★山城法観寺五重塔:重文。
永亨12年(1440)足利義教再建塔。八坂の塔と俗称する。
元は四天王寺式伽藍と云われるが、他の伽藍は全て失われ、現在は東山山腹・民家の中の狭い境内地に塔のみ屹立する。
この塔婆は、足利氏が「安国寺」とともに、全国66ヶ国に建立した「利生塔」の内で唯一現存(再建)する塔婆である。
一辺6.2m、高さ36.4m。あるいは一辺6m、高さ46m。(公称)
2007/02/04追加:
○「古社寺の研究」 より
聖徳太子が摂津四天王寺建立の時、山城に木材を求めこの地が勝地であるとして一寺を建立、五重塔を設置し、法観寺もしくは八坂寺と称したのが始まりと伝える。延喜式では七大寺の一つと云う。
治承4年(1180)雷火で焼失、建久3年(1192)源頼朝によって再興、
正応4年(1291)兵火で焼失、延慶元年(1308)後宇多天皇によって再興なる。
康永元年(1342)足利尊氏、利生塔として塔供養。
永享8年(1436)回録に逢って焼失、永亨12年(1440)足利義教再建。応仁の乱などの災難は逃れたがその後ほぼ退廃に帰す。
元和4年幕府命により京都所司代板倉勝重奉行で造営・旧形を存す。さらに寛文3年修理。
元和5年寺塔屋敷四至傍示(板倉勝重寄進)
同 文章
「東山八坂法観寺塔屋敷四至傍示之事、・・・、先規に任せ御寄附之地也、永代不可有相違、後のため書図を記し置く」
○2019/02/23撮影:京都市考古資料館「平成30年度後期特別展示 京都の飛鳥・白鳳寺院-平安京遷都前の北山背-」の展示より:
火頭形三尊塼仏片 →下に概要を掲載
輻線文縁素文八葉蓮華文軒丸瓦ほか:雷文縁細複弁十六葉蓮華文軒丸瓦・重圏文縁単弁八葉蓮華文軒丸瓦・雷文縁複弁八葉蓮華文軒丸瓦・三重弧文軒平瓦・素文軒平瓦
2020/02/24追加: 〇「飛鳥白鳳の甍〜京都市の古代寺院〜」京都市文化財ブックス第24集、平成22年(2010) より
火頭形三尊塼仏 32年ぶりに実施された平成21年(2009)で金箔を貼った塼仏が、塔のすぐ南から、出土する。
塼仏は一般的には堂塔の壁面荘厳として用いられるが、本塼仏は大きさやその形から礼拝の対象とされて可能性が高いと思われる。
火頭形三尊塼仏は平面火頭形の盤面に天蓋の下で椅子に座る佛と脇侍を表すもので、今般出土したものは左脇侍の部分である。
本例には金箔や下地の漆が残る。 類品については大和阿弥陀谷廃寺(奈良市)や山城山崎廃寺(大山崎町)など少数の寺跡からしか出土していない。
→本塼仏については次に詳しい。 「発掘成果をふりかえって
2009」>「史跡法観寺境内出土遺物(塼仏)広報発表資料」2009年9月18日
◆山城法観寺五重塔:重文
2016/04/02追加:
○「新撰京都名所圖繪 巻1」竹村俊則、昭和33年 より
高さ40m、創建以来の古制を踏み、純然たる和様の復古的建築である。
釈迦如来(心柱)を中心に内陣四方に大日・阿閦・宝生・阿弥陀を安置する。
(※所謂五智如来を安置するのであろうか、通常心柱を大日如来とし、大日如来以外の四仏を安置するのであると理解しているが、
この塔の西方には大日如来が安置されているようで、もしそうであれば、通常の五智如来の配置とは違うと思われる。
即ち下に掲載<2016/03/20撮影>するが、法観寺五重塔内部24及び法観寺五重塔内部25は大日如来と思われる。)
周囲の扉には天部の像を描く。
須弥壇の下には古い松香石製の心礎があり、中央に三重の凹孔をつくり一番中に舎利器を納めた白鳳期の様式を留める。
※松香石:凝灰岩
2020/02/24追加:
〇「飛鳥白鳳の甍〜京都市の古代寺院〜」京都市文化財ブックス第24集、平成22年(2010) より 法観寺:
