT)。

 しかし、前記の宝亀三年条には、以後、郡領任用者の記事はないので、少なくとも七七二年(宝亀三)まで、檜前忌寸が少領職を得ることができなかったのは確実である。

 少領に就いていた氏族は、(1)次章で検討する抗争の条件からしても、檜前忌寸が郡領職独占を企図しても不自然ではなく、これに対抗するのはある程度の有力氏族でなければならないこと、(2)嫡々相継制下であること、の二点からすれば、高市連氏であったろう*18)。第二期及びー本稿での考察に従えばー第三期*19)と異なり、檜前忌寸・高市連氏が拮抗する状況が生じたと考えられる。

 以後、高市郡司は一〇七六年(承保三)まで確認できず*20)抗争がどのように展開していったかは不明である。

 

〔V 抗争の直接的条件及び、その存立要因・変質の意義〕

1.抗争の直接的条件の析出

(1)第一期

 前記のように、史料上、この時期には抗争は確認されないが、抗争の特質の把握の前提として、第一の条件たる評造・郡領として評内・郡内を統括する根拠についてのみ、若干、考察したい。考察対象は、言うまでもなく、この時期に評造・郡領職を継承していた高市連氏である。

 先ず、高市連(県主)氏の評造任用の時期について確認しておこう。同氏が「立郡」以来の「譜第」であったことからすれば、それは立評時ー高市御県から高市評への移行期ーに遡る。その時期は孝徳朝であろう。第一に、既に孝徳朝に県(アガタ)は評に転化したとする米田雄介氏の見解が提示されていること*21第二に、孝徳朝に高市御県を含む六御県に使者が派遣されているが*22)、同日に同様の任務を帯びて派遣された「東国国司」は評制施行を前提に活動していること*23)、がその根拠である。

 次に、高市連氏の評造任用の根拠について考察しよう。この点を具体的に示す史料はないが、「東国国司詔」*24)に「我が祖の時より、此の官家を領り、是の郡県を治む。」と虚偽の主張をして評造任用・立評を望んだ際の処置が述べられていることが参考になる。これは、少なくとも孝徳朝当初においては、立評に当たって、旧来、該当地域を統括してきたことが、評造任用への有力な根拠になったことを示している。言うまでもなく、高市連氏は高市県主として、高市御県を統括してきたのであって、恐らくこの点が有力な根拠となったのであろう。

 もっとも、単にかつて県主であったというだけで、評内を統轄し得るとすれば、評制施行の意義自体が喪失しかねないから、以上はあくまで評内統括の根拠の一端に過ぎない。事実、「大化前代」には国造・県主などの職に就いていなかった新興首長層が、七世紀後半に評造に任用されたと見られる事例は多く確認される。しかし、一端であったにせよ、右の点が根拠として一定度、機能していたことは認めてよく、新興首長層が任用された評とは異なる、高市評の地域的特色の一部を形成していたと見られる*25)。

 大宝令施行に基づく郡制施行後の郡内統括の根拠は、まったく不明ではあるが、高市連氏が郡領職を継承していたと見られることからすれば、「大化前代」に県主として高市御県を統括していたこと、さらに孝徳朝以降評造として高市評を統括していたことは、かかる根拠として一定の機能は果たしていたであろう。

(2)第二期

 この時期は檜前忌寸が台頭し、七三一年に郡領職(少領)を獲得し、七三九年に郡領職を独占するに至る。この(1)郡領職獲得、(2)郡領職独占を実現せしめた、それぞれの条件につき考察し、直接的条件を析出してみたい。

 まず、第一の郡内統括の根拠について。(1)郡領職獲得の際の根拠が、(A)帰化の際、応神天皇によって高市郡内の檜前村を賜ったこと、(B)檜前忌寸を中心とする地域集団の規模が、高市郡内において巨大であること、の二点(以下、(A)(B)二点)であったことは、〈史料1〉太字部(A)(B)より分かる。この(A)(B)二点は(1)郡領職獲得のみならず、(2)郡領職独占においても根拠として機能したと考えられる。宝亀三年条は、前記のように坂上苅田麻呂の申請によって、「譜第」ではない檜前忌寸が任用資格を得たことを記すが、〈史料1〉は宝亀三年条の中の苅田麻呂の申請部分である。したがって、太字部(A)(B)は、檜前忌寸が七七二年(宝亀三)に任用資格を得た際の根拠ともなったと考えられる。それ故、(A)(B)二点は、八世紀を通じて檜前忌寸の郡内統括において根拠として機能したと見られるのであり、(2)郡領職独占においても同様に根拠として機能したと考えられる。

 次に法的根拠について。(1)郡領職獲得において、(A)(B)二点が郡内統括の根拠として機能しうるのは、法的には大宝選任令の郡領任用制度が「才用」主義だからである。養老選叙令13郡司条には、「凡そ郡司には、性識清廉にして時務に堪える者を取り、大領・少領とせよ。」とあり*26)、『令集解』古記や「改新詔」第二詔副文*27)などから、大宝選任令も基本的に同文と考えられる。尤も、郡領任用については、「時務に堪える者を取り」とあるだけで、「時務に堪える」ために何が必要かは明示されていないから、「才用」の内容は抽象的で曖昧な内容である。したがって、大宝選任令郡司条の内容からは、(A)(B)以外の点が根拠となる可能性もあるのであって、直ちにこれら二点を根拠として導き出せるわけではない。しかし、仮に同条の内容が、倭王権段階の国造制・評造制*28)のように、特定氏族によって郡領職を継承させていく内容であったとすれば、そもそも檜前忌寸の郡領任用がありえず、(A)(B)二点が根拠となることもない。その意味では、同条が「才用」主義であったからこそ、(A)(B)二点が根拠となりえたと言えるのであって、同条の(1)郡領職獲得に対する規定性を否定するべきではない。

 (2)郡領職独占の法的根拠も、基本的に同様とすべきであろう。七三五年に、前記の「譜第」副進制が出されるが、これは「譜第重大四五人」の副進を義務付けただけで、任用の第一義的基準は大宝選任令郡司条の「才用」規定が適用されることに変わりはないからである。

 しかし、これら二つの条件によって、直ちに檜前忌寸の(1)郡領職獲得、(2)郡領職独占が実現したわけではない。第一の郡内統括の根拠について。(A)の阿智使主が檜前村を賜ったとの伝承がいつ成立したかは定かではないが、倭漢氏が檜前村を根拠地としたこと自体は、「大化前代」には遡ると考えられる*29)ので、伝承の成立もまた、この段階には遡るものと見るべきであろう。(B)も母体となる倭漢氏の規模を考えれば、「大化前代」に遡ると見られる。第二の法的根拠も、当然ながら大宝令施行に遡るものである。すなわち、単にこれらの二つが(1)郡領職獲得、(2)郡領職独占の条件であったのであれば、大宝令施行直後に、檜前忌寸の郡領職獲得・独占が実現してよい。この第二期に、これらを実現せしめた直接的条件があるはずである。

 では、その条件は何であろうか。残念ながら、(1)郡領職獲得については不明である。しかし、(α)bQで少領に任用された蔵垣忌寸家麻呂は内蔵少属であり、中央出仕の官人であること、(β)七二九年の申請を行った民忌寸袁志比も、『続紀』に叙位記事が散見され*30)、中央出仕の官人と見られること、(γ)(2)郡領職独占・第四期の檜前忌寸復権の直接的条件、などを考慮すると、何らかの形で中央政界との関係が影響を与えたことが想定される。

 (2)郡領職独占については、明らかに中央政界との「非機構的関係」であり、かかる関係が形成された契機は、倭漢氏に属する坂上犬養が聖武天皇の寵臣となったことと考える。犬養は、これまでも触れてきた坂上苅田麻呂の父、また著名な坂上田村麻呂の祖父にあたる。犬養の祖父の老は壬申の乱の功臣で、死去にあたって当時の文武天皇が弔詔を出している*31)。しかし、その子の大国には見るべき事績がなく、田村麻呂の活躍にいたる坂上氏の中央政界における地歩は、この犬養が基礎を築いたとされる。七六四年(天平宝字八)に、八三歳という長命で没した*32)。

 その卒伝には、「…小にして武才を称せられる。(A)聖武皇帝、祚に登りて、これを寵すること厚し。…(B)勝宝八歳、聖武皇帝崩りましぬるとき、久しく恩渥に沐するを以って山稜を守らんことを乞う。…」*33)とあり、(A)聖武の即位後、その寵臣となったこと、(B)聖武の死去にあたって、生前の寵愛を理由に自ら願い出てその山稜を守ったこと、が記されている。(B)については、『続紀』天平勝宝八歳(七五六)五月乙亥条に対応記事が見え、当時の孝謙天皇が「先代の寵臣、此の如くあるを見ず。」と犬養らの行動を激賞し、褒章として従四位下から正四位上に叙している。このような行動は、当時においても異例であったことが分かり、聖武との間に極めて強い個人的な結びつきがあったと想定される。

 犬養の官歴は表2の通りである。七三六年に史料上、初めて確認され、以後、目覚しい昇進を遂げている。これは聖武の寵愛によるものと考えられるが、檜前忌寸が少領職を維持し、さらに郡領職を独占していく時期と一致する。

 坂上氏自身は、(令制の)添上郡坂上里を故地としていたとされており*34)、檜前忌寸には属さない。また、諸先学によって明らかにされているように、犬養の時代には苅田麻呂や田村麻呂のような、倭漢氏の中での「宗家のごとき地位」「支配的立場」を占めているわけではない*35)。しかし、既に触れているように、子息の苅田麻呂は宝亀三年条において、檜前忌寸に法的な任用資格を与える旨の申請を行っており、犬養が檜前忌寸に対して何らかの協力・援助を行っても不自然ではない。また、「譜第」副進制が出される中で、郡領職を独占しようと思えば、それだけ強力な条件が必要だが、倭漢氏の中で犬養以上に中央政界に影響力を行使しうる人材も見られない*36)。

