京都六条本圀寺・本文
六条本圀寺塔頭
★京都六条本圀寺
貞和元年(1345)日静上人、堀川小路西-六条坊門小路南-大宮大路東-七条大路北の12町の寺地に鎌倉より法華堂(本国寺
)を移転する。以降京都での布教拠点となり、京都での一大門流となる。この門流を六条門流と称する。
→鎌倉の法華堂については「比企谷妙本寺及び鎌倉日蓮諸寺」の該当項を参照
天文5年(1536)天文法華の法難で、堺成就寺に逃れる。同11年帰洛。
昭和46年山科の地に移転(京都山科本圀寺)。
※六条本圀寺は、鎌倉から京都六条の地に移転した時から数えて、一時堺に退避した時は別にして、630数余年京都六条の地にあったが、ついに山科に移転する。
★京都六条本圀寺の絵図・写真
2014/08/15追加:
●本圀寺「寺地画圖」原本:明治4年
寺地画図:明治3年5月、上地令の準備として、京都府が作成を命じたもので、この命は寺社地を管理すべきものという太政官達を受けたものである。
上記のように本図は明治3年頃の提出命令によるものであり、従って天明の大火後、順次再建・復興した明治初頭の本圀寺の様子を描くものである。
この明治4年の本図の諸堂配置が基本的に昭和46年の移転まで引き継がれたものといえる。
本堂と五重塔は天明の焼失後再興されず、本堂跡・五重塔跡として描かれる。
●六条本圀寺諸堂配置
|
2005/04/0追加:
「日本社寺大観/寺院篇」京都日出新聞社編、昭和8年(1933)より
■昭和初頭の本圀寺:出版年より昭和初頭の景観と思われる。
:写真は本堂・立像堂と思われる?。
■1960年代の本圀寺:写真は祖師堂か?
■1960-71年の本圀寺(2001/12/05)
:写真正面は仁王門、前列左から経蔵、鐘楼、鬼子母神堂、後方大屋根は左から本堂、立像堂、祖師堂。
2007/06/13追加:「重要文化財本圀寺経蔵(輪蔵)移築工事報告書」建築研究協会編集、本圀寺、1979 より
■本圀寺境内略図:左図拡大図
2007/07/01追加:「法華諸本山の成立と法華一揆」
■六条本圀寺空撮:撮影年代不詳、写真左から庫裏・生御影堂・位牌堂、本堂、立像堂、清正公廟・拝殿などの景観
2007/08/08追加:「京都府写真帖」京都府、明41年 より
◇六条本圀寺祖師堂
2014/07/25追加:
「京都名勝鏡」山本勘次郎、大正5年 より
日蓮宗本圀寺;立像堂、本堂
|
●「本圀寺史料」(正嫡付法 中巻)伊藤瑞叡編、冒柏寺華林山文庫求法院学室、平成3年 より
旧六条本圀寺諸堂配置図
|
明治16年大本山本圀寺全図
■明治16年大本山本圀寺全図:上図拡大図
明治16年と表示がある。
やや画像は粗いが、本堂は仮本堂とある。
西及び北側の塔頭も網羅されている絵図であろう。 |
↑■旧六条本圀寺諸堂配置図:上図左拡大図
吉田晃英師が図示したものを瑞叡師が照合し詳細を書き入れたものと云う。(※赤字が瑞叡師書き入れ文字)
2010/12/03追加:
●「都名処社寺境内之細図」石田有年、明治30年3月 より
●「新撰京都名所圖會 4巻」:本圀寺境内図
|
「新撰京都名所圖會 4巻」竹村俊則、白川書院、昭和37年より
■本圀寺境内絵図:左図拡大図
六条本圀寺最後の俯瞰図と云われ、今となれば、六条本圀寺の最後の姿を知ることのできる貴重な絵図となる。 |
★京都六条本圀寺写真集
「本圀寺史料」(正嫡付法 中巻)伊藤瑞叡編、冒柏寺華林山文庫求法院学室、平成3年 より
※2009/06/09追加:「明治42年;大本山本圀寺略縁記」の写真追加
2010/12/03追加:
「重要文化財本圀寺経蔵(輪蔵)移築工事報告書」建築研究協会、本圀寺、1979 より
昭和16年修理前経蔵正面 昭和16年修理前経蔵側面
昭和51年移転前経蔵正面 昭和51年移転前経蔵側面
2009/06/09追加:
◆清正堂
○天明8年(1788)の「天明の大火」以前の様子
六条本圀寺に加藤清正公廟・同夫人墓及び息女墓があった。(清正法名は浄池院日乗)
「天明の大火」前には安永9年(1780))「都名所圖會」本圀寺伽藍図あるいは
天明の大火以前:本圀寺古図に見られるように
、廟(墓)が南から清正公・同夫人・同息女廟と並んであったと思われる。
そしてこの廟(墓)は、絵図で判断すれば、何れも石造で、廟所(覆屋・堂宇)は無かったものと思われる。
