郡領の「試練」の意義ー早川庄八説の意義と課題ー


(目次)
T はじめにー本稿の課題とその意義ー
U 郡領の「試練」の構成要素ー系譜を申す儀と筆記試験ー
V 系譜を申す儀の意義
W 筆記試験の意義
X 結びー早川庄八説の意義と課題ー



〔T はじめにー本稿の課題とその意義〕
1.本稿の課題とその意義

 本稿の課題は、郡領に対する式部省「試練」(以下、「試練」*1))の意義について追究することである。ただし、ここでは「試練」の基本的出発点である令制における意義について、中心的に検討する。また、主政・主帳についても「試練」が課せられたが、これは郡領とは状況を異にするので、別途、考察することにしたい。
 言うまでもなく、「試練」とは郡領の任用手続きの一環である。郡領の任用手続きは以下の形態を取る*2)

(a)国擬→(b)「試練」→(c)読奏→(d)叙任

(b)「試練」は、(a)国擬において、国司によって選定された擬任郡領に課せられることになっている。
 この「試練」の意義を追究するのは、以下の理由による。
 第一に、「試練」は律令制国家における、国家機構の維持・運営の具体的な一つの側面だからである。言うまでもなく、郡領の任用手続きとは、在地首長層を国家機構に編成する過程であって、根本的にはそれによって、郡という行政区画・機構を維持・運営するためのものである。この際、「試練」が課せられたとすれば、かかる維持・運営の上でそれが不可欠と認識されたからに他ならない。なぜ、それが不可欠とされたかーすなわち、「試練」の意義とは何か?ーは、律令制国家がどのようにして国家機構を維持・運営したかに迫る上で一つの素材となる。

 第二に、当然のことではあるが、「試練」の意義はその特質を規定する。したがって、その意義の把握は「試練」に関する先行学説で提起されてきた問題を解決する上で、不可欠と言える。この第二の問題については、項を改めて論ずることにしよう。
2.先行学説と本稿の課題
(1)主な先行学説
・早川庄八説

 周知のように、「試練」について、初めて本格的に論じたのは、早川庄八である*3)。早川は、

(T)奏任官以上の官人のなかで擬任郡領のみが「試練」を課せられていること
(U)『弘仁式部式』試郡司条(以下、試郡司条*4))によれば、畿内の擬任郡領が「試練」の対象から除外されていること

の二点を指摘した。(T)の現象が、なぜ生じたかはそのまま「試練」の意義を問うものであり、(U)も、「試練」の具体的執行の一つの側面を示すものである。すなわち、前記のように、「試練」を通して、律令制国家がどのようにして国家機構を維持・運営したかを把握する素材を得ようとすれば、いずれも重要な指摘といえる。
 さて、周知のように、早川は畿内政権論の立場から、この二点を説明した。(T)(U)それぞれについて述べれば、

(@)畿外の在地首長層(擬任郡領)は、畿内政権にとって従属させ屈服させるべき存在であるがゆえに、きびしい「試練」が課せられた
(A)畿内の在地首長層は、かかる存在ではないがゆえに、「試練」から除外された

ということになる。以上の指摘に基づき、「試練」は、畿内政権の政治的首長である大王=天皇と、畿外の在地首長層との「外交」の場であったとされる。
 この内、本稿で問題にする「試練」の意義を論じたのが、前記のように(@)である。(@)によって、(T)が説明されるのはいうまでもないが、注目すべきは、(U)の説明にあっても、(@)が論理的前提になることであろう。つまり、なぜ、在地首長層に「試練」が課せられるのか、が説明されなければ、なぜ、試郡司条において畿内の在地首長層が対象から除外されているのか、も説明できないといえる。すなわち、「試練」の意義の把握が、早川が提起した問題を解決する上での、不可欠の前提であることが分かる。

・大町健説
 以上をふまえて、その後の研究の展開を概観してみよう。
 まず、早川説に対して批判を提起したのが、大町健である。大町は、(T)については

(@)「在地の共同体的諸関係を総括する郡司を律令官人として編成することこそが、律令体制存立の基礎であることを示している」*5)

とした。また、(U)については、試郡司条の畿内の在地首長層の除外は令制にまでは遡らないとした上で、

(A)七九九年(延暦一八)における畿内郡司の内考への転換と関連する*6)

とした。
 この内、まず、本稿で問題とする(@)について言えばーここでの大町の指摘自体を否定するつもりはないがー、「試練」の意義の把握としては不十分とせざるを得ない。例えば、後述する「試練」の構成要素の内、早川が重視したのは(b)筆記試験であるが、「在地の共同体的諸関係を総括する郡司を律令官人として編成する」上で、なぜ(b)筆記試験が課せられるのかといった点は明らかにされていないから、「試練」という形態の意義が十分ふまえられているとは言えない。
 必然的に、(A)も、(U)の現象の説明として十分とは言えない。(@)の説明だけでは、内考に転換すると、なぜ、畿内の在地首長層が対象から除外されるのかが不明だからである*7)。もっとも、筆者はこの(A)の指摘自体は正しいと考えており、大町自身もこれを最終的な断案としているわけではないが、「試練」の意義の把握とそれに基づく(U)の現象の説明が、なお課題として残されていることは指摘できるだろう。
・森公章説
 その後、「試練」について網羅的な研究を展開したのが、森公章である*8)。森は、試郡司条の分析・関係史料の博捜などから、従来、十分、指摘されてこなかった「試練」の式次第や令制からの展開過程などを復元したが、(T)の現象については言及がない。したがって、(@)の「試練」の意義については、そもそも問題にされていないと言える。
 しかし、これでは(T)はもちろん、(U)の現象も説明できないのであって、実際、この問題についての独自の見解は提示されていない*9)。

・須原祥二説
 森註(7)論文と、ほぼ同時期に発表された論文*10)であり、式次第の復元なども行なわれている。
 しかしながら、(T)の現象について言及がない点も森論文と共通している。すなわち、この論文においても、(@)の「試練」の意義については、問題にされていないと言える。
 (U)の現象については、まず大町説を批判し、畿内の在地首長層の、「試練」からの除外は令制まで遡ると見るのが穏当とする。その上で、「試練の地域差に則せば」と限定をつけた上で、

(A−1)「早川説」が「成立する」

可能性を指摘する。しかし、「早川説」以外の「解釈」が「成立する」余地があることも指摘する。後述のように、「試練」においては(b)筆記試験が課せられたが、

(A−2)中央下級官人と出身階層を共有する畿内の在地首長層には、律令制国家が(b)筆記試験により教養や文書行政能力を審査する必要を認めなかったため

との可能性も指摘する(以上、六二頁)。
 しかし、繰り返しになるが、(@)の「試練」の意義を論じない限り、(U)の現象が、なぜ生じるかを説明するのは無理である。須原が論じたのは、基本的に、畿内の在地首長層の「試練」からの除外の時期であるから、それだけでは、なぜ彼らが「試練」から除外されるかは説明できない。
 したがって、(A−1)(A−2)のいずれの説を採るべきかは絞りきれないし、そもそもいずれの説も積極的に証明できない。
 例えば、(A−1)では「早川説成立」の可能性を指摘する。(Aー2)との関係から見て、「早川説」が「成立する」とは、(U)の現象(「地域差」の問題)が令制に遡るということだけではなく、それを「早川説」によって「解釈」(六二頁)し得るということであろう。しかし、早川説とは、前記のように「試練」を「外交」の場とするものである。時期の問題を論じただけでは、かかる「試練」の性格を証明できないから、傍証としても弱いとせざるを得ない*11)。
 (A−2)についても、特に積極的な根拠が示されているわけではない。

(2)本稿の課題の意義
 以上、先行学説を概観してきたが*12)、畿内政権論批判の蓄積もあり*13)、現在では早川説を積極的に支持する見解は見られない。しかし、早川の(T)(U)の指摘自体は重要である。そして、(@)の「試練」の意義はその解決の不可欠の前提となるにもかかわらず、早川説に替わる見解が提示されたわけではなく、むしろ、研究が後退している観さえある*14)。
 現在の研究状況では、単に畿内政権論を批判するだけではなく、「試練」の意義を追究する必要があることが分かる。
 
〔U 郡領の「試練」の構成要素ー(a)系譜を申す儀と(b)筆記試験ー〕
 「試練」の意義を把握するには、まず、「試練」で何が行なわれているのかーすなわち、「試練」の構成要素ーを把握する必要がある。次に、各構成要素の位置づけーとりわけ、本質的要素はどれか?−を把握する必要がある。しかし、構成要素の位置づけを把握するに当たっても、「試練」を含む郡領任用手続きが律令制国家においてどのような意義を有しているのかーすなわち、郡領任用手続きの律令制国家における位置づけーが、把握されねばならない。