 以上からすれば、この時期に檜前忌寸の(2)郡領職独占が実現したのは、犬養の中央政界への影響力によるものと見てよいであろう。

  この犬養の影響力は、官司・官人の統属関係に基づくものではない。(2)郡領職独占を実現させるにあたっての犬養の具体的活動は不明だが、律令制国家の官僚としての職務権限に基づいて、影響力を行使することは不可能であった。この時期、犬養が就いた官職は、七四六年の左衛士佐、七四八年の左衛士督など主に武官であり、高市郡の郡領任用に関与する権限を持たないからである。想定される活動としては、(α)郡領候補である蔵垣忌寸家麻呂・蚊屋忌寸子虫の推薦状を発給する*37)、(β)証拠として残るかかる文書を発給せずに、種々の人脈を動かして、太政官・式部省に影響を及ぼす、などが、考えられる。しかし、かかる手段によったとしても、それが影響力を持ちうるとすれば、犬養の一武官としての立場によるものではなく、聖武の寵臣であることを基本的根拠にしたものであろう。

 すなわち、犬養の影響力自体は、聖武の権威を背景にしたものであり*38)、その意味では、聖武ー犬養ー檜前忌寸(及びそれに従う人々。煩瑣を避けるため、以下、略)という関係が、この時期の高市郡の郡領任用を直接に規定したといえる。かかる関係は、聖武個人の「寵愛」を契機に形成され、言うまでもなく、官人間の統属関係とも異なる。さらに、前記のように犬養の影響力が、自らの律令制国家の武官としての立場ではなく、基本的に聖武の寵臣であることを根拠にしていたことを考慮すれば、機構を媒介とするものとは看做しがたい。すなわち、かかる関係を「非機構的関係」とすることが可能であると考える*39)。すなわち、檜前忌寸の(2)郡領職独占は、聖武天皇ー坂上犬養ー檜前忌寸という「非機構的関係」が直接的条件となって実現したと考えられる。

(3)第三期

 この時期には、七五六年に高市連氏が擬任郡領に就任したことが確認され、恐らくそのまま正員郡領となったと見られる。まず、高市連氏復権の法的根拠は、前記のように嫡々相継制と考えられる。従って、第二の条件を同制に求めることができる。

 では、嫡々相継制と、第一の条件たる郡内統括の根拠との関連は如何であろうか。この当時、嫡々相継されていく「家」が、どこまで社会的基盤として意義を持っていたかは疑わしく*40)、従って、それがそのまま郡内統括の根拠として機能したかは疑問といえる。しかし、「譜第」の系譜自体は意義を有していたと見るべきであろう。従って、高市連氏の復権は、「譜第」の系譜を郡内統括の根拠とし、それに嫡々相継制によって法的根拠が与えられるという形で行われたと見られる。

 では、七四九年の嫡々相継制発令後、直ちに高市連氏の復権が行われたのであろうか。この問題は、かかる復権を可能にした直接的条件は何か、という問題につながるが、史料上、確認できるのは七五六年の状況のみであるので、検証が必要である。

 結論から言えば、七四九年の嫡々相継制以後も檜前忌寸が郡領職を独占を維持し、七五六年に至って高市連氏が復権を果たしたと考える。この場合、ー前記のように、檜前忌寸の側は七三九年の郡領職独占(bR)以後、七六五年の5まで郡領任用者は出なかったと考えられるのでー、bRの大領蔵垣忌寸家麻呂・少領蚊屋忌寸子虫が、七五六年まで郡領職を占め続けたことになる。

 その根拠の第一は、高市郡のように「譜第」の系譜に属さない者が郡領職に就いていた場合、嫡々相継制が発令されたからと言って、直ちに退任しなければならないとは、現在のところ、必ずしも言えない事である。もとより、郡領を「立郡以来譜第重大之家」に限定しようという、嫡々相継制の政策意図からすれば退任が望ましいのであろうが、同制を発令した天平勝宝元年二月壬戌勅にはー『続紀』による限りー、その旨が明記されているわけではない。実際に、檜前忌寸がどのような主張をしたかは不明だが、現在のところ確認できる嫡々相継制の内容からは、檜前忌寸が郡領職維持の法的正当性を主張する余地は残されていたと考えられる。

 根拠の第二は、嫡々相継制の発令後も、第二期における檜前忌寸の(2)郡領職独占の直接的条件となっていた聖武ー犬養ー檜前忌寸という「非機構的関係」は、基本的に維持されていたと考えられることである。犬養に多大の恩寵を与えた聖武は、病弱を理由に七四九年に譲位し、太上天皇となるが*41)、近年の太上天皇制研究の成果から見ても、それは政治的影響力の喪失を示すものではなかった*42)。事実、この時期には聖武の健康状態と反乱の計画が、「必ず相関関係をもって現われる」*43とされている。とすれば、上記の関係を条件とする影響力もーとりわけ、聖武の健康状態に応じて、何らかの動揺はあったにしてもー、基本的には維持されていたとすべきである*44)。すなわち、政治的条件としても、檜前忌寸が郡領職独占を維持する余地は十分にあったと考えられる。

 法的にも政治的にも郡領職独占を維持する余地が残されているとすれば、第二期において郡領任用抗争を挑み、郡領職を独占する成果を収めた檜前忌寸が、易々とそれらを明け渡すとは考えにくい。また、この時期は中央政界において、藤原仲麻呂と橘諸兄・藤原豊成らとの対立が深刻化していた時期である。坂上犬養・苅田麻呂父子は、かかる情勢下で直接にはその「武才」を以って、独自の重要な地位を占めていた*45)。檜前忌寸を退任させれば、犬養・苅田麻呂父子と対立しかねないが、それは政権の不安定化に拍車を掛け兼ねないのであって、国・中央官司ともに行いにくい人事であったろう。

 筆者が、高市連氏の復権を七五六年と考える第三の根拠は、同年に聖武が死去していることである。すなわち、同年五月に聖武が死去し(『続紀』天平勝宝八歳五月乙卯条)、一二月に高市連氏の復権が確認される。この時期的な近似性を単なる偶然と見ることもできるが、第一・第二の根拠もあわせて考えるならば、聖武の死去によって、檜前忌寸の郡領職独占を支えてきた聖武ー犬養ー檜前忌寸という「非機構的関係」が消滅し、大領蔵垣忌寸家麻呂・少領蚊屋忌寸子虫が退任に追い込まれ*46)、高市連氏が復権を果たしたと考える方が蓋然性が高いであろう。ちなみに、大領・少領の退任が同時であるのも偶然とは考えにくいが、このように考えれば整合的に説明できる。

 以上から、この時期の高市郡の郡領任用の経緯は、七四九年の嫡々相継制以後も、bRの大領蔵垣忌寸家麻呂・少領蚊屋忌寸子虫が郡領職を維持し、七五六年の聖武の死去を契機に、「譜第」の系譜を郡内統括の根拠とし、嫡々相継制を法的根拠とする形で、高市連氏が擬任郡領を独占し、そのまま正員郡領に任用されたと見られる。とすれば、高市連氏の復権を可能にした直接的条件はー基本的に檜前忌寸の側の問題であるがー、聖武の死去による聖武ー犬養ー檜前忌寸という関係の消滅であり、結局は、第二期の(2)郡領職独占同様、「非機構的関係」ということになる。

(4)第四期

 この時期には、(1)七六五年に檜前忌寸が復権し、文山口忌寸公麻呂が大領に任用されたこと、(2)少領職は高市連氏が維持したこと、が確認・想定される。以下、それぞれを実現せしめた条件について考察しよう。

 (1)檜前忌寸の大領職獲得について。まず、郡内統括の根拠としては、依然として、〈史料1〉の(A)(B)二点が機能していたと見られる。次に、法的根拠だが、まず確認しておくべきは、この段階では法制上、檜前忌寸には基本的に任用資格がないことである。なぜなら、この段階では嫡々相継制がいまだ有効法であり、原則として前任者(本稿の想定では、高市連屋守の可能性が強い)の嫡子が任用されるはずだからである。いかなる論理を以って、公麻呂の任用が法的正当性を得たのかは不明だが、これまでも触れてきたように、七七二年に任用資格の申請を行っていることからも、その法的根拠は脆弱であったと見られる。

 しかし、以上、二つの条件は大領職獲得の直接的条件とは看做しがたい。郡内統括の根拠は、第二期および第三期前半(七五六年以前の檜前忌寸が郡領職を独占していた段階)と同様であり、にもかかわらず、七五六年には失脚しているのだから、かかる根拠を有することが、直ちに復権につながるとは考えがたい。法的根拠も、その脆弱性からすれば、それによって直ちに任用が実現する性格のものではないと見るべきであろう。

 では、檜前忌寸の大領職獲得を実現せしめた直接的条件は何であろうか。筆者はまたしても中央政界との「非機構的関係」であり、具体的には称徳天皇ー坂上苅田麻呂ー檜前忌寸という関係であったと考える。

 苅田麻呂と檜前忌寸との関係は、前年に没した犬養時代からの関係を引き継いだものと見られる。また、前記のように、称徳(孝謙)は聖武死去の際の犬養の行動を激賞しており、その子息である苅田麻呂も、犬養存命中から一定の信頼を得ていたであろう。

 しかし、かかる関係が、ほとんど法的根拠のない檜前忌寸の大領職獲得を実現せしめるほど、強固となった契機は、前年の仲麻呂の乱における苅田麻呂・檜前忌寸の軍功であろう。乱の緒戦において、授刀少尉であった苅田麻呂は、将曹牡鹿嶋足とともに、仲麻呂側に奪われた鈴印を奪還し、かつ仲麻呂の子息である訓儒麻呂を射殺するという軍功を挙げている*47)。また、檜前忌寸も戦闘に参加しており、後日、「賊と相戦い、及内裏に宿衛する檜前忌寸二三六人…、爵人ごとに一級を賜う。」*48)と、軍功によって昇叙に預かっている。恐らく、檜前忌寸は苅田麻呂の指揮下で戦ったのであろう。

