臨床余録
2018年 8月 26日  7年間ありがとう

 さほど厚くないカルテを手にとる。はじめから読みかえし時系列にポイントを記してみる。

 区のこども家庭障害支援課保健師からの紹介。はじめはお母さんだけ来院し話を聴く。2歳半で歩きはじめ。高校まで通う。大学病院、総合病院の小児科、脳外科に通院したが、月一回けいれん発作あり。身の回り動作はすべて介助。地域の作業所に通う。言葉はでないが手話使いお母さんは大体意志疎通できる。通院困難なので往診希望。訪問時、普段の様子をお母さんから聴いて血圧、聴診など簡単な診察をする。偏食があり便秘が目立つ。特定のものにこだわりがある。抗けれん剤を調整しけいれんは落ち着いた。半年ぐらいすると、今日は往診で先生が来るよと母が朝伝えると昼過ぎから窓に寄って車の来るのを待つようになる。1年後血液検査をしようとするが初めは協力してくれる仕草をするが結局できずに終わる。気分の変調なのかデイケアに行かない日が多くなる。皮膚がかさかさになりプロペト使用。往診は月一回。抗けいれん剤と皮膚軟膏などを処方する。挨拶すると抱きついてくるときがある。血圧のマンシェットを自分でまこうとし、胸の聴診の診察もルーチン化。帰るときは車に乗る僕と看護師に窓から手を振る。大体元気だがまれに気分不安定で診察できないこともある。皮膚乾燥、痒み強く、皮膚科医に往診依頼。う歯のため歯科医にも往診依頼。寝ている時呼吸が早くなる時がある。右肩痛で上にあがらない。便秘で往診時看護師が摘便したこともある。1年ぶりに発作。カレンダーで医師の往診日を知りその日は往診が終わるまで食事も水もとらない。全身の皮疹の痒み強く掻きこわし色素沈着。痒みどめの内服や塗り薬工夫。食事は一日2食になる。動くと息切れ。頻脈、収縮期心雑音。活気が乏しくなり、やせが目立つ。食事さらに減り、両足屈曲拘縮。立つのもおぼつかない。寝ていることが多くなり、褥創ができる。訪問看護師を導入しバイタル、皮膚ケア、排便管理、入浴介助、関節運動などお願いした。やや強引に採血し、甲状腺機能含め一般血液検査上著変ないことを確認。血圧が常時高くなる。はじめの降圧剤は薬疹のため中止。水分摂取も低下し常にうとうとしているため救急病院受診。点滴して帰宅。2剤目の降圧剤で血圧ややさがり、少し飲食回復。(カルテはここまで)

 その日もいつも通りデイケアに出た。そして急変。救急病院に運ばれたが死亡した。お母さんの話では胸のレントゲンは真っ白だった。警察が呼ばれ検屍となった。その結果死因は急性心不全とされた。かかりつけ医である僕に病院から連絡はなかった。(昨年、同様にデイサービス中に急変し大学病院に搬送され死亡確認された患者さんがいる。その際、家族からかかりつけ医がいると聞いた救急医は警察ではなくかかりつけ医である僕に連絡、その結果僕が病院に行き死亡診断書を書いた)

 今年にはいってからの無慈悲に進行する身体虚弱化は本人が何も訴えないだけにつらいものだった。先天的な障害に伴う諸臓器の脆弱性の可能性も僕は考えていたのだが、検査や治療の意味がわからず本人の協力が得られなくても、(一度は外来でかえされた)病院にもう一度入院を頼み原因を精査すべきだったのだろうか。

 初診から7年を担当した医師からみると、先天的な障害をもちながら懸命に生きたその生涯と献身的なケアを続けた母親は最大級のリスペクトに値する。ふりかえると、様々なエピソードのなかに隠れている、宝物のような瞬間がある。僕はそれをずっと忘れることはないだろう。

