臨床余録
2018年 1月 28日  雪の夜に思うこと

 1月22日昼のみぞれが夜になり本格的な雪となった。醫院に泊まることにした。天気予報どおりなので準備はしてきた。近所なら長靴で往診可能だが、車は無理なので緊急コールがないことを祈る。去年もそうだったが今年も年明けから在宅で看取る方が多い。地域包括ケアの精神である“aging in place”(住み慣れた場所で最期まで)ということが浸透してきたのだろうか。去年1年間僕の患者の90%以上の方は病院ではなく自宅で家族に見守られて亡くなった。独り暮らしの方も頻回のヘルパーさんの見守りや訪問看護師さんのケアのもと亡くなる。前より気をつけているのは、往診希望あるいは電話への応答だ。定期的に診にいく訪問診療と違って何か異変があってコールしてくる。それに素早く親切に応えることが在宅医療の最も大事なポイントだろう。今までは電話で「心配ないのでもう少し様子を見てください」といって済ませていたところを「それでは診にいきましょうか」と答え、往診することが多くなった。それだけ大変ではあるが在宅で看取る割合は増えた。そのような家族への寄り添いが看取りには必要であることがわかってきた。
 今日一日をふりかえる。朝方90歳代の患者を看取った。それまで殆ど病気をしたことのない人で、いわゆる自然死、平穏死であった。それでも家族は「どうしたらいいんでしょう?こんなに食べなかったら死んでしまう。病院に行った方がいいのでしょうか」と僕に何度も尋ねてきた。その都度往診し、自然な老衰のすがたについて丁寧に説明した。長く生きて来た時間の果ての今の姿をふりかえり、それを共有することで家族は患者への思いを新たにし自然な無理のない看取りへと向える様子だった。そして旅立ちのそのとき、喜びでも絶望でもなく、いわば悲しみのまじる安堵のような感情に僕は包まれていた。外に出ると雪が来る前の寒気がひりひりと身を刺した。

鵯(ひよどり)のそれきり鳴かず雪の暮 臼田亜浪

2018年 1月 21日  賢く選ぶ

NEJM MARCH31 2016 The Science of Choosing Wisely-Overcoming the Therapeutic Illusion〈賢く選ぶことの科学―治療的幻想を越えて〉を読む。