 公麻呂の大領任用が、かかる軍功に対する褒賞としての意味を持っていたことは、まず疑いないところであろう。それ故、この人事には称徳の意思が何らかの形で働いていると見られる。苅田麻呂も、何らかの活動を行ったと見られるが、ほとんど法的根拠がないことを考えれば、当時の従四位下中衛少将甲斐守という立場を根拠に実現しうるとは考えられず、かかる称徳の意向を基本的根拠とする人事であったと見られる。

 称徳ー苅田麻呂ー檜前忌寸の関係は、言うまでもなく官人間の統属関係とは異なる。そして、後述のように、称徳の影響力は統治権の総攬者としての立場に基づくものではないとすれば、かかる関係は、基本的に「非機構的関係」とすることが可能である。すなわち、檜前忌寸の大領職獲得を実現した直接的条件は、称徳天皇ー坂上苅田麻呂ー檜前忌寸という「非機構的関係」であったと見られる。

 しかし、いかに軍功に対する褒賞とはいえ、嫡々相継制下であるにも関わらず、新たな任用基準を示さないままかかる人事を行えば、郡領任用抗争の激化を招きかねない。したがって、この人事は、かかる抗争の頻発を抑止しようとした*49)嫡々相継制のもっとも基本的な政策意図の無視とも言いうる。この点に称徳・道鏡政権の特異性を見い出すこともできよう。

 しかし、一方、任用においては、嫡々相継制下であるにもかかわらず、かかる人事を行うことについて、何らかの言及があったであろう。いかに特異な性格を有する称徳・道鏡政権であっても、法そのものを無視し得ないことも、合わせて確認しておく必要があろう。

 次に、(2)高市連氏の少領職維持について。郡内統括の根拠と法的根拠は、第三期と同様であったろう。すなわち、高市連氏は「譜第」の系譜を郡内統括の根拠とし、嫡々相継制によって法的根拠を得て、少領職を維持したと考えられる。中央政界との「非機構的関係」については不明だが*50)、何らかの影響を与えたとしても、仲麻呂の乱において目覚しい功績を挙げた、苅田麻呂ー檜前忌寸に比べれば、微弱とせざるを得なかっただろう。

 しかし、高市郡においては、第二期の七三九年以降、三〇年近くにわたって檜前忌寸か高市連氏が郡領職を独占してきたと見られるのであって、この七六五年の段階でも檜前忌寸が郡領職独占を企図しても不自然ではない。仲麻呂の乱の軍功という圧倒的成果を考えれば、その実現の可能性は相当にあったと見るべきであろう。にもかかわらず、高市連氏の少領職維持を可能にした直接的条件は何であろうか。

 まず、中央政界との関係については、前記のようにその影響力は微弱と見られるから、檜前忌寸に対抗し、約三〇年ぶりに檜前忌寸・高市連氏が拮抗する状況を生み出す直接的条件となるとは考えにくい。また、法的根拠も同様である。前記のように当時の中央政府は嫡々相継制の政策意図をほとんど無視しており、同制を積極的に遵守しようとする姿勢はない。従って、高市連氏が「譜第」であったことは、一つの有利な条件であったとは考えられるが、法的根拠があるからといって、少領職を維持しうる状況ではなかったと考えられる。

 筆者は、高市連氏の少領職維持を可能にした直接的条件は、「譜第」の系譜に基づく郡内統括の根拠であったと考える。まず、中央政界との関係も、法的根拠もかかる条件になりえないとすれば、少領職は郡内の諸関係・諸情勢によって維持されたと見るのが自然であろう。次に、すでに八世紀前半の郡内統括において「譜第」の系譜に属する者が有力となりつつあった。七三五年に「譜第」優遇策が出され、七四九年には大宝・養老令の「才用」主義を改変して、嫡々相継制が採用されていることがその証左である。さらに、八世紀後半を通じて、「譜第」の系譜が強固な権威を確立していったと考えられる。前記のように、八一一年には、「譜第」の者でなければ、郡内を統括しえず、任用基準を転換せざるを得なかったことが知られる。

 もとより、八世紀の前半〜半ばにかけては、第二・三期の例に見えるように、中央政界との「非機構的関係」によっては「譜第」といえども郡領職を維持し得ない状況にあった。また、八一一年の段階と、この七六五年の段階を同一視することもできない。しかし、前記のような七六五年段階の高市郡の情勢と、八世紀を通じて「譜第」の権威が確立していく過程とを考慮すれば、この段階で「譜第」の系譜が一定度の強固な権威を確立しつつあり、檜前忌寸が圧倒的に優勢な状況下にあっても、高市連氏を除いては郡内を統括することはできないと判断され、少領職が維持されたと見ることが可能であると考える。

(5)第四期以降の動き

 前章で述べたように、第四期以降の抗争の推移は不明であるが、檜前忌寸の側に抗争に関わると見られる動きが確認される。本節の課題からは外れるが、最後に、この点につき述べておこう。

 第一は、七七二年に「譜第を勘うることなく、郡司に任ずることを聴すべし。」との勅(以下、「七七二年勅」)を得たことである。これは、これまでも触れてきた宝亀三年条から知られるが、これによって嫡々相継制下であっても、「譜第」ではない檜前忌寸に法的な任用資格が保障されることとなった。

 第二は、郡内統括の歴史的正当性の主張である。『坂上系図』阿智王条所引の『新撰姓氏録』逸文*51)には次のようにある。

〈史料2〉

(A)爾時(引用者註、時期は仁徳朝とされている)、阿智王奏して、「今木郡を建てむ」ともうす。(B)後に改めて高市郡と号す。而るに人衆巨多くして、居地隘狭くなり… 

 ここでは、(A)仁徳朝に阿智使主が今木「郡」の建郡を奏上し(認められ)、(B)それが後に高市郡と称するようになったと言う。この伝承に従えば、高市郡成立の淵源は仁徳朝の阿智使主の奏上にまで遡ることになる。これまで述べてきた高市連氏との抗争を考えれば、檜前忌寸の郡内統括の歴史的正当性を主張する意義を有する伝承といえる。

 もっとも、これは明らかに檜前忌寸による述作である。今木「郡」は、令制郡としては確認されないが、『書紀』には見え*52)、七世紀後半に今木評が存在した可能性は考えられる。しかし、まず(A)部(事実と認めがたいのは、言うまでもない)は、七七二年の〈史料1〉太字部(A)の、詔によって高市郡内の一地域である檜前村を賜ったとの主張と比べると、より郡内統括の歴史的正当性を強調する内容に改変されていることが指摘できる*53。また、(B)部も檜前忌寸による一面的な主張というべきであろう。周知のように律令制国家の歴史認識では評制は存在しないことになっているので、評と郡との系譜的な連続性がどのように認識されていたかは微妙である。しかし、仮に七世紀後半に今木評が存在し、その編成した地域が高市郡に継承されたとしても、高市郡における立郡以来の「譜第」は、高市評を統括していたと見られる高市連氏であったわけだから、それを以って、直ちに今木「郡」が後に高市郡と号するようになったと、高市郡と今木評(律令制国家の歴史認識においては今木「郡」)との系譜的連続性のみを強調することはできないと言えよう。すなわち、宝亀三年条の七七二年以後、『新撰姓氏録』が編纂された八一五年(弘仁六)以前のいずれかの段階において、かかる述作によって郡内統括の歴史的正当性を強化する作業が行われたことになる*54)。

 以上の二つの動きからすれば、第四期以降の檜前忌寸の大きな課題は、「譜第」ではないという系譜上の弱点を、如何に克服するかという点であったと見られる。この点が課題となる理由は、第一に郡領職継承の問題と見られる。前記のように、第四期における檜前忌寸の復権の法的根拠は脆弱と見られるのであって、この点の克服の必要があったことは、七七二年勅の内容からも明らかであろう。第二は、郡内統括の問題と見られる。前記のように、八世紀後半を通じ、郡内統括において、「譜第」の系譜は強固な権威を確立していったのであり、檜前忌寸としては、これに対抗する必要があったと考えられる。法的な任用資格については、七七二年勅によって克服されているにもかかわらず、〈史料2〉に見える郡内統括の歴史的正当性の主張が行われるのは、かかる必要による部分が大きかったと見られる。

 以上の分析からすれば、第四期以降の檜前忌寸を中心とする地域集団の郡領任用抗争に関わる活動は、抗争の第一の条件たる郡内統括の根拠、第二の条件たる法的根拠に、基本的に規定されていったと見られる。

2.直接的条件の存立要因と、変質の意義

 以上の分析からすれば、第二・三期までは中央政界との「非機構的関係」が抗争の直接的条件となり、第四期において、依然としてかかる関係が抗争の直接的条件となりつつも、「譜第」の系譜に基づく郡内統括の根拠が直接的条件となる現象が見られることになる。前記のように、「譜第」が郡内において権威を確立していくこと、さらに第四期以降の檜前忌寸の動きを見れば、以後、郡内統括の根拠(さらに、それを一定度体現した、法的根拠)が、抗争の直接的条件となっていったと想定される*55)。ここでは、まず(1)第二〜四期において、なぜ中央政界との「非機構的関係」が抗争の直接的条件となるのかを、(a)本稿で措定した三つの条件のうち、もっとも基底的と見られる郡内統括の根拠、さらに(b)当該期における「支配階級」の課題の、二つの面から検討し、次に(2)第四期以降の抗争の変質が、律令制国家の郡内統括の展開の中でいかなる意義を有しているか、を検討する。