2018年 8月 19日  p53と私

NEJM MAY24 2018 p53 and meを読む。

 私が医学生としてスタートした2010年はじぶんの遺伝子危機の年でもあった。授業が始まるボストンに移る前、同窓生が営むマンハッタンのセンターに遺伝子検査を受けにいった。
 幼児期の横紋筋肉腫を生き延びた28歳として乳癌と肺癌を同時に診断され治療を耐えられるか、さらに不運が重なっているのか、遺伝子検査を受けようとしていた。敵は俗に“ゲノムの守護者”と呼ばれるp53の突然変異である。リ・ファウメニ症候群として知られる状態に関連するが、突然変異そのものが癌を引き起こすわけではない、乱雑な増殖を通して他の突然変異への経路に入るのを拒否するのである。私の場合は医師のボード試験で古典的な問題になるだろう:若い女性、多発癌、p53クリック。私はほぼ確実に変異を持っている。だがその確認をしたかったのである。
 私はセンターに結果を取りに行けなかった。・・・・・腫瘍専門医(oncologist)からメールが入る。“Good news, no mutation”私は混乱し舞い上がるー未来はたちまち明るくなる。そして1週間後、oncologistから電話、怒りを抑えなおかつ慰めるような声で「検査室から違う結果が来ていた。あなたはp53変異がある。申し訳ない」私は「おかしくないわ(that makes sense)」と答えたのを覚えている。階段近く中庭の石のレッジに坐っていた、肩と耳の間にケータイをはさみ、落さないように、歩いて行く友人たちに声をかけながら。中休みが終わり、教室に戻った。9月だった。他の事はすべて消えてしまい、なにも覚えていない。
 私の変異が極めて限定されたものだったので治療には修飾が施された。乳房摘除後の放射線は受けないことにした、リスク・ベネフィット比が不確かなことと放射線誘発性癌のリスクを変異が高める可能性があるからである。我々を導く明らかなデータがなく私も放射線腫瘍医も正しいことをしているのかわからなかった。癌の早期発見のために良い検査とされているので大腸検査を50歳前に受ける予定である。他に癌を早期に発見できるスクリーニングがないか治験に入ることでみつけようとしていた。
 私の外見や精神の変化は著しかった。自分の細胞が反乱をおこし、増殖すると決まる瞬間を想像する特有なパニックを描写するのは不可能である。解剖学の教授は癌を“deranged and ambitious”と表現した。まるで妄想的医学生の遁走する悪夢のようなものである。それはいつでも起こり、どんな癌でも起こり、再発し、初発し、治療により癌化する。脳、大腸、白血病、肉腫は特に発生しやすい。しかし私の細胞とその環境を即席に作ることが唯一の限界だった。実際的な疑問は日よけスクリーンをいつも使用すべきか、常に屋内にいるべきかといったことだった。
 10年ぶりに会った医学系でない友人に突然変異のことを話したがひどく反応した。医学系のひとも多分同じだが感情的距離をとることを訓練されているので内在化し、あとで表面に出て来るのだろう。「食べるもの、飲み物に気をつけているんでしょうね」「いいえ、何も。それは関係ないの」と答えると、彼女は悲しそうに、「ああ、あなたを変えてしまうなんて、世界を見る見方を変えてしまう・・」
