臨床余録
2018年 7月 29日  そのひとを知るということ

 地域の小さなアパートに子どもと住む女性のこと。子がまだ小さいとき夫を亡くし彼女は独りで働いてきた。肺気腫のため咳や痰が続き、眠剤がないと眠れなくなった。病院に行き眠剤の処方箋をもらう。しだいにそれでも眠れなくなり、より強い薬を要求するようになる。薬をもらうまでテコでも動かないと周囲を困らせ病院では問題患者のひとり。その彼女が尿路感染から発熱、それを機に寝たきりになった。ケアマネから往診を依頼された。
 初めての往診日。1DKの奥の部屋に行くのに足の踏み場に苦労。ふとんの横にちゃぶ台。食べかけのパンや菓子、お茶、ジュースの飲みかけ。ペットボトル、紙コップ、薬の散乱、吸いかけのたばこ、投げ出された汚れた下着。ふとんはシーツまで汗と尿でびっしょり、おまけに便失禁状態だった。挨拶するとはじめの言葉が「眠剤は?」である。細いからだに似合わぬふてぶてしさ。彼女の希望への最低限の言葉の応答。彼女をおもいやる切り詰めた言語。そしてそれ以上に淡々と丁寧に行われる身体のケア。僕たちは素人ではないとじぶんに言い聞かせる。訪問診療はこんな風にはじまった。生活の援助に訪問介護や看護も並行して導入された。
 在宅ケアですぐにまた元気に歩けるようになるのではないかと思っていた。ところが寝たきりが続き、やせがすすみ褥創もできた。何かがうまくいってない。

 地域ケア会議が開かれた。民生委員、ハートの会、訪問介護士、訪問看護師、区高齢担当課、ソーシャルワーカー、保護課担当、社協支援担当、障害者地域支援センタースタッフ、主治医、ケアマネジャー、地域ケアプラザスタッフ、等まさに多職種が集合。一人ひとりみずからの専門的立場からさまざまな援助の手立てが述べられた。以前から親子に関わっている近隣住民のひとりは、これだけ専門的人たちが集まってくれているのだから私たちの出る幕はないようです、と言った。そして、「でもそのひとがどういうひとなのかを知らなければほんとうの助けにはならないような気もします」と控え目に付け加えた。僕にはこのひとことがこたえた。
 多分そうなのだ。専門的、教科書的援助をいくら重ねても、彼らのこころには届かない。その人たちがどういう歴史を生きて来たのか、僕たちは知らない。寡黙な子と母親との関係もわからない。リスペクト、リスペクトと掛け声のように繰り返しても相手がわからなければ意味がない。簡単にわかるとも思えないのだが、その片鱗でもわかるなら、万が一状態が悪化したとしてもそれは、気持のこもらない機械的なケアとは違って何かが残る。そのためにも隣近所の人たちの協力がなくなるのは困る。

 そんな考えを反芻しながら、訪問診療を続ける。災害級の酷暑といわれる真夏に突入した。今は坐ることもできなくなった彼女は睡眠薬を要求することもない。弱々しくうなずいたり首をふったりするだけ。あのふてぶてしさはなくなり今は静かで穏やかな老女。はじめに用意した往診用スリッパはいらなくなった。彼女がどういう人間なのかまだわからない。このまま彼女を見送るようなことになるとしたら寂しい。なんとかこの夏を乗り切ってまた元気な声をきいてみたい。

