私は今までに意識がこの肉体を離れるという体験を何度かしました。
このような体験をされた方はたくさんいらっしゃるとは思いますが
不思議な体験を繰り返すうちに私は<自分が特殊な人間である>と
方向違いの想いをいだいていた時期がありました。
しかし、これらの体験は<魂は存在する><見えない力は存在する>ということを私が私に体感させ
確信させるための出来事のように今は思えます。
今回はその肉体から意識(魂)が離れるという体験談から始まります。

<想念>

 いけいけ日本探険隊の活動を始める1年前に、私ははっきりと自覚できた幽体離脱体験をしました。その夜もいつものように眠りに就こうとウトウトしていると、目を閉じているのにもかかわらず、何だか目が回るような感覚に突然襲われ、意識が現実に戻されました。それと同時に急に体(もちろん意識体)が右回転を始めたのです。始めはゆっくりと回っていましたが徐々に速度を増し、そのスピードについて行けない!と思った途端に今度は前回転(鉄棒の前回りのよう)に変化しました。先ほどと同じようにどんどん加速していきましたが、あまりの速さに自分は静止し、まわりの方が回っているという感覚になりました。次の瞬間に私の意識体はあっと言う間に頭の先から体を離れてしまったのです。どんどんと上へ向かいながら「これって一体何?」と思っているうちに月の近くまで行ってしまいました。

 しばらくは何が何だかよくわからないまま、ぼぅーっと地球を眺めていましたが、そのうちに私は「自分は死んでしまったのだ…」と思いました。そして残された大切な人たちのことを心配したりしていましたが、そうこうしている間にある別の想いが湧いてきたのです。それは「こういうことが<死>であるのなら死ぬってことは、そんなに怖いものではない」ということです。さらに意識自体は体がある時と何ら変わりがなく、周りのこともちゃんと見えていて、ただ違うのは肉体がない…ということだけなのですから。ということは、よく“肉体は滅んでも魂は永遠だ”と言いますが、これって本当なんだなぁ…と不思議と確信めいた想いがインプットされたのです。

 ここでちょっと辞書で調べてみましょう…た・ま・し・い
【魂】 @動物の肉体に宿って心の働きを司ると考えられるもの。古来多く肉体を離れても存在するものとした。

魂とは意識体であり心そのものであり、想念の源なのではないでしょうか。心や想いは目で見たり手で触れたりすることはできませんが、私達人間に心があることを否定する人は誰もいません。何故でしょう…きっと一人一人が心の存在を感じていて知っているからだと思います。何だか人間という生き物は、目に見えている以上の存在のような気がしてきませんか?

 日常<想念>という言葉をあまり使うことはありませんが、物事に対する考えや価値観・好き嫌いなど心の中をいつも行き来している普段の想いのことです。肉体と魂(想念)の関係は、例えば自分が車に乗っている状態ととても似ています。車が肉体で乗っている自分が魂です。目的地へ向かうのに自分がここで右に曲がる必要があると思えば、私達はハンドルを右に切ります。そうすると車はその通りに右へと進み、目的地へと近づいて行きます。ここで言う目的地とは私達の夢や願望で、それに対する考えや思いによって<ハンドルを切る>というような行動を起こし、夢や願望実現の第一歩となっていくのではないでしょうか。心の中で<ハンドルを右に切りたい!>といくら思ったとしても実際に行動に移さなければ、目的地へはなかなか着きません。夢や願望がかなう、かなわないの違いは、もしかするとその夢への想い(想念)を強め、ずっと持続させ行動できたか否かの違いだけなのかも知れません。

 『想念とは、そのままのあなた自身です。何を考え、何を想うかによってあなたの人生は決定される。』と言ったのはあの文豪ゲーテです。何を考え、何を想うかという時点でプラスの発想をしたかマイナスの発想をしたか…によって人生が決定されるということなのでしょう。前回は<言霊>の法則性・重要性についてでしたが、よく考えてみるとそもそも<言霊>の発信源は私達の<想念>から生まれて来るものですから、法則性も一緒で、常日頃の想いがいかに大切かがこれで何となくわかってきます。

 人間の<想念>というのは、法則性を無視していると自然に否定的(マイナス思考)な方向に傾いてしまうものなのだそうです。その結果、不平不満を心にいだきながらも不本意な生活を送っている人が多いのは、当然のことかも知れません。方向違いの価値観(想念)を正しいと信じていれば方向違いの道を歩き続け、同じことを繰り返すような人生を送ることになってしまいます。自分にとってより好ましい状況を望んでいると想いながら、実際にはまるでそれを望んでいないような心の持ち方をし、それに準ずる言葉を放ち行動していることの方が私達の日常に多いことのように思えます。

 以前ある本で『自分でため込んだ誤った想念は、肉体を持っている時にだけ取り除くことができる。それを悔い改めていこうとしなければ、次の転生に持ち越される。』というのを目にしたことがあります。私達の魂もこの肉体を去る日がいつか訪れるのでしょうが、それぞれの魂(意識体)は永遠に存在し続けます。もしかすると一人一人の境遇が違っているというのは、この魂の学びが各々違っているから…とは思えないでしょうか。

 それぞれの人生において違った環境・体験を通しての必要な学びがあり、それを成就するために生を受け、生かされているような気がします。ということは実際に自分に起きる出来事よりも、それに対する反応の仕方の方が大切になってくるので…と思います。今の自分自身の環境・状況を何かしら変化させたいのであれば、日常の様々な出来事に対する反応を変えることを始めてみるという価値は大いにありそうな気配です。

 意識が変われば想いが変わり、言葉や行動が変わります。言葉や行動が変われば、自ずと環境・状況も変化し始めます。意識に入り込んだ新しい考え方を真に理解できているかどうかは、それを行なうことができているかどうかで自覚できます。想うばかりで行動に移さなければ期待する変化はなかなかやって来てはくれないかも知れません。すべては私達の魂や心を磨くための必然であり、死を迎えるまでにどれだけ学びどれだけ成就できたかによって人生を計られるとしたら…そしてこれが真実だとしたら…一人一人の生き方はより良い方向へと自然と向かうことができるのではないでしょうか。

 西暦2000年以降は「本物の時代」と言われています。人も企業も「本物」であるということが求められていくというのです。「本物」とは何なのでしょう…。
ここで’93年京都を旅した時にご縁をいただいた出口眞人氏(大本)が’98年2月に船井幸雄氏(船井総研)と対談され、その内容の一部を手紙にて送ってくださったので紹介させていただきます。自分自身が「本物の時代」に相応しい人材であるかどうかのチェックポイントだそうです。参考にされてみてください。

※ 批判・否定をしなくなる   ※ 不平不満が減る   ※ 差別と区別をしなくなる   ※ 悪口を言わない
※ 約束が守れるようになる  ※ 好き嫌いが減ってみんなを好きになる   ※ こだわりが減る
※ 脅しと心配をさせなくなる  ※ 自慢しない   ※他人(自分)の長所に目がいく

 ん〜何だかとっても耳が痛くて、まさに私達がつい見落としがちなポジティブ思考です。しかし、すべての人々の意識がこのように変われば、世の中すばらしいと思われませんか?私達はそのようなすばらしい方向へと自分自身を導く力を誰もが持っています。そのことを日常において意識するかしないかだけなのです。(本当は私も忘れがちなのですが…)
このように<言霊>や<想念>の法則は、私達の人生を支配している法則であり、私達を取り巻く大自然…つまり宇宙の法則の一つであるような気がするのです。
 

∞ 月ノ宮 沙季 ∞

           
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