地方行政機構論の必要性ー郡制の特質ー


T はじめにー本稿の課題と手法ー

U 郡制の特質ー郡制に対する認識ー

V 評制の特質ー評制に対する認識ー

W 結びー地方行政機構論の必要性ー


〔T はじめにー本稿の課題と手法ー〕

1.本稿の課題とその意義

 筆者は、「上部構造論と律令制国家論ー石母田説と浅野・高橋説の検討からー」(以下、拙稿A)において、国家論における「上部構造」論の意義を確認し、続いて「機構論の意義と課題」(拙稿B)において、国家論における機構論の意義を確認しつつ、その課題が「天皇と官人との人格的身分的結合関係の特質の解明」であることを指摘した*1)。これらの成果をふまえつつ、本稿では、国郡制を中心とする律令制国家の地方行政機構を、行政機構論の枠組みの中で論ずる必要性を確認することを課題とする。

 かかる課題を設定するのは、地方行政機構論の課題を設定する上で、その分析が不可欠の前提作業と考えるからである。前稿までで分析してきたように、国家論の一部として機構を全面的に論じたのは石母田正*2)である。しかし、石母田が機構論の枠の中で論じたのは、二官八省からなる中央の行政機構のみであって、地方の行政機構は除外している。もっとも、中央派遣たる国司制によって運営される国制については、行政機構論の枠の中で論じてもさしあたって、大きな問題があるようには思われない。しかし、郡制(郡司制)の場合は問題である。郡制の支配については、第四章「古代国家と生産関係」で在地首長制論として、生産関係論・共同体論の枠組みの中で全面的に論じられている。

 もっとも、この石母田の学説は、現在、そのままの形で通用するわけではなく、一定の批判が蓄積されている*3)。また、石母田説との関わりは必ずしも明確にされているわけではないが、郡制の機構としての側面も、具体的に明らかにされつつある*4)。しかし、国家論の一部として国郡制を検討するにあたって、郡制をいかなる枠組みの中で論ずるかー換言すれば、石母田批判や発掘調査を含む実証成果をどのように用い、国家の一般的理論に対して、どのような方向で問題提起を行うかーは、明らかにされたわけではない。したがって、石母田が生産関係論・共同体論の中で論じた郡制を、なぜ行政機構論の枠の中で論ずるのかが、確認されなければ、地方行政機構論の意義自体を見失いかねず、課題を析出することも不可能だろう。

 もっとも、「日本律令制国家を論ずる上で、国郡制を、なぜ行政機構論の枠の中で論ずるのか」を明らかにするには、「上部構造」論及び機構論という枠組みの、国家論における意義の把握が前提になる。したがって、この点が未確認であった拙稿A・Bでは、かかる確認作業は不可能であった。本稿では、拙稿A・Bの成果をふまえつつ、地方行政機構論の必要性を確認することとしよう。

2.本稿の手法

 本稿では、かかる課題に対応するために、郡制及びそれに先行する評制と、「必要に応じて統廃合しうる機械の部品のような性格のものであり、統廃合によって全体の機関体系の存在と機能は影響されないという認識」(二一八頁。以下、「機械の部品のようなものという認識」)との関わりを検証する手法を用いることにしたい。

 その意義は、前記の石母田批判をふまえつつ、郡制の特質の把握を深化させる上での、機構論の有効性とつながることである。上記の認識は、「権限配分に関する意識的・計画的原則」を基本的特質・メルクマールとする国家機構を構成していくための「技術または方法」*5)とされている。かかる認識の存在及び意義は、石母田が国家機構を全面的に論じる中で指摘し、筆者が拙稿Bで再確認したものである。すなわち、本稿の手法は機構論の深化の中で生み出されたものといって良い。

 そして、仮に郡制がかかる認識を前提にして施行されている(すなわち、本来、必要に応じて統廃合することが可能な行政区画・機構とされていた)とすれば、それは従来、指摘されなかった郡制の特質を示すものと言える。したがって、機構論の深化によって生み出された手法によって、郡制の特質の把握を深化させたことになる。本稿の手法が、郡制を行政機構論の枠の中で捉えることの有効性と、直ちにつながることが知られよう。また、当然ながら、それは郡制を生産関係論・共同体論の枠の中で捉えることの是非とも関わり、従来の石母田批判を深化させる意義をも持つだろう。なお、郡制と合わせて評制を検討するのは、評制と異なる郡制の独自の特質の把握の上でも有効であり、国造制のクニ制→評制→郡制の移行過程を把握する上でも重要と考えるからである*6)。

 

〔U 郡制の特質ー郡制に対する認識ー〕

 まず、郡制に対する認識から検討することにする。検討素材の第一は、建郡の際の根拠となる論理である。表1ーAは郡の分立(すでに施行されていた郡を分割し、新たに建郡するもの)及び統合、表1ーBは郡の新立(郡制が未施行であった地域に、新たに建郡するもの)を整理したものである*7)。表1ーAによれば、建郡の根拠が明記された事例のほとんどは「地界広く遠くして、民居遙かに隔たり、往還に便あらず、辛苦極めて多し。」(bP)というように行政処理上の都合によるものである。わずかに参考2・3において「徴発のこと有るに属りて機急に会わず。」と軍事上の問題に触れられていることが、他の事例と若干、異なるが本質的には両者に差異はないと見るべきであろう。