(1)第一〜四期の直接的条件の存立要因

 まず、本稿で検証しえた第一〜四期の郡内統括の根拠を整理してみよう。

(α)高市連氏(第一期)…高市県主として高市御県を、また高市評造として高市評を、それぞれ統括してきたこと
(β)檜前忌寸(第二〜四期)

(A)帰化の際、応神天皇によって高市郡内の檜前村を賜ったこと
(B)檜前忌寸を中心とする地域集団の規模が、高市郡内において巨大であること

(γ)高市連氏(第三・四期)…「譜第」の系譜(「郡領」*56)として郡内を統括してきたこと)

 共通するのは、第一に、それぞれの在地氏族と郡・評(内に編成された地域)との歴史的関わりが重要な意義を有することである。高市連氏は、(α)では高市郡内(評内)に編成されていた高市御県を統括する高市県主や、高市評を統括する高市評造に任用されてきたこと、(γ)では高市郡自体を統括する郡領に任用されてきたことを、根拠にしていた。また、(β)ー(A)の檜前忌寸も、高市郡内に居住地を賜ったことを根拠としている。第二に、かかる歴史的関わりにおいては、「天皇」*57)の介在が重要な意義を有することである。(α)の高市県主・高市評造を任用するのは「天皇」と見られるし*58)、(γ)の高市郡領も同様である。また、(β)ー(A)の檜前村を与えたのも、「応神天皇」とされている*59)。
 

 しかし、共通するのはここまでである。以上の、根拠の具体的な内容は、一様ではない。たとえば(β)の歴史的関わりは、居住地の賜与であって他の二つとは性格を異にしている。残る(α)・(γ)は倭王権・律令制国家における地位・官職の任用という点で共通するが、県主・評造・郡領は言うまでもなく同一ではなく、系譜意識としても異なるものである*60)。また、本稿で検証した高市連氏・檜前忌寸のめまぐるしい変遷に明らかなように、安定して郡内を統括し得る根拠とはなり得なかった。すなわち、この段階では、郡内における郡内統括の根拠は内容的にも、必ずしも一様とは言えず、その根拠としての脆弱性も否めない。したがって、郡内統括は不安定にならざるを得ず、任用においても中央との関係が重要にならざるを得ないと考えられる。

 しかし、単に任用において中央との関係が重要であると言うだけでは、中央政府の定める法的根拠が任用の直接的条件となってもよいはずである。何故、「非機構的関係」がかかる条件となるのであろうか。この点を当時の「支配階級」*61)の課題から考えてみよう。

 まず、「非機構的関係」の特質から考えてみる。 第二期・三期前半のかかる関係は聖武天皇(太上天皇)−坂上犬養ー檜前忌寸であり、第四期は称徳天皇ー坂上苅田麻呂ー檜前忌寸である。いずれも、頂点に天皇がおり、すでに考察したように天皇の権威を影響力の基本的根拠としている点が特徴である。

 天皇がかかる権威を有するのは、郡領任用においても最終的に裁可の権限を握る、統治権の総攬者であったことも影響していよう。しかし、前記のように、法は当該期においても「公」「私」の分離の媒介*62)と見られ、「単一的支配」を特徴とする国家機構存立の為の、不可欠の条件であった。したがって、法的根拠ではなく「非機構的関係」が抗争の直接的条件となり、あまつさえ法令や政策意図と矛盾する人事さえ実現してしまう状況は、国家機構の維持という課題とは明らかに矛盾する。必然的に、かかる状況は国家機構に結集する「支配階級」の利害、さらに国家機構を媒介にしてはじめて機能する天皇の統治権自体の意義と、関わる問題である。とすれば、仮に高市郡における郡領任用に天皇個人の主体的意志が働いていたとしても、国家機構の維持という観点からは、掣肘されねばならない性格のものである。にもかかわらず、かかる関係は、単に一時的現象ではなく、三〇年近くにわたって高市郡の郡領任用の直接的条件となり続けたのであって、それが何故かは、単に天皇が統治権の総攬者であるだけでは説明できない。

 天皇がかかる権威を有するのはー当該期の天皇と官人との関係の特質を考慮すればー、基本的に、神的性格を有し姓・位階の賜与者として超越的な位置を占める、良人共同体の首長であったからであろう*63)。この擬制的共同体は、言うまでもなく官人集団を含む良人個々人と天皇との人格的身分的結合関係によって成り立つ。すなわち、ここでの「非機構的関係」の特質は、天皇を頂点とする人格的身分的結合関係の秩序から派生する点にある。

 では、なぜ、かかる関係が抗争の直接的条件となるのであろうか。それは、石母田が指摘し、拙稿で改めて確認したように*64)、天皇との人格的身分的結合関係に基づく秩序の維持が、官司・官人の統属関係によって成り立つ官制体系の維持に先行する、「第一義的課題」であったためであろう。この点は、他ならぬ法である選任令・選叙令13郡司条によっても確認される。前記のように、同条は「才用」主義によって、それまで郡領職に就いていなかった檜前忌寸の郡領職獲得・独占を実現した。これは、「大化前代」以来の統括の伝統を有する高市連氏の失脚をも意味するから、「天皇にたいしては、貴族も公民も工匠もすべて平等に臣下(中略)たり得る」*65)というデスポティシズムの構造の具現化である。日本律令制国家においては、ディスポテシズムの構造は、人格的身分的結合関係に基づくから、同条はかかる関係に基づく秩序の具現化という点では機能したと言える。しかし、一方、その「才用」規定の内容は曖昧で、恣意的任用を排除しえず、「公」「私」の分離による官制体系の維持という点では、ほとんど機能し得ない*66)。以上は、人格的身分的結合関係に基づく秩序の具現化・維持が、官制体系の維持よりも先行する「第一義的課題」であることを示す、一つの証左と言えよう*67)。したがって、かかる課題に関わらない限りにおいては天皇の権威は尊重されねばならず、かかる権威を背景とする「非機構的関係」は抗争の直接的条件となり、法令や政策意図とは矛盾する人事さえも実現せしめると考えられる。

(2)第四期以降の抗争の変質の意義

 第四期以降、郡内統括の根拠が抗争の直接的条件となる。これは、既述のように、「譜第」の系譜が郡内において一定度の強固な権威を確立することによると考えられる。ここでは、この変質を律令制国家の郡内統括の展開の中で、どのように意義付けるべきか、を検討しよう。

 まず、当該期における郡領任用は、他の官職同様、天皇との人格的身分的結合関係に基づいていたと見られ、この点は、任用の根拠でもある郡内統括の根拠が、(α)県主・評造、(γ)郡領としての統括(「天皇」への「奉仕」)、(β)「天皇」からの居住地の賜与と、天皇と「祖」(及び、その「子孫」)との人格的関係を根拠としていることからも分かる。必然的に、郡内統括が天皇と郡領との人格的身分的結合関係に基づくことを示す*68)。

 かかる郡内統括の根拠が、第一〜三期のように必ずしも一様でなく、根拠として脆弱である状況は、本稿でも見たように、天皇の個人的感情である「寵愛」や、第一義的には自然人としての状態変化である「死」によって、郡領任用が直接、左右される状況を生み出す。天皇個人の意志は、人事に反映されるものの、その郡内統括体制自体は必ずしも安定的とはいえないと考えられる。かかる根拠が「譜第」という形で具体化していくことは、このような不安定さの克服を示すのであって、天皇との人格的身分的結合関係に基づく郡内統括体制の安定化・強化と見ることが、可能であろう。そして、法が、かかる郡内統括の根拠を一定度、体現すれば、それを法による支配の一層の緻密化・強化と評価することも、また可能であろうと思う*69)。

 

〔W 結びー郡領任用抗争の特質ー〕

 まず、以上、論じてきた点を整理しておこう。

(一)第二・三期においては、(a)郡内統括の根拠が一様でなく、根拠しての脆弱性が否めないこと、(b)天皇との人格的身分的結合関係に基づく秩序の維持が、官司・官人の統属関係によって成り立つ官制体系の維持に先行する、「第一義的課題」であったこと、の二点から、天皇との人格的身分的結合関係から派生する「非機構的関係」が、抗争の直接的条件となった。

(二)第四期以降、郡内において「譜第」が一定度の強固な権威を確立していき、郡内統括の根拠が抗争の直接的条件となっていった。これは、天皇と郡領との人格的身分的結合関係に基づく郡内統括体制の安定化・強化と評価できる。さらに、かかる郡内の秩序を法が一定度、体現すれば、法による支配の緻密化・強化と評価できる。

 次に、以上の分析をふまえて、郡領任用抗争の、評造・国造をめぐる抗争とは異なる、独自の特質を検証しよう。結論から言えば、次の三点を指摘できると考える。

 

(1)在地首長の人格から、一応、分離した法が、抗争の経過を規定していること

 まず、法の抗争への規定性自体は、次の二点から明らかである。第一は抗争自体の経過である。第二期の檜前忌寸の郡領職獲得・独占は「才用」主義なくしてはありえなかったし、第三期において、聖武の死後、日ならずして高市連氏が復権していることも、嫡々相継制の影響なしには考えられないであろう。第四期の称徳・道鏡政権も、法そのものを無視することは出来なかったと考えられる。情勢に応じて、程度の差こそあれ、各地域集団が、法を無視して抗争を戦うことはなかったはずである。第二は、第二〜四期において抗争の直接的条件となった「非機構的関係」も(第四期においても、檜前忌寸の復権に見えるように、かかる関係が直接的条件であったことは確かである)、法によって規定される側面を有していることである。「才用」主義がディスポティシズムの構造を具現化しているように、法が人格的身分的結合関係の秩序を維持する側面を有することは否定できない。すなわち、法なくしては人格的身分的結合関係の秩序も存在し得ない側面があるわけだから、かかる秩序から派生する「非機構的関係」も法によって規定される側面も有していたと考えられる*70)。結果として高市郡においては抗争の経過の直接的条件にはならなかったとしても、それへの法の規定性・影響は否定し難い。

