臨床余録
2018年11月25日
根拠に基づく医学(EBM)を越えて

 NEJM Nov 22 2018 Beyond evidence-based medicineを読む。

 直観に基づく医学(intuition-based medicine)についで登場したEBMは重要な進歩をもたらしたが、その限界も明らかになりつつある。臨床研究に基づくガイドラインはわれわれの日常臨床に組み込まれている。しかし、医師がEBMにより有効性が証明されている薬の処方をしても患者がそれをのむかどうかはよく見積もってもコイン占いに近い。
 このギャップはEBMを越える何かの必要性を示している。われわれの考えでは、必要なのは“interpersonal medicine”(人間関係医学)つまり、患者の環境、能力や嗜好に対応するケアを届ける統制のとれたアプローチである。人間関係医学は単によい(nice)ということではなく、有効(effective)であるということ。それはヘルスケアにおいてEBMと同様の厳格さと尊厳を備えている。 人間関係医学は、患者やインフォーマルケアラーへの関係性に及ぼす医師の影響を重要視する。縦断的、多方向的コミュニケーションに基礎を置き、社会的、行動的要因を考慮し、ケアチームと協力体制をとる。医師は患者に変化をもたらすスキルをもつことが要求される。
 EBMを拒否するのではなく、われわれは人間関係医学を患者ケアのための知識を広げるべく次にむかう段階とみなす。
 直観に基づく医学も悪くはなかったが医師が得られるデータは限られていた。1990年代に入りEBMがその厳格な科学的方法をもって登場した。1996年サケットはEBMを患者ケアのための良心的で思慮深いベストの医学的エビデンスを提供するとした。
 まだ十分信頼されてEBMが使われているとはいえないが、かなりの進歩はあり結果は改善している。
 今日の我々の病気には3大慢性病(肥満、糖尿病、心臓病)と我々の一部が不釣り合いに多く死ぬ病気(自殺、アルコール、薬物)がある。これらの病気の決定因子は厳密には生物学的なものではない。それは社会的な原因であり、行動的な原因である。これらの疾患は、単なるクリニック受診やエビデンスに基づき処方しただけでは効果的に対処できない。
 患者が明らかに身体的症状を訴えても、解決は行動的、社会的原因を扱うことでもたらされる。それは伝統的な医者―患者関係ではうまくいかない。モチベーション、関わり、励まし、確信そしてレジリエンスといった作業により一連の意味ある交流を通してよりよく扱われる。これらの相互交流は、医者と患者、患者と家族や地域、そして患者同士で家、職場、地域において行われる。相互交流により関係性が築かれる。
 これらの関係性は、多くの疾患に対する我々のアプローチへの根拠をあたえるが、ハードデータを確立するためには医者がそこにいることとその能力を必要とする。人間関係医学は医者が旅行仲間のように、経験のあるガイドのように患者に寄り添うスキルを要求する。
 それはまたそのスキルをシステムとして用意することを要求する。例えばBoston Brigham and Women Hospital ではすべての患者は社会的ニーズをスクリーニングされる。
 ヘルスケアのあり方は多様に変化する。Evidence-based careが強調されるが、新しいvalue-based modelは情報よりも効果を優先する。 気持ちだけでは効果はもたらされない。データは患者との信頼を築くのは医者の協力的、協調的関係性であることを示している。患者の経験では、大事なのはケアの与えられ方である、共感、協調、コミュニケーションが大切。コミュニケーションのよい医師は19%の治療へのアドヒアランスアップを認め、他の結果の改善も認めた。
 人間関係医学を信頼性のあるものにするにはEBMが示したものを応用することが可能だ。まず初めに、それは教えられるものでなければならない。クリーブランドクリニックではすべての医師が正式にコミュニケーションスキルを学ぶ。次のステップはプロセスと結果を測定すること、もし信頼というものが、その上に医師患者関係が築かれる土台であるならば、我々はそれを測定する仕事をもつことになる。3番目のステップは不安を減らし相互作用を育てる環境を作り出すべく医者と患者のペアをうまく組み合わせる。生産的対話を作り出す。例えば、デルメデイカルクリックには待合室がない。患者、家族そして医師は会話が生まれるようにデザインされた部屋に直接入る。診察台はなく必要なら椅子が診察台になるなど。
 さいごのステップは、人間関係医学にインセンテイヴを創りだすことである。結果、関係性、理解そして一次的な価値の指標として生産性というものを越えて臨床医を評価する必要がある。透明性というものが科学的成果と同等に人間的なスキルを認識し祝福する最も効果的な道である。我々は感情を包み込み行動の価値を認めるような医学の共感的ヴァージョンを追究することができる。もし我々が人の生物学と同じくらい人間性というものの価値をみとめるならばである。