 かかる記述は、近年の歴史地理学的研究とも合致しており、疑うべき根拠はない。bP・2の長上郡・長下郡は、備考に述べたように長田郡から分立した郡である。長田郡の郡域は、天竜川の下流及び河口の西岸地域とする説と、天竜川東岸の袋井市域南部にまで広がっていたとする説がある。しかし、天竜川下流域であったことは疑いなく、「河川や入り江に分断され、一つの行政単位として統轄することが地理的に困難」*8)であったと推測されている。したがって、『続紀』の記事に疑問を差し挟む必要はない。bRの甲奴郡、bSの能勢郡はいずれも、山間部に存在することによる交通上の不便さが、分立の根拠となっている。前者の甲奴郡は四方を四〇〇〜七〇〇メートル級の山に囲まれており*9)、後者の能勢郡は北摂山地に位置している*10)。したがって、『続紀』の記事と特に矛盾しない。bP9の藤野郡は、まず、(1)旧来の郡域を「地是れ薄瘠にして、人尤も貧寒なり。」として邑久郡ほかの六郷を、さらに(2)美作国勝田郡塩田村が「治郡に遠闊にして、他界に側近なり。」であることを以て同村を、それぞれ統合している。まず、(1)については、旧来の藤野郡は坂長郷・片上郷・藤野郷の三郷から構成されていたと考えられる*11)。この辺りは、山が海に迫り平地はわずかとされており、『続紀』の記事を事実と認めて差し支えない。(2)の塩田村は、(1)の六郷より山間部に入った地域である。当時、勝田郡家が置かれていたとされる同郡勝田郷はさらに山間部であり*12)、一方、藤野郡家は往来に吉井川を利用しうる藤野郷に置かれていたとされる*13)。したがって、貢納の便は後者のほうがよかったと想定され、「差科・供承、極めて艱辛なり。」と貢納における不便を統合の根拠とした『続紀』の記事に特に疑う必要はない。bQ2も、ここで磐梨郡として建郡される地域と、郡家があったとされる藤野郷との間に吉井川が存在したことは疑いなく、「…中に大河有りて、雨水に遭う毎に公私通い難し」という記事に問題はない。参考2・3の多賀郡・階上郡も特に問題はない。これらの郡が権郡とされた根拠は、名取以南の一四郡が「塞を去ること懸に遠し。徴発のこと有るに属りて機急に会わず。」とされていることである。多賀郡は多賀城市市川・浮島・高崎、塩竃市にかけての地域に比定される宮城郡多賀郷*14)を拡大・分立したものととされ、現地比定からも、さらにその名称からも多賀城近辺と考えられる。階上郡も、宮城郡科上郷を拡大・分立したものとされるが、泉市七北田*15)に比定されており、特に問題はない。

 表1ーBにおいても、建郡の根拠が明記されている四例の内、二例は「常に狄徒に抄略せられむことを恐る」(bR)、「今、国府郭下、相去ること道遠く、往還、旬を累ねて、甚だ辛苦多し」(bS)と行政処理上・軍事上の都合によるものである*16)。以上の事例から、郡は行政処理や軍事上の便宜によって、分立・統廃合が可能な行政区画とされていたと見られ、施行にあたって「機械の部品のようなものという認識」が前提になっていたことが想定される*17)。

 素材の第二は、大和国飽波評の廃止である。この飽波評は浄御原令制下には存在し、大宝令施行にともなって、「一郡を形成しえない領域の狭さ」から平群郡に吸収されたと見られている*18)。領域の狭さが廃止の理由になるのは、かかる郡が存在しても行政処理上、却って煩瑣と見られたからであろう。したがって、この事例も行政処理上の都合によって建郡(既存の評の統合という形)が行われた事例と言える。評造として、飽波評を支配した在地首長が存在したにもかかわらず、かかる統合が行われたことは、郡が上記の認識を前提に設定されていることを示している。

 以上から、筆者は、郡制施行にあたっては「機械の部品のようなものという認識」が前提になっていたと考える*19)。

 

〔V 評制の特質ー評制に対する認識ー〕

1.立評の特質

 次に評制に対する認識について検討する。検討にあたって、まず留意すべきは、評制が「機械の部品のようなものという認識」を前提に施行されたとは考えにくいことである。なぜなら、まず、かかる認識は、国家機構を作り上げていくための「技術または方法」(二一八頁)と考えられる。一方、漸次施行説に立とうが一斉施行説に立とうが*20)、評制の施行が孝徳朝に遡ることは間違いない。しかし、この段階では法体系も国家機構も未成熟であったとされている*21)。とすれば、この段階で、かかる認識を前提にした行政区画・組織の施行を想定するのは困難と言えよう。以上をふまえて検討に入ることにしよう。

 郡と同様に、立評の事例をまとめたものが、表2である。 この内、郡制には見られなかった、立評独自の根拠を示すのは、bP1である。ここで、越智評が立評されたのは、越智直が「郡を立てて仕へむ」と「天皇」に願ったからである。さらに、「天皇」がこのような願いを聞き、許したのは、越智直が白村江の戦いにおいて唐の捕虜となり、生還したからである。従軍は「天皇」への「奉仕」であったと考えられるから、かかる「奉仕」を原因とする労苦に対し、「天皇」が褒賞を与えるという、「天皇」と越智直との個別的人格的結合関係に基づいて立評が行われていることが分かる。

 仮に、評という、行政区画・組織がかかる関係に基づいて設定されているとすれば、郡制には見られない独自の特質と言って良い。表1−Aを見れば明らかなように、令制下の郡制においては、このような関係・論理に基づく建郡は見られないからである。「『大化前代』の遺制」*22)とも言われる品部・雑戸などはあるいは例外があるかもしれないが、基本的に大宝令制以降、かかる関係・論理に基づいて官司・機構が設定される例は、他にもないだろう*23)。

 そして、かかる立評の特質が一般化できるとすれば、評制施行にあたって、「機械の部品のようなものという認識」は前提となっていなかったとすべきであろう。なぜなら、評制が「機械の部品のようなもの」であるためには、「統廃合によって全体の機関体系の存在と機能は影響されない」ことが必要であるが、かかる論理においてはそれは有り得ないからである。第一に、かかる形の立評においては、評とは「奉仕」に対する、「天皇」の「恩恵」と認識されていたと見られる(以下、「『恩恵』という認識」)。かかる「恩恵」が、行政処理や軍事上の都合などの、王権によって与えられた「任務または目的」*24)遂行上の「必要に応じて統廃合」されるとすれば、「恩恵」のみならず「奉仕」自体の意味も喪失しかねない。第二に、当該期の倭王権の権力組織が、「天皇」と「官人」との貢納・奉仕関係に基づいて運営されていることは疑いない*25)。したがって、「奉仕」の意義の喪失につながる評の統廃合は、全体の権力組織の「存在と機能」を揺るがさざるを得ない性格のものである*26)。「『恩恵』という認識」を前提とする施行と、「機械の部品のようなものという認識」を前提とする施行は、併存し得ないと言える。以上から、評制施行の前提となる認識を問題とする本稿にあっては、「『恩恵』という認識」が一般化できるかどうかは重要であると言える。