 しかし、法の規定性自体は、成文法に限定しても七世紀後半に浄御原令の存在が確実視される以上、大宝令以降の郡領任用抗争の特質とすることはできない。郡領任用抗争の特質は、かかる法が在地首長の人格から、一応、分離されていることであろう。

 前記のように、評は在地首長の人格と不可分であり、浄御原令に、確実に存在したと見られる評造の任用規定も、在地首長の人格、さらにその人格に権威を与える在地社会の論理を直接の基礎にしたものであったと考えられる。

 一方、大宝令以降の郡領任用に関わる法令は、これとは明らかに特質を異にしていた。「才用」主義は、郡制という行政区画・郡領という官職が、在地首長の人格から、一応、分離されて初めて成立する。七三五年の「譜第」副進制は、「譜第」の副進を命じただけで、任用基準はあくまで「才用」主義であったから、任用制度自体は、在地首長の人格を直接の基礎にしているわけではない。七四九年の嫡々相継制は、郡領任用者を「譜第」に限定しているが、「家」を基盤としている点で、「譜第」に権威を与える在地社会の論理からは遊離している。問題を「凡そ郡司には、性識清廉にして時務に堪える者を取り、大領・少領とせよ。」「立郡以来譜第重大之家を簡び定め、嫡々相継ぎて、傍親を用いることなからしむべし。」といった法の規定上の論理自体に限定すれば、在地首長の人格からは明らかに分離されている。これは郡制が、評制と異なり、「機械の部品のようなものという認識」*71)を前提に施行されたことと対応するものであり、法を媒介とする、地方における「公」「私」の分離が、一層、進展したことを示す*72)。

 かかる法が、抗争を規定することによって生じる新たな現象は、従来、郡領職を継承していた在地氏族が、それを失う事態である。第二期において高市連氏が失脚するが、同氏が行政区画を統括する地位・官職を失うのは、県主任用以来、初めての事態のはずである。同様の失脚は、第三期の檜前忌寸、さらに嫡々相継制下の第四期においてさえ、高市連氏(大領職)に見える。郡領職の維持・継承は、評造制段階と異なって、必ずしも公権力によって保障されないのであり、その意味では抗争は厳しさを増したといえる。

 もっとも、以上は律令法が、在地首長の人格的支配を否定することを示すものではない。たとえば、「才用」概念は、既述のように内容が曖昧で、論理的には「譜第」をも包摂しうる概念であるから、任用基準において、系譜を根拠とする在地首長の人格的支配を否定できる内容ではない。事実、「才用」主義下において、郡領が「終身官」であるとの認識が示されている*73)のは、「才用」概念と在地首長の人格的支配が矛盾しないことを示している。そもそも、これまで検討してきた郡内統括の根拠において、系譜が問題となるように、郡領の郡内統括は在地首長の人格的支配を前提とするものであったと考えられる。

 しかし、法の規定上の論理自体は、直ちに在地首長の人格を直接の基礎にしているとは言えないのであって、かかる分離の側面を無視すれば、律令制国家の成立による地域集団の活動の変化を捉えることができず、国家の成立と地域集団の活動との関わりを豊かに捉えることも不可能になろう*74)。

(2)抗争が郡領という官職に収斂され、郡という行政区画が連動して影響を受けることがない

 この点は、本文では触れなかったが、具体的に言えば、抗争を通じて各地域集団が、高市郡を分割し独自の郡を立てるような動きは見られない。また、檜前忌寸・高市連氏が郡領職を独占した際も、郡名の変更などは行われず、高市郡は一貫して高市郡として存在し続けた。

  この点は、評制(及びクニ制)には存在せず、郡制段階の独自の特質と考えられる。拙稿*75)で指摘したように、評制段階においては、評という行政区画と評造職は截然と分離されておらず、必然的に、抗争が評造職のみに収斂されることもなかったと考えられる。この点が端的に示されるのは、従来の評造とは異なる氏族が、評造職を得ようとした場合である。前記のように、評造職は、立評の契機となる「奉仕」を行った在地首長と同一氏族によって継承される原則であったと見られるから、他氏族は独自に評を立てざるを得なかったと考えられる。事実、現在、確認される評造への新たな任用は、ほとんどが評の分立による新たな立評に伴って行われている。

 以上から、抗争が郡領という官職に収斂している点は、郡領任用抗争の独自の特質といえる。これも、特質の第一点同様、郡制が「機械の部品のようなものという認識」を前提に施行された点に対応するものといえる。

(3)一般には、有位者集団の秩序に規定される「非機構的関係」が、重要な意義を有すること。

 「非機構的関係」は第二〜四期を通じて、抗争の直接的条件となり、それ以降も重要な意義を有したと考えられる。当該期の郡領任用抗争においては、法や、それを根拠とする官司・官人間の統属関係にのみ留意していても、抗争には勝利できなかったはずであり、「非機構的関係」をいかに構築・維持・活用するかは、抗争の戦略・戦術上、少なくとも、法への留意と並ぶ、独自の位置を占めたはずである。

 かかる関係を、「権力中枢との結びつき」などと一般的に捉えれば、その重要性は人事抗争一般の特質であり、超歴史的に見える現象となる。また、天皇・オオキミとの人格的身分的結合関係が重要な意義を有することも、「大化前代」の倭王権もかかる関係に基づいて運営されていたことを考慮すれば*76)、郡領任用抗争の特質とは言えない。

 郡領任用抗争の特質は、第一に、それが良人共同体の秩序から派生すること、さらにそれが律令制国家の官職をめぐる抗争であることを考えれば、一般的には有位者集団の秩序から派生する点にある。第二に、大宝令の施行に伴って、抗争におけるその意義が七世紀段階とは異なったと見られる点である。

 第一の点によって、まず関係自体の特質が「大化前代」とは異なることになり、したがって、中央の個々の高位者の抗争への影響力のあり方・地域集団の活動も変わらざるを得なかったと考えられる。官職任用の前提ともなる位階は個人の功績に応じて選択的に授与され、有位者集団は正一位以下五〇階の中に構成員が明確に序列化されていた。「大化前代」の人格的身分的結合関係の特質は不明な部分が大きいが*77)、倭王権での地位が(オオキミの代替わりごとに留任が確認されるが*78))、原則として同一氏族内で継承されていくことをもってしても、律令制下と同一視することは不可能であり、とりわけ律令制下の位階制ほどの明確な序列化は存在しなかったと見るべきであろう。

 「非機構的関係」が有位者集団の秩序から派生するとすれば、その抗争への影響力はー犬養のように、天皇との特別な結びつきがある場合は別にしてー、基本的に位階の高下によらざるを得ないのであり、必然的にその影響力は序列化されることになる。とすれば、中央高位者の抗争への影響力にも変化が生じざるを得なかったと考えられ、必然的に、地域集団の活動も変わらざるを得なかったと考えられる*79)。

 第二の点は、第一に指摘した、郡領任用に関する法令が、在地首長層の人格から一応、分離している点と対応する。前記のように、かかる分離によって抗争は厳しさを増した側面がある。かかる抗争を場合によっては「非機構的関係」によって制しうるとすれば、その意義は評造制段階以前と同一ではなかったであろう。中央高位者と地域集団との結合は促進されざるを得なかったはずで、前記の高位者の影響力の変化を考えれば、かかる結合関係は再編されていったはずである*80)。

 

 かかる特質を有する郡領任用抗争が、高市郡において明確に確認されるのは、七三〇年代(天平期)以降である。しかし、近年の研究によれば、抗争自体は八世紀当初から各地で勃発していた可能性があり*81)、仮にそうでなかったとしても、抗争の特質を規定する客観的諸条件は、大宝令施行によって成立したと見るべきであろう。国家の成立は、地域に生きる人々の活動を規定する条件を変えざるを得なかったし、ひとたび抗争が勃発すれば、本稿で検証したように七世紀以前には存在しなかった新たな状況が出現したはずである。したがって、抗争に勝利するための戦略・戦術、その他の活動は変わらざるを得なかったはずである。

 以上、郡領任用抗争の特質を分析してきたが、それは律令制国家の国家機構の特質と対応していると言える。必然的に律令制国家機構の特質の把握の深化が、抗争の特質の把握を深化させる上でも重要である。そのための課題が、律令制国家における人格的身分的結合関係の特質の把握の深化であることは、既に述べた*82)。したがって、問題になるのは、かかる課題にどのように対応するかを具体化することである。そして、律令制国家論が事実と理論の緊張関係から生み出されねばならない以上、同論において総括的位置を占めるとされる生産関係・共同体論が「上部構造」を説明しなければならないこと*83)をふまえれば、かかる課題への対応は生産関係・共同体の特質の把握の深化の上でも重要である。必然的に、本稿では捨象するか、部分的な言及に留まった地域集団・在地氏族・在地首長の人格的支配の内実の把握、郡領任用抗争という限定された局面の分析に終わった地域集団の活動と国家との関連の把握を、それぞれ深化させる上でも重要であろう。

 


*1)ここで言う「地域集団」とは、本文で述べたとおり、地域において郡領候補者を擁する集団のことである。通常、郡領任用抗争における主体は、「譜第氏族」「郡領氏族」などとされることが多いが、郡領候補者が属する氏族のみならず、他氏族で郡領候補者を擁する人々もまた抗争を戦い、その勝敗の影響を受けたものと考えられる。たとえば、大町健は越前国足羽郡において大領生江臣東人ー宇治知麻呂(他に、生江臣息島、生江臣長浜、道守徳太理)と少領阿須波臣束麻呂ー別竹山の二つの集団が対立していたことを指摘しており(「律令制的郡司制の特質と展開」〔『日本古代の国家と在地首長制』校倉書房、一九八六年〕一七一〜二頁)、いずれも、生江氏・阿須波氏のみならず、宇治・道守・別氏らの他氏族を編成していることが確認される。もっとも、この指摘は郡領任用抗争の分析に基づくものではないが、ひとたびかかる抗争が勃発すれば、このような他氏族の者も、抗争に勝利するための活動を担ったことであろう。ここでは、この点を重視して、抗争の主体としては原則として「地域集団」とし、適宜、「在地氏族」などの語を用いることとしたい。なお、地域集団の内実についての分析は、ここでの課題ではないので、「地域集団」という用語の立ち入った概念規定は避けるが、郡領候補者を擁する集団であるから、人間集団とされる郡制とは別次元の集団であることは確かである。また、大町が指摘するように、在地首長の活動が郡域をこえるとすれば、かかる地域集団の構成員も、郡内には必ずしも限定されない。

