<内なる宇宙への旅−CONTENTS & UPDATE>
天河('99.10.16) 日本人と神社('99.10.16) 言霊('99.12.15)
想念('00.03.02) エニアグラム('00.05.06) 催眠療法−ピプノセラピー('00.08.09)
宮古島の神秘の石庭('00.10.16) 魂と縁('00.12.20) 人間関係の謎('01.02.24)
心の中の光と闇('01.06.27) 波動の時代('01.12.02)いつも探険隊のホームページを見てくださってどうもありがとうございます。
私達が取り組んでいるテーマは、忙しい日常生活ではなかなか見つめることができない
<自分自身に向き合う>ということなのですが、読まれていて何か疑問に思われることや
ご感想などがありましたら、是非お知らせくださいね!
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私達人間は、一体どこからやって来て、どこへと行ってしまうのでしょう。そして何のため に生きているのでしょうか。子供の頃、空を見上げて「空は何故青いの?」「宇宙の果てには何があるの?」と、ふと思ったことがあるように、ある日生きることの意味や目的を不思議に思い、その答えをずっと追い求め続けてきたような気がします。探険隊の旅もそういうところから始まりました。
− 夢 −
目を開けると、そこは美しく銀色に輝く月の大地でした。あまりの美しさにしばし魅せられ、放心状態でいると体がすぅっと上へと引き上げられ、月全体を見ることができました。「うわぁ…きれいだなぁ…」と思っていると、すぐ横には太陽が金色の光を放ちキラキラと輝いていました。間近にいるにもかかわらず、不思議と温度を感じることもないままに、さらに体が上へと向かいました。月と太陽の下を見ると、私がいるはずの地球が月と太陽と一緒にきれいな三角形をつくって無限の宇宙の中に浮いていたのです。銀と金とブルー…とても美しく感動的で、この光景を多くの方にも見せなくては…と思ったのです。 その頃、私は夢なのか…現実なのか…とてもリアルで不思議な感覚が残る夢(?)を見続けていました。巷では夢判断の本も出ていますが、その夢の意味が理解できるまでに半年以上かかりました。
− 天河神社 −
ある日、目新しい本はないかと近くの本屋へ行きました。面白そうなタイトルの本を手に取ってはパラパラとめくっては書棚に戻し…を繰り返していると、次の一冊を手にした瞬間に腕から全身にかけて電流のようなものが走りました。私は驚いてその美内すずえ著“宇宙神霊記”を開きました。そこには奈良県吉野郡天川村に天河神社なるところが存在し、その神社の神紋・神宝である五十鈴について書かれていました。 五十鈴は三つの鈴から成っていて、いろいろと意味があるらしいのですが、それは太陽・月・地球をも表していると…。私は半年前にみた夢のことを克明に思い出し、無性に天河神社へと心誘われたのです。
それから実際に天河神社へ行ったのは、夢をみてから10ヶ月後、意味がわかって3ヶ月後ですが、その間に聖月(ミヅ゙キ)まやさんという私の旅にヒントを与えてくれるすばらしい女性との出逢いがありました。そして天河神社に関する偶然と呼ぶには出来すぎた事もいくつか重なったこともあって、’91年の9月にまるでその地から呼ばれているかのように天河へと向かいました。
●天河神社●
創建 七世紀始め 旧社格 郷社
祭神 市杵島姫命・吉野坐大神・熊野坐大神
所在地 奈良県吉野郡天川村坪ノ内
正式名称は「大峰本宮天河大辨財天女社」といい、大峯連山の最高峰の弥山 (1895 m)の山麓に鎮座し、山頂には奥宮があって、弁財天が祀られている。
神殿の下には古代の磐座があり、社伝によれば神武天皇がここでヒノモトの言霊を賜ったという。
「日本五大弁財天の一つ」といわれているが、一部の神道家たちの間で秘めたる 「日本弁財天総本宮」と注目され始め、今では宗教・宗派を問わず、全国各地からこの地に縁のある旅人が多く訪れている。
その時は何故気持ちをかりたてられるように天河へ行ったのかは、私自身にはよくわかりませんでした。それまでにも旅はしていましたが、この時のように明らかに何かが違っていて、そこに行けば何かが待っている気がした旅は初めてのことでした。現代社会は物質中心主義が蔓延していて、今の世の中…何かがおかしいと心のどこかで思っておられる方もあると思います。私達探険隊も自分達のルーツ・古代人の価値観・日本人と神社の関係等を調べていくうちに、今の社会は古代人達が大切にしてきたものをどこかに置き忘れたまま物質文明だけを発展させ、息をつく間もなく突っ走ってきたような気がします。
西暦2000年以降は、物質中心から精神的なことが重視される時代になってくると言われていますが、今はちょうどその端境期で“古代人が大切にしてきたもの”に人々が気づき始めていくのではないでしょうか。 私自身も旅を始めてから様々な出来事・人々に遭遇し、人生観や価値観がどんどんと変化していきました。まだまだ心磨きの真っ只中ではありますが、私の中に確実に存在していながら、今まで眠り続けていた意識の扉を大きく開くきっかけとなった…それが“天河神社”だったのです。
∞ 月ノ宮 沙季 ∞
<日本人と神社>