 かかる一般化を検証する上で、重要なのは次の二点である。第一は、bP1に見える立評の特質を一般化しうるか、という点である。bP1は九世紀の編纂物である『日本霊異記』に見えるものだから、直ちに評制施行時のものと見なしうるかは問題となる*27)。また、あくまで、越智評という個別事例に関する記述であり、表2のbSのように「所部遠く隔たり、往来便よからざるを以て」と行政処理上の都合が根拠として挙げられている事例も確認されるので、評制一般に敷衍できるかも検討対象となる。第二は、評制施行当初は、「『恩恵』という認識」が前提となっていたとしても、国家機構が一定の成立段階に入った、持統三年(六八九)施行の浄御原令制下も同様に見なしうるかが問題となる*28)。

 まず、第一の点から検証していこう。結論から言えば、筆者はbP1に見える立評の特質は一般化してよく、「『恩恵』という認識」は評制施行の前提となっていたと考える。その根拠は、第一に、立評にあたっては、評造としてその評を統轄することになる在地首長層が、申請を行うという手続きが取られていたと見られることである。表2によれば、備考に示したように、一三例中七例(bQ〜5、9、11、13)が、在地首長層と見られる人物の申請によって立評されている。もとより、かかる申請自体は郡制段階でも例がないわけではない。しかし、その例は表1−BのbR・4・7の三例に過ぎない*29)。いずれも郡制未施行地域であり、表1ーAの事例が全三五例を数えることを考慮すれば、例外的と言える事例である。すなわち、かかる申請が多く見えることは、立評を示すとされる史料に見える独自の現象である。

 かかる申請の相手は、オオキミ*30)と見るべきだろう。すでに浄御原令制下の評造への最終任命権者は天皇であったこと、それは孝徳朝まで遡ることが指摘されている*31)。これは、評造という「官職」への任用だが、(1)後述のように、この段階では、立評と評造への任用は截然と区別されていなかったと見られること、(2)前記の表2、bP1の越智評は「天皇」が立評を認めていたこと、(3)後掲の〈史料1〉の「東国国司」の活動は、評制施行(立評を伴う)の準備作業としての意味を持っていたと見られるが、かかる準備作業は「詔」(オオキミの命)という形で発令されていること、などから立評もオオキミが最終決定者だったと考える。とすれば、在地首長の申請もオオキミに対して行われたと見るべきであろう。ただし、bQ〜5は、「惣領高向大夫」、あるいは「惣領高向大夫・中臣幡織田大夫」の両名への申請とされている。この「惣領」については諸説あり*32)、ここでその性格を明らかにすることはできない。しかし、『播磨国風土記』揖保郡条に「総領」と記される石川王が、『書紀』天武八年三月己丑条に「吉備大宰(オオミコトモチ)」とされていることからも、この「惣領」は諸先学が指摘するように、「オオミコトモチ」あるいは「ミコトモチ」とされていたと見られ*33)、あくまでオオキミの代理人としてかかる申請を受理したものと見られる。代理人である以上、本来、申請を受理するのはオオキミということになる。

 そして、これらの事例の立評申請者は、評造として新たに立てられた評を統轄したとされている*34)。おそらく、評造候補者が立評を申請するという手続きになっていたと想定される。すなわち、評とは、評造への任用を望む在地首長層が、オオキミへ申請するという手続きを経て成立していたと見られる。この手続きは、在地首長層とオオキミとの個別的人格的結合関係にもとづいて、立評が行われていたという先の想定と合致する。

 第二の根拠は、評とは、廃止が困難な行政区画・組織だったと見られることである。まず、前記した飽波評の存在を取り上げたい。国家機構が一定度の成立段階にあった浄御原令制下においてさえ、かかる狭小な評が存続し、大宝令施行に伴う郡制施行を待って廃止されている。この事実は、評制という制度自体を郡制に転換することなしには、かかる廃止が困難であったことを物語るものであろう。次に、現在のところ、評の統合事例を見いだすことができないことを指摘したい。立評事例をまとめた表2に見えるのはいずれも分立の事例であって、bP0、23〜25の四例の統合事例を見いだせる表1ーAとは、異なる状況を呈している。統合は評の廃止を必然的に伴うから、統合事例が見えないことは、かかる廃止の困難さを示すと見ることが可能である。そして、評の廃止が困難であることは、「『恩恵』という認識」を前提に評が施行されたとすれば、「必要に応じて統廃合」することが困難とする先の想定と合致する。すなわち、かかる認識が評制施行の前提であったことを想定させる。

 第三の根拠は、立評に際して、在地首長層による「祖」以来の「奉仕」の申告が行われていたと見られることである。

〈史料1〉 『書紀』大化元年(六四五)八月庚子条

(A)若し名を求むる人有りて(B)元より国造・伴造・県稲置にあらずして、輙く詐り訴えて言さまく(C)「我が祖の時より、此の官家を領り、是の郡県を治む。」ともうさんは、汝等国司、詐の随に便く朝に牒すこと得じ。

著名な「東国国司詔」の一部である。「国司」の発遣に際して、在地首長層が「名」を求め(太字部(A))、虚偽に(同(B))、「祖」以来の「奉仕」を申告してきた際の処置について述べている。この「国司」の活動は評制施行の準備作業としての意義を持っていたと見られ、在地首長層による「奉仕」の申告の想定も、評制施行を前提としていると見られる*35)。したがって、〈史料1〉は立評や申告の実例ではないが、当時、評制施行に関わって、「祖」以来の「奉仕」の申告が行われると、認識されていたことを示す。

 この内、太字部(A)の「名を求むる」については、薗田香融により「この『名』を家柄・地位・名誉などと解する向きもあるが、私は任官もしくは叙位の希望と考えないと下文への意味が通じないと思う。」*36)とされ、以後、その具体的内容は評造への任用申請とされてきた。確かに、ここでの申請に、評造への任用申請が含まれることは否定しないが、筆者は立評申請も含まれると考える。