 以上が抄訳である。大事と思われる部分に下線した。
 僕の理解ではEBMは患者にベストのエビデンスを提示するのだが、その実践には医師のexpertise技量と患者のpreference意向というものが加味されなければならない。折角ベストのエビデンスの治療を与えても患者の意向が主としてそれを選ばないこともあるだろう。医師の技量の未熟さのために患者が選べないこともあるだろう。いずれにしてもそれはEBMという領域のなかで考えられそうな気がする。あえてinterpersonal medicineという概念を導入しなくてもいいかもしれない。EBMのなかに既にinterpersonal な要素は組み込まれている。つまり、EBMに支えられた良質の医学的実践は既にinterpersonal medicineなのではないかと思うのである。
 だが、それにしてもこの論稿であえてinterpersonal medicineの提唱がなされているのは何故であろうか。恐らく従来のEBMの枠内では医師と患者との関係性に力を注ぎ込むことができなくなっている現状があるのではないか。EBMは素晴らしい。しかし、エビデンスをもたらす研究と医師の関係のほうに重点が置かれ患者に関与しながら臨床を行なうという面がおろそかになってきているのではないか。そういう文脈でみるとこの論稿の趣旨はよく理解できるのである。


2018年11月18日
ありのままの子どもたち

 こんな小児科クリニックがあったらいいなあという、そんなクリニックが「絵本で支える子育て」第31号に紹介されている。青森県弘前市にある城東こどもクリニックである。採血のために処置室に来たこどもにナースの赤平さんがいつもポケットに用意しているおもちゃをみせて「だいじょうぶよ」と言いながら安心させている場面が第一面に載っている。
 松原徹院長が大切にしているのは、患者さんを診る時、症状だけでなくその背景をみること、咳や嘔吐にも理由がある。赤ちゃんを診るとき、お母さんとの対の存在として診る、お母さんの表情や世話の仕方を見る、つまりお母さんと子どもの関係性をみる。そこに問題があればアドバイスする。
 子どもとうまく接するための心がけ。自然のなかの自分を考え、ありのままの子どもを受け入れようとする。松原氏は野山の自然の中で育ち、今もスキーや山歩きなどアウトドア派。クリニックには彼の撮った植物の写真が飾られている。

 地域の小児科医として意識していることは、患者と医者との関係性、子どもをみる目線。馬の話、セミの話などいわゆる雑談、自分のことも趣味や失敗談を含めて話す。
 子どもの心の問題に取り組むに際してはスタッフと協力してチームとしてみていくことが大切と考えている。入り口にはスタッフの顔写真とコメントが貼られ、待合室にはたくさんの絵本が置かれている。子どもからの手紙を受けるユーモラスな顔のポストもあり、「ポストで~す。おてがみください。待ってま~す。おなまえかいてね」と書かれていて、返事は子どもたちの自宅に届く。
 インタビュー記事を載せるにあたって改めて自分はなぜ医者になったのか、なぜ病児保育をやるのか、なぜ子どもの心の相談を受けるのだろうとふりかえったという。そして、自分をふりかえることなく相手を知ることはできない。子どもが心を閉ざしているのは自分に原因があるかもしれないのです、と言う。

 大人のこころの問題のほとんどは子どもの頃の問題に由来すると僕は思う。松原医師のような小児科医が増えれば間違いなく子どもたちの笑顔も増えるのではないか。関係性を重視し、親子を対としてみるウィニコット(小児科医で精神分析医でもある)的なアプローチは母子に安心感を与えるであろうし、またその間主観的感性に支えられた言葉のやりとりは病む親子を支えていくことだろう。


2018年11月11日
往診代行システムを巡ってー看取りについて考える

 横浜市医師会報に南区医師会24時間365日対応在宅医療往診代行システムが紹介されている。在宅医養成研修が平成28年度から行われているが新たに往診をはじめようという医師がでてこない。それまで診ている患者さんで往診が必要となってもかかりつけ医がそれに踏み切れないのは24時間対応できないからだという。そこで在宅医療専門のクリニックと契約して急な往診希望や看取りへの対応を図る。「初めてのところにいつでも行ってもらえて、看取りまでしてもらえて、出動した場合にすぐに報告が来ることを考えると、(1回2~4万円の出動費用は)決して高くないと思います」と医師会長は述べる。