 あなたは何もわかっていない、と考えながら私は頷く。
 私のような突然変異は未来に関するあらゆる想像力をすりへらす。出来事の可能性を狂うばかりに計算したり推測したりするようになる。あなたの守護者。あなたの結婚。乳癌の5年生存率は? しかし、その時もう一つの乳癌が。肺癌の治癒。もし新しく出来たら?
 もし私が医者でなかったらこれらの知識を背負うことははるかにむつかしいだろう。手のひらに黒い斑点をみつけたら数日のうちに皮膚科に行き、組織を調べてもらう。そしてメールでただの黒子だということを知らせてもらう。素晴らしい精神科医やソーシャルワーカーがいるのは幸運、彼らなしにはやっていけない。
 そこで私は考える。自分の個人的ゲノムを知ることは私たちを自由にするだろうか、あるいは駄目にするだろうか。私の場合は自分に力を与えてくれたと同時に私を破壊した。どちらが大きいかわからない。運命に従うことと否定することの間を飛びかい、私は普通に生きなければならないと決めた。経路、確率、結果を知らなければならないという責任から私自身を赦免し、それらをあいまいな景に溶け込ませることにした。私の一番いい時代に、自分の変異を知ることができてよかった。医者の仕事は知ることと話すことである。しかし、私は知ることがすべての人にベストだとは思わない。
 遺伝情報は医者と患者双方がその結果を持ち行動できる備えがあるときだけパワーとなる。たとえそれが知ることにより善く生きるということだけを意味するにしてもである。遺伝カウンセリングはより広範な定義を必要としていると思う。より多くのデータのみならず、より洗練され繊細なデータの消化の仕方が要求される。私のような人に起こることを掘り下げるデータベースだけでなく、不確かさと共に生きることを学ぶプログラムも必要である。「先生、私はどれくらい生きられるの」という問いに答える予後予測のとてつもない困難を我々は既にかかえている。遺伝症候群によるリスクをどれだけ評価できるだろうか。BRCA変異の際、患者が予防的乳房切除を希望するというメデイア情報を知っている。癌遺伝子所有者として私は、いずれおのれを裏切ることになる身体部分を前もって取ってしまおうという心理はよく理解できる。何もしないなら、知ることにどんな意味があるのだ。そう、私が自分の結果によりしたことは、その結果がどのように私が生きるのを助けるかということではなく、それとともにいかに生きるか学ぶことである。いつの日か遺伝子治療がリ・フラウメニにも施されることを願う。
 最近、私のそばには治療を減らすのか増やすのか、その平衡状態がもたらされる時を理解しているoncologistがいる。治療は減らすことを望む。あらゆることを行なえる時間がほしい。
 しかし、自分や患者の経験から学んだことは、できるだけスキャン、生検、長い待ち時間などからおのれを解放したいということである。そしてすべての不確かさ、未知のこと、探求すべきことなどを示してサバイバーシップとしてのマップを描ければよい。私は医者であり、研修途上のオンコロジストである。それでも私には次なる遺伝的地平へとガイドしてくれる私の医師が必要である。

