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4.雑談と本音 (著書・雑稿・他)

4−1.著書


    吉川 敦: 数理点景 想像力・帰納力・勘とセンス,そして,冒険  
               九州大学出版会 2006  ISBN4-87378-904-4 C3041

                                  

    ここでは,これのみを挙げる.もともとは,高校生向けの大学公開の折の資料であったが・・・.
    河田直樹氏の書評が,「理系への数学」2006年8月号に収められている.
     
    なお,他にも若干教科書水準の著書はある.それらは内容的には十二分に自負するものであり,
    そう簡単には陳腐化しないと信じてはいるが,本屋の店頭では普及はしていない.


4−2.雑稿 


 a.  九州大学の広報誌などに刊行されたもの


  吉川敦: 最近の読書から 九大広報 22(2002)p.22 

    
    William M. Ivins, Jr: Art & Geometry - A study of space intuitions (Dover, 1964) をめぐって
    論じたもの.ただし,広報誌本体の記事とウェブ上のものとは若干違います(後者の変換ミス(!)の例:近世→忠誠)
    なお,上記Ivins の著書についてはブログでだらだらと論じている.
    

  石橋浩介・大山野拓・吉川敦: 街区・丁目・グラフ  radix 39 (2004) pp.24-27

   
    六本松の小人数セミナーの成果である.
    福岡市,北九州市の町名に付された丁目の番号付けに特別な規則性のないことの検証の試みである.
    なお,面倒だが,radix の39号全部のダウンロードも不可能ではない.検索ソフトを利用してほしい.    

    関連する話題は,最近の藤田弘夫教授の著書路上の国柄(文芸春秋・2006)にある(第7章).


 b.  その他  

  

  数学戯評 (「理系への数学」巻頭言.全担当分)


    1.定理と現実化―アナログの価値(2006年7月号), 
    2.海図は不断に更新されているか(2006年10月号)
    3.アーカイブの重要性(2007年1月号)
    
4.NEET Anniversary(ニート一周年)(2007年4月号)

     5.数学図書と分類(2007年7月号)
     6.数学者の社会的責任(2007年10月号)
     7.「生涯教育」とは何だろう(2008年1月号)
     8.『未来の数学辞典』の開発を(2008年4月号)

      縁あって,標記の一連の文章を書く機会を得た.出版される前の原稿が示されている.
      編集部の苦労が偲ばれよう.なお,8が最終記事である.       

      3で言及した全国紙上数学談話会(昭和9年から昭和24年)は,pdf化され,今や自由に閲覧・ダウンロード
     できるようになった(少なくとも大学からは). 大阪大学の関係者に深甚の感謝を捧げたい.
 

      なお,ではいろいろと論じた後で,付け足りとして,末尾に「行政の数理化」という文言が入れてある.
     いわゆる「IT化」のような表面的なことだけを指しているわけではない.

      補足していおきたい: 
     

    まず,「行政」とは何か.役所の人たちや機器類を指すわけではない.抽象的だが,わたくしの試みを述べよう.
   そもそも「行政」の対象とは何か.一般には,ある「時刻・位置」における(人間や人間集団の形成する)
   「社会」の「状態」である.この「社会」を「次」の「時刻」,「位置」において占める「べき」「状態」に
   「実際に」「誘導する」ことが「行政」行為である(かぎ括弧「」だらけなのは,読者の抵抗を期待するためである).
   「べき」とか「誘導する」という語は感情や意志を反映しており,「行政」という概念の構成因子としてはもっとも
   重要なものである.しかし,数理化の議論としては取りあえず「行政過程」という暗箱にしておいて,まず,
   ある「状態」から「次」の「状態」への遷移そのものについて考えるのが適当だろう.
 

    ところで,「状態」というのは,本来は,対象の「社会」のことでなければならないのだが,現実には,個々の
   「行政機構」によって「認識」された「状態の描像」でしかない.「社会」そのものは複雑錯綜しており,
   「行政機構」の「認識」は意志や感情の介入なしでは不可能である.また,「社会」の時刻や位置も複雑錯綜して
   おり,「行政機構」固有の比較的単純な時刻や位置での記述には限界がある.「行政機構」は,一旦得た
   「状態の描像」から「行政過程」によって「次の状態の描像候補」を導き,さらに,「行政介入」,つまり,
   「次の状態の描像候補」に基づいて「社会」の解釈や操作を行ない,「社会」の状態に影響を及ぼす.この結果は
   「次の次」にも反映されて行く.「行政過程」においては,「次の状態の描像候補」と該当する時刻,位置において
   「認識」される「状態の描像」との乖離が可能な限り小さいことは設計で想定されているはずではあるが,
   しかし,必然的に「認識」の「不確定性」が何層にも含まれてしまうことになる.
    

    このような定式化に基づいての「行政」理解については,まだまだ詳細を展開しなければならないが,その挙句に
   精緻な体系化ができあがったところで,なお、現実の行政組織の行動とは基本的に違うことは否めまい.
   わたくしは現実の行政組織を抜本的に再構成せよという過激な主張をしているわけではない.上述のように,
   行政の根底にある感情や意志がもっとも重要であり,それは本質的に政治体制や立法の問題である.しかし,
   行政に関わる技術的な側面の精度の高さと,このような政治的意思の合理性は密着している.かつては行政処理の対象
   や要求される速度は十分に人力の及ぶところであった.今日の社会や経済は,計算機前提の大量データの高速処理に
   基づいており,行政も当然その水準での情報処理で対応しなければならない.行政の技術的詳細については,かくて,
   不断に更新が図られているであろうことは疑いもなく,関係者の努力に多大の敬意を表するものである.しかし,
   このような改訂作業は自然言語体系に基づく記述原則のみの根本思想のもとで十分に対処できるものなのか,
   
というのがわたくしの疑念である.技術というよりも哲学の質が問題なのである.