 すなわち、本章では、

(1)律令制国家における郡領任用手続きの位置
(2)郡領の「試練」の構成要素
(3)(2)の各構成要素の位置づけ

の三点を検討する。


1.律令制国家における郡領任用手続きの位置
 郡領任用手続きは、言うまでもなく、郡領という、律令制国家の一つの官職への任用を行なう政務・儀式である。が、前稿*15)でも述べたように、同時に、在地首長層が天皇と人格的身分的に結合する政務・儀式でもある。
 「人格的身分的結合関係」という概念は、官人の「国家機構との結合の仕方」の追究を「第一義的目的」とする。支配層を編成する基本的関係ーすなわち、実体としての人格的身分的結合関係ーが析出されるのも、「第一義的目的」をこのように設定すればこそである。
 一般に、律令制国家における官人の「国家機構との結合」は、(α)天皇との人格的身分的結合→(β)官職への任用の過程を取る。一般官人の任用過程は「(1)叙位→(2)任用」の形になり、(α)が(1)、(β)が(2)の各段階で行なわれる。しかし、在地首長層の郡領への任用は、「(1)任用→(2)叙位」の形になる。(1)任用が(β)官職への任用に該当するのは言うまでもないが、あくまでも(α)→(β)の過程は遵守されなければならないから、(α)は(β)の前段階でなければならない。とすれば、(1)任用において、(α)・(β)双方が行なわれると考えなければならない。

 すなわち、律令制国家においては、郡領任用手続きとは

(α)在地首長層が、天皇と人格的身分的に結合する政務・儀式

であり、同時に

(β)在地首長層を、郡領という官職に任用する政務・儀式

でもあるということになる。なお、一般官人であれば、位階に相当する、(α)における「基本的紐帯」は、この場合、系譜である。
 「試練」も、またこの二つの過程の一環であるという認識が、分析に当たって前提となる。

2.「試練」の構成要素
 次に、「試練」の構成要素について把握する。
 まずは、試郡司条によって、式次第の概要を把握しよう。ただし、言うまでもなく、『弘仁式』は九世紀初頭の成立である。したがって、令制における「試練」の意義を把握しようとすれば、試郡司条の規定を以て、直ちに令制以来の「試練」の構成要素と見なすことはできないことに留意しておく必要がある。
 試郡司条によれば、試練の式次第は、大略、次のようになる*16)。

(T)事前準備
(U)式部輔主宰の第一回の「試」…(a)系譜を申す儀が行なわれる
(V)式部卿主宰の第二回の「試」…(a)系譜を申す儀と(b)筆記試験が行なわれる

「試練」の構成要素を示すのは、その具体的執行である(U)(V)である。
 (U)と(V)で行なわれる(a)系譜を申す儀は、試郡司条では「譜第を申す」とされている。これは、「祖」以来の「労」を口頭で申告するものと考えられ、(α)天皇との人格的身分的結合の一環と見られる。しかし、この際の「申詞」を記したと見られる「他田日奉部神護解」*17)が冒頭で「海上国造他田日奉部直神護が下総国海上郡大領司に仕え奉らんと申す故は…」と述べているように、自らが郡領任用を申請する根拠(「故」)を述べるものでもあった。この要素が「譜第(系譜)を申す」とされているのは、「祖」以来の天皇への奉仕の来歴を示す系譜こそが、任用の基本的根拠だったからである。任用手続きの一環である以上、当然でもあるが、(β)郡領という官職への任用の一環との性格も有していた。
 (V)の(b)筆記試験は、在地首長層の答案を集めた後、「卿、自ら臨みて等第を判じ、状に随い黜陟す」(試郡司条)とあり、任用のための資料とされているから、(β)郡領という官職への任用の一環という位置づけが与えられていることは間違いない。
 次に問題となるのは、(α)天皇との人格的身分的結合との関連である。この際、重要となるのは「才用」との関連である。この要素は、郡領としての「能力」を審査するものと位置づけられていると考えられるが、この「能力」を律令法の用語で言えば、「才用」ということになる。令制における郡領の「才用」は、選叙令13郡司条*18)の「時務に堪える」であるが、後述のようにこれは抽象的で曖昧な内容であるから、(α)天皇との人格的身分的結合との関連も曖昧にならざるを得ない*19)。しかし、一般に、日本律令制国家において「試」によって審査される「才用」は官人の実技・実務能力の審査であって、一般官人の天皇との人格的身分的結合の手続きである叙位のような、天皇への奉仕の審査の性格は与えられていないから*20)、郡領への「試練」における(b)筆記試験も、(α)天皇との人格的身分的結合とは、直接には関連しないと考えるべきであろう*21)。
 以上から、この要素は、(β)郡領という官職への任用の一環としてのみ位置づけられる。
 すなわち、試郡司条から知られる、「試練」の主たる構成要素とその性格は

(a)系譜を申す儀…(α)天皇との人格的身分的結合と(β)郡領という官職への任用の一環
(b)筆記試験…(β)郡領という官職への任用の一環。

ということになる。
 前記のように、以上は九世紀初頭の状況を示すに過ぎないから、それぞれの構成要素の成立時期を把握する必要がある。郡領に対する「試練」自体が令制に遡ることは、早川が検討した通りであるから、問題は令制における「試練」に、この二つの要素とその性格が遡るかにある。
 まず、(a)系譜を申す儀について。この要素の基本的特質は、言うまでもなく(1)系譜を、(2)口頭で述べる、点にある。この二点は令制まで遡ると考えられる。第一に、これらは少なくとも七四八年(天平二〇)までは遡る。同年に作成された、前述の「他田日奉部神護解」には、(1)’祖父以来の郡領としての奉仕の来歴が、(2)’宣命体で書かれているからである。第二に、ー系譜意識を異にするもののー任用手続きにおいて系譜を口頭で述べること自体は、国造制にまで遡るものである。第三に、系譜が、(α)在地首長層と天皇との人格的身分的結合関係の「基本的紐帯」、(β)郡領任用の「基本的媒介」であることは、令制にまで遡る(前稿)。とすれば、令制における「試練」でも、系譜が口頭で述べられ、(α)天皇との人格的身分的結合関係、(β)郡領という官職への任用、それぞれの一環と位置づけられていたと考えられる。

 次に(b)筆記試験について。この要素は「試練」が「試練」たる基本的根拠である。すなわち、この要素があるから、この政務・儀式は「試練」とされると考えられる。前記のように、「試練」が令制当初から行なわれていたことは確かだから、(b)筆記試験もまた、令制当初に遡ると考えられる。とすれば、前記の性格もまた遡るとすべきであろう。
 すなわち、いずれも、令制当初以来の構成要素と考えられる。
3.(a)系譜を申す儀と(b)筆記試験の位置づけー「試練」の本質的要素ー
 次に、(a)系譜を申す儀と(b)筆記試験の位置づけーすなわち、どちらが「試練」の本質的要素かーを検討する。
 従来、この点は(b)筆記試験とされてきた。例えば、早川説では、畿外の在地首長層の任用に当たっては、筆記試験による厳しい銓擬が必要だから「試練」が行なわれるとされている。すなわち、この説では、(b)筆記試験を行なう必要があるから、「試練」を執行するとされているのであって、(b)筆記試験こそが「試練」の本質的要素とされている。また、須原が、前記の(A−2)のように、筆記試験による文書行政能力や教養の審査の必要がないから、畿内の在地首長層が「試練」から除外されたとの可能性を想定するのも、同様の前提に基づく。
 しかし、この説は誤りと考えられる。この(b)筆記試験によって在地首長層の適性を「客観的」に評価することはできず、任用の資料としては機能しないと考えられるからである。
 第一に、そもそも、畿内政権論を前提としない限り、筆記試験による在地首長層の適性評価の必然性は確認されない。律令制国家においては、選叙令4応選条が、一般官人の任用基準を「『徳行』→『才用』→労効」と規定し、その内容と優先順位が挙げられているが、前二者の具体的内容は不明確で、それ故、優先順位も機能しなかった。官職任用にあたって、前提条件として明確化されているのは、天皇への奉仕の具体化である労効と、それに基づく位階の保持に過ぎないのである。「才用」を審査する「試練」も一般官人に対しては執行されることはなく、官職への適性評価はあくまで実務・雑務の位置づけであり、国家が独自に政務・儀式を執行して審査するようなものではなかったと考えられる*22)。
 この傾向は、叙位重視・任官軽視ともされるが*23)、基本的には日本律令制国家の官職任用における「公」「私」の分離が、法概念としての任用基準の明確化とそれに基づく適性評価によっては行なわれないことを示す。国家機構は「単一的支配」(モノクラシー)*24)を特徴とするから、私的権力は原則として否定されねばならず、「公」「私」の分離が不可欠となる。官職任用において任用基準が示されるのは、言うまでもなく、私的権力の源泉ともなる恣意的任用を排するためであるが、その具体的内容の明確化によってはかかる分離は行われないのである。問題が、律令制国家における「公」「私」の分離の特徴である以上、本来は在地首長層においても同様と考える方が自然であり、とすれば適性評価を行なう必要はないことになる。
 第二に、第一に述べた点と対応するが、評価基準が明確ではない。(b)筆記試験は「才用」を審査するものであるが、選叙令13郡司条における郡領の「才用」は「時務に堪える」という抽象的で曖昧な内容であり、「時務に堪える」ために何が必要かは具体化されていないから、この基準に基づいて在地首長層の適性を評価することは不可能である。
 なお、これは、第一の指摘で述べた、日本律令制国家の官職任用における「公」「私」の分離が法概念としての任用基準の明確化とそれに基づく適性評価によっては行なわれないという特徴が、郡領任用においても貫徹していることを示している。