 以上が抄訳である。
 ひとはそれぞれ自分に与えられた条件のなかで生きてゆく。癌抑制遺伝子であるp53変異を持つひとりの医師の苦悩の文章だ。このような珍しい疾患を教科書の上で、あるいは症例報告として読むことはある。しかし、当事者が医師であり、そのなまの思いや感情をエッセイという形で読むことはなかった。僕は医師として、そしてひとりの人間としてこの今を生きていく地平が明らかに広がったような気がしている。

2018年 8月 12日  燃え尽きに抗して

ニューイングランド医学誌8月9日To Fight Burnout, Organizeを読む。

 “burnout”という言葉を造ったのはペーパーワークに埋もれた開業医でもなく電子記録に忙殺されている救急医でもない。1974年無償診療所(free clinic)で働く臨床心理士Herbert Freudenbergerである。燃え尽きの危険因子として彼は“与えることの必要性”を持つ性格(individual who has a need to give)と仕事の単調さをあげた。そして特殊な状況で働く人、例えば無償診療所、治療共同体、ホットライン、危機介入センター、女性専門クリニック、ゲイセンター、駆け込み宿などで、社会から追いやられた患者(marginalized patients)をケアする体験と燃え尽きとの関係を指摘した。
 最近、燃え尽きは医者や他のフロントラインで働くケアワーカーの主たる関心事になってきた。だがどこかでそのコンセプトは初めの無償診療所の文脈からはずれてきた。社会から追いやられた患者と医者との関係ではなくなってきた。
 社会的、経済的状況が直接医学が関与できない仕方で患者に害を与える場合である。健康への社会的な決定因子について教育を受け、それが燃え尽きに関係すると警告を受けても、どれだけ大きな貧困や抑圧に患者が直面しているかを知って、実際にできることは(家主と交渉したり平凡なアドバイス)役に立たないことを知るのである。流れはチーム医療の方に行っているのに、医者のイメージはまだ単独の救世主的なもののままである。しかし患者の健康問題がたちの悪い何世代にもわたる貧困や社会的疎外に原因があることがわかると優れた医師でさえもかなわないと思うようになる。医者であっても全くの無力なのである。
 この社会的決定因子と燃え尽きとの結びつきにおいて、問題とともに前方への道も見えてくる。もし個人的無力が燃え尽きの原因となるポイントであるなら、集団的行動への組織化は解決への糸口になるだろう。我々はホームレスの患者を擁護し公的住宅へのウェイテイングリストに載せる応援をできる。しかしすべての医者がホームレス患者のためにより購入しやすい住宅を要求するべく組織を作ったらどうだろう。
 組織化は戦略的であり治療的でもある。集合的労働は個々のパーツを合わせたものより強いからであり、共通の目的のために協働で動くとき孤立した行為者と感じなくてすむからである。
 医師の権利擁護は専門的義務なのか上昇志向的目標なのかと問うひともいる。患者のために我々がそれをするべきなのかどうなのかとは別に、健康への有害な社会的環境因子について述べる集団権利擁護が医者を動機づけることがありそれは自己へのケアとなりうる。集団的行為への組織を作ることは患者だけでなく我々自身をもケアすることになる。
 こんな寓話がある。人が溺れそうになっている急な川に友人のグループがやってきた。友人は飛び込んで助けようとする。しかし溺れたひとはあとからあとから流れて来る。一人は流れの源へと泳ぐ、そして何がこれらの人びとを川に投げこんでいるのか見極めようとする。
 この古典的寓話は燃え尽きの予防について意味しているが、また上流因子が如何に燃え尽きに寄与しているかも示している。
 第一線の臨床家にとってうんざりすること、組織化すること、そして上流へと向かうことは新しいことではない。例えば薬剤過量摂取の流行に抗してボストンで毎日曜日、レジデントが害削減のために管理された注射装置を擁護するSIFMA(supervised injection facilities MA)NOW を組織化する。
 SIFMAにおいて健康専門家は薬剤嗜癖者やそれを害削減擁護者とともに組織を作る。グループは参加者を結束させ圧倒的な危機に対して行動を起こす。MGHのレジデントは最近のミーテイングに参加して、いかに組織を作ることが医師のために慰めとなるか、こう述べる「クリニックで最善の努力をしても、あまりに多くの薬物中毒の患者、心内膜炎、C型肝炎、HIVなどが危険な注射によって作り出される。権利擁護の共同体の一員であることはこの危機と闘う力を与えてくれる。それは、これら防ぎうる悲劇により燃え尽きる代わりにエネルギーを与え、土台を築いてくれる」
 健康の社会的決定因子そして医者の無力感は燃え尽きを巡る論議から抜けているようにみえる。このタイプの燃え尽きは絶えることなく流れ来る溺れそうなひとを川から救おうとするときに感ずるものである。そしてあなたは緊急事態の間、つまり溺れるひとという近位のニーズと有害な上流の力と闘うという遠位のニーズの間で引き裂かれることになる。医学生は個人という立脚点から考える訓練を受ける。そして「自分は何ができるのか?」というまじめな問いとともに行き詰る、そしてそれはしばしば残念な皮肉な結果に終わる。もし医学スクールや研修プログラムが燃え尽きに真剣に取り組むなら、collective actionについて教えなくてはならない、「我々は何ができるのか?」と教えなくてはならない。燃え尽きと闘うために、我々は患者が直面している健康の社会的決定因子に決して独りで思い悩んではならない。To fight burn out, organaize.