    例えば,行政行為には多様複雑な時間概念が並列し,必然的に各種の不確定性を含んでいる.また,行政調査には、
   方法的、地域的・時間的な誤差もある.こういった不確定性を評価し,行動規範を設計するためには,「行政」の
   数理的な精密な理解・記述を経由しなければ不可能だろう.従って,行政の技術的な改訂作業の過程で,
   徐々ではあっても,数理化の浸透を強めていかなければならないことは明らかだろう.


    それなら早く始められるように(数理系の人々もこめて)環境を整えるべきであろうというのである.


      
についても,妄想とでもいうべき背景がある.そもそも説明や定式化もうまく行かないのだが,例えば,ある「時刻」での
     「世界」
についての知見というものを想定してみよう.ただし,そのようなものは「誰も」認識することはできない.せいぜい,
     「それぞれ」がその時点より多少前の「時刻」における,「世界」のごく一部についての知識を直接間接に得ることが
     できているだけである.そして,そういう知見に基づいて,それぞれは行動するが,行動の前提になっている知見は
     行動時点で本来の世界の状態に対応しているとはいうことはできない.また,どのくらいの乖離があるかについても
     評価しがたい.望むべきことは,行動に当たっての「それぞれ」の知見が,できるかぎり「最新」のものであることであろう.
     新しくしたつもりが誤りが付け加わることもあるが,全体としては,改善されているものということである.

     非常に大雑把に言えば,「それぞれ」のある時点における「知見」というものは,決して統一体ではなく,
      いくつかの「部分知見」からなっており,「行動」に当たっての判断の基礎は,これら「部分知見」から抽出した
     情報をメタ的に組み合わせて得られる,言わば,「行動用の予備知見」である.

     「部分知見」に相当する知識は,「それぞれ」の事情とは独立に,不断の研究や探求,あるいは,経験等の蓄積で,
     「更新」がされている.こうして得られる「最新」の知識が「それぞれ」の知見に加わるかどうかは,「それぞれ」に
     かかっている.この辺りに「生涯教育」の意義があると考えているのだが,これでは漠然と思っていることに,まだ,
     十分に対応していない.コンピュータソフトの更新や,それに伴うトラブルなどがヒントにはなっているのだが,
     コンピュータを強調しすぎると,話があらぬ方向に行ってしまいかねない. の補足記事とも情報の不断の,しかし,
     まだらな更新という意味で無関係ではないのだが.

     「生涯教育」及び「行政の数理化」に関する身近な事例は,運転免許の更新である.かなり形骸化しているが,
     更新にあたって講習が前提とされるのは,前回の免許証交付以来の運転行為関連の主に法規上の改訂点の指摘
     とそれに伴う注意である.主に,道路交通法関係の改訂であるが,その時点での特有の話題が取り上げられることも
     ある.

      しかし,よく考えてみると,例えば,道路交通法やそれに伴うさまざまな行政細則にせよ,われわれの日常的な
     具体的な交通生活を極端に抽象化して得られる交通モデルに基づいている.道路は法律的には限られた種類しかなく,
     およそ道路が備えるであろう機能や性格,あるいは,道路網としては意識されていない.道路の上を走行する車両に
     しても,主に,その大きさや重量,あるいは,用途に応じて分類された数種のものが認知されているだけで,それらの
     機能や性能の詳細は抽象されてしまっている.人間もそうである.車内にいる,つまり,運転者,同乗者であるか,
     車外にいるかだけが問題になる.その他には,物品がある.

     これらの抽象化された事物の作り上げる仮想的な世界モデルを現実の世界に投影させることができるという前提で,
     この仮想的な世界モデルを記述する体系として,道路交通法やその実施細則が作られているわけである.ただし,
     このようなモデルが,例えば,道路交通法の場合でも,十分なシミュレーションなどに基づいた,信頼度の高い展開
     を経た上で,法令化が行なわれているようではない.少なくとも,そういう習慣は従来なかったのではないだろうか.
     いずれにせよ,このような世界モデルは飽くまでもモデルであって,現実の世界との乖離は避けがたく,観察に基づいて,
     不断に修正され,適切なモデルとしての生命を保つことが望ましい.そして,実際に,こういう作業は続けられている
     わけではあるが,抽象的なモデルを一旦は,その抽象化原理だけに基づいて,展開して見せるという作業をしない
     限り,いつまでも表面的な手直しに終始し,根本のモデル化の原理そのものの修正には辿りつかないと思われる.
     この辺に数理的な取り扱いが,このような行政的な位相でも必要だろうと考える理由がある.

      道路交通の場合に戻れば,普通の人間は,車の内外いずれにいても,モデルの改修やそれに伴う法規の改訂について
     常に追跡しているわけではない.したがって,そういう改修・改訂などの情報が,免許更新の際の講習の形で提供されて
     いるのであると考えられよう.これは,モデル化そのものを論ずるという水準の話ではない.

      このように書くと,拙見では,見当が付くことであろうと思うが,法律類が記述のもととして取り上げる,現実世界の
     抽象的モデルがどの程度正確かつ精密に構成できるか,また,そのモデルに基づく記述と現実世界との乖離が可能な
     限り小さいと期待されるような適切な記述言語や記述様式が選ばれ得るかということが,極めて大切なのである.



      については,実は,「数学解析の望ましい姿を探って」(九大出版会.2004)所収の拙文にある程度の背景は
     書いてある(最終講義参照).

