肥後国年代リンク
慶長(1596〜1614)
元和(1615〜1623)
寛永(1624〜1643)
正保(1644〜1647)
慶安(1648〜1651)
承応(1652〜1654)
明暦(1655〜1657)
万治(1658〜1660)
寛文(1661〜1672)
延宝(1673〜1680)
天和(1681〜1683)
貞享(1684〜1687)
元禄(1688〜1703)
宝永(1704〜1710)
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享保(1716〜1735)
元文(1736〜1740)
寛保(1741〜1743)
延享(1744〜1747)
寛延(1748〜1750)
宝暦(1751〜1763)
明和(1764〜1771)
安永(1772〜1780)
天明(1781〜1788)
寛政(1789〜1800)
享和(1801〜1803)
文化(1804〜1817)
文政(1818〜1829)
天保(1830〜1843)
弘化(1844〜1847)
嘉永(1848〜1853)
安政(1854〜1859)
万延(1860)
文久(1861〜1863)
元治(1864)
慶応(1865〜1867)
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肥後国(延享・寛延・宝暦年間)


●延享4年(1747)
熊本藩五代藩主の細川宗孝が江戸城で誤って板倉修理に切られ死亡する。弟の主馬 (重賢)が跡を継ぐ。

●寛延元年(1748)
細川重賢が六代藩主として肥後に下り、直書をもって宿弊5カ条をあげ、いわゆる宝 暦の改革が開始される。

●寛延2年(1749)
4月−熊本藩が櫨方御役所を設置し,櫨実の専売制を実施する。

●宝暦元年(1751)
3月−熊本藩が財政難を理由に,総庄屋などに御用金を命じる。
御穿鑿上役を設け、裁判の公正を期する。

●宝暦2年(1752)
重賢、堀平太左衛門を大奉行(おおぶぎょう)に登用し、財政立て直しなどの諸改革にあたらせる。
9月1日−熊本藩の大(おお)奉行堀平太左衛門が借財をめぐって藩の御 用達たちと話し合い,蔵元を大坂の鴻池から長田にかえる。

●宝暦3年(1753)
藤崎宮にはじめて富講(とみこう)興行が許可される。 田畑の譲地(ゆずりち)、質地(しちち)を厳重に取りしまる。

●宝暦4年(1754)
5月−堀平太左衛門が熊本藩主へ「刑法草書」を献上する。
熊本城内の二の丸に藩校時習館が開設される。

●宝暦5年(1755)
1月7日−熊本藩が,藩校時習館を開設する。
7月8日−幕府が,追放者や欠落者が長崎に入って悪事を働くとして,彼らの長崎立入禁止を 九州などの諸大名に命じる。
稲津(いなづ)弥右衛門が八代の萩原堤の復旧工事にあたる。
島己兮(しまいけい)に養蚕仕立方(したてかた)を教導させる。

●宝暦6年(1756)
7月1日−熊本藩の藩政機構を改革し、大奉行の下に六奉行を置き十二部局を分担させる。
熊本藩の医学校再春館が開設され、あわせて付設の薬草園蕃滋園(ばんじえん)が設けられる。
郡奉行を郡代と改称する。
小堀流踏水術(とうすいじゅつ)の初代師範の小堀長順か、わが国最古の水泳書 『踏水訣(とうすいけつ)』を著す。

●宝暦7年(1757)
6月−熊本藩が細川氏入国後の検地以来の地引合(じびきあわせ=一種の検地)が行われ、明和6年に完成する。
八代城代の松井氏が伝習館、教衛場(きょうえいじょう)の文武稽古所を建てる。

●宝暦9年(1759)
5月5日−熊本藩の医学校再春館が,闘草会を始める。

●宝暦11年(1761)
12月−島己兮が命をうけ養蚕技術習得のため近江に出張し、翌年、熟練の女工を招いて 熊本に織物・製糸業を興す。

●宝暦12年(1762)
天草高浜村の庄屋が高浜焼を始める。

●宝暦13年(1763)
3月−熊本藩が高橋町に製蝋所を設置し,蝋の専売を推進する。
宇土(うと)支藩の細川氏が学問所として温知館を開設する。