 第一に、「名」から直ちに、任用(叙位)の意味を導き出すことは不可能である。当該期の「名」とは、人物の名前の他に、オオキミへの「奉仕」の完遂を意味する事績、それに基づく功名を指すと言われており*37)、直接、任用(叙位)をしめすわけではない。「名を求むる人」の文意あくまでも、「事績・功名を求める人」といった意味で解すべきで、むしろ薗田が否定した見解の方が正しいと言える。したがって、太字部(A)の「名を求むる」を、評造への任用申請に限定する見解は、厳密な史料解釈に基づくものとは言えない。

 第二に、評制段階においては、評造への任用と立評とは截然と区別されておらず、むしろ不可分と見られていたと想定される。まず、前記した表2のbP1には「『郡を立てて仕へむ』ともうす。」とあり、「郡(評)を立てる」ことと、評造に任用されオオキミに「仕える」ことは、一体のこととして認識されている。また、これも前記したように、立評申請者のほとんどは評造に任用されたと見られている。申請が立評であり、評造への任用ではないにも関わらず、かかる状況が確認されることは、立評と評造への任用が一体のことと認識されていたことを示すと見られる。

 両者が一体であれば、任用のみの申請は有り得ない。したがって、〈史料1〉の「名を求むる」の具体的内容には、評造への任用申請のみならず、立評申請も含まれると考えるべきである。

 とすれば、立評申請に当たって、「祖」以来の「奉仕」の申告が行われていたことになる。これは、評が「奉仕」に対する「恩恵」と認識されていたことを示すとすべきであろう。すなわち、〈史料1〉によって、立評が在地首長層とオオキミとの個別的人格的結合関係に基づいて行われるのみならず、「『恩恵』という認識」に基づいて施行されたことを知ることができる。

 以上に加えて、冒頭で述べたように、そもそも評制が「機械の部品のようなものという認識」を前提に施行されたとは考えにくいことを考慮すれば、bP1に見えた立評の特質は一般化してよく、評制は「『恩恵』という認識」を前提に施行されたと見るべきであろう。前記の表2のbSの「所部遠く隔たり、往来便よからざるを以て」という根拠は、立評申請においては副次的な位置付けであった部分が記されたか、『常陸国風土記』の述作と見るべきと考える。

 では、浄御原令制下における評制に対する認識は如何であろうか。現段階では、確認できる立評の下限は、bP3の天武一一年(六八二)であり、浄御原令制下の立評の根拠は確認できない*38)。しかし、筆者は以下の根拠から、浄御原令制下においても、評制に対する「『恩恵』という認識」は変わらなかったと考える。その根拠の第一は、これまでも何度か触れてきた飽波評の存在である。かかる狭小な評の存続が、「『恩恵』という認識」を示すと見られることは前述したとおりである。第二は、他ならぬ浄御原令制下の評制の存続(あるいは拡大)である。仮に、かかる評制に対する認識を変えるとすれば、それは立評の根拠を否定することになるので、評制の存続に関わる問題と言わなければならない。しかし、この段階で評制(『書紀』の表記では郡制)の動揺は確認されないし、仮に漸次施行説に立てば、評制は、国造のクニ制を否定して、拡大さえしていることになる。浄御原令施行からわずか一〇余年後に郡制が施行されていることを考えれば、かかる状況を、評制を存続させつつそれへの基本的認識を変更するという困難な課題を克服したと見るのは難しいであろう。やはり、評制に対する認識が変わらなかったことを示すと見るべきと考える。

 以上から、筆者は評制に対する「『恩恵』という認識」は、浄御原令制下においても不変であったと考える。浄御原令は、孝徳朝以来のかかる認識を否定するような性格の法典ではなかったと見るべきであろう*39)。

 以上の検討から、評制は「『恩恵』という認識」に基づいて施行されており、「機械の部品のようなものという認識」は施行の前提にはなっていなかったと考える。したがって、かかる認識が前提であることは、評制(及びクニ制*40))とは異なる、郡制の独自の特質であると言える*41)。

 

〔W 結びー地方行政機構論の必要性ー〕

 以上、本稿で論じた点をまとめておこう。

(一)郡制施行に当たっては、「機械の部品のようなものという認識」が前提になっていたと考えられる。

(二)評制は、「『恩恵』という認識」に基づいて施行されており、「機械の部品のようなものという認識」は施行の前提にはなっていなかったと考える。したがって、かかる認識が前提であることは、評制(及びクニ制)とは異なる、郡制の独自の特質であると言える。

 以上の分析から、地方行政機構論の必要性が知られよう。たとえば、大町健は前記の石母田説を批判した上で、評制・郡制の特質を、基盤の異なる複数の在地首長を編成する点に求める*42)。この見解に異論はないが、しかし、この指摘だけでは評制とは異なる郡制の独自の特質を把握することはできないし、したがって、評制から郡制への移行の意義を把握することもできない。かかる課題を克服するには、行政機構論の深化が有効であることが、本稿の分析によって示し得たと考える。すなわち、地方行政機構論は従来の石母田説批判をふまえつつ、郡制の独自の特質を把握する上でも必要であると言える。

 しかし、郡制を地方行政機構論の枠の中で捉えれば、その特質を把握しきれるかといえば、それは疑問である。郡制は、その統轄に在地首長層を郡司に任用するという、他の官司とは異なる特質を有するが、国家機構の一般的特質たる「機械の部品のようなものという認識」を指摘するのみでは、なぜ、郡制がかかる特質を有するのかは不明とならざるを得ないからである。したがって、例えば個別の郡の設定も、本稿の分析のみを以て把握しきれるかも疑問となる。表1−Aで建郡の根拠となった行政処理の都合とは、より具体的には「地界広く遠くして、民居遙かに隔たり、往還に便あらず、辛苦極めて多し。」というように、交通上の便宜が多い。しかし、一方、郡司が担う「行政」とは、困窮民や病気になった往来者の救済や勧農、田地立券における「勘問得実」などに具体化される、共同体的諸関係の総括の機能であったとされており*43)、そこには郡内の民衆との一定の人的結合が想定される。とすれば、「機械の部品のようなものという認識」が施行の前提であり、したがって、本来、必要に応じて統廃合することが可能であると認識されていたとしても、郡設定の実務レベルにおいては、交通上の便宜よりは、かかる在地首長層と民衆との結合関係が重視された可能性がある。少なくとも、表1−Aの事例を一般化することには慎重でなければならない。そして、以上の限界からすれば、在地首長層を郡司に任用することで成立した日本律令制国家の特質・意義の把握も、また不十分となる。したがって、地方行政機構論が「日本律令制国家とは何か」を考える上で、一定の限界を有していることは明らかである。それは、「国家とは何か」という課題に対する問題提起においても、限界を有することをあらわしている。