      

      

 その他のその他

     9月にノボシビリスクソボレフ数学研究所で開かれたワークショップに参加した.ソボレフ数学研究所の,まあ,
    訪問記のようなものを書いてみた(pdf).貼り付けた写真は,圧縮・縮尺を繰り返しているうちにモノクロの不鮮明なもの
    になってしまったが,もとの写真の出来が悪かったのもあるかも知れない.


4−3. 数学教育・他 

 

 a.  ICMI Study Conference in Singapore 1998 

     シンガポールで開かれた数学教育に関する標記の会合で,九大数理の成立前後の経過を述べた文章(pdf)
    
がある.英文であるが,わざわざ翻訳するのも面倒なので,このまま示す.

     この集会のテーマは,後期中等教育と高等教育,特に,両者の接続を数学教育の観点から論ずることであった.
     事前にいくつかの問題提起を含む討議資料が学会機関紙に発表され,その趣旨に沿った発表が集められた.
     また,数学教育系の国際誌での公表が原則であったが,「結局のところ内容が科学的ではない」という第一査読者
     の意見と,「要するに気に食わない」という第二査読者(日本人?)の意見により,却下された.

     この集会は藤田宏先生(東京大学名誉教授)のお勧めもあって,出席したのだが,こんなこともあって,
     数学教育の国際集会への意欲はとうとう高まらなかった.

     なお,講演時に,出席者の女性から,九大数理における女性の機会均等性について質問が出た.しかし,
     講演者(筆者)は,その頃の日本の大学改革の中で,数学系の教室を維持することにもともとの関心が
     集中していて,この種の質問を予想できず,質問の意味をとっさには捉えられず,
     長岡亮介氏(当時・放送大学)に助けてもらったという記憶がある.

     あれから,また,10年近く経ち,諸般の情勢は変わった.古いので,リンク切れも多いが,ご参考までに.   


  b. 入学試験学
 
  

     これは奇妙な標題であるが,主に,数学教育の会(飯高茂氏代表)例会で,ある時期から述べ続けてきた.

     入学試験はわが国の社会のいろいろな問題に深く関わるとして喧伝されることが多い.
     しかし,意外なことに,体系的かつ冷静に扱われてきていると言うことは難しいようでもある.
     客観データの公開や処理が簡単ではないこともあろうが,根本は事実認識を担保する哲学の質の問題であろう.

     入試関連の議論の多くは,神話の域にあり,したがって,それらに基づいての提案や施策は意味を持ち得ない.
     そもそも試験による評価,順位の決定とはどういうことか,その意味や限界を知らなければなるまい.

     いずれにせよ,入試に関する議論は相対化すべきであると思って,入学試験学を提案した(平成15年1月).
     若干の反応があり,次の機会にその後を報告した.関連するものとして,九大数理の「FD」における報告もある.

     また,実際の入試採点の報告資料分析(pdf)をこの思想圏内で紹介した.上で「神話」と言ったことの傍証ではある.

     以上の資料で言及できなかった,入学試験学としての理論的な議論を示唆する補足文献とその解説の紹介も行った.

     もとより,実践が鍵であり,重要な点であるが,筆者にあるのは言い訳だけである.
     しかし,最近,森田康夫氏(東北大学)らによって始められた活動があり,期待している.

     付記.数学教育の会2008年冬の集会が近い(平成20年1月初旬.プログラムは上記URLからたどれる).
     プログラム中,佐賀大学理工学部の皆本晃弥準教授の報告はここでの話題に関係があろう.
     また,荻上紘一中央教育審議会委員の講演も予定されている.
     なお,皆本氏の講演は以前聞いたことがあり,大変感服した.氏は,博士の学位を九大・数理で得ているが,
     際立った実行力はとても数学科では身に付けられそうもないもので,案の定,数学科出身ではなかった.
     ここでの議論の筋ではないが,数学科のカリキュラムに頭だけでなく全身も動かすこと,実験やフィールドワークが
     取り入れられるとよいのだが. 
               (平成19年12月27日追記)

     上記「数学教育の会」2008年秋の集会(9月13日14日)で,新米校長6ヶ月雑感と称する報告をした.内容は,
     日本の学校年度を現行の4月からではなく,(実は,学校年度自体は多くの企業の事業年度や中央官僚の
     異動時期同様に7月からでよいので,実のところは,新学期が)8月中旬(2期制),または9月(3期制),最終学期
     終了が5月末(2期制),または6月(3期制)とすべきであるというような主張である(平成20年9月17日)
     なお,会計年度と学校年度が一致している国は,世界的には,むしろ少数派である.

     追記:(平成20年11月8日)より校長としての職責に相応しいファイルもある.学校説明会用の
     パワーポイント・ファイルであり,場合によっては,PowerPoint Viewer 2007(無料) が要るかも知れない
     (全画面表示でご覧ください.いずれも,本来は,学校の同窓会のサイト「サロン・ド・附設in福岡」にあります).

     さらなる追記:(平成21年7月4日) 少し前に,九大数理学研究院・同学府の会報用に書いた記事がある.
     校長赴任後の近況報告である.

     直近の,まあ,追記:(平成21年10月4日) 久留米大学附設中学校・高等学校の「図書館報」の記事を貼る.
     原稿の作成は,8月,標題は印刷当日(10月2日)急遽「一解析学徒の想い」と付した.高校生向けのつもりだが,
     筆者なりの近世解析学の通覧(!でもある.ご参考まで.

     追記:図書館報記事追加(平成23年8月16日) ただし,図書委員が忙しすぎたせいかテープ起こしの後の校正ができず,
     図書館報の記事のままでは話の筋が通らないところがあるので,アップするにあたり,改訂した記事である.
     尾田栄一郎氏の「ワンピース」を巡り,いろいろなことを論じているが,生徒の質問とはうまく噛み合ってはいない.
     なお,この図書館報の表紙には,わたくしの手配書があり,何と懸賞金50ベリー,チョッパー並だから良しとするか.
     