 近年アメリカでは治療や検査の不適切な使用を減らす動きが見られる。最も目立つのがchoosing wisely キャンペーン。多くの検査、処方、治療が不適切に行われている。もっと注意深く患者と話し合いながらこれらの行為はなされるべきというキャンペーンである。
 しかしこれらの努力の成果は限られている。というのも人間というものは何であれ行動することを過大評価する性向があるからである。何も存在しないところに因果関係を推測する我々の性向を心理学者は“支配の幻想illusion of control”と呼ぶ。医学にあっては、それは“治療的幻想”と呼ばれる。1978年この言葉は患者と医者両者の治療への正当化できないほどの熱狂に対してレッテル貼りされた。医師が自分の行う行為の効果が(真の効果より)大きいと誤って信じてしまうとき(つまり幻想をもってしまうとき)、結果として不必要で高価なケアがなされることになる。より合理的な意思決定をしようとするならこの幻想について言及されなければならないだろう。
 より確かな根拠に基づくとはいうが、腰痛への介入から癌の化学療法までその利益を医師は過大評価する。その治療的幻想は不適切な検査や治療を続けやすくする。医学の決定の殆どすべての結果は少なくとも部分的には医者のコントロールの外にある。たまたまのチャンスが医者に因果関係についての間違った信念を抱かせるに至る。例えば、骨関節炎による膝の痛みに対して関節穿刺が学会の反対にもかかわらず過剰に行われている。膝の痛みは増悪寛解を繰り返す。多くの患者は穿刺のあと改善したと報告する、そこで穿刺は有効だったと結論するのである。
 さらに治療的幻想は選択的にインパクトのある根拠を探そうとする傾向によって強められる。これは“確認バイアスconfirmation bias”の特徴のひとつであり、それは我々がすでに真理と分かっていることを支持する根拠のみを探そうとすることである。複雑な病気の患者をケアするとき医者は特にこのバイアスにかかりやすい。患者が複数の医学的問題を持つとき、とりわけ集中的にモニターされているとき、ある治療的介入のあと改善の根拠をみつけることは可能であろう。例えば、critical care collaborativeは患者がICUの最初の7日間はtotal parenteral nutritionに反対している。しかし、もしそれが施行されたなら、検査で少なくとも幾つかの改善項目(電解質、プレアルブミンレベルなど)の指標を見出すだろう。
 支配の幻想は、それによって我々が物事を解釈し決めるところの学習則(heuristic)や経験則(rule of thumb)の形で人間の心理に深くしみ込んでいる。多くの学習則は潜在意識(subconscious)である、従ってそれを避けたり根絶することは困難である。しかし、それに対抗する意識的な学習によりその効果を弱めることができる。事実、医師は診断力向上のためにこの戦略を使用している。例えば、我々は診断するのに検査前確率を無視しがちである。その結果まれな疾患を過剰診断し、コモンな疾患を過小診断する。そこで「ひずめの音を聞いたら、シマウマではなく馬をさがせ」と医学生は教わる。
 この戦略は治療的幻想を抑えるのに役立つ。例えば、経口的摂取が減ることは進行した認知症のサインであり、しばしば予後のわるいことを示すマーカーである。いくつかの学会は認知症の患者に栄養チューブのルーチンの使用には反対している。栄養チューブを控えるというのは倫理的、法的な意味合いを含む感情的な決定であるが、ふたつの意識的な学習則は治療的幻想に対抗するのに役立つ。
 ひとつは、“治療は有効だったと結論づける前にほかの説明をさがせ”というもの。例えば患者の体重が減っていてチューブ栄養が施されるとき、体重が増えることは平均への回帰(regression to the mean)によって説明されるかもしれない。同様に、活動性の低下、感染症の治療の成功、不穏状態の治療などにより説明されるだろう。
 ふたつめの学習則は、“もしうまくいった根拠をみつけたらうまくいかない根拠をさがせ”である。言いかえると、否定的な結果を探すことにより有効である仮説を検証せよということ。たとえ患者の体重がふえたとしてもほかのアウトカムは繰り返す誤嚥性肺炎や褥創の持続を示すかもしれない。
 治療的幻想は過剰治療を駆逐する唯一の要素ではない。例えば進行期認知症におけるチューブ栄養の決定は支払い金の圧迫、医療の質、訴訟の恐れ、家族の期待などの要素にも左右される。その戦略の有効性を問うことなく治療的幻想を扱うことにより無効な治療は削減され得ると主張することは実質的には治療的幻想のえじきになることだろう。従って治療的幻想をマネージすることがいかに過剰治療を減らすのかという研究がなされなければならない。
 さらに治療的幻想をいかに減らすかに関する医学教育が検討されなければならない。医師は実際に患者を診るずっと前から治療的幻想におかされやすいのである。
 最後に治療的幻想がケアの領域で果たす肯定的役割について研究がなされなければならない。例えば、医師やケアワーカーが患者に向かうときにもつ心理的効果である。過剰治療と同時に過少治療にも注意が払われねばならない。
 Choosing wiselyは過剰治療の問題に対する野心的な企てである。しかしただひとつの解決法が有効だと考えるのは現実的ではない。医学会に依存したキャンペーンは偏狭な防衛へと向かうリスクを負う。それは他の専門性への不釣り合いな焦点化した薦めとなる。より総合的な広くそして基礎的なアプローチが治療的幻想を理解しマネージするスキルを生徒に与えるだろう。
 治療的幻想は過剰治療の寄与因子のひとつである。自らの臨床をふりかえり、自らの信念を検証し、シンプルな意識的学習則を応用することにより、すべての医師はより合理的な根拠に基づくケアに貢献することができるのである。

 以上が要約である。日々の臨床のなかの“過剰”を考える。過剰検査、過剰診断、過剰治療。より多く何かをすることによって患者をよくすることができると考えている。まさに幻想である。それに対していかに検査をしないで診断するか。いかに診断をせずに苦痛を減らせるか。いかに薬を少なく治療できるか。それが良質な医療だろう。だがそれは過少治療のリスクを負うことになる。過去の過少治療の失敗は僕にとって一種のトラウマになっている。Regression to the meanという言葉があった。平均への回帰と訳したが、中庸という語をあててもよいのだろうか。“中庸:mesotes(ギリシア)とはアリストテレスの徳論の中心概念。過大と過小との両極の正しい中間を知見によって定めることで、その結果、徳として超越する。例えば勇気は怯懦と粗暴との中間であり、かつ質的に異なった徳の次元に達する。”(広辞苑より) このような意味での中庸を臨床の拠りどころに据えることはできないか。evidence-based medicineの究極の形はこのmesotesの深みに達するのではないか。