○『加藤清正「妻子」の研究』水野勝之・福田正秀、星雲社、2007 では
加藤清正夫人(正室)とは清浄院(水野氏・水野忠重息女・水野勝成妹・徳川家康養女)であり、清正息女とはあま姫(瑶林院・清浄院実子・徳川頼宣室)であることの詳細な論考がある。
※水野忠重は家康生母於大の方(伝通院)の弟
※『加藤清正「妻子」の研究』は拙「寄贈図書他」を参照
※2009/06/11追加:
「『加藤清正の妻子』(第一回)清正の息女 名前の謎」水野勝之・福田正秀
(「熊本城 復刊第七十一号(6)」平成20年9月22日 所収) より
上記著作の上梓後、同時代の確かな裏付け史料が発掘された。その史料により、これまであま姫は
家康十男紀州徳川頼宣室・瑤林院とされてきたが、実はこれまで古屋姫とされてきた阿部正澄室・本淨院があま姫であった
ことが判明した。即ち、あま姫は長女本淨院の名で、瑤林院の名は八十姫であると判明する。
<「熊本城」は(財)熊本城顕彰会の機関紙であり、本号は福田氏から送信・入手する。>
2011/01/21追加:
○『続・加藤清正「妻子」の研究』水野勝之・福田正秀、ブイツーソリューション、2012 より
「本圀寺年譜」では、寛文元年(1661)紀州徳川頼宣室瑤林院、父母(浄池院<加藤清正>・清浄院)追善のため、本圀寺に石碑及び自らの逆修碑を建てる。
これが、上記の絵図や記録に残る清正廟所・清浄院廟・瑤林院廟である。
------------------------------------------ 2024/05/20追加:
※近世初頭の大檀越であった加藤清正及及びその妻子についての最新の研究は次の3著(受贈図書中)に詳しい。
○『加藤清正「妻子」の研究』水野勝之・福田正秀、ブイツーソリューション、2007
○『続・加藤清正「妻子」の研究』水野勝之・福田正秀、ブイツーソリューション、2012 ○「加藤清正と忠廣」福田正秀、ブイツーソリューション、2019
------------------------------------------
○「本圀寺清正堂の普請に関する研究-『田中家文書』を基本資料として-」千木良礼子 では
(「学術講演梗概集. F-2, 建築歴史・意匠」2004 所収)
「京都坊目誌」には、清正堂は天明8年(1788)焼失し、安政6年(1859)再建と記す。
しかし天明の大火以前には上記絵図で見る限り、石造の廟(墓)が3基あったものと推定され、しかも都名所圖會ではその前に掘があり、堀には橋が架けられていた様子が窺える。(思うに「天明の大火で焼失」とはいわば「枕言葉」のように使われていたとも思われる。)
※千木良論文では、廟所(建物)は天明の大火で焼失したとの前提に立つ。
天明の大火後の様子は天保11年(1840)の田中家文書(「本圀寺浄池院殿廟所等普請願書案」「浄池院殿清正公廟所・拝所・廻廊普請書案」「大光山御廟所別當・蛇目講、浄池院殿大神儀 御廟所并御拝所廻廊再建ニ付御寄附帳」などの文書(未見)の文言から推察するに、天保11年からほどなく、清正廟所・拝所及び廻廊などが普請されたものと推定される。
これは天明の大火前には廟所(廟覆屋)、拝所、廻廊などは無く、天保11年に至って、廟に覆屋、拝所、廻廊などが付設されたものと解するべきであろう。そして凡その様子は昭和37年「「新撰京都名所圖會 4巻」に見る六条本圀寺の通りであろう。
安政3年(1556)の普請願には「清正堂普請絵図」が付く。
|
図左が北
図下が西浄池院廟は2間半四方の廟所及2間半×1間半の拝所が建立。
清浄院・瑶林院廟には7間×2間半の廟所が建立される。
浄池院東の桁行四間半の堂宇は「残りの古材を以て東の方へ須屋根取補理、絵馬舎」とある絵馬舎と推定される。
西側と南西には池があり、石橋が架かる。東及び北東・南東は土塀に囲まれる。 |
浄池院廟所は小宮造(2間半四方)で、拝所は1間半×2間半)であったが、大破のため取払い、廟所建物は宝形造に模様替え、拝所は・・古材取替え、残りの古材を以て東の方へ須屋根取補理、絵馬舎に用いる。
清浄院殿・瑶林院殿廟所(桁行7間梁行2間)は屋根入母屋唐破風狐格子付建物であったが、大破に付き修理する・・・とある。
