東アジア1895年
1850年 1910年
日清戦争に勝った日本は、講和条約により台湾、澎湖諸島、遼東半島の割譲を受けることとなったが、ドイツ、ロシア、フランスの三国干渉により、遼東半島を返還した。その後、ドイツ、ロシアはそれぞれ膠州湾、旅順・大連を占領した。日本は南下の勢いを強めるロシアに強い脅威を感じるようになる。また、ロシアに対する反感も強く、世論も急進化し、戦争準備に入るが、日本は強大なロシアに対して、国力、軍事力などの差が大きく、戦争に勝つことは困難であると思われた。
日清戦争での敗戦後、完全に威信を失った清に対して、西欧列強が従来以上に不平等条約を締結していった。康有為らは富国強兵策を進めたが、1898年戊戌の政変により西太后が復権し、列強の植民地政策への反感から義和団事変が発生し、列強軍隊により鎮圧された。このことは自国民保護のためにさらに多くの軍隊駐留の口実となり、特にロシア、日本が多くの兵を出して、朝鮮、満州進出が露骨となり、日露間で緊張が高まることとなる。
日本に干渉して清に返還させた旅順を占領し、強固な要塞を構築。旅順はロシア念願の極東における不凍港であった。また、満州での覇権を確立するために、シベリア鉄道により極東の兵力を増した。国力の差から日本が戦争に踏み切るとは考えていなかった。
極東におけるロシアの南下に脅威を感じたイギリスは日英同盟を締結する。
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