この地で発掘調査が行われたのは昭和52年(1977)が最初で、この時は創建時の遺構に関しては成果は無かった。
翌昭和53年の立ち合い調査で塔基壇を掘る。その結果、塔基壇は創建時の基壇版築を手直しして造られていることが判明する。
つまり、現在の塔の位置は創建から殆ど動いていないことになる。
そして心礎は巨石であり、白鳳期に据えつけられてから、動いていない可能性が非常に高いと思われる。
心礎は円孔(柱穴)を穿ち、さらにその中央に舎利孔を穿つ。
今の心柱の径は心礎柱穴より一回り小さいものであるが、創建時の心柱はおそらく柱穴いっぱいの径を持っていたものと推測される。
2012/03/22撮影:
2014/04/05撮影:
2014/08/28撮影:高台寺境内より遠望
法観寺五重塔430
2014/08/30撮影:
2016/01/28撮影:東山東漸寺跡(大谷墓地)から遠望
2016/03/20撮影:
2016/10/26撮影:八坂塔遠望・京都タワー展望台より
法観寺五重塔遠望14 法観寺五重塔遠望15
2016/11/05撮影:
2017/03/17撮影:清水寺遠望:京都伊勢丹オープンビューレストランより
八坂塔遠望495 八坂塔遠望496
2022/02/21撮影:
山城法観寺五重塔495 山城法観寺五重塔496 山城法観寺五重塔497 山城法観寺五重塔498
山城法観寺五重塔499 山城法観寺五重塔500 山城法観寺五重塔501 山城法観寺五重塔502
山城法観寺五重塔503 山城法観寺五重塔504 山城法観寺五重塔505 山城法観寺五重塔506
山城法観寺五重塔507 山城法観寺五重塔508 山城法観寺五重塔509 山城法観寺五重塔510
2012/04/19追加:
パンフレット「東山花灯路」平成24年版 より転載
山城法観寺五重塔140 山城法観寺五重塔141
2013/05/30追加:
朝日新聞2013/03/12掲載写真
山城法観寺五重塔142
2015/03/20追加:
朝日新聞2015/03/05掲載写真
山城法観寺五重塔143
パンフレット「東山花灯路」平成27年版 より転載
山城法観寺五重塔144
◆法観寺五重塔扉絵
2016/03/20撮影:
法観寺五重塔初重扉絵1 法観寺五重塔初重扉絵2 法観寺五重塔初重扉絵3 法観寺五重塔初重扉絵4
◆法観寺五重塔内部
2016/03/20撮影:
◆法観寺五重塔心柱
2015/02/16追加:
「朝日百科・国宝と歴史の旅 8 塔」朝日新聞社、2000 より
法観寺五重塔心柱
2016/03/20撮影:
法観寺五重塔心柱4 法観寺五重塔心柱5 法観寺五重塔心柱6 法観寺五重塔心柱7 法観寺五重塔心柱8
★山城法観寺心礎
「佛教考古學論攷 四 佛塔編」より転載:
山城法観寺心礎 山城法観寺心礎実測図
心礎は2.7×2.1mで、三段孔式という。穴は径102×24cmで、蓋受孔は径21×3cm、舎利孔は径15×12cmで蓋も残るという。
舎利孔には当初のものではないが金銅製の二重の舎利容器があり、何れにも銘文があり明和4年(1767)唐招提寺から請来したと記す。
(※下掲「京都の古建築」の画像参照、同じく2016/03/20撮影の心礎写真を参照)
舎利容器の中には舎利と水晶の五輪塔が納められていた。
2006/12/23追加:
八坂法観寺心礎:「X」氏ご提供画像:2006/12/16撮影
2007/12/14追加:「奈良朝以前寺院址の研究」たなかしげひさ、白川書院, 1978.8 より
八坂法観寺心礎
2006/11/23追加:「京都の古建築」、京都市観光局、昭和13年 より