 また、その後、郡領の任用基準としては「譜第」が強調されるようになるが*25)、これは任用の第一義的基準が「才用」から「譜第」に移行した形となっているのであって、この間、「才用」自体の内容に変化があったわけではない。実際、郡領任用者を、原則として「立郡以来譜第重大之家」に限定する嫡々相継制を発令した七四九年(天平勝宝元)の勅*26)においては、付帯事項として「もし、嫡子に罪疾と時務に堪えぬことあらば、立て替えること令の如し。」とある。この「時務に堪えぬ」は選叙令13郡司条の「才用」規定を前提にしていると考えられ、嫡々相継制下においても「才用」自体はあくまでも、「時務に堪える」であったことが知られる。
 「才用」の内容が具体化された可能性を示すのは、七九八年(延暦一七)に制定された「条目」である。これは、嫡々相継制を廃止し、「芸業著聞にして郡を理むるに堪える」を任用基準とした際、「才能を擢用するに、つぶさに条目あり」と制定したものである*27)。具体的内容は不明であるが、「才用」(「才能」)を審査する際の審査基準を示したものと見られるから、令制における「時務に堪える」という郡領の「才用」を具体化した可能性がある*28)。

 仮に、この「条目」を郡領の「才用」の具体化と認めるとしても、ほぼ八世紀を通じて、「才用」は具体性を欠いた、抽象的な内容であったことになり、(b)筆記試験も、在地首長層の適性審査のための「客観的」基準をもち得なかったと考えられる。
 第三に、(b)筆記試験の成績によって、郡領に任用されたとされる実例は見られない。もとより、系譜にもとづく「祖」以来の奉仕によらずに、個人の力によって郡領に任用されたとされる者は存在する。『西宮記』『北山抄』*29)などに見える「労効譜第」の「祖」である。しかし、この場合の任用の根拠は、その名が示すとおり労効であって、(b)筆記試験の成績ではない。そして、これらの儀式書には、(b)筆記試験の成績によって任用された者(の「子孫」)を示す範疇は存在しないのである*30)。
 第四に、「試練」の結果を受け、最終的に郡領任用を裁可する(c)読奏において、(b)筆記試験の成績が考慮された形跡が見えない。この(c)読奏において、上卿がチェックすべきポイントが『西宮記』『北山抄』に見えるが、それは(1)擬任郡領の系譜、(2)朝集使、(3)違例越擬の三点であり*31)、(b)筆記試験の成績は特に上卿がチェックすべきものとはされていないのである。
 この内、第三と第四の点の根拠は、一〇世紀後半以降の儀式書の記述であり、これらは、郡領任用手続きが、人事における実効性を喪失したという意味で「儀式化」して久しい時期のものである。しかし、いずれも「儀式化」以前の、郡領任用における(b)筆記試験の位置づけを伝える可能性があり、傍証としては十分有効であると考える。
 以上の四点からすれば、(b)筆記試験には在地首長層の評価機能は存在しないと考えられる。とすれば、人事の資料としては機能しない(b)筆記試験を実施するために、この政務・儀式が執行されるとは考えがたく、「試練」における本質的要素とは見なしがたいであろう
 一方、(a)系譜を申す儀における、「祖」以来の奉仕の申告が、(α)天皇との人格的身分的結合においても、(β)郡領という官職への任用においても、根拠として機能することは明らかである。(b)筆記試験が本質的要素と見なせないことからすれば、こちらを評価すべきであろう。

 すなわち、この政務・儀式の本質的要素は(a)系譜を申す儀と考えるべきである。「試練」と名づけられたこの政務・儀式は、(a)系譜を申す儀を実施するために設定・執行されたと考えられる*32)。
 とすれば、「試練」の意義を把握するために検討すべき問題は、第一に、なぜ、(a)系譜を申す儀が実施されるのか、すなわち、

(一)(a)系譜を申す儀の意義

である。
 前記のように、任用申請の根拠であり、「祖」以来の奉仕を示す系譜を口頭で述べるこの要素は、(α)天皇との人格的身分的結合、(β)郡領という官職への任用の、それぞれの一環という性格を持つ。しかし、一般官人の場合、(β)官職への任用はもちろんのこと、(α)天皇との人格的身分的結合の手続きである叙位においても、自らの奉仕を口頭で述べる場は、原則として設定されていない*33)。したがって、なぜ、在地首長層についてはかかる要素が必要となるかについては独自の分析が必要となる。
 しかし、前記のように、(b)筆記試験はこの政務・儀式が「試練」たる基本的根拠であり、形式上は執行の目的とされている。実際、(b)筆記試験が行なわれる(V)第二回の「試」は式部卿が主宰しており、(a)系譜を申す儀のみで構成される(U)輔主宰の第一回の「試」よりも上位の位置づけとされている。(a)系譜を申す儀がこの政務・儀式の本質的要素であるとすれば、なぜ、(b)筆記試験が行なわれ、この政務・儀式が「試練」とされたかが問題となる。第二に検討すべき問題として

(二)(b)筆記試験の意義

が挙げられる。
 第三章・第四章において、それぞれの問題を検討することにする。


〔V 系譜を申す儀の意義〕
 まず、(a)系譜を申す儀の意義について検討しよう。この要素が本質的要素と考えられる以上、その意義は「試練」の意義に直結する。したがってその検討は、第一章で述べた(T)(U)の現象がなぜ、生じるかを考える上での前提ともなる。
 まず、

(1)系譜を申す儀の特徴

を把握した上で、

(2)系譜を申す儀の意義

を把握し、最後に

(3)畿内郡領の「試練」からの除外

について検討することにする。言うまでもなく、(2)が(T)の現象、(3)が(U)の現象の検討となる。
1.系譜を申す儀の特徴ー口頭伝達の呪術性との関連ー
 まず、試郡司条から知られる(a)系譜を申す儀の特徴を列挙しよう。

(1)在地首長層が、(T)事前準備の段階において、(a)系譜を申す儀で述べる「申詞」を教習している。
(2)系譜を口頭で述べる
(3)(U)輔主宰の第一回の「試」、(V)卿主宰の第二回の「試」の二回にわたって行なわれる。

 (1)は、試郡司条に、式部省掌に擬任郡司の名簿を授け「毎日、召し計りてその申詞を習わしめよ。」とあることから分かる。(2)は、試郡司条の「譜第を申す」との記述、「他田日奉部神護解」が宣命体になっていること(前述)、から裏付けられる。
 (1)(2)から、少なくとも試郡司条の段階では、(a)系譜を申す儀は、系譜を審査するよりもそれを口頭で述べさせること自体に意義があったことを示している。この要素が、「言霊」に見えるような前近代における口頭伝達の呪術性*34)と強く関連することが分かる。
 (3)については、(U)は、(V)における(a)系譜を申す儀の下準備であり、新たに分置されたものとする説もある*35)。仮にこの説に従うとしても、二回にわたって行なうのだから、それだけこの要素が重視されていたことを示すとすることはできるであろう。