     追記(平成22年1月6日) 「数学教育の会」2010冬の集会での講演稿「校長歴2年近くでの感想」を公開.

     追記2(平成23年4月21日) 「さる中学受験情報誌の取材用資料として」を公開.

     追記3(平成23年10月15日) 小学校同期会会食時における卓話での現況報告
     
     追記3−1(平成23年12月16日) 久留米大学附設高等学校同窓会東京支部懇親会の折の校長挨拶.内容を過激と見るか,
     微温的と見るかと見るかは立場次第か.本質的には,微温的なのであるが.

     学校年度の開始時期の秋への移行について
     この件については,上述の「新米校長6ヶ月雑感」で述べ,「校長歴2年近くでの感想」で言及した.しかし,まとまった
     文章は用意してはいなかった(昔のファイルは行方不明になってしまった)ので,多少詳しく「北半球標準への移行」を述べた
     ものを貼っておく(平成22年6月)
     中等教育の繁忙感と関連して,同趣旨の稿を「数学教育の会2011年冬の会」に送った.そのファイル公開(平成23年1月10日).

     文部科学省政策創造エンジン「熟議カケアイ」について
     この件について若干思うところがあり,「「熟議カケアイ」といふ試みについて」という比較的長文のレポートを用意した.
     基本的には,このアイデアが安易な言語感覚と論理の構築によって,推測される意図はともかく,少なくとも,
     その目玉というべき「熟議カケアイ宣言」の内容は論理的に空虚になっており,
     また,そのため,危険性を秘めていることを指摘したものである.
     当節としては悪趣味の部類に入るかも知れないことを重々承知の上で,「歴史的仮名遣」で用意してある(平成22年8月)

     以前の付記の書き換え.日本学術振興会のさるサイトを覗いていたら,日本テスト学会という組織が見つかった.
     同学会のホームページに入り,趣意書を拝見したが,当然,もっと前から存在すべきであった学会であると思われる.
     
     テストは社会生活上も経済生活上も,また,その他,生産や流通,交通などさまざまな局面で必要上実施されていて,
     必ずしも教育の過程だけの問題ではない.しかし,教育の過程では,特に,人格との関わりがあり,テストについての
     公正公平な見識が要求される.もちろん,日本テスト学会が標榜する科学的なテスト理論というのは当然のことである.

     かつて入学試験学会の趣意書(上述)を書こうと思ったのは

     1) 日本の
教育学全集といわれるものや教育系大学の授業内容では
       テストについて正面から問題にしているものが
稀であるらしいこと
    
2) 教育系の研究者がレポートを書くために
        知識形成過程の児童相手に誤答が選択肢に入った検査をすることに
倫理的な反省を持っていないこと

    
驚愕したということなどもあったのである.
     さすがに日本でも,基本的には心配の必要のない方向に動き始めてはいるのであろう.

     実は,この点,アメリカ合衆国は,教育現場の訴訟対応もあるのかも知れないが,一日の長があって,テストに関する
     広範囲な話題,正当性や合法性に関する部分についても詳細に,教育系の大学授業などで論じられてきている.
     日本テスト学会は語学教育の関係者から組織されてきたもののようであり,ホームページの名簿を拝見する限り,
     同学会の趣意書で挙げてある目的中,まだまだ増強していかなければならない方面も多そうではあるが,
     国際的な視野が前提にあることは好ましいことと思う


     
     わたくしは,つい先頃まで,このような学会に加わろうという意欲も動機もなかったけれども,当ホームページ
第1ページ
     記した事情により,参加を真剣に検討し,一応,入会はしたが,活動の余裕はないに等しい.      

     なお,このようなことに関連して,以前の稿を思い起こしつつ,入試の出題ということに伴う本質的な難しさを論じてみた.
     この稿自体はやや尻切れトンボであるが,課題としては,「科学教育学会」と異なり「日本テスト学会」には馴染むのでは
     ないか,とも思ったからでもある.入学試験学会の提唱の背後にある話題でありながら,なかなか熟成もしないことで
     あったので今まで伏せていたとも言えるのだが,今回の公開は完成度が高まったからではない.
                                                    (平成19年5月.平成20年5月書き換え).


     関連記事(平成22年4月17日):日本テスト学会から謹呈という付箋入りで

         日本テスト学会編:見直そう,テストを支える基本の技術と教育 (金子書房.2010年4月)

     が送られてきた(ネットでは学習参考書扱いだが,それは大間違いである).
     ようやくガラパゴス日本でもこういう水準と内容の書物が公刊されたか,と感慨は深い.
     柳井晴夫日本テスト学会理事長による「はじめに」(序文)の一部を引用する(p.ii):

         多くの人にはあまり知られていないかも知れませんが,二十世紀はじめから今日に至るまで,とくに二十世紀
         後半からは,コンピュータ技術や情報通信技術の進歩と相まって,世界におけるテストに冠する理論と技術は
         従来では考えられないほど進歩してきました.こうした動きを背景に,わが国でも科学的基礎に裏付けられた
         テスト法を定着させ,先進技術を取り入れ,また,国状に合ったテストの研究開発を目指すべく,2003年5月に
         「日本テスト学会」(http://www.jartest.jp/)が設立され(中略)ました.

     内容の主旨を知るには,まず「おわりに」(pp.81-82)を見るのがよい.「おわりに」自体が非常に優れた記事であり,
     強くお勧めしたいが,全文の引用は憚られる(著者は,日本テスト学会副理事長の繁枡算男教授である).
     また,参考文献(pp.77-80)も周到である.

