篋塔の概念について
近年、おそらく平成に入ってから、地域的には関東地域で、身舎(塔身)平面が方形の一重(二階)塔が多く建立されている
。
建築様式上「宝塔」とは一般的には以下のように定義されると思われる。
即ち、平面円形の塔身(身舎)に方形屋根を架けた一重二階の仏塔を云う。
その起源として以下のような説がある。
・平安期に、おそらく金剛界曼荼羅に描かれた大日如来の三昧耶形(さまやぎょう)を基にして真言宗において造作されたものと推定される。
・あるいは妙法蓮華経に説かれる釈迦・多宝ニ仏並座の塔形としても多く用いられたようであるから、天台系の仏塔として造作されたものとも推定される。
しかし、いずれにせよ、宝塔とは、身舎平面が円形であり、その上層に方形屋根を載せ、相輪を建てる形式の仏塔をいうものと解される。
以上の意味では、宝塔とは、発生期の「塔」の形により近いものとも云える。
建築様式上での宝塔が以上のようなものであれば、近年関東で多く造立されている身舎平面が方形で、その上に方形屋根を載せ、相輪を架した様式は、厳密には宝塔ではなくて、宝塔とは一線を画す「塔」と考えるべきであろう。
なお関東地域での近年建立塔の名称は「寂光堂」「納骨堂」などというのが多い傾向がある。この意味では、これ等の塔の建立目的は「永代供養墓」の意味合いが強いものと思われる。
※「寂光」とは「寂光浄土」の意で、だとすれば、「寂光堂」とは、おそらく「永代供養墓・永代供養塔」の意で用いられているものと推測される。
では、身舎平面が円形ではなく、方形の一重塔とは、どのような呼称をつけるべきなのか。
それはその身舎の形状から「篋塔」と呼ぶのが相応しいのではないか。
それ故、身舎平面が方形の一重塔については、本サイトでは「篋塔」の分類項目を立て、ここに分類し、「篋塔」と呼称する。
なお
一重塔には、塔身平面が八角などの多角形の塔も見られる。
これは「宝塔」、「篋塔」のどちらなのであろうか。
基本的には篋塔と思われるが、正多角形(正十二角形・正八角形・正六角形)の場合は、平面円形の簡略化として見做すことも可能で、建立目的なども合せ、この場合は「宝塔」と分類するのが適当であろう。
2007/07/13追加:
池上本門寺奉安塔について
略歴:昭和23年仮祖師堂背後に建立、昭和37年現在の霊宝殿の地に移建、平成8年解体。(RC製)
池上本門寺戦後の伽藍復興の過程で企画・建立された奉安塔(宗祖御真骨などの奉安)が「篋塔」であったと思われる。
但し、残念ながら、平成8年新「霊宝殿」建立のため解体され、現在は姿を消す。
◇宝塔の遺構:
木造宝塔については、実際の造作例は極端に少なかったと思われる。
現存塔の最古の例は、現在は鞘堂内にあるが、天文25年(1556)建立の武蔵慈光寺宝塔(重文)とされる。
そのほかの屋外木造宝塔の古塔としては、
18世紀と推定される三河真福寺宝塔、
宝暦6年(1756)建立とされる武蔵安楽寺宝塔(ただし、一重の二階部分が平面方形であり、宝塔とするには多少異形である)、
文政11年(1828)の池上本門寺宝塔しか現存しない。
しかし工芸品:屋内塔婆としては多く造作されたものと推測される。
弘安4年(1282)頃の造作と推定される尾張性海寺宝塔などを現存最古の例として、多くの塔婆が残されといると思われる。
「石造」の宝塔についても数え切れない数の宝塔が残る。
例えば、今手元に「岡山の多層塔」(岡山文庫163・平成5年)があるが、石造宝塔の項で拾うと以下の違例がある。
(岡山県を取上げたのは、この県が石造宝塔の著名な違例を持つということではなくて、たまたま手元に図書があるということだけである。)
・澤津丸宝塔(平安末−鎌倉初頭と推定)
・総願寺跡宝塔(建仁3年1203銘)
・五流尊流院宝塔(重文・後鳥羽上皇御影塔・仁治元年1240建立と伝承・鎌倉中期と推定)
・吉井宝塔(鎌倉中期と推定・後鳥羽上皇供養塔と云う)
・清水寺宝塔(鎌倉後期−南北朝期と推定・平清盛供養塔と云う)
・大村寺宝塔(鎌倉後期−南北朝期と推定)
・鼓神社宝塔(重文・貞和2年1346銘)・・・大型(総高4.2m)塔であり、写真で見る限り今なお秀麗な造形美を残す。
・祇園寺宝塔(延文2年1357銘)
2006年以前作成:2007/07/13更新:ホームページ、日本の塔婆
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