 以上、試郡司条の(a)系譜を申す儀の特徴からは

(@)口頭伝達の呪術性と強く関連すること
(A)「試練」の中で、この要素が重視されていたこと

の二点が知られる。
 この内、(A)は、この要素が「試練」の本質的要素である以上、当然と言えるが、これは前項で指摘したこの要素の位置づけを再確認させるに過ぎない。
 ここでの問題は(@)であるが、以下の根拠によって、これも令制に遡ると考えられる。
 第一に、前記のように、系譜を口頭で述べる、という形態が令制に遡ると考えられることである。単に、在地首長層の系譜が郡領に相応しいかどうかを審査するのであれば、書面で十分であり、本人確認の意であれば、式部省の官人が、二、三の質問を行なえばよい。すなわち、単に系譜の審査・本人確認の限りでは、系譜を口頭で述べる、という形態の必然性は存在せず、事務面での煩瑣を考えれば、むしろ廃止した方がよいとも言える。にもかかわらず、かかる形態が令制に存在したとすれば、系譜を口頭で述べること自体が意義を有していたと考えるべきである。とすれば、その形態自体が、すでにかかる呪術性との強い関連を物語ると言える。
 第二に、前記の「他田日奉部神護解」から、(a)系譜を申す儀とかかる呪術性との強い関連を知ることができる。同解の内容を整理すれば、(A)本人の官職・本貫・位階・姓名など、(B)祖父・父・兄の冠位・官職、(C)本人の労効、(D)大領職の請願、に大別されるが、すべての在地首長層がこれらを述べるとすれば、かなりの煩瑣が予想される。一方、「同解」が作成された七四八年は、「譜第」副進制*36)の段階であり、郡司任用手続きにおける式部省の負担が増加した時期である。すなわち、同制では、「才用」主義にもとづいて国司が選定した擬任郡司(郡領)のほかに、「難波以還譜第重大四五人」を副進させるが、他に「身の才、倫にすぐれ、并びに労効、衆に聞こえたる者」がいれば、申し送ることとされている。すなわち、郡司候補者が、(1)国擬で選定された在地首長層の他に、(2)「難波以還譜第重大四五人」と、場合によっては(3)「身の才、倫にすぐれ、并びに労効、衆に聞こえたる者」にまで拡大した時期であって、式部省は、(1)〜(3)すべてについて任用に関する事務を処理しなければならない。この時期においてさえも、(A)〜(D)のすべてを口頭で述べさせているということは、(a)系譜を申す儀における口頭伝達の呪術性が極めて重要視されていたことを物語る。とすれば、両者が強く関連していたことを指摘することができるであろう
 第三に、系譜を口頭で述べること自体に意義があることも、国造制段階にまで遡る。国造・評造は、任用される系譜が特定されたと見られ、系譜がかかる地位に相応しいかどうかを審査する必要はないからである。令制の郡領任用手続きにおいても、系譜を口頭で述べていたとすればその形態自体に意義があった可能性を想定でき、口頭伝達の呪術性との関連が令制に遡る可能性を想定できる。
 以上の根拠をあわせて考えれば、口頭伝達の呪術性との強い関連は令制にまで遡ると考えられる。

2.系譜を申す儀の意義
 では、何のために、この要素が存在するのであろうか。前記のように、この要素は在地首長層に、任用を希望する根拠を口頭で述べさせるものだから、問題はかかる根拠を述べさせる意義は何か、という点にある。
 結論から言えば、その意義は、在地首長層を「自発的に労働し、規律に服従」させるべく、「意識の内部」を支配する*37)基本的手段であった点にあると考えられる。
 そもそも、任用を希望する根拠が、労働と規律への服従を自発的に行なう根拠となるのは、一般的に言えることであろう。例えば、前記の「他田日奉部神護解」末尾において、神護は「祖父・父・兄らが仕え奉る次に在るが故に、海上郡大領に仕え奉らんと申す。」と述べ、祖父・父・兄の「次に在る」という系譜上の位置が、大領任用希望の基本的根拠となっていることが分かるが、仮に彼が大領に任用されたとすれば、「祖父・父・兄らが次に在るが故に」、大領として労働(郡務従事)し、規律に服従することになるはずである。後述のように、−系譜意識を同一視することはできないがー系譜がかかる支配の媒介となる例は他にも見られるから、(a)系譜を申す儀にかかる意義を認めることは、十分、可能であろう。
 しかしながら、(a)系譜を申す儀の意義は、かかる支配の手段ではなく、「意識の内部の支配」の基本的手段と位置づけられていた点にあると考えられる。

 一般に、官僚制においては、かかる基本的・決定的手段が昇進であることは、石母田正の述べるとおりである。しかしながら、周知のように、郡司という官職は、昇進という点で厳しい制約があった。内長上であれば、六年で位階の昇進の機会が得られるのに対し、同じ昇進に郡司は一〇年を必要とする(令制*38))。かかる昇進によって、自発的な、労働と規律への服従が生み出されるとは考えにくいのであって、郡司においては、あくまで補助的手段と考えるべきであろう。しかし、昇進が官人の「死命を制する」*39)とされるように、国家機構の維持・運営においては「意識の内部の支配」は不可欠である。かかる支配の基本的手段が必要となる。
 (a)系譜を申す儀とは、まさにその基本的手段であったと考える。
 系譜意識が、官人としての奉仕の根拠となる事例自体は、律令制国家においては他にも見ることができる。例えば、七四三年(天平一五)に、当時の皇太子阿部内親王(後の孝謙・称徳天皇)が、五節の舞を元正太上天皇に奉った際、叙位が行なわれたが、この時、聖武天皇は「(A)君臣祖子の理を忘るることなく、継ぎ坐さむ天皇が御世御世に、明き浄き心を以て、(B)祖の名を戴き持ちて、(C)天地と共に長く遠く仕え奉れ」と宣命で述べている>*40)。太字部(A)に「君臣祖子の理」とあるように、ここでは「祖の名」(同(B))を戴き持つことが、「天地と共に長く遠く仕え奉れ」(同(C))との根拠となっており、系譜意識が官人としての奉仕の根拠となることが分かる。聖武天皇がここで「君臣祖子の理」に触れたのは、系譜意識を喚起することにより、官人としての一層の奉仕を促したものであり、それは労働と規律への服従を自発的に行なわせることにつながると考えられる。
 もっとも、かかる系譜意識は、「意識の内部の支配」の基本的手段とは見なしがたい。一般官人に対して、かかる系譜意識が強調されるのは、ここで触れた、皇太子による五節の舞の太上天皇への献上など特別な場合に限られており*41)、日常的な労働・規律への服従を支える手段にはなりえないからである。それは、律令制国家の官人の天皇に対する奉仕の基底的条件ではあったが、一般官人の「意識の内部の支配」の基本的手段は、やはり昇進と見るべきであろう。
 しかしながら、(a)系譜を申す儀における系譜意識は、かかる官人の奉仕の基底的条件としての系譜意識とは、国家機構における位置づけを異にしている。すなわち、それは

(α)天皇との人格的身分的結合の「基本的紐帯」
(β)郡領という、具体的な官職への任用の「基本的媒介」

であるからである。
 (α)は、系譜によって、国家機構を専有する支配層の一員たることが示されることを表しており、在地首長層の、支配層の一員としての存在意義に直結するものであった。一般官人の場合ー無位の官人を除けばー、かかる存在意義を示すのは基本的に位階であり、「祖の名」は、必ずしもそれに直結するものではなった。ちなみに、昇進を基本的手段とする、一般官人の「意識の内部の支配」は天皇との人格的身分的結合関係に支えられていたことが指摘されているが*42)、(a)系譜を申す儀が基本的手段であることは、かかる形態とも合致するといえよう。
 そして、何より(β)は、前記のように、系譜が、郡領という具体的な官職に任用される際の根拠となることを示しており、郡領としての職務従事・規律への服従に直結することを示す。言うまでもないが、一般官人は、「祖の名」を根拠として特定の官職に任用されるわけではなく、系譜意識は、その官職における職務従事・規律への服従には、直結しない。
 すなわち、(a)系譜を申す儀において、系譜を述べさせることは、支配層の一員たる郡領として、職務従事、規律への服従を自発的に行なわせることに直結するのであって、前記の官人の奉仕の基底的条件としての系譜意識とは、「意識の内部の支配」における有効性がまったく異なるのである。
 他に、在地首長層に対する、かかる基本的手段が見られないことからすれば、(a)系譜を申す儀こそが、在地首長層の「意識の内部の支配」の基本的手段であったと考えるべきであろう。在地首長層は、呪術性を持つ口頭伝達によって、任用の根拠たる「祖」以来の奉仕を述べることにより、労働と規律への服従を自発的に行なう意識を喚起されたのである。