     一応,本体部分の目次を掲げる:

         第1章 見直そう,テストを支える基本の技術
         第2章 テスト作成と採点の工夫
         第3章 学力の経年変化をとらえる方法
         第4章 出題領域を広げる工夫
         第5章 テストの役割分担の仕方
         第6章 日本の学力調査と欧米のアセスメント
         第7章 未来の学力テストのあり方

    極めて原則的な注意になっているという意味で,入学試験(学)と直結することでは必ずしもないが,こういう配慮がある
    のとないのとでは大違いである.もちろん,一般の教育上も重要なことであり,上述の記事にあるように,教員養成の課程中に
    相当するものがなかったのは実際の事態というものを冷徹に見ようとしない不備の顕れとしか言いようがない(とわたくしは考える).
    本書は各章において概説に続いて「問答形式」(実は「Q&A」と言っているが,こういう符牒を使わなくても,きちんと日本語で
    明晰かつ限定的(!)に表現できることであり,本書にとっては汚点ともなる表現かと思い,敢えて,こう表した)という形式を
    取っており,具体的な事例を扱いやすい構成になっている.しかし,実際に深刻な問題は,工学的ともいうべき部分で
    あって,実際にいかに「良質な」テストを設計し,実施するのかということである.

    明らかに,完全な形のものは不可能なので,「誤差」についての合理的な考え方の提起が重要であり,入学試験の場合なら,
    誤差として不合格になってしまった者よりも,誤差として合格して入学してしまった者の挙動の管理である.もちろん,いずれも
    技術的な誤差に過ぎず,当事者の感情の問題以上のものではないかも知れないという場合もあるであろう.それならそれで,
    それを評価しなければならないわけである.
    
    一方,厄介な問題は,塾や予備校による「訓練」の評価である.これらは,「入学試験」の設計の問題でもあるが,塾や予備校が
    かれらにとっての的確な目標設定をしている以上,そして,そのような訓練の結果,好成績を収める受験(検)者の恐らく大半が
    それなりの(つまり,入学を期待する側にとっての)素質を有している可能性も高く,そうだとすると,この辺りのノイズの処理も,
    いわば「入学試験工学」としては,さまざまなややこしい具体的な課題の一として眼前に現れるわけではある.

    なお,ガラパゴス日本と最初に書いたけれど,わたくしでさえ気付くことは「業界」の関係者は先刻ご承知であった.すると,
    日本を「ガラパゴス」化しているのはどの辺(というか,どういう集団)なのか,大いに興味がある.わたくしは,解答の有力な
    候補を特定できていると思っているが,ここでは言わない(「官」も一端かも知れないが,主因はそうではあるまい,念のため).

   ささやかな補遺(平成19年4月・一部5月)

     先日,ジュンク堂書店の店頭で,

         中井浩一:大学入試の戦後史 (中公新書ラクレ.中央公論新社.2007年4月)

     を見る機会があった.後で調べてみると,著者は大学や学力問題,入試などについて発言を重ねて来られた方らしい.
     同書の帯にあった「日東駒専」は聞いたことがあったが「MARCH」というのは知らなかった.
     著者は塾の主宰者ということであり,他にも理由はあるだろうけれど,どうしても大学の問題を入学試験に集約させて
     取り扱いたいようである.そのような限定はあるが,非常によく書けていると思う.大学の責任者らへの多数のインタビュー
     が背景にあるようで,重厚な報告になっている.個人的には,懐かしい名前が多数散見され,体験も篭めた感慨もあった.
     ただ,インタビューの時点が古いものもあるようであり,また,大学側の宣伝を鵜呑みにしていると思われるところもあった.
     要するに,直接の当事者以外は,概して,不正直であり偽善的であり,あるいは,また入試の当事者が目先の利害に
     正直すぎるという傾向が,一旦定着した方式に強烈な惰性を与えているわけであろうが,環境の変化はもっと激しい・・・.
     学力以後の「学志」,実は,学力以前の「自己決定力」が本当の鍵らしい.これは深刻なことである.なまじ学力があると,
     自己決定力の不足が表に出て来ないという場合も少なくないだろう.自己決定力の不足,つまりは,自我の未確立,
     人格の未成熟,自己発現への希求の欠如といった欠陥が露呈せず,したがって,また,そのことを自覚することもなく,
     さらには,要職に就くという場合も,ないとは言えまい.まあ,そのような積み重ねの結果が今日の日本の・・・.
     入試戦線での一人勝ちなどは,大学としては胸を張ってばかりもいられないことなのではあるまいか.
     入学試験の工夫でこのようなことに対処できるかどうかは不明だが,学力中心だけでは確かに困難があろう.
     しかし,代替,あるいは,補完する方法が期待のようには機能しない,あるいは,早々に陳腐化するということは
     残念な事実である. 結局,大学の入試など,この程度のものだという達観が必要で,「良問」にこだわったり,
     入試で学生の人格や思考力が測れるというのは幻想の部分が大きいのではないだろうか.
     入試の誤差や限界の評価があって,初めて,いろいろな改善のための工夫が意味を持ってくると思うのだが.
     しかし,入試の誤差や限界をきちんと評価し,しかも,その結果を一般的に入試の改善に反映させるということは,
     上掲の入試学の趣意書で触れたように,決して容易なことではない.
     この点に関する著者の中井氏の本心は,立場上,はっきりとはさせられてはいないようで,「二項対立」や「村社会」
     の指摘はあっても,やや突き放した感がある.村社会は確かに依然として今も日本の厳然たる事実であるが,
     問題は,このようなものを維持しながら,これからの世界を乗り切っていけるかどうかである.村社会を,
     その現実から出発して,どう変革していくべきか,また,成功度の高い方策は何か,を考え続けることは,
     入試に限定されない我々の大事のようである.
     