 しかし、上記の限界を以て、地方行政機構論の必要性を否定することはできない。その根拠の第一は、拙稿Aで論じたように「上部構造」論が国家論において独自の意義を有していることである。仮に、上記の限界を以て地方行政機構論の必要性を否定するとすれば、課題は、在地首長層の郡司への任用を必然化する日本古代社会の歴史的特質の把握にならざるを得ず、問題は共同体論(生産関係論)ということになる。しかし、問題をこのように限定してしまうことは、実は生産関係論・共同体論、及びそれに総括的位置を与える国家理論の進展の上でも問題であることは、拙稿Aで論じたとおりである。すなわち、地方行政機構論を否定してしまえば、他の官司とは異なる郡制の独自の特質の把握を深化させることもできないのである。第二は、機構の分析は「国家とは何か」を考える上で、不可欠だからである。その根拠は、拙稿Bで述べたように、「『組織された強力』または『公的強力』という属性は、それを欠くときもはや『国家』ではなくなるという意味において、国家の本質的な、固有な属性である。」(一七四頁)とされていることである。本稿で析出した郡制・評制の特質、さらにその分析素材となった日本古代における事実は、そのまま「組織された強力」という国家の属性が、どのように在地社会・地域社会に及んでいったかを示す素材といってよい。その把握の深化は、「組織された強力」という属性を国家の独自の特質とする、国家の一般理論への問題提起につながるものである。上記の限界を以て、地方行政機構論の必要性を否定するとすれば、日本古代の事実を扱うという独自の立場からの、かかる問題提起の方向性を失うことにつながる*44)。第三の根拠は、今日ほど日本律令制国家の歴史的特質の精緻な把握と、それに基づく豊かな問題提起が必要とされている時代はないことである。拙稿Aで述べた沖縄の普天間基地移設問題にも見えるように、国家のもたらす矛盾が複雑になればなるほど、過去の国家に関する事実に基づく問題提起が、重要になってくることは言うまでもない。とするならば、「組織された強力」という国家の属性が、日本古代において、どのように在地社会・地域社会に及んでいったか、という前記の問題の重要性は、今日、ますます増大しているというべきであろう。地方行政機構論の必要性は、むしろ強調されるべきであると考える。すなわち、それは歴史学の持つ科学性を発展させつつ、現代的要請に応える上で、必要であるといえる。

 しかし、以上は、地方行政機構論の必要性を確認しただけにとどまり、その限りでは古代の地方行政機構のどの側面をどのような方法で分析し、国家の一般理論に対する問題提起につなげるかは明らかになったわけではない。したがって、本稿で論じた郡と評の特質の相違も、「国家とは何か」という問題とどのようにかかわるのかが明らかでなく、単に従来、指摘されなかった個別事実を明らかにし、いわば事実を「豊富化」したに過ぎないことになる。以上の問題を克服するには、地方行政機構論の課題を設定することが必要である。この点については、冒頭に述べたように機構論の課題として拙稿Bで「天皇と官人との人格的身分的結合関係の特質の解明」であることを指摘した。しかし、これも拙稿で述べたように、かかる課題については国家展開期に一定の成果が蓄積されている。次の作業は、かかる成果をふまえて、課題をさらに具体化することである。

 



*1)「井内誠司日本古代史論集」(http://www7b.biglobe.ne.jp/^inouchi/index.htm)。拙稿Aのアドレスはhttp://www7b.biglobe.ne.jp/^inouchi/joubukouzou.htm。拙稿Bはhttp://www7b.biglobe.ne.jp/^inouchi/igitokadai.htm

*2)「国家機構と古代官僚制の成立」「古代官僚制」(『石母田正著作集第三巻』岩波書店、一九八九年。初出は、一九七一年、一九七三年)。以下、引用の場合は特に出典を記さず、頁数のみを記すことにする。

*3)大町健「律令制的郡司制の特質と展開」(『日本古代の国家と在地首長制』校倉書房、一九八六年)が、郡司制を「在地首長制の支配の制度化」とする石母田の見解に批判を提示しており、須原祥二「八世紀の郡司制度と在地ーその運用実態をめぐってー」(『史学雑誌』一〇五-七、一九九六年)に継承されている。なお、従来、郡司制については「守旧的性格」が指摘されており、「在地首長制の支配の制度化」とする見解にも重要な影響を与えてきた。そして、かかる性格の一つと見られてきたものに系譜に基づく任用がある。しかし、それも当該期の在地首長としての系譜意識とは異なるものである。郡司の任用においては「郡を立てし以来の譜第重大の家」(『続日本紀』天平勝宝元年〔七四九〕二月壬戌条。引用は、新日本古典文学大系本による。原則として、以下同じ。また、以下、『続日本紀』は『続紀』と略称)とあるように、孝徳朝以降の系譜が問題であるが、氏文などを見れば明らかなように在地首長層においては系譜意識は「大化前代」に遡ると見られるからである。また、孝徳朝を起点とする以上、当然のことではあるが、それは「守旧的」と言える性格のものではなく、「大化前代」の国造などの系譜意識とは異なるものである。すなわち、郡司の任用における系譜意識は、同時代の在地首長とも「大化前代」のそれとも、異なるものと言え、郡司制という官職独自のものと言える。

*4)山中敏史『古代地方官衙遺跡の研究』(塙書房、一九九四年)、平川南『墨書土器の研究』(吉川弘文館、二〇〇〇年)など。

*5)二一八頁。拙稿B「Vー1.機構論の意義」参照(1頁を41字×28行で表示した場合の頁数は6〜7頁)。

*6)この問題については、かつて問題提起を行ったことがある(「国評制・国郡制支配の特質と倭王権・古代国家」〔『歴史学研究』七一六、一九九八年〕)。

*7)ここでは、評制と対比しての郡制の特質を析出するのが目的であるため、事例は八世紀に限定した。

*8)山中敏史「国郡制の成立」(『静岡県史』一九九四年、492頁)