 在地首長層に対する、かかる支配の特徴は、すこぶる「観念的」であることであろう。一般官人の場合、人格的身分的結合関係に支えられるとはいえ、昇進がかかる支配の基本的手段であるから、経済的恩恵を伴い、また五位以上になれば、蔭位制によって政治的地位を「子孫」に継承させることも可能である。しかし、郡領の場合、昇進に制約がある以上、かかる具体的利益(以下、「具体的利益」)を媒介にすることはできない。したがって、「意識の内部の支配」は、「郡領に相応しい系譜に属する」という系譜意識を基本的媒介とせざるを得ず、その意味では極めて「観念的」な支配にならざるを得なかったと考えられる。
3.畿内の在地首長層の「試練」からの除外
 前項での考察を前提に、畿内の在地首長層の「試練」からの除外について考えよう。
 まず、かかる除外が行なわれた時期が問題となる。早川は、これを令制当初からとしたが、大町は、前記の「譜第」副進制を命じた『続紀』天平七年(七三五)五月丙子条*43)を根拠に、この見解を批判した*44)。すなわち、同条では畿内七道を対象としているが、郡司の任用手続きのため、「その身は一二月一日を限りて、式部省に集めよ。」とあり、畿内の郡司も式部省に集めることが知られる。これは「試練」を受けるためと考えられるから、この八世紀前半の段階では、畿内郡司も「試練」の対象になったということになる。
 これに対して、批判を提示したのが須原であり、(1)同条は「集めよ」とあるだけであり、郡司の任用手続きにおける式部省の職務は「試練」のみではないから、ここから畿内郡司が「試練」の対象となったとはいえないこと、(2)畿内の在地首長層の「試練」からの除外を示す史料が得られないこと、の二点から、畿内の在地首長層の除外は令制当初に遡るとした。

 しかし、筆者は大町の見解が正しいと考える。(1)’確かに、『続紀』天平七年五月丙子条のみでは、畿内の在地首長層も「試練」の対象であったとは言えないかもしれないが、除外されていたとも言えない、(2)’畿内の在地首長層の「試練」からの除外を示す史料は、後述のように、大町の挙げる『日本後紀』延暦一八年(七九九)四月壬寅条*45)が該当すると考えられる。また、大町の述べるように、令制当初に畿内の郡領が他と区別されていたことを示す史料の方が確認されない。畿内政権論を前提としない限りは、畿内の在地首長層も、他の地域と同じ任用手続きを取ったと考える方が自然である。
 以上から、令制当初においては、畿内の在地首長層も「試練」の対象になったと考えられる。
 次に問題となるのは、畿内の在地首長層の「試練」からの除外が、いつ、なぜ行なわれたかである。前記のように、この問題の回答を示すのは『日本後紀』延暦一八年四月壬寅条である。
〈史料1〉 『日本後紀』延暦一八年四月壬寅条

公卿奏して曰く「大和国守従四位下藤原朝臣園人の解にいわく『郡司の任、掌る所、軽からず。而るに(A)外考の官にして、貽謀するを得ず。諸国に準ずるに、亦、身を潤すことなし。(B)是を以て擬用の日、各競いて辞退す。郡務の闕怠、おおむねこれに由る。伏して請うらくは、(C)之を内考に居きて、もって後輩に勧めんことを』…ただ今申すところ、穏便にして。誠に進昇にかなう。(D)伏して望むらくは、五国の郡司、一に内考に居かんことを」と。之を許す。

ここでは、まず大和国守藤原園人が解において

太字部(A)…郡司は外考の官であるために、子孫のための恩典(貽謀)や経済的恩恵を得ることができないこと
太字部(B)…このために、郡司の擬用(任用)を辞退する者が相次ぎ、郡務闕怠の大きな原因となっていること
太字部(C)…事態の改善のために、郡司を内考において欲しいこと*46)

の三点を述べている。
 この園人の解では、特に地域的な限定がないので、郡司全般について述べていると考えられるが*47)、太字部(D)からはこれを受けて、公卿が、(畿内)五国の郡司のみ内考とする旨を上奏し、裁可されたことが分かる。対象が畿内の郡司にのみ限定されたのは、京に近接し、「駆策の労」の甚だしいためとされる(中略部)。
 前項の(a)系譜を申す儀の意義を考慮すれば、〈史料1>の措置が「試練」からの除外と連動することは明らかである。太字部(A)のような理由で、郡司の任用を辞退する者が相次ぐ状況(太字部(B))は、もはや郡領に相応しい系譜に属するというだけでは、在地首長層が、職務への従事や規律への服従を拒否していることを示している。すなわち、〈史料1〉は、(a)系譜を申す儀に見られる系譜意識による「意識の内部の支配」の破綻を示すものである。
 そもそも、系譜意識は、在地首長層に対する「意識の内部の支配」の基本的手段と位置づけられていたものの、それが現実にどこまで機能していたかは疑問がある。例えば、七四九年(天平勝宝元)に嫡々相継制が採用され、郡領任用者が「立郡以来譜第重大之家」に限定されるようになった*48)。このため、白丁を任用するようになったが、その結果、「孝を移す道、漸く衰え、人を勧むる道、実に難し。」という状況に陥ったことが知られる*49)。これは単に「立郡以来譜第重大之家」に属するだけでは、官人としての奉仕に堪えうる天皇への忠誠観念を持ち得ず(「孝を移す道*50)、漸く衰え」)、適任者を採用することが困難であったこと(「人を勧*51)むる道、実に難し」)を示している。当然ながら、自発的な、職務従事・規律への服従にも問題が生じる可能性が指摘できる。

 また、同じく嫡々相継制の採用によって、東国において神火事件が発生したことが知られるが*52)、その主な犯行主体も「立郡以来譜第重大」の系譜に属する者であったと考えられる*53)。郡領任用抗争に敗れた結果とはいえ、天皇への貢納物が納められる、ミヤケたる正倉に放火する行為は、天皇への忠誠観念が皮相に留まることを示している。当然ながら、仮に郡領に任用されたとしても、職務従事・規律への服従の点で問題が生じる可能性は十分、想定される。
 これらの例は、「立郡以来譜第重大」の系譜に限定されるが、これは郡領としての奉仕を蓄積した系譜であるから、基本的な状況は他の系譜に属する者も同様と見るべきであろう。すなわち、系譜意識のみによって、在地首長層の「意識の内部」を支配することはできなかったのである。
 七五七年(天平宝字元)に、前記の白丁任用の弊害を正すために、中央出仕の経験のある有位者に郡領任用者が限定されている*54)ことから見て、現実にかかる手段として機能したのは位階であったと考えられる。もっとも、昇進に制約がある以上、「具体的利益」が媒介とならないのは前記の通りだから、位階がかかる手段たるを支えたのは、その昇進の媒介としての側面ではない。恐らく、位階がかかる手段として機能したのは、それが「クライ」として、支配層の中での、天皇との位置関係を示す*55)からであろう。すなわち、在地首長層の「意識の内部の支配」が、すこぶる「観念的」であることは、系譜意識と変わらないといえる。
 〈史料1〉は、

(1)少なくとも畿内については、かかる「観念的」な「意識の内部の支配」が存続不可能であったこと
(2)それ故、その基本的手段が昇進に転換したことーしたがって、「意識の内部の支配」の媒介が系譜意識から「具体的利益」に転換したことー

を示している。

 とすれば、本来の(a)系譜を申す儀の意義を考えれば、特に畿内の在地首長層を参加させる必要はない。「試練」は、あくまで()系譜を申す儀を実施するために行なわれているから、この要素に参加する必要がなければ、「試練」に参加する必要もないと考えられる。他に、畿内の在地首長層を「試練」から除外させねばならないことを示す史料が得られないことからすれば、〈史料1〉の措置によって、畿内の在地首長層は「試練」から除外されたと考えるべきであろう。
 すなわち、七九九年(延暦一八)の措置によって、畿内の在地首長層への「意識の内部の支配」の基本的手段が、(a)系譜を申す儀から昇進に移行したため、この要素に参加させる必要がなくなり、畿内の在地首長層は「試練」の対象から除外されたと考えられる。

