臨床余録
2018年 6月 24日  ほんとうに必要なもの

 アルツハイマー型認知症に対して日本でも使われている4種類の薬がフランスで保険適用からはずされ、使用する場合は全額自己負担になるという。副作用の割に効果が高くなく、薬の有用性が不十分だと判断された。
 8年前(2010年)に日本医師会雑誌に「認知症のひとを診るーかかりつけ医の役割」と題して投稿したが、僕の認知症に対する考えはそこにあり、今も殆ど変わっていない。認知症の薬は効果はあるが不十分であり、認知症をもつひとへのケアを通しての関わりが何より大切と書いた。
 認知症ケアの方法としてユマニチュードを推進しているフランスである。今回の判断も不思議ではない。投薬よりもユマニチュードの適用の方がはるかに効果的と考えているのではないか。
 日本では15年からの1年間、85歳以上のひとの17%が抗認知症薬の処方を受けたとされる。これはオーストラリアと比べ5倍以上という。どれだけの日本のかかりつけ医が認知症のひとを適切に診ているだろうか。薬を出してそれが治療と済ませていることはないだろうか。
 フランスの動向を受けて日本でも認知症薬物治療のcost-effectivenessが再検討される必要があるだろう。

2018年 6月 17日  認知症とともに善く生きるには

The lancet June 16 Editorial “Living and dying with dementia”と題する小論を読む。
 認知症の進行を止め、改善する新しい治療薬の開発の可能性はかつてないほど遠のいたようにみえる。代わってOECDから認知症のひとのライフ(生活)を優先するケアの必要性が出された。診断されたあと、殆どの患者は適切なケアがあれば自宅で生活することを希望しそれは可能である。しかし21のOECD加盟国の中で8か国だけ患者が地域で生活していると評価しており、QOLを一貫して考慮しているのはカナダとオーストラリアだけである。
 認知症をもちながら生活するに際し、ステイグマを減らし自立を推進する革新的住居モデルは依然かたちをなしていない。ドイツでは、全ての年齢の人びとが一緒に住み助け合う住居ユニットを提供している。オランダ、アメリカ、フィンランドでは、認知症も含む高齢者のケアハウスに一緒に住む若者たちは家賃を安くする試みも行われている。政府はdementia-friendlyなデザインのガイドラインを考えている。オランダでは、認知症村モデルとして認知症のひとにコミュニテイ全体を彼らのニーズを満たし安全で親しみやすい環境とし他にないほどの自律性を保てるようなものを提供している。
 認知症で亡くなることを話題にするのはタブーともされむつかしい問題である。緩和的ケアを利用するのは9か国で困難とされた。多くの国で、診断後の手順としてadvanced directivesがすすめられるがその理解度は低い。認知症に関するランセット委員会は患者中心の支援を目標にエンドオブライフケアのガイダンスを臨床家に提供している。しかし、国として認知症のひとの緩和ケアの枠組みを提供するところはなく、痛みの軽減や不適切な向精神薬の投与への取り組みはなされていない。認知症とはその境界線を越えるとライフ(人生そのもの)が何か減ってしまうようなものとしばしばみなされている。認知症をもちながら生きること、そして認知症をもちながら死ぬこと、その本質についてまなざしが注がれなければならない。

 以上が抄訳である。
 認知症になった時じぶんはどう生きるかを考えずに生きるのはこれからの時代、恐らく楽観的すぎる。若年性認知症は別として、認知症の問題は長く生きるようになった代償である。みなで考えていかなければならない。