2018年 1月 14日  後悔のちから

 NEJM 2017OCTOBER19 The Power of Regretというエッセイを読む。
 医学における後悔というと、普通治療の結果が悪かったときの感情のことである。臨床場面で、もしじぶんが違った風に行動していたらもっとよくなったはずだと思い、悪い結果を招いたじぶんを責める。
 後悔は医学上のあらゆる岐路につきまとう。医者を選ぶ、病院を選ぶ、診断をうける、予後を把握する、治療を選択あるいは断る、これらすべてのステップに不確かさがあり、それ故後悔のリスクが横たわる。落胆という感情はむつかしい選択をするとき経験するが、自己処罰を伴うことはなくその点後悔とは区別される。自己処罰を伴う後悔は患者にとって最も重い荷のひとつである。
 医者の感ずる後悔というと医療過誤と訴訟といった文脈で語られることがある。患者の感ずる後悔は医者の教育や研修で教えられることはない。
 悪い結果が後悔をもたらすとはかぎらない。膝の手術を受けて、それがうまくいかなかった場合、落胆はするが後悔はしないという場合がある。プロセスに従い、選択肢をみずから選び、インフォームドチョイスを行なう場合後悔は残らない。このようなプロセスが辿られず、結果がわるければ後悔が残る。これは“process regret”と呼ばれる。
 よい結果でも後悔を残すこともある。甲状腺の腫瘤がほぼ良性と思われるのに家族の心配をいれて手術を受け、結果は良性。しかし、手術をうけたことの後悔が残る場合である。患者は受身的な役割を果たしその結果の後悔、“role regret”である。
 インフルエンザワクチンの接種率の低さは“anticipated regret”のためとされる。ワクチンによる害が生じた場合に予測される後悔である。似た状況に癌スクリーニング、癌治療、生前診断検査、急を要しない手術などがある。行動しないことへの傾斜“omission bias”に基づくものである。
 これと逆に行動することはしないよりよいと考える“commission bias”に基づく“experienced regret”がある。行動をとりその結果がのちに悪い結果と分かる場合である。
 我々は痛みが強く深い不安にあるとき(“hot state”)早くその状態を改善しようとしてcommission biasに傾きやすい。Hot state にある時患者は治療によるリスクを軽くみがちであり成功の可能性を過大評価する。結果が悪いと後悔がもたらされる。
 医師として我々は医学における不確かさを鋭く認識している、にもかかわらずその親しい同伴者である後悔についてはあまりわかっていない。後悔は様々な形でパワフルな底流をなし、医者を当惑させるような患者の行動をもたらす。Anticipated regretは患者を決断への葛藤で窮地に陥らせ、患者を選択不能の状態に置く。これらの患者にとってanticipated regretを表面に出し彼らの恐れているものをオープンに話し合うことが大切である。そうすれば彼らに選択のリスクと利益に関する明らかなパースペクティブを持たせ、前に進むのを助けることができる。将来のexperienced regretを和らげるために医師としては患者の感情的温度emotional temperatureを下げ、できるならhot stateにあるときは決断を避けるようにする。緊急の状況を除いて、医師はprocess regretを回避するためにすべての治療選択についての思慮深い探索のプロセスを患者と共有することが望ましい。患者が決断の際他人の影響を受けやすいときはrole regretの可能性に注意しなければならない。
 後悔という感情は普通は否定的のものとされるが、この感情を認識することは臨床上の役に立つ。それは患者の行動に影響を与え決断する際にちからを与える。我々医師はあらゆる後悔のちからを理解することによって患者がよりよい決断をすることを助けることができるのだ。

 以上が要約である。
 このエッセイを読みながらひとりの患者のことを考えている。夫を癌で亡くしたあとはじめて僕の外来を訪れた。喪失の悲しみに落ち込んでいる、というのではない。死別に至るまでの自分の行い、そのひとつひとつ、例えば今在宅医療のことが新聞やテレビで報道されている。するとさいごに病院に入院する前に在宅医療をすべきだったのか、介護を利用すべきだったのか、しなかったために夫は早く亡くなったのではないか。繰り返しくりかえしその問いが突き上げる。あるいは、抗ガン剤をさいごまで受けたがそれで夫が早く亡くなったことはないのか。自分を責め、頭を抱えて僕の外来で訴える。この場合は夫の死に至るまでの治療やケアのプロセスを病院の医者や医療スタッフと話しあい納得するという作業をしてこなかったことが背景にあるのではないのだろうか。あるいは以前、この欄で紹介した臨床上の様々なシナリオプラニングを医師とともにしてこなかったことが一因であるかもしれない。上記エッセイの言葉でいえば“process regret”の一例といえるだろう。

