鬼平舞台探訪記(2)

護国寺
神齢山・護国寺は、音羽町(現・文京区音羽二丁目)の北にある。この寺は、新義真言宗・豊山派の大本山で、五代将軍綱吉の生母・桂昌院のねがいによって建立されたという。

ゆえに、幕府(こうぎ)より寺領千二百石を附せられ、となりの護持院とならび、境内は宏大森厳をきわめ、幾多の堂宇をめぐるだけでも小半日はかかるそうな。

護国寺仁王門

当時、このあたりは江戸市中を外れた小石川村のおもかげが濃厚であって門前につらなる茶店や茶屋もわらぶき屋根が多く・・・・・・」と、鬼平犯科帳第3巻「むかしの男」には記されています。

護国寺不老門

神齢山悉地院護国寺は天和元年(1681)に創建され、本尊は如意輪観世音菩薩。入り口に仁王門、続いて不老門、本堂(観音堂)があります。本堂は元禄10(1697)の造営で、元禄期の建築様式を伝える重要文化財に指定されており、風格が漂う建築物です。しかし私には、階段下の両側に水屋を配した不老門が最も印象に残りました。

護国寺本堂(観音堂)

現在の護国寺近辺はビルに囲まれており、門前のわらぶき屋根の茶屋を想像させるようなものは微塵も見受けられません

目黒不動
仁王門
「目黒不動は約千年もむかしに、慈覚大師が〔不動明王〕の本尊を安置し、開山となったのだそうだが、「・・・・・・はるかに都下を離るるといえども、参詣の人びと常に絶えず・・・・・・門前五、六町が間左右貨食店
(あきないのみせ)、軒をつらねて人びとをいこわしむ」とものの本に記されている。」(鬼平犯科帳第5巻「おしゃべり源八」)

 「江戸開府のころは、草深い田舎の、小さな堂宇にすぎなかった目黒不動も、三代将軍家光の尊崇をうけて再興され、いまは三十余の堂塔をもつ大霊場となり、江戸市民の崇敬をうけている。
門前五、六町の間は貨商店や料理屋が軒をつらねており、名物は筍飯に黒飴・粟餅だ。」(同第18巻「俄か雨」)

目黒不動本堂

目黒不動堂の正式名は泰叡山龍泉寺といい、天台宗の寺院で、谷中天王寺、湯島天神と並び、今の年末ジャンボ宝くじにあたる「富くじ」を幕府から公認された寺院でした。目黒不動堂への道順は少し分かりにくく、大回りをしましたが、そのため記述にある門前五、六町の間賑わいをみせていたという商店街を見ることができました。勿論かつての隆盛はなく、ごく普通の町並みで、名物とされた目黒飴(平蔵妻女久栄の好物は江戸名所図会にも描かれている桐屋のもの)も粟餅も見かけることはなかったです。 

目黒不動参道石段

当時の目黒一帯は百姓地で、鷹狩りが盛んに行われた所とのことで、落語「目黒の秋刀魚」も狩りをもとに生まれたとの説もあります。参詣した時期あるいは境内の広さにもよるのかも知れませんが、深川不動に比べると閑散としていると感じました。深川に比べると目黒はやはり田舎の風情です。

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