以上によれば、天保11年頃の普請では清正廟には小宮造の覆屋(廟所・覆屋)が建立され、その後大破し、安政3年の普請(安政6年完工)で宝形造の堂に変更された。
清浄院・瑶林院廟所にも、建築時期は不詳ながら、2基を覆う屋根入母屋唐破風造の廟堂が建立され、安政3年に修理されたこととなる。
なお清浄院・瑶林院廟堂はその後退転したものと推測される。(退転時期及び原因は史料がなく不明。)
上に掲載の明治42年「大本山本圀寺略縁記」の写真によって、廟所の様子が確認できる。
・「清正夫人と息女廟」:明治末期
の写真には清浄院・瑶林院廟所(覆屋)は写らない。
・「清正本殿とルカンヒ」:明治末期の浄池院廟所
(こちらは拝所が写る。なお南側石橋が写る。)
大本山本圀寺絵葉書「清正公廟」:
浄池院廟所及び清浄院・瑶林院廟(墓)が写る。
昭和37年「新撰京都名所圖會 4巻」等には宝形造の清正堂は描かれるが、清浄院・瑶林院廟堂の堂宇はなく、2基の石造廟のみが描かれる。
◎昭和37年「新撰京都名所圖會 4巻」本圀寺境内絵図の部分図
|
清正堂(宝形造)のみ存在し
清正堂向かって左手(北)に
廟所(覆屋)はなく、石造のままの清浄院・瑶林院廟が描かれる。 |
◎「本圀寺史料」旧六条本圀寺諸堂配置図の部分図
|
上図と同じく、清正堂(宝形造)のみ存在し、清浄院・瑶林院廟は石造のままで既に廟所(覆屋)はない。
※清浄院・瑶林院廟は清正廟の北に2基並ぶ。
また既に拝殿が建立され、安政3年には清正廟東にあった絵馬舎は既に無く、代わりに?絵馬堂が拝殿西にある。 |
2013/01/30追加:
○「京都坊目誌」大正5年では、大正期の様子を以下のように記載する。
(その記載は、上に掲載の2枚の絵図の描写とほぼ同一のものであろう。)
・加藤清正の塔
本圀寺本堂に南にあり。石室中に蔵む。墓石高さ4尺3寸5分。法号を浄池院日乗と云う。明暦2年(1656)9月17日卒。
其北に相並び夫人の塔あり。法号清浄院妙日壽と云う。明暦2年(1656)9月17日卒。
其北に息女の塔あり。徳川家宣の室。法号瑶林院浄秀日芳と云う。
・・・・・
此塔(清正の塔)は瑶林夫人の建つる所なり。
又忠日廣の塔も同寺にあり。忠廣は清正の長子なり。父の封を襲て肥後の守たり。嘗て非謀を企つ。為に出羽の庄内に讁せらる。承応2年(1653)6月配所に卒す。年57。浄徳院西條日源と法号す。塔は後人の建つる所歟。
忠廣の夫人徳川秀忠の養女にして、光正を生む。光正非あり。寛永9年(1632)飛騨の高山に流さる。翌年配所に卒ず。清正の子孫遂に址を絶つ惜しむべし。
其他同族典厩父子(加藤右馬頭正方父子)の墓、了覚院址にあり。肥後国阿蘇の城代として武勇の人なり。
※加藤正方は法号を「了覚 院殿浄信居士」と云う。
○山科本圀寺の清正公堂及び石造清浄院・瑤林院廟
山科本圀寺には拙大光山本圀寺のページ中の当該項目で示すように清正公堂及び石造清浄院・瑤林院廟が存在する。
清正公堂は六条の地の堂を移建したのであろうか。また2基あった石造清浄院・瑤林院廟は1基に集約したのであろうか。
それは確証はないが、おそらく堂は移建、石造廟は1基を移建したものと推定される。、
2011/02/27追加:
参考:池上本門寺の瑤林院宝塔
池上本門寺の紀伊徳川家墓所に瑤林院宝塔<寛文6年(1666)銘>が残る。
池上本門寺瑤林院宝塔1 池上本門寺瑤林院宝塔2(2011/02/19撮影)
★六条本圀寺倒壊惨茫の様
昭和44年5月7日、第六十三世伊藤日瑞上人代務住職に特選され就任する。この時の本圀寺惨茫の写真と云う。
本尊は大阪高槻に奉遷、仏具は散逸、本堂・祖師堂・釈迦堂・仁王門・庫裏・客殿・生御影堂・新書院を始めとする堂宇は引き倒され、解体されたものは売却されていった。
この頃僅かに清正公堂・旧書院・執事寮・経蔵(重文)のみ残存していた。(清正公堂・旧書院は山科に移建と思われる。)
経蔵のみ重文の故と推測するが、唯一棟、長い間、旧地にあった。
昭和44年ついに六条本圀寺は潰えた。
以降、かなり長い間、経蔵(重文)のみ現地に残っていたが、六条本圀寺本寺の姿は当地から消え去る。
京都六条本圀寺・本文 六条本圀寺塔頭
2007/06/13作成:2024/05/20更新:ホームページ、日本の塔婆、日蓮上人の正系
|