*9)『日本歴史地名大系三五 広島県の地名』(平凡社、一九八二年)「甲奴郡」の項。

*10)『日本歴史地名大系二八 大阪府の地名T』(平凡社、一九八六年)「能勢郡」の項。なお、この地域の民衆は「大化前代」に贄土師部とされ(『日本書紀』〔以下、『書紀』〕雄略一七年三月戊寅条。引用は日本古典文学大系本による。以下、同じ)、河辺郡とは異なる独自の歴史的背景を持っている。『住吉大社神代記』(田中卓「校訂・住吉大社神代記」〔『田中卓著作集第七巻 住吉大社神代記の研究』国書刊行会、一九八五年〕)には「能勢国」(一〇四頁)との記述が見え、その地域的独自性が令制以降も強く認識されていたことがうかがわれる。河辺郡からの分立に際して、本文で述べた交通上の不便さのほかに、かかる独自性が影響を与えた可能性もある。しかし、仮にそうであったとしても、交通上の不便さがあくまで分立の根拠となる点にこそ、郡制の独自の特質があると考える。また、かかる事例が一般化できないことは表1−Aの事例や、後に触れる飽波評の事例を見れば明らかである。

*11)『日本歴史地名大系三四 岡山県の地名』(平凡社、一九八八年)「和気郡」の項。

*12)『日本歴史地名大系三四 岡山県の地名』(註(11)前掲)「塩田村」「勝田郷」の項。

*13)『続紀』延暦七年六月癸未条

*14)『角川日本地名大辞典四 宮城県』(角川書店、一九七九年)「多賀郷」の項。

*15)『日本歴史地名大系四 宮城県の地名』(平凡社、一九八七年)「科上郷」の項。『大日本地名辞書』の比定によるが、少なくとも多賀城近辺であることを否定する根拠はない。

*16)この事例については、新立された郡の所在が不明なため、『続紀』の記事を歴史地理学的に検証することはできない。しかし、だからといって本稿の想定を否定することはできない。

*17)もとより、表1ーA・Bの事例すべてが、行政処理上・軍事上の都合によって建郡されているわけではない。たとえば、表1ーAのbQ0は権郡段階において「未だ統領の人を任ずることを得ず」という状況であったことが、建郡の根拠となっている。また、表1ーBのbTは「部下田夷村の蝦夷ら、永く賊う心を悛めて、既に教喩に従えり。」とあるように、蝦夷の公民への身分的上昇に伴う建郡である。いずれも「辺境」地帯特有のものと言えるが、これらの事例を以て本稿の想定を否定することができないのは言うまでもない。

*18)狩野久「額田部連と飽波評ー七世紀史研究の一視角ー」(東京大学出版会、一九九〇年)一五四頁。

*19)なお、郡制はたとえば、表1−AのbV武蔵国高麗郡が「高麗郡一七九九人」をもって建郡されているように、本質的に人間集団とされている(大町健「律令制的国郡制の特質とその成立」〔註(3)書〕)。この見解と、施行にあたって「機械の部品のようなものという認識」が前提となっているという本稿の想定とは矛盾しない。かかる人間集団自体が、「必要に応じて統廃合しうる機械の部品のような性格のもの」として、本来、設定されていたと考えればよい。

*20)註(6)拙稿では、一斉施行説を妥当とした。今でも、一斉施行説のほうが妥当と思うが、一応、ここでは見解を保留しておく。

*21)「改新」については、さしあたり、鎌田元一「七世紀の日本列島」、石上英一「大化改新論」(いずれも『岩波講座 日本通史第三巻 古代2』岩波書店、一九九四年)など参照。

*22)この表現が適切かどうかはここでは措く。

*23)ただし、個別の官職任用においては、天皇と官人との人格的身分的結合関係が原理的に先行することが、既に指摘されており(石母田正「古代官僚制」〔註(2)書〕)、一見、類似の現象にも見える。しかし、これはあくまでも官職の問題で機構・官司と同一視できるわけではない。また、そもそも評制と令制下の官職も同一視することができない。後述のように評制は施行にあたって、「『恩恵』という認識」が前提となっていたと見られるが、令制下の官職はそうではないと見られるからである。任意の例を挙げれば、『続紀』天平一〇年正月乙未条によれば、石上朝臣乙麻呂が左大弁に任用されている。この任用が乙麻呂と、当時の聖武天皇との人格的身分的結合関係に基づいており、左大弁という官職を乙麻呂が天皇の「恩恵」と認識したとしても、左大弁という官職は、乙麻呂(あるいは石川氏)の「奉仕」に対する「恩恵」として施行されたわけではない。令制下における改廃からも明らかなように、律令制国家の官職は「機械の部品のようなものという認識」を前提に施行されていたと見るべきであろう。

*24)「国家行政の諸分野・諸機能を分割し、それを、それぞれの省の任務または目的としてあらかじめ設定し…」(218頁)から引用。「必要に応じて統廃合しうる機械の部品のような性格のもの」という時の「必要」とは、かかる「任務または目的」遂行上の「必要」に他ならない。

*25)吉村武彦が指摘するように、この段階も「官人」の職務執行は「天皇」への「奉仕」(仕奉)と認識されていたと見られる(「古代王権と政事」〔『日本古代の社会と国家』岩波書店、一九九六年)。したがって、「天皇」と「官人」との貢納・奉仕関係がなければ、「官人」の職務執行もありえず、倭王権の権力組織が機能することもなかったと考えられる。なお、かかる認識は吉村の分析にあるように「大化前代」から令制段階まで、かなりの期間、通時的に存在したものだが、本文で述べるように、後の令制は、官司・機構(行政区画)の統廃合が「奉仕」の意義の喪失にはつながらない構造になっており、この段階とは異なっている。したがって、令制段階と七世紀後半段階との「官人」の「奉仕」のあり方は、必ずしも同一視できない。

*26)ただし、評の統廃合がまったく不可能だったと述べているわけではない。たとえば、『書紀』天武四年(六七五)二月己丑条に「甲子の年に諸氏に給えり部曲は、今より以後、皆、除めよ。」とある。この「部曲」の性格については諸説あるが、「給えり」という表現からオオキミからの「恩恵」として諸氏に与えられたものと見られる。そして、ここではこの「部曲」が廃止されているわけだから、オオキミからの「恩恵」であっても場合によっては廃止されることがあることが知られる。しかし、この廃止は天武朝における大改革の一つであり、令制下の機構・官司の統廃合と同一視できないのは言うまでもないであろう。