2018年 6月 10日  病む旅人をもてなすところ

 ニューイングランドジャーナル2018年5月3日号“questionable admissions”を読む。以下要約。

 「ひどい咳が止まらないんだ、先生」と男が言う。緑色の痰には血がまじり熱は少し下がったが病院の粗末な毛布の下で震えている。
 病気は軽快したようにみえるが外は激しい雪で救急室の窓から見える筈の街の景色は消されている。ストレッチャーから外にはみ出す厚い踵には凍瘡のはじまりが見られ、この数日彼が屋内生活をしていないことを示していた。シニアレジデントを呼ぶまでもなく彼は肺炎であるとわかる。
 ベッドはある?と彼は僕に聞く。ベッド不足は公立大病院では常時、特に12月一杯、内科病棟は満床である。
 「食器戸棚にでも入れてくれ」「廊下でもいい、寝かせてほしい」と患者は僕に泣きつく。
 それもできなかった、既に廊下もベッドで一杯なのだ。上級医師は毎日やってきて入院患者を数え、僕らレジデントに患者を退院させること、入院させないことを訓戒する。例えばある夕方、明朝退院の予定である僕の受け持ち女性患者を今退院させよと命ずる。明日の朝退院できるなら今夜退院できる筈だというのである。彼女は泣き始めた。家には誰もいない、帰れないと。
 プレッシャーはいたるところにある。或る時、看護師に「先生のチームはとてもよくやっている」と言われた。「ありがとう、できるだけ患者に添ったケアを心がけているんだ」と答えたところ、「違うのよ、先生たちは患者をよく退院させているという意味よ」と言うのである。
 1980年から2006年の間に心不全の入院期間は10日から5日へ、白内障の手術は入院せず外来で行われるようになった。
 1954年心理療法家Paul Meehlは数学的予測ツールは医者の臨床的判断よりも優れるとする本を出した。現代の機械学習は、臨床診断を適切にコード化し情動や疲労に関するバイアスを取り除く。数十年の間多くのスコアリングシステムが予後予測し入院を減らすために作られてきた。僕の患者をCURB-65スコアでみる。2点だと30日以内で死ぬ確率は高く患者を入院させるべきとされる。患者は1点だった。これは死のリスクは低く外来治療でよいことを示唆していた。病院だけが与えられるものを必要としているようには見えなかった。酸素は要らなかった。抗生物質は経口でとれた。彼は僕が救急の冷蔵庫から持ってきて与えたサンドイッチをむさぼり食ったのち今は薄い毛布の下で眠っている。外は風が鳴っている。彼のリズミカルな呼吸の音を聴いていると、救急の雑音が遠のくようだ。アルゴリズムがなんといおうと彼を追い出すのはためらわれた。
 他のレジデントが働いているのを横にみながら僕は彼の入院オーダーを書く。アテンダントには相談しなかった。夜間はレジデントの世界だ。
 Meehlのロジックとしばしば戦う。その決定ルールに従っていればこんな風に疲れず空腹にもならない。患者との情緒的な結びつきで揺れることもない。
 しかしそれらはバイアスがないわけではない。哲学者のイアンハキングは、科学的数学的結論は主観的ではないがその結果は何が本当に大事かという社会的選択をいつも反映するということを示唆する。
 病院が何を与えられるかで入院期間が決まる。機械的アルゴリズムは似たケースで似た結論が得られる場合の目標となる。
 決定支援ツールなしの近代医学を想像することはできない。しかし医師になるプロセスには、状況が要求する時はルールを越えて行動するのを学ぶということが含まれている。
 EDに朝がきた。街は雪のなかに閉じ込められている。アテンダントがきた。彼の頬は寒さで赤くなっている。夜の間に入った患者をレビューしながらEDを歩いて行くうちにその色は薄くなっていく。僕の患者の部屋の前に来た。僕はくたくたになってプレゼンしながらドアにもたれてしまう。僕が話すとアテンダントの眉毛が持ち上がり、唇はとがる。彼はこれ以上ないというほど当惑してみえた。僕は話し終える。
 「何故君は(ルールでは入れる必要のない)彼を入れたんだ?」とアテンダントは(最終弁論のように)詰問する。
 疲労困憊のなかで、僕は心に用意していた言い訳はどこかにすっ飛んでいた。そして真実が口をついて出た。
 「彼が病気で、そしてどこにも行くところがなかったからです」

以上が要約である。

幾つかの感想。

  1. まず病院とは何かと思う。ホスピタルは中世ラテン語ではhospitale:客をもてなすところ。あるいは旅人をもてなすところ。長い旅で受けた傷や病を癒す家という意味。ホスピタリテイ、ホスピス、ホテルといった言葉も共通の語源を持つ。上のエッセイでいえばホームレスの男性を受け入れた若いレジデントである筆者のみホスピタリテイを保持していたということになる。
  2. 病院医師、とりわけアテンダントと呼ばれる上級医師の役割。入院のためのルールに則ってレジデントに訓戒する。まさにロボットだ。
  3. そして看護師。やっかいな患者を早く退院させる(追い出す)医師をほめる。若い看護師はこういうことはない。ある程度経験を積むと一部の看護師はこうなる。経験と冷たさが並行する。

“病院とは何か”を考えさせてくれるエッセイだ。Hospitale(ホスピターレ)の精神を思いだそう。しかし、一方、hospitalには修理工場という意味もあるのは皮肉なことだ。現代の病院はまさに“臓器修理工場”の観を呈している。

2018年 6月 3日  君たちに明日はあるか

 日大アメリカンフットボール部員のひとりが関西学院大学との試合で前代未聞の反則行為をした。大学が何の反応もしないなか、当の選手がたったひとりで記者会見し、謝罪した。反則行為は監督とコーチからの指示であったと明言した。そうだったとしてもじぶんの犯した行為は許されず、上からの指示に従うべきではなかったと反省した。彼の態度、表情、話し方などその真率さに打たれた。まともに人前で喋ることもできなかった20歳の頃のじぶんを思いだす。
 微かだが違和感もある。ことばにならない青春性といったらよいだろうか、何かに触発されれば爆発する、そんなマグマのようなものを1960年代後半の僕らは抱えていた。それは彼のように礼儀正しく落ち着いてしゃべる(体育会的というと偏見になるかもしれないが)ことを許さない混沌とした怒りだった。青春とは自虐、反抗、怒りだ。それが60年代の僕らだった。東大の医学部の非人間的な研修・労働体制に対する抗議から出発して全学的なストに発展し、全国に飛び火した。東大と並んで秋田明大をリーダーとする日大全共闘は先鋭的だった。当局の何億円の使途不明金への追求から大衆団交、バリケード封鎖へと広がっていった。慶應では、寄生虫学教室への米軍資金導入問題、学費値上げ問題、大学立法を巡り全学スト、バリケード封鎖、医学部長室占拠と発展した。社会的、人間的不正義への過敏すぎるともいえる異議申し立て。大学の知性はそのためにこそありそれは権力への反逆となって現れざるを得ない。
 『俺たちに明日はない』『明日に向かって撃て』60年代当時の映画だ。生きることの鮮烈さ。俺たちに明日はあるか。そう問うことが生きることだった。

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