*2)なお、近年、民衆史研究会によって、「日本古代における国家と民衆の〈接点〉」なる特集が組まれている(『民衆史研究』六五、二〇〇三年)。趣旨については、編集委員会「特集にあたって」(文責は小林洋介)参照。

*3)塩沢君夫「八世紀における土豪と農民」(『古代専制国家の構造』増補版、御茶ノ水書房、一九六二年。初版は一九五八年)。

*4)大山誠一「武蔵国入間郡の神火をめぐる諸問題ー道鏡政権と地方豪族の選択ー」(『日本古代の外交と地方行政』吉川弘文館、一九九九年。初出は、一九七八年)は神火をめぐる入間郡の情勢についても分析しているが、明らかに高市郡の事例の方が情報が豊富である。

*5)「弘仁二年二月二一日詔」(『類聚三代格』巻七、郡司事)

*6)「最高の指揮命令権に服従すること」(石母田正「古代官僚制」〔『石母田正著作集三 日本の古代国家』岩波書店、一九八九年〕三五〇頁)

*7)言うまでもなく四等官に属さない官人もいるが、ここでは典型例を述べているに過ぎない。

*8)『書紀』天武一二年一〇月己未条。

*9)『続紀』天平勝宝元年二月壬戌条。

*10)「立郡以来譜第重大之家」とは「立郡人の系譜に直接連なり、かつ譜第の事実の重大な者、すなわちその系譜に含まれる郡領就任者の多い者、の属する家」とされる(山口英夫「郡領の銓擬とその変遷」〔『日本律令制論集』下、吉川弘文館、一九九三年〕九九頁)。

*11)平安期の儀式書などによれば、譜第には「立郡譜第」「傍親譜第」「労効譜第」があった(それぞれの内容については、須原祥二「郡司任用制度における譜第資格ー譜第選の確立を中心にしてー」〔『日本史研究』四八八、二〇〇三年〕、四頁以降参照)が、本稿ではそれらの総称として「譜第」の語を用いる。

*12)関晃「倭漢氏の研究」(『関晃著作集三 古代の帰化人』吉川弘文館、一九九六年。初出は一九五三年)、加藤謙吉「東漢氏の氏族組織の成立」(『大和政権と古代氏族』吉川弘文館、一九九一年)など参照。

*13)この抗争の時期区分は、区分の基準・史料の希少性などの問題があり、厳密には不可能だが、ここでは主に抗争の主体の興亡によって、第一期:抗争が未確認の段階、第二期:檜前忌寸台頭期、第三期:高市連氏復権期、第四期:両者の拮抗期という形で区分している。この場合、問題となるのは第三期である。後述のように、第三期前半(七五六年以前)には檜前忌寸は郡領職を独占していたと見られるので、ここまでを第二期に含めた方が妥当なようにも思われる。また、後述の「非機構的関係」の規定性という点からも、こちらの方が妥当性がある。しかし、抗争の状況は、七四九年の嫡々相継制の発令によって、それ以前とは変化したと考えられるので、一応、同年以降を第三期とした。

*14)大町註(1)論文。

*15)『続紀』天平七年五月丙午条。以下、「譜第」副進制とする。

*16)宝亀三年条で、「譜第」に準ずる任用資格を申請していることからも、檜前忌寸が「譜第」にならないことは確実である。同条に「郡司に任ぜられること、必ずしも子孫に伝えざれども」とあるところから、檜前忌寸の中の「蔵垣忌寸氏」「蚊屋忌寸氏」「文山口忌寸氏」などが、「譜第」認定の単位となる氏族であったと見られる。なお、「譜第」副進制における「難波朝庭より以還の譜第重大なる四・五人」とは、嫡々相継制における「立郡以来譜第重大之家」と異なり、いわゆる「労効譜第」を含むとする説もある(山口註(10)論文。九八頁)。これに従えば、檜前忌寸(の各氏族)も「譜第」に含まれるが、三年後の七三八年には「労効譜第」の認定については、郡領を二人以上出すことが条件となったので(「天長四年五月二一日太政官符」〔『類聚三代格』巻七 郡司事〕)、檜前忌寸はこれに該当しないこととなり、「譜第」副進制の恩恵にあずかることもなくなったと見られる。

*17)「天平七年五月二一日格」(「弘仁五年三月二九日太政官符」所引[『類聚三代格』巻七 郡司事])。

*18)大領であった屋守は、その後、『続紀』宝亀六年正月庚戌条で外従五位下に叙され、宝亀七年三月癸巳条で西市正に、同年同月辛亥条で園池正に、それぞれ任用されている。一方、少領の広君の動向は正史には見えないので、少領職を継続していたと見ることも、一応、可能である。

*19)前章での考察に従えば七五六年以降だが、次章の検討からそれ以前は檜前忌寸の独占が継続していたと考えられる。

*20)「承保三年九月一〇日大和国高市郡司解案」「同大和国高市郡司刀禰等解案」(『平安遺文』三ー一一三三・一一三四)

*21)『郡司の研究』(法制大学出版会、一九七六年)六七〜八頁。

*22)『書紀』大化元年八月庚子条。

*23)早川庄八「選任令・選叙令と郡領の『試練』」(『日本古代官僚制の研究』岩波書店、一九八六年)。

*24)『書紀』大化元年八月庚子条(註(22)に同じ)。

*25)『書紀』天武元年七月七月条に、壬申の乱に際して「高市郡大領」である高市県主許梅(表1。bP)が神懸りとなったことが記されているが、祭祀性の強い県主の特質の継承と見ることができる。なお、ここで許梅に憑いた神と高市県主氏との関係については、遠山美都男『壬申の乱』(中公新書、一九九六年)、二二二〜四頁参照。

*26)以下、養老令文の引用は『日本思想体系三 律令』(岩波書店、一九七六年)による。

*27)『書紀』大化二年正月甲子条。

*28)拙稿「地方行政機構論の必要性ー郡制の特質ー」((http://7b.biglobe.ne.jp/^inouchi/hitsuyou.htm)で指摘したように、評はオオキミに対して「奉仕」を行った在地首長に「恩恵」として与えられるものであった。必然的に、評は「奉仕」を行った在地首長の人格と不可分であり、評造職も、その在地首長と同一氏族によって継承されていくシステムであったと考えられる。

*29)加藤註(12)論文、二二六頁以下など参照。

*30)『続紀』和銅四年四月壬午条・養老四年正月甲子条。

*31)『続紀』文武天皇三年五月辛酉条。

*32)高橋崇『坂上田村麻呂』(新装版。吉川弘文館、一九八六年。初版は一九五九年)など参照。

*33)『続紀』天平宝字八年(七六四)一二月乙亥条。

*34)高橋註(32)書。

*35)関註(12)論文・高橋註(32)書とも苅田麻呂以降とする。

*36)たとえば、七二九年の申請を行った民忌寸袁志比も従五位上に過ぎず、当時の「譜第」優遇策の中で檜前忌寸の郡領職独占を実現しうる立場にあったとは思われない。

*37)推薦状の実例としては、「天平勝宝二年五月二〇日造東大寺牒案」(『大日古』一一ー二五二〜三)がある。ただし主帳の例である。

*38)聖武が地方の郡レベルの人事にどこまで関与したかは不明とせざるを得ない。

*39)なお、犬養と異なり、聖武は、郡領任用の裁可の権限を有する。しかし、聖武や第四期の称徳の人事への影響力は、かかる統治権の総攬者としての立場に基づくものではなかったと見られる。この点は後述。

*40)さしあたり、服藤早苗『家成立史の研究』(校倉書房、一九九一年)など参照。

*41)『続紀』天平勝宝元年七月甲午条。

*42)さしあたり、仁藤敦史「太上天皇制の展開」(『古代王権と官僚制』臨川書店、二〇〇〇年)など参照。なお、本稿では天皇と太上天皇との権能の相違などについては、一まず措く。

*43)岸俊男『藤原仲麻呂』(新装版。吉川弘文館、一九八六年。初版は一九六九年)、一六九頁。

*44)ただし退位の影響をまったく否定することはできない。たとえば、犬養の昇叙はー前記の聖武死去の際の行動に対する褒賞を除きー、七四九年の聖武退位後、止まっている(表2参照)。

*45)たとえば、橘奈良麻呂の変においては決起に当たって、有力な武人を「額田部の宅」に隔離する計画があったが、苅田麻呂もその一員とされていた(『続紀』天平宝字元年七月庚戌条)。

*46)政変が相次ぐ七三〇年代以降の中央政界における犬養の立場については「(引用者註、政界の実力者の交代の)影響が見られなかった。」(高橋註(32)書、一四頁)とする見解もある。確かに、官歴を見ても、聖武死後も、政界におけるその地位が失われたわけではない(表2参照)。しかし、既述のように聖武退位後、昇叙が止まっている事を見ても、聖武の動向によって、犬養の政界における地位・影響力に変動があることは否定できない。本稿の考察からすれば、聖武没後、犬養は中央政界における地位を失ったわけではないが、法的根拠の脆弱な檜前忌寸の郡領職独占を維持し得る影響力は失ったと見るべきであろう。

