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●寛文3年(1663)
●寛文4年(1664)
●寛文6年(1666)
●寛文7年(1667)
●寛文8年(1668)
●寛文9年(1669)
●寛文11年(1671)
●万治2年(1659)
前代官の鈴木重成らの努力がみのり、天草の石高が半減し、二万一千石となる。
6月29日−熊本藩主細川綱利が
領内でキリシタン33名を逮捕した旨,長崎奉行が幕府に報告する。
人吉の町人である林藤左衛門正盛が球磨川を開削し、舟運をひらく。
幕府、諸藩にキリシタン改めの強化を命じる。熊本藩で影踏(えふみ)がはじまる。
熊本藩三代藩主綱利が弟の利重に三万五千石を分知し、新田(しんでん)支藩とする。
熊本藩の藩儒である北島雪山が藩命をうけて『国郡一統志(こくぐんいっとうし)』の編纂にあたる。
人吉藩主の相良頼喬(よりたか)が舟運のひらけた球磨川を参勤交代のためはじめて下る。
8月11日−肥後・豊後・日向・豊前に台風が襲来し,各地に洪水を引きおこす。
北島雪山ら陽明学を信じる者、キリシタンの疑いのある藩士が暇を賜る。
戸田忠昌が関東に国替えとなって富岡城を破棄し、天草はふたたび天領となり明治に至る。