     要するに,大学にとっては入学者選抜の話題だけが重要なのではない

     いずれにせよ,わたくしは現象としての入学試験からは縁がなくなって既に大分になる.
     残っているのは一種の大局的な関心だけである.
     大学の水準は,一国の文化的あるいは科学的水準を象徴するものであり,国際(地理)的および歴史的に評価される.
     また,大学自身もこの点に存立の基盤を置いており,一時的な国内事情は無視できないとは言え,それらに大学が
     振り回されすぎることを許すのは,国そのものの自殺行為に近いのではないだろうか.

     当然,大学間の格差云々もさることながら,存立価値のない「大学」で「学ぶ」のは「学生」にとり,金と時間の
     浪費であり,極端な場合,「学生」の将来そのものが壊滅してしまう.
     このような「大学」を放置しておくことは,社会的にはむしろ犯罪的であるとさえ言えるだろう.
     経営者にとって,このような「大学」を閉鎖するという決断は,経営上だけでなく道義上も重要なことかも知れない.
     このような「大学」の「安楽死」を助ける手立てを講ずることも本当は政治的に価値あることかも知れないのである.

     他方,若い人たちがおのれの人生のために自らを鍛えたいと考えるのは当然である.そもそもは若い人たちの
     自我の確立が先行することではあるが,かれらの自己鍛錬や自己完成の端緒のために機会と環境を整えるのは
     社会の義務である.大学がこのための重要な場であることは疑いがない.しかし,大事なのは,その実質である.

     日本の大学は,今日の状況下では,多すぎるのではないか.もっと再編統合すべきではないだろうか.
     国公私の枠を超え,既存の各大学の特徴がそれなりに生きる形での統合が進められてよいのではなかろうか.
     もっとも,人間の集団に関わることである.再編の理念が重要であろう.提携関係を「強化」するだけでよいのか,
     「本部」や「基金」だけ統一すればよいのか,主要な「基金」は旧来の組織が当面維持するのがよいのか.
     教育の質と特徴に伝統や自負・自信のある大学が,再編の過程で,半端な大学院化を目指さずに,
     積極的な魅力ある存在として生き残る道を確保することも大事なことではないだろうか.
     また,最近はネット上の「大学」もあるし,ネット上でなくても,国際的な再編も念頭に置かなければなるまい.

     しかし,大学が国境を越えて成立するように見えても,主導的な大学(の本体があること)は,各国の大切な財産である.
     学位の国際的な基準化の話題もないわけではない.工学系のJABEEや,あるいは,一般のGPAなどは,こういう一環で
     あろうが,日本の大学は概して受身なのはなぜだろうか. 大学再編は,まさに「知財戦略」という面があるだろう.


     Shanghai Jiao Tong (上海交通大学)指数などというのもある.欧州連合などは真剣に考慮しているようである.
     欧州の大学は,現在の世界一流校も,このまま手をこまねいていれば,インドや中国の大学の後塵を拝することになり,
     その意味は,知的退嬰だけでなく産業基盤の低下に直結していると考えているようである.
     ちなみに,この指数の,少し古いランキングでは,アジア・太平洋地区の大学ベスト・テンに,日本からは,
     旧帝大7校だけは何とか入っているが,世界的水準では,150位までに入っているということに過ぎない.
     東京大学と思われる大学(Tokyo University ! 正確な英語表記ができなくても漢字圏ランキングからの英訳である)が
     ようやく世界的には14位らしい.
     

     ここ十年余りの間に日本の経済構造が大転換したことを思い起こそう.この過程での政策には賛否はあろうが,
     きっかけは,バブルやその崩壊であった.しかも,底流には当時の大蔵省官僚など,エリートのはずの人々の無能が,
     遂に,誰の目にも明らかになり,否定できなくなったということがあった.このことは,まだ,覚えている人が多いだろう.
     日本の社会のことである.大蔵省のキャリア官僚や大企業の経営者だけが突出して無能であるはずはない.
     政治家にせよ,言論人にせよ,大学人にせよ,似たような弱点を持っているはずである(似たような長所もあろうが).
     死語になっていると思うが,かつて,「経済一流政治三流」という言葉があった.そんな偏頗なことはありえないのである.
     
     日本の大学の研究・教育の体制や体系もこんな弱点起因の制度疲労を起こして久しいことは疑いはないだろう.
     経済の激変と同じようなことが教育研究に起きていても不思議はあるまい.それなら,大学のグローバル化とは何か,
     そもそも日本の大学で学び研究するということはどういうことか.海外の大学のコピーなら,直接,海外で学ぶのが,
     よかろう.日本人学生にとっても中途半端な国際化大学で学ぶよりは,直接海外での勉学(と)生活をする方がよい
     かも知れないのである.実際,文化的分野なら対象国や地域に行った方がよいだろうし,世界的には,交換留学制度も
     拡充拡大しており,日本の大学も組み込まれつつあるが,障害は,むしろ日本の若い人たちの消極性かも知れない.

     要するに制度や社会全体が関わることであり,技術的な表面を対象とする手直しだけでは,期待する効果は産まれまい.
     内外の学生が,わざわざ,日本の大学で学ぶメリットは何か --- 日本で学びたい,暮らしたいという動機は何か.
     大きすぎる課題だが,大学を超えた特徴的で永続的な日本という価値を育んでいかなければならないのではないか.


     実際のところ,大学の信用の基盤は教育の質と,さらに,研究成果であり,経営的には後者の比重が極めて大きい.
     少なくとも,教育の質(および/または)研究成果の質で国際的に先導的な水準の大学というものに,
     日本の大学は再編されていかなければならないだろう.研究成果を競う方が即効性が高く評価も容易なためか,
     まだ,教育の質の向上や充実のために十分な資源が投入されていないようなのは残念である.