〔W 筆記試験の意義〕
 次に、(b)筆記試験の意義について把握しよう。早川説で強調されるように、(b)筆記試験は一般官人に対しては課せられることはなく、律令制国家においては異例である。また、前記のように、形式的には「試練」の目的となっており、また、だからこそ、この政務・儀式は「試練」と名づけられたといえる。しかし、在地首長層の評価機能がなく、人事の資料としては基本的に意義がない。なぜ、在地首長層にはこのような(b)筆記試験が課せられたのであろうか。
 この問題は、「試練」・(b)筆記試験の形式的・法的な位置づけの問題であるから、まず、その令制上の位置が問題となる。これは、前記のように、(b)筆記試験は在地首長層の「才用」を審査するものと位置づけられていたと考えられ、それ故にこそ、この政務・儀式は「試練」とされていたと考えられる。したがって、法制上の位置づけとしては、郡領の任用基準として「才用」が存在するので、(b)筆記試験が課せられる、という関係になる。令制においては、「才用」が郡領任用の第一義的基準と位置づけられていたから、令制における(b)筆記試験の意義は「才用」主義と連動すると考えられる。
 郡領の任用における「才用」主義の意義については、前稿で論じたが、在地首長層をディスポティシズムの原理に編成することにあると考えられる。在地首長層は、前記のような「平等性」「同質性」を有しており、かかる原理からは逸脱するが、三位の貴族であっても八位の下級官人であっても、ともに共同体の成員であるという、律令制国家の支配の基礎である良人共同体の特質を否定することはできなかったと考えられる。したがって、系譜を人格的身分的結合関係の「基本的紐帯」・任用の「基本的媒介」とする閥族主義的任用とは、原理的に矛盾するにもかかわらず、郡領任用基準制度は「才用」主義とされたと考えられる。
 とすれば、(b)筆記試験の意義もまた、ディスポティシズムの原理への編成と連動すると考えられる。前記のように、在地首長層の「意識の内部の支配」のために、(a)系譜を申す儀が必要とされたと考えられるが、それは(β)郡領という官職への任用の一環でもある以上、単にそれのみでは閥族主義的任用を露呈することになる。しかし、在地首長層はディスポテシズムの原理に編成されねばならないから、この点を明示する要素が必要となる。(b)筆記試験は、任用が個人の「才用」によって行われることを示すから、かかる原理への編成を明示することが可能である。恐らく、律令制国家においては異例でありながらも、(b)筆記試験が課せられたのはこのためであろうと考えられる。ただし、前記のように、(b)筆記試験は評価機能がないから、それによって個人の「才用」による任用を具現化するわけではない。あくまでも、かかる原理への編成を象徴的に示すものと考えられる*56)。
 すなわち、任用の一環として、「意識の内部の支配」を系譜意識を媒介として行なう在地首長層も、ディスポティシズムの原理に編成されていることを、象徴的に示すために(b)筆記試験が課せられたと考えられる。

〔X 結びー早川庄八説の意義と課題ー〕
 これまで、本稿で論じてきた内容を整理しておこう。

(一)郡領の「試練」は、(a)系譜を申す儀と(b)筆記試験の二つを構成要素としており、前者が本質的要素である。
(二)(a)系譜を申す儀の基本的意義は、在地首長層に対する「意識の内部の支配」の基本的手段と位置づけられた点にある。畿内の在地首長層が「試練」から除外されたのは、七九九年の内考への転換によって、かかる支配の基本的手段が昇進に移行したためと考えられる。
(三)(b)筆記試験は、任用の一環として、系譜意識を媒介として「意識の内部の支配」が行なわれる在地首長層も、ディスポティシズムの原理に編成されていることを、象徴的に示すために課せられたと考えられる。

以上、とりわけ、(一)(二)の分析に明らかなように、郡領の「試練」の意義は、在地首長層に対する「意識の内部の支配」の基本的手段という点にある。
 在地首長層に対するかかる支配が「試練」の形態となるのは、天皇との人格的身分的結合関係に規定されたからである。在地首長層と天皇とのかかる関係の特質は

(1)在地社会の秩序に規定されるために、系譜を「基本的紐帯」とし
(2)良人共同体の首長たる天皇と結合する

点にある*57)。 (1)は、「意識の内部の支配」が(a)系譜を申す儀で行なわれる形を生み出し、(2)は郡領任用におけるディスポティシズムの原理となって(b)筆記試験を必然化する。(2)の良人共同体は律令制国家機構の基礎をなし、(1)はこれを否定できないから、(b)筆記試験はこの政務・儀式の形式的な目的となり、「試練」という形態で「意識の内部の支配」が行なわれることとなる。