八坂法観寺五重塔心柱心礎
2008/01/12追加:
「O」氏ご提供画像:2006/02/11撮影
山城法観寺塔心礎14
2016/03/20撮影:
○「八坂の塔 法観寺」リーフレット より
心礎:創建当初のものである。円形舎利孔・石蓋孔・凹柱座のある三段式で、白鳳の様式を留める。
殊に全国で2例という古い石蓋を今に存する。
○下に掲載の写真:
心礎は凹柱座を彫り、その凹柱座に心柱が建つ。
舎利孔に置かれているのが舎利容器であろう。舎利容器ははっきりしないが、舎利孔の中の置かれているように見える。(写真に写る。)
そして石蓋は、現在、心柱に立て掛けられている。(これも写真に写る。)
心柱の舎利孔に接する部分は、舎利容器の出入ができるように溝が切られ、その溝は木片で蓋をしていた
ものと思われる。というのは、その木片の蓋は外され、凹柱座の向かって右に置かれていると思われるからである。(これも写真に写る。)
◆法観寺五重塔古絵図
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「花洛名勝圖會」(「東山名勝圖會」)
元治元年(1864)年刊行、挿絵は暁鐘成、四方義休、楳川重寛
花洛名勝圖會・八坂法観寺:左図拡大図「都名所圖會」
:安永9年初版本
都名所圖會・八坂法観寺
2015/01/18追加:
「東山名勝圖會」(「再撰花洛名勝圖會 東山之部」)木村明啓・川喜多真彦/著、松川安信ほか/画、元治元年(1864) より
巻6:東山名勝圖會霊山翠紅館:全図
巻6:東山名勝圖會霊山翠紅館八坂塔:八坂塔部分図
翠紅館:霊山正法寺塔頭叔阿弥のあった處で、文化年中以降荒廃す。天保初期西本願寺が買収し、書院・庭園などを造り、翠紅館と名付く。旧趾は今料亭となるという。
翠紅館は八坂の塔のほぼ東に位置する。 |
2009/02/03追加:「幕末明治 京都名所案内」 より
法観寺廃趾之図
2011/03/31追加
「四百年前社寺建物取調書」明治15年社寺調査 より
八坂法観寺五重塔図
◆法観寺五重塔古写真等
2010/03/08追加:「蜷川式胤奈良の筋道 / [蜷川式胤原著] 」 より
明治5年八坂塔:明治5年壬申検査時の写真
2007/05/23追加:
明治14年八坂法観寺塔 明治14年清水寺西門+八坂塔
2014/08/15追加;
「撮影鑑 二」明治14年調製 より
明治初頭法観寺五重塔:明治14年もしくはその直前の撮影であろう。
(上記の「明治14年八坂法観寺塔」と同一写真である。)
2007/08/08:日文研 より
明治期八坂の塔
2006/01/01:「Y」氏ご提供
■山「やさかのたふ」:
「きやうと(名所と美術の案内)」明治28年、和装本挿絵、木版、作者は解読できず。
2006/09/30追加:
「所蔵古写真カタログ 巻次 : その1」
(国際日本文化研究センター)より
八坂法観寺塔:高台寺附近から八坂塔を撮影したものと思われる。高台寺附近からこのように見通しが効くのかどうかは不明。
2022/07/03追加: ○「別冊 歴史読本 古写真にみる幕末・明治」新人物往来社、昭和62年 より
横山松三郎撮影推定八坂塔:八坂塔であるかどうかは確証が持てない。 明治5年撮影と思われる。下に掲載のように、横山松三郎は明治5年壬申検査に同行している。その時の撮影であろう。
中央上部に塔婆が写る。 塔婆は三重に写るが、下重が写っていなく、五重塔であろう。
祇園の丸山公園付近の塔婆は八坂(法観寺)塔婆が存在するだけで、従って本写真に写る塔婆は八坂塔(五重塔)と推定する。
本写真には「祇園近く丸山公園の雪景色。西より見る。」との説明がある。