2018年 7月 22日  少しずつ身軽に

 10年以上務めた区医師会の理事、副会長、訪問看護ステーションおよび在宅医療相談室担当理事、横浜市医師会代議員を辞めた。僕でなければできないという仕事でもない。じぶんの肩書のようなものに若いころは少しこだわったが、考えてみればつまらない。過去ではなく、今ここという時間と場所を大事にしたいなら社会的属性は少なくてよい。
 ほんとうをいえば、理事会のなかに医療の中味を語り合えるひとりの仲間もみいだすことができなかった。数年前、トップに立つひとの職員に対するパワハラ的言動に異を唱えた僕に同調するひとりの医師も理事会の中にいなかった。それもじぶんのなかでは燻っていた。これは僕の力不足にもよるのだが、このままではじぶんが駄目になると思った。これからはひとりの開業医として医師会の仕事には協力していくつもり。
 今、僕の大事にしているもの、患者さん一人ひとりにかかりつけ医として丁寧に関わること、そのこころざしを醫院ぜんたいで共有できること、わたぼうしカフェとその仲間たち、認知症のひとと家族を見守る多職種ミーテイングや地域ケア会議、そこでの地域の人たちと作る新しい関係、神医歌壇の選者としての仕事そしてこのブログ〈臨床余録〉。
 あと半年で古希。いよいよおまけの人生だ。その時間の意味を考えながらほんとうに大切なもののために生きる。拙著『落葉の思想』の「はじめに」にあげたー5つのSー small slow simple silent steadyをふりかえる。このうちはじめの4つは老い(あるいは老熟)のプロセスそのものともいえる。さいごのsteadyが課題。steadyではなく unsteadyになりやすい。他の4つのsの助けを借りてsteadyになるように努めることにしよう。

2018年 7月 15日  ひとは負けるために作られてはいない

The lancet に“from literature to medicine:文学から医学へ”という欄がある。7月9日号、Destroyed but not defeated-The Old Man and the Seaを読む。

 陽性、頑固、働き者という性向は長寿に関係するだろうか。イタリアの90~100歳老人を調べたところ答はイエスだ。身体的な健康は衰えるがこのグループの人たちは社会的生活をコントロールし働くことをやめない。その例外的な長寿は自分たちの逆境を受け入れることとへこたれないことのバランス、そして生きる目的を持つことに関係している。
 この受け入れとへこたれない根性のバランスはアーネスト・ヘミングウェイの“老人と海”にみてとれる。85日間魚のとれないキューバの老漁師サンチャゴの物語である。老いと不運に見舞われ彼は孤独のなかに漁に出る。遠く海に漕ぎ出しかつてない巨大なマカジキに遭遇する。魚の壮大さと新たに迫る闘いという目的に心ふるわせ、彼は死を賭して闘う決意をする。何時間もかけて巨大カジキはボートを沖のかなたへ引っ張っていこうとするがボロボロですりきれた体になりながらサンチャゴは魚を逃がすまいとする、人間ができること、こらえ得る限界を示すために。ヘミングウェイはサンチャゴの3日間におよぶ魚との闘いを記す、それは自然や彼自身との闘いであり、じぶんを虚弱な意味なき存在と認めることへの拒否であった。
 苦しい闘いの末、サンチャゴはマカジキに勝った。「お前はおのれの矜持を賭けてやつを殺した、お前は漁師だからだ」彼はふりかえる、魚の堂々とした体をながめ、この闘いが単に食料を得るためだけのものではなく彼に生きることの意味をもたらしてくれるものであったことを知るのである。しかし、かれの勝利は長続きしなかった。ハバナに戻る途中、血の匂いをかぎつけたサメの群れに襲われ魚は引き裂かれ跡形もなくなってしまう。おのれの努力が無駄なことを知りながら、サンチャゴはサメとさいごまで闘う、「人は負けるために作られてはいない・・・人は壊されるかもしれない、しかし打ち負かされることはない」夜明けとともに彼はボートを海岸にひきあげ、口から尾まで18フィートの魚の形骸をひきずっていく。
 ヘミングウェイの簡潔で直截的な文体はサンチャゴの決然としてしかも飾らない生活スタイルに照応している。彼は形容詞を余り使用せず、複雑な文脈や抽象語を避け、代わりに正確な名詞、短い文章、普通に使われる言葉や具体的な描写を用いた。1953年ヘミングウェイはこの小説でピューリッツアー賞をとり、翌年ノーベル文学賞を受賞する。・・物語はライフへの賛辞である。避けられない死というものに向かいつつつぶされず持ちこたえ生を成就すること。老いたイタリア人と同じくサンチャゴは、魚の骨だけを残したたった3日間の海の闘いではあったけれどおのれの命を燃焼させ、そのことで意味や尊厳、力を発見したのである。
 小説のなかでヘミングウェイは老いることの複雑さを明らかにしている。サンチャゴの力、衰え、地域とのつながり、常にある孤独、自立、若い弟子のマノリンの援助、これらすべては老いとともに変化し、そしてすべては変わらずそこにある。サンチャゴは昔に比べれば弱くなった、しかし偉大な漁師のままだ。小説の最初のページから、老年のリアルがを描かれる、姿は老いることはあっても人の本質は変わらない。「彼のすべては老いた、ただ彼の眼を除いて。それは今も海の色と同じであり明るく生気に満ち、堂々としていた」
 等しく大切なのは老年とともに来る身体と精神の変化である。この小説を読む臨床家はサンチャゴの食事の不規則、乏しい食欲、不眠や関節の痛み、日常生活上の援助の必要性に気づくだろう。しかしサンチャゴはマーリンの助けと蓄積した知恵と柔軟な態度で生きていく。彼は簡素な生活を送り自分のつつましさを不思議に思うことはない。それは恥ずべきことではなく彼のプライドを損なうものでもないことを知っていた。
 世界は老齢化の一途を辿り、すべての年齢層のひとはそれぞれのライフステージはユニークなニーズと力を持っていることを知るだろう。老いることは生命力を妨げることではなく、また老いても価値があると感ずる必要性も排除しない。ヘミングウェイはそのことを私たちに思い出させてくれる。それらの必要性に添うことは老年の最良のケアへの鍵になるかもしれない。