*27)なお、『日本霊異記』の記述はあくまで「越智郡」であるから、同書が編纂された弘仁期には、同郡が天皇からの越智直に対する「恩恵」として施行されたとの内容をもつ伝承が存在したことになる。このように郡を、天皇からの「恩恵」であるとする伝承は、『続日本後紀』承和二年(八三五)三月辛酉条の、下総国匝瑳郡を物部小事大連の「坂東」征討への褒賞(「恩恵」)とする記事にも見える(表2、参考)。しかし、本文で述べたように、郡はあくまで「機械の部品のようなものという認識」を前提に施行されていたと考えられるから、かかる伝承は特定氏族の郡内における政治的立場を有利にするものであったとしても、郡制の特質を基本的に規定する機能は持っていなかったとすべきであろう。

*28)考古学的にも「評家」が在地首長の私宅から分離するなど、評制の性格に変化があったことが知られる(山中註(4)書)。

*29)ここでは、あくまで在地首長層と見られる人物の申請に限定しているため、国・職・鎮守府などのレベルの申請は除外した。ただし、本文中に取り上げた事例の内、表1ーBのbVは「浮浪九三〇余人」の申請とされており、かかる集団を代表した在地首長の名は記されていない。

*30)この段階の倭王権の最高首長の称号を、ここでは便宜的に「オオキミ」としておく。

*31)早川庄八「選任令・選叙令と郡領の『試練』」(『日本古代官僚制の研究』岩波書店、一九八六年)

*32)近年の研究としては、渡部育子「古代総領制についての一試論」(『国史談話会雑誌』二三、一九八二年)など。

*33)関晃「大化の東国国司について」(『関晃著作集二 大化改新の研究(下)』吉川弘文館、一九九六年。初出は、一九六二年)。薗田香融「国衙と土豪の政治関係ーとくに古代律令国家成立期におけるー」(旧版『古代の日本九 研究資料』角川書店、一九七一年)など。

*34)鎌田元一「評の成立と国造」(『律令公民制の研究』塙書房、二〇〇一年。初出は一九七七年)、大町註(3)論文。表2、bXの三根評の立評申請者海部直鳥については、管見の限り、考察がないが、他の例から推して評造に任用されたと見るべきであろう。

*35)薗田註(33)論文・早川註(31)論文。
*36)薗田註(33)論文、一六七頁。

*37)熊谷公男「“祖の名”とウヂの構造」(『律令国家の構造』吉川弘文館、一九八九年)

*38)持統三年(六八九)の「那須国造碑」(『寧良遺文』下)に那須評の記事が見えるが、これは評督への任用を示すに過ぎない(鎌田註(34)論文)。

*39)言うまでもないが、地方行政全体が、孝徳朝から大宝令施行にいたるまで不変としているわけではない。しかし、かかる評制の特質の把握が、孝徳朝〜天武・持統朝〜大宝令施行後の地方行政の推移を緻密に把握する上で重要である。

*40)評制において、「機械の部品のようなものという認識」が前提になっていないとすれば、クニ制においても同様と見るべきことは言うまでもない。

*41)なお、表2、bSの『常陸国風土記』多珂郡条の立評記事は、従来、石城評のものとされてきたが、大町健は多珂評の立評記事とする(註(3)論文、一六九〜七〇頁)。その基本的根拠は多珂郡条の立評記事は多珂評のものとするのが自然であるという点である。かかる見解に基づいて、氏は多珂評については、(1)癸丑年(六五三年)以前に、石城評が成立しており、(2)同年に多珂国造石城直美夜部と、石城評造である部志許赤が申請し、多珂評が立評されたとする。この見解に立てば、(1)の石城評の成立に関しては、年代から考えて、石城評造である部志許赤が立評申請を行ったと見るべきであろう。しかし、この見解は、本稿での想定と矛盾する可能性が強い。

 この見解に従えば、石城評造部志許赤は、(A)石城評の立評申請→(B)石城評造に就任→(C)多珂評の立評申請→(D)多珂評造に就任という行動をとったことになる。

  しかし、本稿の想定に従えば、石城評は(a)石城評造部志許赤という個人の、あるいは(b)その「祖」以来の、「奉仕」に対する「恩恵」として、与えられたものとなる。(a)の場合は無論のこと、(b)の場合も「奉仕」を行ってきた系譜に属する部志許赤という個人が存在して、初めて石城評は存在しうる。したがって、石城評は部志許赤個人の人格と不可分である。にも関わらず、この見解では両者は分離され、部志許赤は石城評造から多珂評造となり、一方、石城評は存続し、誰か別のものが統轄したことになる。本稿での想定に従う限り、極めて考えにくい事態といわなければならない。

  この見解にはすでに批判が提示されているが(榎英一「常陸国風土記立郡記事の史料的性格」〔『日本歴史』五五五、一九九四年〕一〇頁)、結論から言えば筆者も従いがたい。この立評記事を前後の記事と合わせて示すと、次の通りである(筆者の判断で、話題ごとに丸付き数字を付してある)。

@(A)建御狭日命、遣わされし時に当たり、久慈の助河を以て道前と為し〈郡を去ること西南のかた三〇里、今も猶、道前の里という〉、(B)陸奥国の石城郡の苦麻の村を道後と為しき。(C)其の後、難波の長柄の豊前の大宮に臨軒しめしし天皇のみ世にいたり、癸丑の年、多珂国造石城直美夜部・石城評造部志許赤等、惣領高向大夫に請い申して、所部遠く隔たり、往来、便よからざるを以て、分かちて、多珂・石城の二つの郡を置けり〈石城郡は、今、陸奥国の堺の内にあり〉。

A其の道前の里に飽田村あり。…後の世、跡を追いて、飽田村と名づく

立評記事は@ー(C)である。記事の構成は、まず引用部以前に、建御狭日命が多珂国造に任用されたこと、この建御狭日命が「多珂」という地名を名づけたこと、が記されている。次に引用部では、第一に多珂国の境界画定について述べられ(@ー(A)・(B))、第二に問題の立評記事を記し(@ー(C))、第三に飽田村の地名起源について述べている(A)。この飽田村は@ー(A)で述べられている道前里に所在する。