 しかし、繰り返しになるが、「試練」の独自の意義は、かかる在地首長層と天皇との人格的身分的結合関係の特質一般を示す点ではなく、その中で、在地首長層に対する「意識の内部の支配」がいかに行なわれたかを示す点にある。「試練」が、冒頭で述べた、律令制国家が、どのようにして国家機構を維持・運営したかに迫る上での一つの素材たりうるのも、かかる独自の意義を有すればこそである。
 かかる意義は、日本古代史研究の立場から、今日的要請に応える上でも重要である。「意識の内部の支配」は官僚制一般の特徴だから、現代官僚制においても当然、見出すことができる。「天下り」や、年金問題に見える社会保険庁の腐敗などの、現代官僚制の諸問題は、「個々の官僚の場合には、国家目的はかれの私的目的となり、より高い地位の追求となり、立身出世となる」*58)結果とも言えよう。
 しかし、高度に資本主義が発達している現代日本において、「意識の内部の支配」の矛盾を広範に露呈せしめているのは、企業である。「新自由主義」的改革による「格差社会」の進展の中で、「フリーター」など、物心共に厳しい生活を強いられる貧困者が生み出されているが、湯浅誠は貧困の直接的背景の一つとして「自分自身からの排除」を指摘している*59)。生活が圧迫されている貧困者自身が、その原因を「自己責任」に帰すものである。この場合、問題解決の方向は自己の内面に向かわざるを得ないから、圧迫が進行すればするほど自己否定が激化し、最悪の場合、暴発することになる。
 この「自分自身からの排除」は、「意識の内部の支配」の極限的な展開と見ることができるであろう。自発的な、労働と規律への服従を喚起する手段であった昇進は、人間の価値の評価基準と化し、昇進どころか労働の機会さえ不安定な者は自己否定にいたる。人間観自体は、古代とは比較にならないほど、多様化しているにも関わらず、である*60)。
 労働と規律への服従を自発的に行なわせること自体が、支配の一環であるとの認識を喚起すること、かかる支配が歴史的にどのように行なわれてきたかを追究することは、日本古代史研究の立場からかかる事態に対応する上で、重要といってよい。以上は、国家の支配をより緻密に把握することが、日本古代史研究への今日的要請になっており、単に国家の「本質」を論ずるだけでは、社会的要請に応え得ないことを示している。
 冒頭で述べたように、「試練」について本格的に追究したのは、早川庄八である。早川説の意義とは、律令制国家における「意識の内部の支配」の、一つの形態を把握する素材について、議論を喚起した点にあるといえる。仮に、この説が存在しないとすれば、かかる素材を一から発見しなければならないから、日本古代史研究の立場からの、かかる支配の追究は困難となる。前記の今日的要請を考えれば、早川説の意義は認めるべきであろう。
 早川論文がかかる意義を担うのを支えたのは、史料を博捜し、その一字一句をゆるがせにしない姿勢である。早川論文を読めば、養老令文はもちろんのこと、『令集解』・『唐令拾遺』所収の諸史料・『続紀』・『弘仁式』・『日本書紀』などの関連史料が逐一、提示され、丁寧な解釈が加えられていることが分かる。そもそも、早川説の根幹となった、「試練」からの畿内郡領の除外を示す試郡司条の記述は決して目立つものではない。かかる除外が明記されているわけではなく、単に(a)系譜を申す儀の対象者が「六道」であることを示すに過ぎないからである。かかる微細とも言える記述が「発見」できるのも、前記の姿勢があればこそであろう。もとより、本稿でも批判を述べたように、その分析結果自体は検討の余地があるが、かかる姿勢は、職務遂行に対する忠実さを示す。日本古代史研究者としてはもちろんだが、一職業人としても敬服すべきといえよう。「議論を喚起」するには、一定度以上の学界への影響力が必要だが、早川論文がかかる影響力を持ちえたのは、このような、日本古代史研究のみならず、一般の職務遂行に照らしても、十分、賞賛されるべき姿勢に貫かれているからであろう。
 一方、早川説の課題は、ーかかる姿勢にもかかわらずー「試練」の分析が、律令制国家におけるその特質・意義の把握、さらにそれに基づく国家の支配の緻密な把握につながらないことである。前記のように、早川は、「試練」を畿外の在地首長層と畿内政権の大王との「外交」の場であったとしたが、この説は、大町が指摘するように事実認識として誤りであり、さらに国家のもたらす諸問題とは何ら、直接の関わりがない。
 その原因の第一は、早川が、「試練」のような律令制国家の「上部構造」に属する諸事実と、国家の一般論との緊張関係を、踏まえていないことである。早川は、前記の意義付けによって「試練」を畿内政権論に直結させたが、早川にとっては畿内政権とは律令制国家の「本質」を示すものであったと考えられるから、ここでは、「試練」が、律令制国家の「本質」論に直結させられた形になっている。
 しかし、これは、まず、本来、律令制国家論において総括的位置を与えられ、それ故、「律令制国家とは何か」という「本質」論に直結するものとされた共同体論・生産関係論を無視するものである。共同体論・生産関係論ではなく、なぜ畿内政権論によって律令制国家の「本質」を把握するのかが説明されない以上、畿内政権が律令制国家の「本質」であること自体が論証されない*61)。
 しかし、何より、これは「上部構造」の律令制国家論における独自の意義を無視するものである。共同体論・生産関係論の特質と、さらにその国家の成立・展開との関連の把握が国家の「本質」に直結するとしても、それだけで国家を捉えうるわけではないであろう。本稿で取り上げた問題に即して言えば、国家が共同体・生産関係の特定の歴史的段階の所産であることが論証されたとしても、それが「意識の内部」を支配する存在であること、したがって、自発的に、労働し規律に服従しているつもりでも、それ自体を通して支配を行なう存在であることが踏まえられなければ、国家というものを把握したことにはならない。すなわち、「上部構造」論は、国家論においてその「本質」論とは独自の意義を有しているのであって、それを「本質」論に直結させるのは、国家論を豊かに発展させることにはならない。そして、前記のように、国家の支配の把握の緻密化が今日的要請となっている現在、かかる独自の意義はますます重要となっている。また、それが共同体論・生産関係論の深化の上でも重要であることは、別稿で述べた通りである*62)。
 したがって、問題となるのは、国家論の一部として、「上部構造」をいかに分析するかである。これは、換言すれば、「上部構造」に属する「試練」に関する諸事実と、国家の一般論との間に、いかに緊張関係を設定するかという問題である。この際、「試練」が、在地首長層を郡司という官人に任用する過程のひとつであることからも、それはまず国家機構の問題であり、機構を律令制国家論の一部としてどう論ずるかが問題となる。というより、それなくして「試練」の意義・特質を把握することは不可能である。とすれば、国家論の一部として国家機構論を構成した石母田正の学説との緊張関係が問題となる*63)。
 しかしながら、早川は、石母田の国家機構論との緊張関係は、まったく追究していない。それ故、「試練」をどのように分析するかも整理されているわけではなく、これに無概念・無前提に迫る形となっている。必然的に、「試練」の意義・特質を捉えることもできず、国家の支配の把握の緻密化にも寄与しない。
 原因の第二は、早川論文が、当時の社会的要請を把握し、これに対応する前提では書かれていないことである。本稿で問題にした「意識の内部の支配」の問題についても、日本企業の長時間労働は問題にされて久しいし、一九八〇年代後半からは「過労死」などの形で問題となりだす*64)。この問題に限らなくても、早川論文が発表された一九八四年段階で、国家のもたらす諸矛盾が存在しないということはなく、かかる矛盾の歴史的追究は社会的要請となっていたはずであるが、早川論文においては特に意識された形跡はない。論文の主旨は、冒頭で大宝「選任令」との命名を手がかりに、選任令の立法意図と「日本律令官僚制における任官のもつ意味とその特殊性、就中郡司の大領・少領の任官をめぐる諸行事の特殊性」(二二八頁)を考察することとされているが、その社会的意義が述べられているわけではない。しかし、かかる課題自体は、日本古代史研究者以外には直接の関わりはないから、その限りでは社会的には孤立した学説となる。
 前記の早川の姿勢は敬服すべきものである。しかし、以上の二点からすれば、その学説自体は「歴史家たちの住むせまい世界」*65)の所産とすべきであろう。かかる問題の克服には、まず早川説の意義と課題をふまえることが不可欠である。意義を踏まえず、批判にのみ終始するのは*66)結局のところ、国家の支配の把握の緻密化という今日的要請に応えることにならないから、これもまた「歴史家たちの住む世界」の所産であるといえよう。本稿は、以上の問題の克服のための一つの試みである。