 以上が抄訳である。途中集団行動の団体名など省略した。臨床心理士Herbert Freudenbergerの述べた燃え尽きを来しやすいひとの特徴、“与えることの必要性を持つ人”というのはよくわかる。いわば古典的な燃え尽きタイプともいえるのだろう。だが、すべての医師はこの特徴をそのはじまりにおいて持っている筈だ。プロフェッショナリズムの一要素でもある。
 オスラーの講演集『平静の心』を読むと、医師の資質として、沈着冷静な態度、とともに感受性の鈍さという言葉が出てきて少し驚いた。だがよく読むと文字通りの鈍さ(人間性の鈍さ)ということではなく、それは沈着冷静な態度を言い換えたものではないかと思われる。
 過剰な与えることの必要性からくる燃え尽き、この古典的なタイプと異なり、絶えず流れ来る溺れる人を救助するタイプの燃え尽きを現代型とすると、このエッセイはこちらに注目せよ、と述べている。社会的問題に取り組むのに独りでは駄目で連帯が必要と。
 古典的燃え尽きタイプをドクトル・ビュルゲル型、社会的決定因子からくる現代型燃え尽きタイプを、『ペスト』のリウー型と呼べるだろうか。どちらの医師も僕のほんとうの友人のような気がしている。燃え尽きの感覚は僕には常に近しいものだが、このままでは危ないと思う時じぶんの中にいるビュルゲルそしてリウーとひそかに対話しているじぶんに気が付くのである。

2018年 8月 5日  ライフライン

Lancet neurologyにLifelineという欄がある。神経学分野の人物へのインタヴュー記事である。面白いのでたまに読んでいる。自分にも問いかけてみた。

What inspires you?(あなたの活動の元、日々あなたを鼓舞しているものは何かという問い)
さて何だろうか。災害級といわれる今年の7月或る日の午後、寝たきりのひとを訪問診察したあと、帰り際にひとこと「せんせいは、倒れないで」と声をかけられた。このひとことで「ああ僕はまだやれる」と思った。ひとをケアすることはケアされることである。多分そのような関係性のなかでじぶんはインスパイアされているのだと思う。

If you had not entered your current profession, what would you have liked to do?(医者になっていなかったら何になりたかったのか、という問い)
都会的人間関係は苦手。小さい頃、親からは「良ちゃんはのんびりしてるから農業が向いている。そっちの方に行けばいい」と言われていた。僕自身もそう思っていたが、思春期に屈折してしまった。

Who was your most influential teacher, and why?(最も影響を受けた教師は誰?そしてそれはどうして?)
本多虔夫(まさお)先生。医学におけるヒューマニティーとは何かということをその生き方を通して示してくれた。

What is your favourite book or film, and why?(一番好きな本あるいは映画、そしてそれはどうして?)
『ドクトル・ビュルゲルの運命』(カロッサ)「1908年7月30日 午後に来た村娘がまだ頭をはなれない。晴着に身をかざって、どんなにかおずおずと、中へはいって来たことだろう。まるで血の気のない黄いろい顔いろで、・・・・」こういう書き出しで始まる。僕は読みながらビュルゲルにじぶんを重ねている。もう何度読んだだろう。いま気ままにページを開くと、往診の家で苦しそうに息する患者に寄り添う医師の姿を見出す。その内省の果ての悲劇的な最期にいたるまでこの小説はじぶんを照らし出す鏡のように思える。

How do you relax?(どのようにリラックス?)
好きなのは夕ぐれの散歩。それからバッハを聴くこと。どちらも独りでないとリラックスできない。これは僕の悪しき孤独癖のせい。

What is your idea of a perfect day?(完璧な一日があるとしたら?)
イギリス留学中ある初夏の一日、ウェールズの片田舎を旅行した。小さなパブに入り、ギネスを飲みながら窓から晴れた空の雲を眺めていた。殆ど客のいない室内には今まで聴いたことのない、まるで天上からくるような旋律が流れていた。それがエンヤとの出会いだった。もう30年も前のこの一日をふと思い出すことがある。

What is your greatest regret?(最も悔やまれることは?)
精神科医としての若い頃の修練が足りなかったこと、例えば患者と深く向き合うためには医者としてじぶんを深く見つめ直すまなざしが備わっていなければならない。そのためには例えばじぶんへの教育分析が必要だったと思う。

What was your first experiment as a child?(こども時代の最初の実験)
ルーペで太陽の光線を紙の一点に集め燃やしたこと。

What one discovery or invention would most improve your life?(どんな発見あるいは発明があなたのライフをよくする?)
老医の域に入ったじぶんにとって現実的な問題である、往診時の車の運転。完全な自動運転車の完成はいつになるだろうか。

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