     大学の将来を考えるということは,つまり,日本の将来の位置づけを確認し,それにしっかりと見合うように高等教育を
     設計するということである.将来の世界において,われわれの子孫にどういう位置を占めてほしいか,
     このことの国民的了解をまず得ること,それが基本であろう.


     日本の「エリート」がすなわち世界の「エリート」でもありたいというのなら,また,それが世界的に期待されていると
     いう自負があるのなら,若い人たちにそれにふさわしい教育や訓練が不可欠である.指導的立場を放棄するというのでも,
     「主人」の不興を買わないよう「従者」として命令を正確に理解するためにさえ「教育」は要るのだが. 
     大体が初等中等教育にも関わることではあるが,卑近な事柄での「競争原理」が重要なわけではない.
     
     ただ,こうして日本の大学の数が減り,他方,質が向上すると,入学希望者は国外からも殺到する(ことを期待したい).
     すると,大学入試の問題が再び深刻になるかも知れない(と考える人もいるだろう).しかし,(実は今日でも)
     大学は入りさえすれば済むわけではないし,入学選考も国際的に意義が説明できるものにしなければならない.
     大学の問題を現行の日本の大学入試の様態に集中させるのは,入学者選抜に限っても,大間違いである.

     確かに,入学者の質を考えると,そもそもが日本の中等教育を国際水準に維持できなければ,大学がどう頑張っても,
     高等教育やその先にある産業も社会も結局は崩壊していくのであるが.
     
     とは言え,新しい大学を考えるのに拙速はいけない.社会的に,特に,現在の大学関係者に,事態をよく理解して
     貰わなければならない.そして,審議の過程が広く伝わることが重要であろう.

     恐らく,従前の官庁設置の審議会方式では問題の広がりや事態への危機感が社会に十分伝わらないのではないか.
     健全な素人というべき人たちが議論をすることができる権威のある公的な場,最適なのは国会の委員会のような場,
     での数年に及ぶ審議が必要なのではないだろうか.


     むしろ,かつての大学改革を思い起こすと,専門家,特に,大学関係者こそが盲点になりかねないと危惧される.
     改革を主導した人たちの説明あるいは権威や説得力の不足と現場の大学教員や大学経営者の意識に乖離があり,
     大学改革は形式ばかりの非常に奇妙なことになった.総論は結構であるが,結局は皆から無視され,各論で既得権を
     めぐる力関係が物を言った感もあるのは,他の「改革」と同様である.まあ,我々は大学改革の機会に便乗して,
     「数理学研究科」を作ることはできたが,それでも問題はあった(上の ICMI の記事を見られたい).結局,
     とばっちりを食ったのは,一般に(どの大学でも),学生たちだったと思うが,かれらはあてがわれたものしか知らなかった
     ろうから,そのような実感を得にくかっただろう.しかし,先輩たちに比べれば得よりも損をしたことになるのではないか.
     学生のための改革ではなかったと言ってしまえばそれまでだが,改革の趣旨が曖昧だと成果の検証もできない.
     こういうことが再度起きないようにしなければならない.



  さらなる付記(平成19年5月)
    


     ところで,先日,羽田で

       長山靖生: 不勉強が身にしみる 学力・思考力・社会力とは何か (光文社新書) 
               光文社2005年12月(5刷2007年3月)


     を購入し,福岡までの機内で読んだ.初刷は2年近い昔だが,古いと思わなかったのは,既に,わたくしのなかで時間が
     止まってしまっているせいなのだろうか.

     対象は,高校生か中学生か,あるいは,そういう年齢層のお子さんのいる親御さんかと思われる.
     重要な指摘がいくつもあり,すでに5刷というのはそういう事情の反映であろう.
     
     考えてみれば,受験勉強を強調しすぎると,人生が勉強というか不断の学習の継続であることが忘れられてしまう.
     わたくしも大学の教師をしていた頃,授業の目的は,一応の全体像を紹介するだけだ;詳細は,それぞれの状況で
     埋めなければならないし,具体的には少なくとも職業生活を続けている間は常に勉強の継続だ,ということを,
     口にしながら,講義をしてきたつもりである(教養主義というより,功利的観点を述べたつもりだったが).

     教科書の選択も,そういう意味では,授業で扱える話題さえ載っていればよいというのではなく,職業生活で
     必要となるかも知れない話題の取っ掛かりの部分は扱われていて,索引などを利用しながら,必要な勉強が続けて
     できるようなものの指定を(少なくとも当初は)心掛けてきたつもりであるが,指定したものに対して,
     学生からは余分なことが書いてあって重い,持ち運びの邪魔だ,と思われてもいたようでもある.
     アメリカの教科書は網羅的なものが一冊にまとめられており,現実の授業では一部しか講じられないようである.
     しかし,これらの日本語訳では分冊化されてしまうのは,日本の事情を配慮した販売政策であろう.受験勉強による
     知的退廃の反映であったのかも知れない.一生という観点で,知的条件を考えると,明らかにアメリカの姿勢が正しい
     (アメリカの大学が,郊外の大学都市での学内寄宿舎中心の学生生活で成り立っていることも大きいのかも知れないが).
     先年の高校の指導要領でも数学のコア・オプション方式は,こういう一生勉強という発想も背後にあったはずであり,
     海外の教育事情に詳しい内外の人たちは評価したけれど,日本の教育事情と乖離があり,見事に空振りに終わって
     しまった.