*1)「試練」の名称は、大宝選任令応選条「凡そ選すべくんば、皆、状を責い試練せよ。…」による(早川庄八「選任令・選叙令と郡領の『試練』」〔『日本古代官僚制の研究』岩波書店、一九八六年。初出は一九八四年〕参照)。他に、この政務・儀式は「試」「簡試」などの名称で呼ばれる。
*2)概要は『延喜式』太政官131任郡司条に知られる。なお、『延喜式』の引用は訳注日本史料本による。)
*3)註(1)論文。以下、早川の見解は原則としてこの論文による。
*4)『弘仁式』の引用は『弘仁式・貞観式逸文集成』(国書刊行会、一九九二年)により、条文名は訳注日本史料本『延喜式』の該当条文による。なお、本条の該当条文は、式部省下第36条。
*5)「律令制的郡司性の特質と展開」(『日本古代の国家と在地首長制』校倉書房、一九八六年。初出は、一九八六年)一五四頁
*6)「畿内郡領と式部省『試練』」(『日本歴史』四六六、一九八七年)
*7)森公章「試郡司・読奏・任郡司ノート」(『古代郡司制度の研究』吉川弘文館、二〇〇〇年。初出は一九九七年)、二一九頁
*8)註(7)論文、「律令国家における郡司任用方法とその変遷」(註(7)書。初出は一九九六年)
*9)註(7)論文、二二〇頁
*10)「式部試練と郡司読奏」(『延喜式研究』一四、一九九八年)。以下、須原の見解はこの論文による。
*11)むしろ「試練」(及び他の任用手続き)の性格については、「弘仁期以前においては、単なる在地首長層の服属儀礼などより、むしろ実務手続きそのものだったのである。」(六五頁)と、早川説と矛盾する見解が見え、なぜ、「早川説」が「成立」することになるのか、不明とせざるを得ない。以上は、仮に早川説を支持するのであれば、その基本的前提である、畿外の在地首長層が、律令制国家にとって「屈服させ、従属させるべき存在」であることを証明する必要があることを示している。
*12)以上の諸研究のほかに、(U)を『弘仁式』の脱漏・省略と見る見解もあるが(森田悌「畿内郡司と試練」〔『日本歴史』四七四、一九八七年〕)、森註(7)論文、須原論文が指摘するように、支持しがたい。
*13)畿内政権論批判については、伊藤循「畿内政権論争の軌跡とそのゆくえ」(『歴史評論』六九三、二〇〇八年)など参照。
*14)近年では、「試練」を、在地首長層と天皇との対峙の場と見なせないことを以て、分析を回避する研究も見られる(磐下徹「郡司と天皇制ー郡司読奏考ー」〔『史学雑誌』一一六−一二、二〇〇七年〕)。
*15)「在地首長層と天皇ー令制郡領任用制度の検討ー」(www7b.biglobe.ne.jp/~inouchi/zaichi.htm。以下、前稿といえば、これを指す)。以下の記述は、この前稿と、「機構論における『人格的身分的結合関係』とは何かー任用過程研究の意義ー」(www7b.biglobe.ne.jp/~inouchi/jinkakui.htm。)による。
*16)詳細は、森註(7)論文、須原論文参照。
*17)『大日本古文書 編年之三』一四九〜一五〇頁(以下、同文書引用の場合は、出典を略す)。「申詞」との関係については、西山良平「『律令制収奪』機構の性格とその基盤」(『日本史研究』一八七、一九七八年)参照。
*18)以下、養老令の引用は日本思想大系本による。
*19)「時務に堪える」という限りでは、人格的身分的結合関係の「基本的紐帯」である系譜を包摂することも可能である。拙稿「郡領任用における『才用』−その『内容』と唐制継受過程ー」(『民衆史研究』五三、一九九七年)参照。
*20)律令制国家における、他の「試練」「試」としては、学生などに対する「試」(学令70〜73、『延喜式』式部省下34)、雅楽寮における曲歌の「試練」(職員令17)、諸司の史生の「試」(『延喜式』式部省下35)などが確認される。
*21)一般的には「才用」は、系譜意識たる「譜第」とは対比的に用いられている(註(19)前掲拙稿)。なお、後述のように(b)筆記試験は、在地首長層のディスポティシズムの原理への編成を象徴的に示すものと考えられ、かかる原理は、人格的身分的結合関係の秩序を基礎としている。しかし、それと同一ではないから、(b)筆記試験において直接に関連することにはならない。
*22)前稿
*23)早川論文
*24)「最高の指揮命令権に服従する」こと(石母田正「俸禄制と家産制組織」〔『石母田正著作集三 日本の古代国家』岩波書店、一九八九年。初出は一九七三年〕、三五〇頁)。
*25)『続日本紀』天平七年(七三五)五月壬午条、『同』天平勝宝元年(七四九)二月壬戌条。なお、『続日本紀』(以下、『続紀』)の引用は新日本古典文学大系本による。
*26)『続紀』同年二月壬戌条(註(25)前掲)
*27)「延暦一七年三月一六日勅」(「延暦一九年一二月四日太政官符」〔『類聚三代格』巻七 郡司事〕所引)。『類聚国史』神祇部 国造 延暦一七年四月甲寅条も参照。引用は、いずれも新訂増補国史大系本による。
*28)この「条目」についての近年の研究として、毛利憲一「郡領任用政策の歴史的展開」(『立命館文学』五八〇、二〇〇三年)。
*29)引用は、いずれも神道大系本による。
*30)これらの儀式書において、擬任郡領は(T)「譜第」と(U)「無譜」に大別される。この内、郡領に任用されたものの「子孫」であることを明確に示すのは、言うまでもなく、(T)であるが、これはさらに(@)「立郡譜第」、(A)「傍親譜第」、(B)「労効譜第」の三つに分類される。(@)は立郡者の系譜につながる者、(A)は立郡者と同姓の者である。(@)の「立郡」は立評にも遡り(最大限孝徳朝に遡ることになる)、この段階では(b)筆記試験が行なわれたとは考えがたいので、「祖」がその成績によって任用されたとの認識を示すものではない。(A)も、名称から「傍親」という系譜が「祖」の任用の根拠との認識を示すものと考えられる。(B)は、本文でも述べたとおり「労効」と考えられる。したがって、(b)筆記試験の成績によって任用された者(の「子孫」)を示す範疇は存在しない。なお、(U)の「無譜」の任用においても、第四点に述べるように、(b)筆記試験の成績が考慮された形跡はない。
*31)前稿
*32)「試練」「試」「簡試」などの、この政務・儀式の名称は(註(1)参照)、その本質的意義と直接の関連はない。
*33)式部省における考問において、考人が式部丞の問いに答える手続きがあるが、あくまで何らかの問題があった場合である(早川庄八「成選叙位をめぐって」〔『日本律令制論集』下、吉川弘文館、一九九三年〕など)。
*34)早川庄八「前期難波宮と古代官僚制」、「八世紀の任官関係文書と任官儀について」(註(1)書)、同『宣旨試論』(岩波書店、一九九〇年)など参照。
*35)須原論文
*36)『続紀』天平七年(七三五)五月壬午条(註(25)前掲)
*37)以下、「意識の内部の支配」の問題については、石母田正「昇進と官僚制 官僚制と天皇制」(註(24)書)による。引用は、三六〇頁から。
*38)選叙令15郡司軍団条
*39)石母田註(37)論文、三六〇頁
*40)『続紀』天平一五年五月癸卯条
*41)本文で触れた事例のほか、『続紀』では、和銅元年(七〇八)七月乙巳条、天平勝宝元年(七四九)四月甲午条、天平宝字元年(七五七)七月戊申条、天平宝字八年九月甲寅条、天平神護二年(七六六)正月甲子条、神護景雲三年(七六九)一〇月乙未条、宝亀二年(七七一)二月己酉条、天応元年(七八一)四月辛卯条が知られる。
*42)石母田註(37)論文
*43)註(25)前掲
*44)註(6)論文
*45)引用は訳注日本史料本による。
*46)この段階の選限は、慶雲三年制(七〇七)に従い、外長上は八考、内長上は四考とされていた(『続紀』慶雲三年二月庚寅条、天平宝字八年一一月辛酉条)。従って、園人は、郡司の選限を八年から四年に短縮する旨を主張したことになる。
*47)郡司辞退者の続出を畿内特有の現象と見る見解もあるが(浅井勝利「畿内郡司層氏族に関する覚書」〔『史観』一二九、一九九三年〕)、園人自身は、地域的な限定は付していないと考えるべきであろう。(1)後述のように、系譜意識を基本的媒介とする在地首長層の「意識の内部の支配」の、現実的な機能には疑問があり、これは畿内に限定された問題ではないこと、(2)前年には、嫡々相継制が放棄されているが(『類聚国史』神祇部 国造 延暦一七年四月甲寅条〔註(27)前掲)、これも畿内に限定された問題ではなく、また(1)の系譜意識を媒介とする「意識の内部の支配」の動揺と関連する可能性があること、の二点も傍証になる。
*48)『続紀』天平勝宝元年二月壬戌条(註(25)前掲)
*49)『続紀』天平宝字元年(七五七)正月甲寅条
*50)「親に孝行を尽くすように、国家に忠誠を尽くすこと」(新日本古典文学大系本、註一一)
*51)この場合は「薦」と同義か。
*52)塩沢君夫『古代専制国家の構造』増補版、お茶の水書房、一九六二年。初版は一九五八年)
*53)『続紀』宝亀四年(七七三)八月庚午条など。他に、官物虚納の隠蔽を行う者もおり、この場合、国司も含まれると見られる(『続紀』延暦五年〔七八六〕八月甲子条)。
*54)『続紀』天平宝字元年(七五七)正月甲寅条(註(49)前掲)
*55)石母田註(24)書、三四五〜六頁
*56)森註(7)論文には、(b)筆記試験では「郡司の郡務遂行上の心構えなどを書く」との想定が紹介されている(二五一〜二頁、(付記))。
*57)前稿
*58)マルクス「ヘーゲル国法論の批判」(『マルクス=エンゲルス全集』一、大月書店、一九五九年)、二八三頁。石母田註(37)論文、三六〇頁。
*59)『貧困襲来』(山吹書店、二〇〇七年)、『反貧困』(岩波新書、二〇〇八年)
*60)律令制国家段階では、官人・百姓は天皇へ貢納・奉仕すべき者とされたが、現代では、これが人間としての本来のあり方と考える者は、ほとんどいないはずである。
*61)律令制国家論における共同体論・生産関係論の意義を強調した研究として、大町註(5)書、浅野充『日本古代の国家形成と都市』(校倉書房、二〇〇七年)など。
*62)「『上部構造』論と律令制国家論ー石母田説と浅野・高橋説の検討からー」(www7b.biglobe.ne.jp/~inouchi/joubukouzou/htm)。
*63)「機構論の意義と課題」(www7b.biglobe.ne.jp/~inouchi/igitokadai.htm)
*64)さしあたり、佐久本朝一『日本的経営と過労シンドローム』(中央経済社、一九九七年)など参照
*65)石母田註(24)書、四頁
*66)伊藤註(13)論文など。伊藤は、多くの批判にもかかわらず「畿内政権論が再生産される基盤は何なのか。」と疑問を呈し、それを「『畿内の豪族(貴族)によって構成される中央権力が畿内政権であるのは当然』という素朴実感主義」とする推測を述べる(二四頁)。畿内政権論は、「歴史家たちの住むせまい世界」の所産であるから、その再生産は、社会的要請への対応という観点からも、問題である。しかし、その背景としては、畿内政権論以外に「上部構造」に関わる事実の意義を把握する論理が存在しない、という点も、考慮に入れるべきであろう。実際、早川は、ー是非はともかくー畿内政権論によって「試練」の意義を把握したが、その後はかかる意義付けは行なわれていない。しかし、かかる意義付けとは、本来、それがなければ研究の意義自体が問われかねないものである。したがって、−批判の存在は知りつつもー畿内政権論によって意義付けが行なわれ、「歴史家たちの住むせまい世界」の国家論が再生産されるという状況は考えられよう。かかる状況は、本稿で述べたように、いかに、「上部構造」に関する事実の意義・特質を把握し、国家の支配の把握の緻密化につなげるかが課題であることを示している。しかし、かかる課題を設定するには、批判のみならず、畿内政権論による諸事実の提示を評価し、その意義を把握することが必要となる。


 

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