 以上が訳である。

 この文章に出会い、改めて新潮文庫『老人と海』(福田恆存訳)を読んだ。
 サンチャゴの生き方に共感する。
 超高齢社会、患者のなかに、彼のような老人はいないか考えてみる。そしてひとりも思い浮かばないことに驚く。

 「〈老い〉は、保護や介護、ときに収容や管理の対象とみなされてゆく。年老いて、じぶんはもう消えたほうがよいのではないか、じぶんはお荷物、厄介者でしかないのではないか、と問わないで生きているひとは少なくない。無力、依存、あるいは衰え、そういうセルフイメージのなかでしか〈老い〉という時間がむかえられないということが、わたしのいう〈老い〉の空白でなくてなんであろうか。」『老いの空白』(鷲田清一)

 このような空白の時代に生きているからこそ、サンチャゴの生き方が胸を打つのだろう。僕の中にもサンチャゴはいる。そして新たな海への船出を待っている。

2018年 7月 8日  記憶の継承

いかがなる理にことよせて演習に罪明からぬ捕虜殺すとや
生きのびよ獣にならず生きて帰れこの酷きこと言い伝うべく
  歌集『小さな抵抗 殺戮を拒んだ日本兵』渡部良三

 「戦時中は北支にいました。そこで今ならこちらが殺されてもおかしくないことをしました。柱にくくりつけて・・一突きにね。戦争はだめです・・あるとき壁に囲まれたところに閉じ込められて、もうだめだと寝転がると空に月がかかっていて、母親を思い出して・・」と泣きだしそうになる。老衰で動けず食べられないため最近訪問診療をはじめた90歳代の男性の言葉である。「この2~3日全く喋らず寝ていたのに先生が来たら急に起きて喋り出して・・」と驚くご家族。

 もうひとりの在宅患者も北支出征の経験を持ち、訪問する度にダムダム弾で打ち抜かれた右脚を僕に見せる。骨が砕かれ右脚は少し短い。皮膚のひきつれが創の深さを語る。上官である中尉の体にあたってから自分に来た。だからこれくらいで済んだという。一度こう話して1~2分するとまた同じ話をする。毎回はじめてのように聴くのは勿論である。生活の他の面ではぼんやりしている彼だが、ダムダム弾の話になると人が変わったように生き生きとした表情になる。