     長山氏の上掲書での指摘には,このようなことにも一脈通ずるところがある.長山氏が実に良質の読書を重ねて
     来られたこともよくわかり,そういう教養がにじみ出ているだけに,教えられるところは実に多かった.ただし,
     わたくしの今の立場では,ただ読んで感心するだけで,他にはほとんど何もできないが.
     感服した一点を挙げるとすれば,性教育に関連して,受胎から胎児・出生に至る過程こそ丁寧に教育すべきだという
     ご指摘である.生命起源から人類に至る過程の自覚にも繋がることであり,生きる,生まれるとはどういうことか思いを
     馳せ,先祖や子孫に実体的な感覚を抱きうる機会にもなることでもあり,このご指摘は大いに強調してよいと思う.

     余分なことでは,やはりジェンダー絡みだが,ヒストリーというのは his-tory であって his が怪しからんという議論が紹介
     されていたが,思わず笑ってしまった.フランス語では,histoire である.しかも,仏語では his も her も son である.
     こんな愚かな議論に反論できない方がおかしい.何か事件のたびに狼狽して「生命の大切さ」を口にする関係者も,
     あたかも雷雨の際に蚊帳に潜り込んで「くわばらくわばら」と唱えたという往時の日本人の姿と変わらない.要するに,
     本来やるべきであったことをやってはいないということなのである.

     なお,自然科学系の知見や素養が,いわゆる文系の関係者に不用とされていることへの批判的見解も述べられている.
     関連しての感想であるが,長山氏ははっきりとは述べてはおられないものの,
     今日の社会科学系の学問も,最初の成立時期を考えると,まさに,これらが当時の最新の科学的知見に触発されて
     定式化されたことは明白である.当然のことながら,そういう理論の改訂は,各学問内の自律的な事情だけではなく,
     自然科学的な知見の進歩も反映していなければ,今日的に意味のあるものにはなりえないはずである.
     この点への,特に,戦後の日本の関係分野の有識者の自覚の不足というか鈍感さは,結局のところ,かれらの仕事が
     実は,本来の学問的意義の点でも,見当違いの水準にあることを意味しかねないことでもある.
     さらに,その程度のものにしたがっての政策立案や行政が横行しているとなると,被害者は我々自身でもある

     こういう実利的な影響があるだけに,かれらの怠惰さはもっと激しく指弾されてしかるべきことではあるまいか.


     最近,

        芳沢光雄 : 数学でわかる社会のウソ (角川ワンテーマ21.角川書店.2007年5月)
        ISBN 978-4-04-710096-1-C0295

     が出版された.この書物の内容の過半は,入試とは関わりはないが,一箇所,「入学試験学」に言及している箇所が
     ある.実際,芳沢氏は,上掲「その後」で参照しているように,「入学試験学」のアイデアを真面目に捉えて,実際に,
     実証的な研究や調査をしてくださった方である.芳沢氏の初期の著作を拝見して,まさに,noblesse oblige を地で行くと
     印象を受けたが,本書に,実は,その頃にかなりの内心の葛藤があったことが述べられている.実際,「数学教育」,
     そもそも「教育」を論じ,実践することには,全人格的な見識や能力が要求されて,しかも,責任は極めて重い.
     「数学研究」の方が,対象も限定的だし,何よりも,自律的に万事を取り仕切ることができるという意味で,
     はるかに楽であり,安易とさえ言えるかも知れない.しかも,仲間内の評価は,こちらの方が高い.
     そういう意味で,一種の使命感があったとしても,「数学研究」から「数学教育」への舵を切ることは簡単ではない.
     さらに,舵を切れば切ったで,「数学教育」で予め自負していたほどの成果が挙げられるかどうかは,また,
     別の話である.
     わたくしが,芳沢氏が noblesse oblige の典型だと思うのは,氏がこのような決断をし,しかも,継続して,
     立派な努力を続けられているからでもある.

     なお,同書冒頭で「ゆとり教育」の失敗に触れ,ある個人にだけ責任を押し付けるのは不当であり,さまざまな事情を
     挙げて,当時の文部省の中央教育審議会の委員諸氏も責任を分担すべきであると,芳沢氏は言う.
     実質的な審議の内容や方向がどのように行われていたかも検証する必要はあろうが,制度上はその通りである.
     しかし,この件で思い出すのは,「ゆとり教育」に関連して数学者はもともと疑念を抱いていた人が多く,芳沢氏が
     中央教育審議会の委員に対し,いろいろな働きかけをされていたころ,同じような試みは日本数学会もやっていた.
     そういう努力が結果的に不調に終わったのは,委員諸氏の見識が足りなかったせいであると考えたものもいた.
     しかし,わたくしの記憶であるが,比較的事情通の長老の方が,若手の数学者がいきまいているのを,
     これら委員の方々は各分野での権威でもあり,君らよりは全体像がよく見えておられるのだよと,たしなめられたのが
     印象に残っている. 実際,この件は,そういう面も見え,相当に根が深い.
     つまり,これらの委員として選任された方々でさえ,数学の意義や,あるいは,そもそも,教育の重要性について,
     夢想的な思いを抱いたまま,そのことを怪しむことがないという状態になっていたということである.要するに,
     日本の知的世界そのものが,一種の催眠術に掛かったまま,覚醒することなしに,長年月を経てしまったということで
     あろう.長山氏の書物でもそのような指摘はあったと思うが,芳沢氏の書物が,氏の期待のように,
     覚醒への第一歩として働くことを願わざるを得ない.


補足(平成26年1月5日):拙ブログの昨年末までの分を,まとめてTeX化したものを公開する.ただし,jarticle で
作成したので,文献や索引が目次に現われない(文献:pp.567-578.索引:pp.579-587).文献は,扱ったものは網羅した
つもりだが,索引は完全ではない.