*47)『続紀』天平宝字八年九月乙巳条。

*48)『続紀』天平神護元年二月乙丑条。

*49)嫡々相継制を発令した『続紀』天平勝宝元年二月壬戌条には「その族門多く、苗裔尚繁く、濫訴次無し。」とある。

*50)註(1)で触れた、越前国足羽郡の大領生江臣東人ー宇治知麻呂等と少領阿須波臣束麻呂ー別竹山という二つの地域集団は、それぞれ東大寺・藤原仲麻呂と結合していたと見られ(小口雅史「初期庄園の経営構造と律令体制」[『奈良平安時代史論集 上』吉川弘文館、一九八四年、大町註(1)論文)、当時の地域集団が何らかの形で中央政界と結合していたことがうかがわれる。必然的に、高市連氏が中央政界と何らかの結合関係を有していたこと、さらにそれが「非機構的関係」であった可能性も、考えられる。

*51)佐伯有清『新撰姓氏録の研究』考証編、第六(吉川弘文館、一九八三年)、二四四頁。

*52)欽明天皇七年七月条。

*53)仮に、今木評の存在を認めるにしても、それが七世紀後半の檜前忌寸の申請によって成立したこともなかったと考える。その主要な根拠は、宝亀三年条に、かかる申請や、今木「郡」の「郡領」への任用について言及がないことである。仮に、今木評が檜前忌寸の申請によって成立したとすれば、他の例より推して、今木評造に任用されたと考えられる。そして、『書紀』や『新撰姓氏録』に記述が存することからして、今木「郡」の建郡申請、「郡領」への任用として記述すれば、中央への上申において言及することに問題はなかったはずである。しかるに、宝亀三年条においては、〈史料1〉として引用した七二九年の郡領任用申請においても、七七二年の「譜第」に準ずる任用資格の申請においても、かかる記述は見当たらない。両申請とも、歴史的事実に正当性の根拠を求めている。また、七七二年の段階はもちろん、七二九年の段階においてもー六年後の七三五年に「譜第」副進制が採用されていることから見てー、「譜第」は有力な任用基準となっていたと想定される。檜前忌寸は「譜第」ではないが、七世紀後半に、令制下の高市郡の一部である今木評の評造職にあったとすれば、有力な申請の根拠となったであろう。にもかかわらず、言及がないのは、そもそもかかる事実がなかったためと見ることができる。また、通説のように、「改新」以後、壬申の乱に至るまで、倭漢氏が倭王権内で冷遇されていたとすれば(関註(12)論文、二二〇頁など)、立評事例が多く確認されるこの時期については、立評を申請しても受理されにくい状況であったことも考慮されてよいであろう。

*54)『続紀』延暦四年六月癸酉条の苅田麻呂の上表では、阿智使主が「阿智王」となり、その来日の経緯が「神牛の教え」によったと神秘化されるなど、系譜意識の荘厳化が見える。

*55)もっとも、抗争の直接的条件とはならなくなったからと言って、「非機構的関係」の重要性が減じたわけではないと考えられる。まず、中央政界との関係の重要性は、宝亀三年条における檜前忌寸の任用資格の獲得(=法的根拠の獲得)が、苅田麻呂の申請によっていることからも明らかである。苅田麻呂と檜前忌寸との関係は「非機構的関係」といえるので、法的根拠は檜前忌寸の活動を直接に規定したが、中央政界との「非機構的関係」を通じて現実の成果となったことが分かる。すなわち、ここでは「非機構的関係」は抗争の直接的条件ではないが、直接的条件である法的根拠を獲得するための媒介として機能しているのであり、抗争におけるその機能を変えつつも、依然として重要であったと見られる。そして、後述のように「非機構的関係」は天皇と官人との人格的身分的結合関係から派生すると見られること、かかる関係は第四期以降も、「支配階級」の結集形態として独自の意義を有したと見られること(石母田正によれば、かかる結合関係は、前近代の国家一般の結集形態とされている〔「古代官僚制」註(6)書、三四二頁〕)、の二点からすれば、その重要性は第四期以降も持続していたと考えられる。

*56)ここでの「郡領」は評制段階を含む。

*57)「応神天皇」のような、天皇号未成立の段階と見られる、いわば伝承上の「天皇」も含む。

*58)高市県主は、「天皇家」の「供御」を奉るというその機能からも、また、猛田県主・磯城県主が伝承上は神武天皇によって任命されていること(『書紀』神武天皇二年二月乙未条)からも、「天皇」の任命と認識されていたと見られる。評造も「天皇」の任命と見られることは、早川註(23)論文参照。

*59)ちなみに、(β)檜前忌寸の(B)に見える地域集団の規模は、郡領任用(=郡内統括)においては絶対的な条件ではなかったようである。例えば、高市連氏を中心に編成される地域集団が巨大であったとは考えにくい。なぜなら、その統括の淵源となる県が一般に狭小とされているからである。しかし「譜第」として第二・三期の一時期を除き、郡領職を維持した。また、著名な「他田日奉部直神護解」(『大日古』三−一四九〜五〇)には、(β)−(B)のような地域集団の規模への関説はない。

*60)単に時期の問題に限定しても、(α)の県主の任用に関する系譜意識については、言うまでもなく「大化前代」に遡る。一方、(γ)の「譜第」に対する系譜意識は、著名な「他田日奉部直神護解」が孝徳朝から系譜を述べているのを見れば分かるように、孝徳朝以降を主要な部分とする(「仍りて有労を択び、郡領に補す。」〔『類従国史』巻一九 神祇一九 国造 延暦一七年〔七九八〕三月丙申条〕と、孝徳朝以前の「労」が問題になっていることから、「大化前代」に遡る部分があることは確かだが、主要な部分はあくまで孝徳朝以降と見るべきであろう)。厳密には何時の段階からか不明だが、「譜第」の系譜が郡内統括の根拠となった段階からは、高市連氏は郡領任用において県主としての「奉仕」に触れることはなくなったであろう。

 なお高市連氏が高市県主に任用されていたことは、前記のように新興首長層が評造・郡領に任用された評・郡とは異なる高市評・郡の地域的特色の一部を形成したと見られるが、遅くも第二期の檜前忌寸の台頭・郡領職独占によって、かかる特色はかなりの程度、変容を余儀なくされたであろう。

*61)ここでは、国家機構を専有する階級のこと。

*62)日本古代の「公」「私」の特質についての近年の研究として、田中禎昭「『公私』の淵源ー『記紀』の中の『公』と『私』−」(『歴史評論』五九六、一九九九年)。本稿では、「公」「私」の日本古代における独自の特質に迫ることはしないが、法が「公」「私」の分離の媒介であることは否定できない。

*63)石母田正「古代の身分秩序」(『石母田正著作集四 古代国家論』〔岩波書店、一九八九年〕。初出は、一九六三年)、吉村武彦「古代の社会編成」(『日本古代の社会と国家』岩波書店、一九九六年)、大町註(1)書など参照。

*64)石母田註(6)書、三四三頁。拙稿「機構論の意義と課題」(http://www7b.biglobe.ne.jp/^inouchi/igitokadai.htm)。

*65)石母田註(6)書、三四八頁。

*66)以上の点のみを見れば、法を「公」「私」の分離の媒介と見る立場自体が疑問視される可能性がある。しかし、かかる立場を否定すれば、(1)大宝・養老令が、「法」という独自の規範としての機能を付与されていること、さらに、(2)それが成文法という形態をとっていることの、権力組織運営上の意義を見失うこととなろう。筆者は、「公」「私」の分離の媒介という律令法の機能と、人格的身分的結合関係に基づく秩序の具現化という郡司条の機能とは矛盾せず、大宝・養老令においては、後者の人格的身分的結合関係に基づく秩序の具現化・維持を通して、前者の「公」「私」の分離が図られるという構造になっていたのではないかと考えている。

*67)従来、郡領の「才用」規定の抽象性については、在地首長層を任用し、職員令74大郡条に「所部を撫養し、郡事を検察す」と郡内統括における総括的な権限を与えられている、郡領の職務・機能の特殊性と関連づけて説明されてきた。大町健は、郡司(郡領)の機能を共同体的諸関係の総括とした上で、主政・主帳の「書・計に工なる」という「才用」規定との比較から、「才用」規定の抽象性をかかる機能によるものとする(註(1)論文)。また、須原祥二は選叙令4応選条の一般官人の任用規定は、「『徳行』『才用』『労効』といった個人の資質ないし功績を、順を追って評価対象とする明快な構造を持っている」のに対し、郡司条の郡領の「才用」規定は抽象的であることを指摘する。そして、その令意を「個々の郡の多様な実態に留意した上で、…広く地域の社会が受け容れうる人物を任用対象者に想定した」点に求め、「『郡が円滑に統治できればよい』というはなはだ結果主義的な姿勢」によって策定されているとしている(註(11)論文。引用は、九・一〇頁)。須原は明記していないが、一般官人と異なり、かかる任用基準によって郡領が任用されているとすれば、郡領の職務・機能の特殊性によるということになろう。

 しかし、筆者はかかる見解は成立しないと考える。この問題を考えるにあたってふまえるべきは、「才用」規定の抽象性は、律令官僚制一般の特質であり、郡領のみの特殊な問題ではないということである。大隈清陽が指摘するように、唐においては官人任用である選において、流内官六品以下が「身」「言」「書」「判」の四項目、流外官が「書」「計」「時務」の三項目の審査を受けた。唐令においても「才用」の語が存したと見られるから(選挙令復旧第三条〔『唐令拾遺』東京大学出版会、一九三三年〕)、唐においてはかかる項目が「才用」の内容として明確化されていたと考えられる。しかるに、日本律令制国家においては流内官の四項目は継受された形跡がなく、流外官の三項目は、郡司条に字句が継受されているに過ぎない(ただし、「時務」の語については、法概念が異なる。拙稿「郡領任用における『才用』ーその「内容」と唐制継受過程ー」〔『民衆史研究』五三、一九九七年〕参照のこと)。また、早川庄八が指摘するように、かかる「才用」を審査する「試練」も、大宝選任令応選条に規定こそ存在したものの日本では実施されることはなく、養老選叙令においては規定自体が削除された(註(23)論文)。日本律令官人の任用(選)は、「考が一定年数分蓄積されたもの」(大隈論文、一四頁)に過ぎず、「才用」の審査も行われないから、当然ながら「才用」の内容も具体化・明確化されていないのである。