 酷寒のシベリア抑留の強制労働で凍傷を受け、半分屈曲したまま今も伸びない両手の指を診察時必ずみせる男性もいる。両手を合わせると掌に何か大事なものを包んでいる形になる。「零下40度で働いてね、指はこうなっちゃったんです。伸びないです。」と毎回初めてのように語る。ちがうことを聞いてもまたここに戻って来る。物忘れ顕著で問題行動もある方だがシベリアのことになるとしっかりとした喋り方になる。

 上の3人は皆高齢で認知症の人たちだが昔のことは覚えている。とりわけ戦時の記憶は消されることはない。それは単なる出来事の記憶ではない。戦争体験は彼らの世界への扉のような役割をしている。老年の域に入った医師の前で安心し、意識の抑えがゆるくなり戦争体験を語るのだろうか。みな家族の前ではこのような話をすることはないというのも共通している。往診という短い時間のなかで語られるのはいわば氷山の一角。その奥に凍結されたさらに深い記憶がある筈だ。それを無理やり解凍することはできない。

 朝日新聞(平成30年7月4日)にカズオ・イシグロのインタビュー記事が載っている。「日本でも欧州でも第2次世界大戦を生き延びた人たちがどんどん亡くなっている。彼らの話を次の世代に受け継いでいくことは、私たち世代の責任」と語る。

 僕の患者たちから戦争体験を聞きそれを記録し、記憶すること。ささやかだがじぶんのできることをしていきたい。

2018年 7月 1日  百歳パワーとは何か

「もっとも長生きした人とは、もっとも多くの歳月を生きた人ではなく、もっともよく人生を体験した人だ。百歳で葬られる人が、生まれてすぐ死んだのと同じようなこともある。」(『エミール』ルソー)

 百寿者研究会が出版した『百歳百話』という本がある。慶應大学と老人総合研究所が東京都に住むサクセスフルエイジングの代表である百歳老人の医学面、心理面、介護状況を調査した。その結果調査の副産物ともいうべき多くの興味深い話を聴くことができた。それをまとめたのがこの一冊である。
 その話を聴いて生きる元気の源をもらったと編者の一人、広瀬信義は言う。それを「百歳パワー」と名づけさらに調査を続け、第二集、第三集も継続させたいと語る。本には24名の百歳老人が登場する。人生で一番印象に残った出来事について聞かれる。関東大震災、太平洋戦争、家族との別れ等が多く、良い思い出よりも暗く悲しい記憶の方が多いというのが印象的である。

 僕の在宅診療でも百歳の方がさほど珍しくはなくなってきている。最近でも数人の百歳老人を在宅で看取った。百年の生涯の終りに参列させてもらっているという厳粛な気持ちが自然に湧いてくる。それぞれの人生の物語のさいごに参加させてもらうという気持ちである。ただ認知症の方もいるし、認知症はなくてもここに書くのが憚られるような老醜というしかない一面をみせる方もいて長命だからサクセスフルとは簡単には言えないように思う。

 僕が生きるちからを感じるのはどのような人たちからだろう。直近の印象に残る患者さんたちを思いだしてみよう。筋肉疾患があり間欠的に人工呼吸器を利用しながら通勤している青年、抗癌剤(副作用に耐えつつ)を受けながら日々じぶんのできる家事を淡々とこなしている中年女性、長年の神経難病で徐々に体が不自由になりながら日々にささやかな喜びを見出して生きている女性。このような患者さんたちは病気につぶされそうになりながら負けてはいない。僕がパワーをもらうとしたらこのようなひとたちからである。それは明らかにサクセスフルな高齢者のパワー、「百歳パワー」とは異なるものだ。

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