2018年 1月 7日  ケアのちから

 「今しあわせです。こんなに親切にしてもらって、ヘルパーさんは皆やさしい・・・もう大丈夫です。」にこにこしながら、こう言うのは、ひとり暮らし高齢女性Tさん。
 30年前、脳出血を発症したがリハビリで日常生活は自立した。20年以上前から僕が診て来た方。はじめは病院で、僕が開業してからは区外の遠方から月に1回介護タクシーで通ってきた。几帳面で決めたことはその通りにならないと我慢できない。買い物はヘルパーさんに頼むにしても料理はじぶんで作る。半身のしびれのつらさ、身体の不自由、生活のこまごまを僕に語る。何か有効なアドバイスなどできればよいのだが中々できなかった。繰り返し語られるその訴えを共有しようとして、ただ聴いていただけかもしれない。それでも「私はここに来るのが楽しみ。ここに来られなくなったら先生、往診お願いね」と言っていた。
 その彼女が2年前、誤嚥性肺炎と狭心症で入院してから、立って歩くことができなくなった。そのため近くの医師が訪問診療をしてくれることになった。僕も安心した。ところがADLが低下した彼女は徐々に生きていく意志を削がれていく。衣類の着脱、トイレ、入浴、調理、これら彼女にとってじぶんが生きていることに等しい生活動作や活動ができなくなった。だからもうじぶんは生きている意味がないと思うようになる。「ひとりで居るのだから孤独死なんて当たり前でしょ。ヘルパーさんがきたら死んでいた、それでいいじゃないの」こんな風に言うようになり、主として狭心症、心不全のために処方されていた薬をすべてのまなくなった。こわいものはもう何もない彼女は、ケアマネを呼び往診医を僕に変えたいと申しでたのである。
 そういうわけで去年の暮れ往診した。2年ぶりに会う彼女は僕が行ったときベッドから落ち床に倒れたまま動けなくなっていた。やっとベッドに持ち上げた僕に「先生ありがとう。2年間ずっと待っていたの。じぶんのことはじぶんで決めたい。悔いのないように生きたい。私は安楽死を望んでいるの。長く住んで夫の手が入っているこの家でね。」と語った。全身浮腫が著明、酸素飽和度は低い。僕は驚かなかった。20年間見てきたのだが、いま彼女はじぶんのいのちより大事なものと向き合っている。それはおそらく自律とそれに伴う尊厳ということだろうと思った。
 彼女の思いは受け入れしばらく毎週訪問することにした。6種類だされていた薬の5種をやめ、浮腫の苦痛をとるため利尿剤の少量を追加し、1日1回2つだけ薬をのむことに同意してもらった。毎週の訪問時彼女は一刻でも惜しいというようによくしゃべった。ある日は、タンスの上に置かれた若い頃の写真を巡り夫との思い出が語られる。ある日は、死んだ母や姉がでてきてじぶんが何を食べさせたらよいかを考えている夢の話を聴く。「私はいま生と死の境にいるの。ちっともこわくない。早く迎えに来てと言っても誰も返事をしてくれない」と言ったりした。
 死を覚悟している彼女に対して何ができるのか、ケアマネさん、訪問看護師と相談する。そして担当者会議が開かれた。彼女のベッドを囲むように各事業所のヘルパーさん達もいれ8人が座る。好きなもの食べたいもののうち何なら今食べてもらえるか、時間のやりくりをしていつ誰が買ってこられるか、トイレに立てない彼女にどんなおむつなら不快感が少ないか、ヘルパーの来る時間をどうするか、彼女の好きなお風呂はどうするか、こういった話を彼女の寝る部屋で皆真剣に話し合った。それぞれがTさんの生き方にある種の共感を持っているようにみえた。いかに苦痛を少なくし、より多く安楽を感じてもらえるか、Tさんを交えて話し合ったのである。そのときふと出たのが、冒頭の彼女の言葉だ。僕は驚いた。そして胸が熱くなった。それまで「死にたい」と繰り返し言っていた彼女が、「じぶんはしあわせ、もう大丈夫」と言ったのだ。そして、“いよいよお別れのとき”と誰もが思った年末年始を越え、Tさんと僕たちは新しい年を迎えることになった。

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