 この内、@ー(A)・(B)の多珂国の境界画定説話の、『常陸国風土記』における役割は、(A)の道前里の起源を語ることにあると見るべきであろう。律令制国家によって与えられた『常陸国風土記』編纂の本来の目的は、常陸国内の地名などについて述べることだからである。したがって、『常陸国風土記』編纂段階では陸奥国石城郡に属する苦麻の村(「道後」とされた)について述べた(B)部は付随的位置付けであると考えられる。

 次に、問題の@ー(C)部であるが、まずこの記事を多珂評の立評記事と見るのは不自然である。(1)郡内の道前里の起源について述べた後、(2)立評(郡)の経緯について述べる配列となるからである。この記事が「多珂条」に記載されていることからも、行政機構上の位置付けから言っても、記事の配列は(1)立評(郡)の経緯、(2)道前里の起源、という構成にならねばならない。この点は、『常陸国風土記』の他郡条の記事の構成からも裏付けられる(ただし、脱文があることが明らかな信太郡条などは除く)。

 次に、これを石城評の立評記事と見ると、全体の構成は極めて自然である。「道後」とされた苦麻の村が属する陸奥国石城郡の成立の経緯を述べることで、本来、建御狭日命によって多珂国の「道前」と「道後」とされたはずの道前里と苦麻の村が、なぜ『常陸国風土記』編纂段階では異なる行政区画(主として郡)に属するのかを説明する構成となるからである。

 以上から、問題の記事の構成を整理すれば、次のとおりである。まず国家的事業である『常陸国風土記』編纂の本来の目的からすれば、この部分の主題は(少なくとも現存の写本による限りは)、@道前里の起源ーA飽田村の起源と見るべきであろう。しかるに、@の道前里の起源を述べるために、多珂国の境界画定説話を用いたために、道前里の起源を述べた(A)部のみならず、「道後」(苦麻の村)について述べた(B)部が記されることになった。それ故、道前里と苦麻の村が異なる行政区画に編成された経緯を述べる必要が生じ、石城評の立評を記した(C)部が付加されたと考えられる。すなわち、@ー(B)・(C)部は、あくまで付随的位置付けであると考えられる。

 ただし、現在の『常陸国風土記』の写本は省略本であり、随所に「以下はこれを略す」と省略がある旨、明記されている。この部分に、かかる注記はないが、それでも何らかの脱文がある可能性もないわけではない。しかし、基本的構成が改変されているとは考えにくいので、@ー(B)・(C)が@ー(A)の付随的位置付けであることは、『常陸国風土記』本来の構成と認めてよいであろう。とすれば、やはり@ー(C)は石城評の立評記事と見るべきであろう。

*42)註(3)論文。ただし、「権限配分に関する意識的計画的原則」が存在しない段階の評制を「機構」とする点については問題があると考える。なお、複数の在地首長が編成されていることと、評制が「『恩恵』という認識」を前提に施行されたとすることは矛盾しない。複数の在地首長に対する「恩恵」として一つの評が与えられたと考えればよい。

*43)大町註(3)論文。

*44)律令制国家の国家機構の分析に基づく問題提起の方向性を、国家を、諸階級を超越し、諸階級の利害を調整する「第三権力」と捉える理論に見い出す見解もある。川尻秋生は、日本古代の合議制を分析した上で、(a)日本律令制国家においては、天皇の意志がそのまま国家意志になるのではなく、太政官という非人格的な機関の媒介が必要であること、(b)中国唐代の史料である「政事堂記」に皇帝が天地・国家・民衆に反した場合は、宰相が皇帝の命を覆すとしていること、の二点を指摘して、日本律令制国家が「第三権力」であるとする(「日本古代における合議制の特質」〔『歴史学研究』七六三、二〇〇二年〕)。

 しかし、筆者は、このような形で問題提起の方向性を模索する見解は生産的とは考えない。基本的に日本古代の事実に基づく問題提起ではないからである。「第三権力論」に問題提起の方向性を見い出す場合、言うまでもなく、それを日本律令制国家に適用するのではなく、日本古代の事実によって検証する必要がある。いかなる理論も「事実と論理によって正しくないことがしめされるならば、たとえ一国であっても、それらの理論は普遍性を失い、理論としての妥当性が破綻をきたす」(「国家史のための前提について」八四頁〔『石母田正著作集第四巻』岩波書店、一九八九年。初出は、一九六七年〕)からであり、仮に正しいことが証明されたとしても、かかる検証作業が「第三権力」たる国家の存在形態・意義などについて、日本古代史研究の立場からの独自の知見の提示を可能にし、「新しく何かを生み出す」ことにつながるからである。国家の一般理論を、過去の事実に基づいて検証しうる点にこそ、国家論における、歴史学およびその一部たる日本古代史研究の、独自の意義がある。

 しかし、川尻の場合、かかる検証作業を行っているとは言えない。主題である合議制の分析は、畿内政権論批判を目的としており、「第三権力論」の検証としての意義を持っているわけではない。「第三権力」との結論を導くのは、前記の(a)・(b)二点であり、特に(b)部が主要な根拠となっている。しかし、まず、(a)は「第三権力論」の根拠とはならない。国家意志の形成に非人格的な機関の媒介が必要であることは、国家が「組織された強力」であることを示すものではあるが、それが「一つの階級が他の階級を支配し抑圧するため」(一七四頁)ではなく、諸階級の利害の調整のために存在することの根拠にはならないからである。(b)は、川尻が特に強調する点だが、そもそも中国史料に基づいた見解であるため、日本律令制国家が「第三権力」であることを検証した見解とは言えない。また、仮に中国史料から得られる知見を日本律令制国家に敷衍することができ、臣下が天皇権力を掣肘する際、天地・国家・民衆(後二者が重要と見られるが)に反したことを根拠としたとしても、かかる「支配階級」の言辞を、言わば「額面どおり」に受け取って、直ちに掣肘の本質的目的を諸階級の利害の調整のためとすることは必ずしもできない様に思う。

 

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