 郡領の職務・機能が律令官僚制の中で特殊な位置を占めることは明らかである。また、任用制度についても独自の特質を有することは確かと考えられる。須原が強調するように、一般官人と異なり郡司条が独自に立てられ、さらに早川が指摘するように郡領(後に、主政・主帳)にのみ試練が課せられているからである。しかし、「才用」規定の抽象性については、あくまで律令官僚制一般の特質の問題と捉えなければならない。

 したがって、主政・主帳の「才用」規定との対比で、郡領の「才用」の特殊性を強調する大町の見解は成立しない。律令官僚制の中では、主政・主帳の「才用」規定のほうが特殊なのである。事実、郡領が共同体的諸関係の総括の機能を有するからといって、「才用」規定が抽象的になる必要はないであろう。かかる機能を有したとしても、たとえば「譜第」を郡領の任用基準として明記することはできたはずであり、本文で述べたように「才用」が系譜に基づく任用を否定しないとすれば、前者を後者の内容として明確化することも可能であったはずである。また、須原が応選条と郡司条の対比から、郡領の「才用」の特殊性を強調する見解も成立しない。前記引用文を見れば明らかなように、氏が応選条の特質として指摘する「明確な構造」は「徳行」「才用」「労効」の優先順位の明確性であって、「才用」の内容の明確性を指摘しているわけではない。したがって、ここから、「才用」の抽象性や、それに基づく「結果主義的な姿勢」を郡領任用の特質として導き出すこともできないのである。郡領任用が「結果主義的」であるとすれば、律令官人の任用一般が「結果主義的」なのである。

 本文で述べたように、筆者は、郡領の「才用」規定が抽象的である理由は、律令国家の「支配階級」にとっての「第一義的課題」が人格的身分的結合関係に基づく秩序の維持にあり、律令策定時においては「才用」規定の明確化による「公」「私」の分離がさほど追求されず、むしろディスポテシズムの構造の具現化にこそ、その主要な機能があったことによると考える。

 なお、旧稿(前掲「郡領任用における『才用』」)で郡領の「才用」規定の中の「時務」の概念の抽象性を指摘したところ、毛利憲一から「郡司に任用される個人が、いかなる資質を必要とするかということを規定するとき、無限定・無内容な概念を採用するとは考え難い。」(「郡領の任用と『譜第』−大宝令制の構造と特質−」〔『続日本紀研究』三三八、二〇〇二年。三頁)と批判を受けた。氏によれば、「時務」とは大郡条の「所部を撫養す」であり、「令制定者の期待する郡領像の核心が、農業生産と関連の深い民生担当官としての能力にあった蓋然性は高い」と言え、郡領の「才用」の内容は「明確なものであったと結論できる。」(五頁)とする。

 氏は大宝令における郡領任用全般について論じているが、ここでは、(1)当面の問題である「才用」の内容、(2)氏の旧稿批判、(3)本稿・旧稿と関わる限りでの氏の見解の問題点について、述べることに留めたい。まず、(1)「才用」の内容について。氏は、前述のようにそれを「明確なもの」とするのだが、氏の見解に従うとしても、「農業生産と関連の深い民生担当官としての能力」とは何かが具体的に示されねば、恣意的任用を排除しえず、「郡司に任用される個人が、いかなる資質を必要とするか」という問題に対応したとは言えないであろう。その意味では、郡領の「才用」規定は抽象的といわざるを得ず、律令策定者は郡領としての資質の具体化については、さほどの関心は持っていなかったと考える。

 次に、旧稿への批判について述べる。まず、確認しておくべきことは、筆者が「時務」の内容を抽象的としたのは、本条の「才用」概念が、「譜第」「族姓」などと対比される一般的な「才用」概念と異なり、「譜第」などをも包摂しうる概念であることを論証するためだということである。本条において、一般的な「才用」概念との統一を図ろうと思えば、「時務」の内容を限定する必要がある。事実、「理務」については、古記がかかる限定を行っている。選叙令19帳内労満条の「才、理務に堪える」を注釈する際、「理務、謂うこころは、必ず書算を須いる也。」と「理務」の内容を「書・算」を用いるものに限定している如くである。が、「時務」については、令文もまた諸注釈書(言及があるのは古記のみ)もかかる限定を行っていない。必然的に、論理的には本条の「才用」は「譜第」などを包摂しうる概念となっている。毛利の述べるように、郡司条も各条文との関連の中で機能するのであるから、「時務」とは大郡条の「所部を撫養す」を指すことになろう。しかし、それでも本条の「才用」が「譜第」を包摂することにかわりはないから、旧稿で述べたような意味においては、「内容を具体的に特定する概念ではなかった」(旧稿、四頁)とすることができる。

 最後に、(3)氏の見解の問題点について。氏の見解の問題は、そもそも、なぜ律令策定者が郡領の「才用」を「時務に堪える」としたのかが不明な点である。「才用」概念の不統一性、さらに法概念としての「時務」の日唐の不統一性(唐においては「才用」の一つだが、日本においては「才用」によって担われる「務」〔旧稿九頁参照〕)を考えれば、大郡条などと対応関係があるからといって、郡領の「才用」が「時務に堪える」になる必要はないであろう。前記のように、律令策定者が「才用」の内容の具体化にさほどの関心を持っていなかったとすれば、問題を字句修訂上のものとした旧稿の見解が成り立つ余地も、いまだあると考える。

 法概念の明確化・厳密化による「公」「私」の分離よりも、デスポティシズムの構造の具現化が追及された点にこそ、日本律令法・さらに日本律令制国家の特質が現れていると考える。なお、氏は令制の郡領任用制度について「『才用』基準にすべてを収斂させる見方」(一四頁)への批判を述べている。詳しくは他日を期さざるを得ないが、「才用」が郡司条の「性識清廉」に次ぐ任用基準であることからして、任用制度、さらにそれとの地域との関わりー必然的に国家と地域との関わりーを考えるにあたっては、依然として重要であると考える。

*68)念のために付言すれば、天皇と郡領との結合関係が郡内統括の基本的媒介であると述べているわけではない。言うまでもなく天皇との人格的身分的結合関係は、郡領のみならず郡の構成員たる良民個々人が結ぶのであって、郡領と天皇との関係のみを取り立てて強調することはできない。

*69)念のために付言しておけば、「譜第」が天皇との人格的身分的結合関係を前提とした概念であることから、ここでの法による支配の緻密化・強化は、天皇の人格的支配からの脱却を示すものではない。

*70)ただし、前記のように、本質的には法を媒介とする官制体系の維持に先行する「第一義的課題」であったと考えられる。

*71)註(28)前掲「地方行政機構論の必要性ー郡制の特質ー」(http://www7b.biglobe.ne.jp/^inouchi/hitsuyou.htm)

*72)嫡々相継制下の七六五年においてさえ、「譜第」ではない檜前忌寸が復権を果たしていることは、本質的には郡領という官職が特定氏族による継承を前提としないことを物語り、在地首長の人格とは一応、分離されていたことを示す。なお、既に大町健は、郡司制の支配が、在地首長制の支配を前提としつつも、単なるその制度化ではない、国家機構としての支配であることを指摘している(註(1)論文、一七五〜六頁)。

*73)(ア)『続紀』和銅六年五月己巳条史料、(イ)「天平七年五月二一日格」(「弘仁五年三月二九日太政官符」所引(『類聚三代格』巻七)、(ウ)「天平一一年七月一五日太政官符」(同前)、(エ)「延暦一九年一二月四日太政官符」(同前)。なお、(エ)については、二年前の延暦一七年に「才用」主義が採用されていた(『類聚国史』巻一九 神祇一九 国造、延暦一七年三月丙申条)。また、「終身官」の実効性については疑問が呈されている(須原祥二「八世紀の郡司制度と在地」〔『史学雑誌』一〇五−七、一九九六年〕)が、ここではかかる認識が提示されていることが問題である。

*74)近年の律令制下の法令(政策)と、在地首長制の人格的支配との関係を強調した研究として、大町健「日本古代の浮浪政策における所在地主義と二つの本貫地主義」(『日本史研究』四八六、二〇〇三年)。

*75)註(28)前掲「地方行政機構論の必要性ー郡制の特質ー」

*76)吉村武彦「古代王権と政事」(註(63)書)。

*77)石母田註(63)論文では、カバネをかかる関係の基本的媒介と見ていたが、近年では、身分秩序の基本的媒介としてのカバネの成立を天智朝以降と見る説もある(山尾幸久『カバネの成立と天皇』吉川弘文館、一九九八年)。

*78)吉村註(63)論文、「二 古代の王位継承と群臣」。

*79)なお、評造制段階は国家機構が整備されてくる段階であるので、かかる変化が、萌芽的に生じていた可能性もある。ただし、大宝令以降とまったく同一視することはできないであろう。

*80)本稿とは対象とする時期がずれるが、森公章「王臣家と郡司」(『日本歴史』六五一、二〇〇二年)は奈良〜平安時代の宗像氏と王臣家との結合の展開を考察している。

*81)須原註(73)論文。

*82)註(64)前掲「機構論の意義と課題」

*83)拙稿「『上部構造』論と律令制国家論 ー石母田説と浅野・高橋説の検討からー」

http://www7b.biglobe.ne.jp/^inouchi/joubukouzou.htm

 ※アンケートにご協力ください→アンケート記入フォーム

論文総目次は………こちら

トップページは………こちら