私達探険隊は今までの旅を通して、この世には偶然などなく全てが必然で、存在していること自体に意味があり、価値がある…と考えています。そういう視点から激動の世の中を今、日本人として生きていることも必然であると感じ、日本という国・日本人のルーツを深く探りたいという想いにかられ、独自に考察を始めた次第です。
探険記録を見られて気づかれた方も多いと思いますが、私達の探険地は圧倒的に神社が多いのです。その理由の一つに、神社は仏教伝来以前から存在しており、中には創建された時期さえ判明しないほど古いものがあり、日本人のルーツを探るヒントが隠されているような気がしたからです。しかも近所には必ずいくつかの神社や祠がありますが、その神社についても詳しいことは知らないというのが現代人の現状です。
日本最古の歴史書の一つだと言われている古事記の中には、アマテラス大御神をはじめ、各地の神社に祀られている八百万神々が登場しますが、すべてが自然神です。古代の人々は万物を生かしてくれているもの…海や山・火や水・風や土などの自然の中に存在する一つ一つを神と崇め、感謝する日々を送っていたようです。
古代日本人は、今のように物質的には豊かではありませんでしたが、大自然に対しての畏敬の念や周りのものを慈しむ心などの現代人が忘れてしまっている精神性は、かなり高かったと思われます。ですから今で言う超能力は、特別な人だけが持つ能力と認識されていますが、古代ではその能力のパワーやその専門分野の差があったとしても、別段不思議なことではなく万人に備わっている当然の力だったようです。そう考えると現代人は、その能力を退化させてしまっていますが、そういう能力を古代人が持っていた…と考えると、今でも謎であるピラミッドの建設やモアイ像などの巨石遺蹟のことも少しは解明できる気がしています。
古代人達はその能力を使って、とりわけパワーが強く清浄なところを判別し、聖地として自然神との波動(エネルギー)交流をしていたようです。波動交流というのは、例えば人間関係においてもその人に逢うと何故だか元気になるとか、心が癒されるということがあると思います。人だけではなく、自然の中にいることで気持ちが清々しくなったりしますが、それはその対象となるモノから放たれている心地よい波動に影響を受け、自分自身の波動が刺激されるからです。良い波動を受けると良い波動を返し、悪い波動を受けるといやな気持ちになり悪い波動を送ってしまう…日常の人間関係もその波動交流によって成立しています。
古代日本人と神社との関係も、そこに祀られている神々とその周辺で生活していた人々との交流の場として神社が存在し、人々は自分達を生かし育んでくれている大自然に素直に感謝の念を送り、祈りや祭りとしていました。その祈りや祭りに込められた人々の感謝や歓びという良い波動を受けた自然の神々は、それをエネルギーとして万物を生かし、育むという大きな力を送り続けていたのです。昔からある鎮守の森は、自然神の怒りを鎮め、人々の生活を守る大切な場所だったのです。
残念なことに今の多くの日本人は、祈りや祭りの意味や目的を気にせず、神社と言えば願い事をするところだと思っており、ご利益目的がほとんどになっています。願い事をすることは決して悪いことだとは思いませんが、辛い事・苦しい事があっても毎日無事に過ごせていることを感謝している日本人は一体どれだけいるのでしょう。自然神への感謝の気持ちを忘れてしまっている今、神々は怒りを鎮めることができずに地震・水害などの自然災害を起こし、今を生きる私達に手遅れになる前に気づくように警告を発してくれています。
私達は生きているのではなく、自然によって生かされていることに気づいた時、もうこれ以上人間の都合で環境破壊を続けていくことが、どんなに愚かで恐ろしいことであるか…もしかしたら、もう取り返しのつかない状態まで来てしまっているのかも知れませんが、私は手遅れになる前に人々は気づくことができると思っています。
世の中がどんなに変化しても神社や聖地と呼ばれている所は、そこだけがまるで異次元空間のように今でも静かに存在しています。そして古代人と聖地との関係を心の深い部分で何となく覚えている日本人は、ふとその場に佇んだ時に自ずと神聖な気持ちになり、心が静かで穏やかになっていくのを本能的に感じることができるのだと思います。
私達探険隊は神道をしているわけではなく、宗教にも属してはいませんが、全てが神であるという考え方には共感しています。神社をよく観察するとわかりますが、参拝する時に拝殿の奥に丸い<鏡>があり、正面に立つと自分の顔が映っていたりします。私達は神に手を合わせているようですが、自分自身にも手を合わせているのです。全てが神であるという事は、私達自身も神であるということです。古神道はそういう考え方なのです。そういう視点で神社を感じてみるのも面白いと思われませんか?
偶然(いや…必然)このメッセージを目にされた方も、いつか神社や聖地を訪ねられる機会がありましたら、そこはかつて自然神と人間とのすばらしい波動交流の場であったことを思い出されてみてください。今でもそこは皆さんの<生かされていることへの感謝の気持ち>を昔と変わらずきっと喜んで受け入れてくださる所だと信じています。普段意識することはあまりないとは思いますが、古来日本はそういうすばらしい地をたくさん持っている国なのです。そして私達は今、その日本という国の中で必然的に生きているのです。
∞ 月ノ宮 沙季 ∞