この塔婆が八坂塔であるとすれば、背景が山であり、確かに、八坂塔を西より見た構図であろう。ただし、圓山公園から山を背景にした八坂塔が撮影できるのかどうかは定かではないが、まず出来ないようにも思われる。
さらに、これもはっきりとは分からないが、塔が八坂塔だとすると、塔の写っている向きからの北西方向から撮影したものと思われ、だとすれば、圓山公園からの撮影とは思われない。むしろ祇園社の南方門前の付近からの撮影であろうとも思われる。
当然、現在の東山通りも拡幅前であり、撮影地の姿も現在とは全く違っていたであろうから、容易に撮影場所は特定ができない。
更に、もう一枚の写真がある
横山松三郎撮影八坂塔
「産寧坂を下ってきたところを東側から見ている・・・周囲の状況は全く変わっている。」との説明がある。
横山松三郎 天保9年(1838)〜明治17年(1884)、択捉島で生誕し、47歳で逝去。 幕末・明治初頭には写真術を取得していた。
明治5年(1872)5月から10月まで、町田久成、蜷川式胤らが伊勢・名古屋・奈良・京都の古社寺・華族・正倉院の宝物を調査した『壬申検査』に同行する。
2006/11/23追加:
「京都の古建築」、京都市観光局、昭和13年 より
八坂法観寺五重塔
2009/07/25追加:
「地球一周旅行.日本/Voyage autour du globe. Japon」エグモント/Eggermont, I.
八坂法観寺五重塔101
「中国と日本の話・・・・/Story of China and Japan, embracing ・・・」クラーク/Clark, James Hyde
八坂法観寺五重塔102
明治末期〜大正初頭の八坂塔
八坂法観寺五重塔103:撮影者不詳
2020/02/24追加: 日下部金兵衛撮影:オランダの歴史写真の保存を行っている“Spaarnestad
Photo”所蔵写真:Wikipediaより転載。 Spaarnestad
PhotoはWikipediaと提携し、所蔵写真の一部がWikipediaに提供・公開されているようである。 日下部金兵衛撮影八坂塔:明治元年(1868)-明治28年(1895)間の撮影と推定されている。
※公開日は不定期であるが、公開日には初重に入り、二重目まで登ることができる。 なお、
Wikipedia(法観寺)には「古い写真を見ると、最上層に金網が張っており、拝観者が最上層まで登れたことがわかる。 」との記載がある。
攝津四天王寺五重塔(文化再興塔)と同じような処置が採られ、今も公開日には二重目まで登ることができる。
★山城法観寺現況
2016/03/20撮影:
○「八坂の塔 法観寺」リーフレット より
太子堂及び薬師堂は江戸初期、門前の住民の寄進により再建。
太子堂には聖徳太子3歳像及び十六歳像を安置する。薬師堂には薬師如来立像、日光・月光菩薩、十二神将並びに夢見地蔵立像を安置する。
太子堂及び薬師堂
法観寺太子堂1 法観寺太子堂2 法観寺太子堂3 太子堂聖徳太子像
法観寺薬師堂1 法観寺薬師堂2 法観寺薬師堂3 薬師堂薬師如来他
法観寺庫裡 法観寺稲荷明神
木曾義仲塚:木曾義仲は寿永3年(1184)宇治川の戦に敗れ、敗走中、近江國粟津ヶ原で討死する。その後、病で京都に残った一人の家来が義仲の首をここに埋葬したと伝える。なお、写真向かって右の石塔は八坂墓と云い、光孝天皇の外祖母、藤原数子の墓と伝えられる。
木曾義仲塚:写真中央の五重石塔が義仲塚である。
2006年以前作成:2022/07/03更新:ホームページ、日本の塔婆
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