境界領域研究会(グレンツゲビート)が今年も開かれ、前半の司会をする。西区の開業医だけでなくけいゆう病院の医師たちも参加する貴重な機会だ。いくつかの症例報告のあと西区在宅医療相談室の昨年の実績を増田先生が報告。入院した場合は、その時点で治療後の在宅復帰を視野に(つまりその方の生活をproactiveに考えて)治療を施すことの大切さがコメントとして追加された。
それに付け加えて僕は、けいゆうに通っていてかかりつけ医がいる方は病院とかかりつけ医との役割の違いを踏まえて連携しみていくことが重要、かかりつけ医がいない方は是非在宅相談室に探してもらってほしい。病院専門医が診きれないところをかかりつけ医がジェネラルに診ることで病院専門医も患者も助かる筈である、かかりつけ医は患者のいわば扇のかなめにあって各臓器専門医とつながっていると述べた。
僕の頭には、数日前から診ている患者さんのことがあった。10年前腸閉塞でけいゆう病院外科で治療を受け、以後外来に通っていたが、最近は落ち着いており下剤を家族が取りに行くだけ。泌尿器科と整形外科にもかかっている。その方が尿閉と発熱でほぼ寝たきりになり往診するようになった。家族は今後訪問診療を希望するが一方病院の医師に何といったらよいかわからず悩んでいる様子であった。
病院専門医からみればかかりつけ医にまかせるのはこころもとないということがあるのかもしれない。病院専門医にあの医者ならまかせても大丈夫と思わせるだけのものを町医者じしんが身につけなければいけないということなのだろう。かかりつけ医の質が問われている。
西区在宅医療相談室主催の勉強会で映画『ケアニン』を観、そのあと引き続き行われた加藤忠相氏講演の司会をした。
昨年7月、本多虔夫記念高齢生活研究室講演勉強会に加藤忠相氏を呼び講演を聴いた。藤沢市小規模多機能型介護施設(『ケアニン』のモデル)の代表を務める。聖テレジア病院飯野先生の推薦だったが、話を聴きその情熱と実践に衝撃を受けた。じぶんの世界の狭さを思い知らされた。介護というものに抱いていたイメージが全くかわった。これは西区の介護、看護にかかわる仲間にも是非きいてほしいと思っていた。
この映画は、フィクションではなく実際の施設の日常に沿ってストーリーが展開する。そこがまず大事なポイントだろう。
大森圭というひとりの若い介護士が認知症の女性を受け持つところから、その看取りに至るまで、様々な困難を通して成長していく姿が描かれている。若いゆえに利用者の家族から厳しい言葉を受け悩む、先輩介護士から介護は人間と向き合う大事な仕事であると聞かされる、認知症女性との関わりが深まるにつれ認知症で人生終わりという言い方のおかしさに気づいていく。一方、自分の名前さえすぐ忘れてしまう彼女との関係のむなしさにも苦しむ。そして仕事をやめようと思い詰める。ところが彼女が亡くなったあとそれまではずっと彼を見下してきた家族が訪ねてくる。施設をやめる準備をしていた彼にそれまでの態度を一変させて感謝の言葉を述べ、故人の書いたメモを渡す。そこには「大森圭さん しんせつ」と書かれてあった。彼の名前を彼女は覚えて書いていてくれたのである。
ここで映画は終わる。この映画をみて介護というものの深さを改めて思った。認知症で人生おわりではない、そこからはじまるのだ、ということをこの映画は教えてくれる。映画のなかで先輩介護士(加藤さんのモデル)が呟くように「俺はここに働いていて認知症なんて言葉は要らないと思うようになったんだ」と言う。味わうべき言葉だ。このような介護士がいる施設が増えていくなら認知症になってもこわくないと思うのである。
映画のあとは加藤さんの講演。2度目だが何回聞いても動かされる。介護とは単なるお世話ではないこと(「お世話する」は上から目線)、そのひとを生かすべく支援を提供すること、介護スタッフこそひとの看取りにかかわるべきであることなど豊かな具体例を通して語られた。話に熱がはいってくると観客席におりていき一人ひとりに向かって語りかける。その姿からは、講演前の控室で「ああどきどきする」と胸をおさえる仕草をする加藤さんは思い浮かばない。講演後、控室に戻り感謝をこめて感想を伝えると、「本当は介護なんていう言葉も要らなくなれば」といった意味の事を述べた。有名になっても少しもおごらない。このようなひとが介護の世界をさらにひっぱっていくことを期待したい。
2018年2月7日朝日新聞に“衰えても幸せ「老年的超越」”という記事があった。90歳を越えると心身の若さを保つのは困難になるが、それまでとは違う「幸せ感」を抱くようになる人が少なくないことがわかってきた。老年的超越とは、高齢期における「物質主義的、合理的な世界観から宇宙的、超越的世界観への変化」とされる。じぶんが宇宙という大きな存在につながっていることを意識し、死の恐怖が薄らいだり、他者を重んじる気持ちがたかまったりする状態である。超高齢のひとは、ひとりでいてもさほど孤独を感じず、できることが減っても悔やまないようになり、周囲への感謝の気持ちが高まりやすいという。ベッドに寝たきりでも昔を回想するだけで楽しいという人もいる。老いることを不幸ととらえていつまでも自立していなければと思いがちな人は、老年的超越は得られにくいようだ。
以上が記事の要旨である。
90歳を越えると50%近くのひとが認知症になる。90代後半になると80%が認知症。だから認知症は病気ではなく老耄(ろうもう)と呼ぶ医師(大井玄氏、松下正明氏)もいる(『精神科』Feb.2018 Vol.32No.2)。
上記の老年的超越は従ってかなりの部分がこの老耄に重なるのではないかと想像する。
先日訪問した90歳少し前の女性は独り暮らしだが、「1日何もしないで座っていても飽きない、全然退屈しないんです、先生」と述べた。いつもニコニコして平和な方である。認知症は目立たないがすこしあるのだろうか。穏やかでどんな人にも感謝の言葉を忘れない。夫の死亡、引っ越しなどの事態にもいつもにこやかに乗り越えてきた。一種の老年的超越といえそうだ。
在宅高齢者を介護するひとたちに医者の立場から話をしてほしいと頼まれた。介護のことを一番知らないのが医者といわれるのに僕でよいのだろうかと思ったが引き受けた。これを機会に勉強できればと思った。在宅医療の歴史的背景から看取りのガイドラインまで1時間半話したが、その一部をふりかえってみる。
高齢者介護のヒント集
以上、プレゼンのなかの1枚のスライドに加筆して見直した。改めて介護は深いと思う。
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