 さてどうだろうか。看取りの場面を思い浮かべる。今まで見たことない初めての医者が来て「ご臨終です」と言って死亡診断書を書く。それが看取りだろうか。それを家族、あるいは亡くなった本人はどう思うだろうか。

 小堀鷗一郎氏は『死を生きた人びと』のなかで次のように述べる。「親を看取る」という「NHKスペシャル」を観ての感想である。
「その一場面が気になった。高齢男性が最後の息を引き取る直前に、それまでの比較的長い経過中に本人や家族と接触していた医師とは異なる人物が、医師として登場した場面である。家族が在宅死を受け入れるに至る過程で最も重要なのは、担当医師と家族との間に築かれる信頼関係である。この信頼関係は、身内が死期を間近に控えて動転する家族と医師が何回も顔を合わせて色々な悩みや心配について話し合うことから生まれる。病院の一般外来のように、当番制で日ごとに異なる医師との間に生まれる性質のものではない」
全くその通りだと僕も思う。

 僕が訪問診療している高齢精神障害者の看取りのためのグループホーム「おきな草」では、入居者は精神病院の長期入院を経て、社会復帰はできない人たちである。精神病院で死を迎えるかわりになり得る施設として「おきな草」がつくられた。入居者の多くはからだの不自由を伴うが、皆ひろびろとしたきれいな個室を用意され、丁寧な介護を受ける。厨房でこころのこもった食事を用意され、一人ひとりの人生がスタッフに共有され、月2回の内科医の訪問診療、リハビリ、町への外出などが計画される。この数年で何人かが亡くなった。看取りの施設らしくないですね、という僕の言葉に、「その人がおきな草に来てから亡くなるまでのすべての時間が看取りなのです」と管理者の櫻庭さんは答える。それは恐らくホームの理念である“瞬間の幸福”と関係の質の積み重ねなのだろうと僕は思う。「おきな草」には看取りの施設とはとても思えない、活気と明るさがある。ここでは看取りというものをある時点でとらえるのではなく、生の側にある程度引き延ばしてとらえようとしている。この「おきな草」の視点は僕を驚かせると同時に僕の眼を開かせてくれる。看取りとはその人がさいごまで人間らしく生きることを支えることである。死の3徴候を確認して「ご臨終です」と宣言することが看取りであるとする視点とは正反対の考え方がここにはある。


2018年11月4日  これからのこと

長くおこなっている在宅訪問診療のなかで徐々に解(ほど)けてゆく高齢者の日々の生活の時間にどうむきあったらよいか、考えこむことがある。何度か転倒あるいは誤嚥性肺炎で入退院を繰り返しているその老婦人もフレイル(虚弱)の徴候は明らかでベッド上生活だった。9月の終り、その日もいつものように何か心配なことはありませんか、という言葉で診察を終えようとしていた。その方は、ちいさな声で「これからのこと」と呟いた。「どんなことですか」という僕の問いには笑って答えようとしない。「これから気候もよくなるし車椅子で近所を散歩できるといいですね」と話し、退出した。 医院への帰路、歩きながら「“これからのこと”って・・・・、もしかすると一番大事なことを話し合うチャンスを逃してしまったかもね」「先生、そうですよ、私もそう思います」と看護師と言葉を交わした。

Lancetの最近の一冊にwhy talking about dying mattersという小論が載っている。人生には本質的に困難ないくつかの会話がある。その生の終末に近づくなかでの死の話題はそのリスト中トップにあがる。ヘルスケアのプロが関わる中で医師が今後の病状やケアについて正直な会話の口火をきるべきだが、その時大事なのは共感compassion とリスペクトrespectである。医師が死について話すのを困難と感じるのはそれを、万能とも考えられる医学の失敗ととらえるからである。医師の多くは死についてどう切り出してよいかの知識やスキルを持ち合わせていない、自分の判断に自信を持てない。その後の終末期ケアも、誰が話し合いの中心になるのか定まらず、話し合いはあとまわしになりがちである。しかし、患者や家族は実はその話し合いを歓迎しているというエビデンスがある。エンドオブライフのプランを持つことで彼らはケアや決断する力を得ることができる。多くの人が長く生きることで複数の長引く病気を持つようになる。患者とケアスタッフとの話し合いは大切である。NHS10年プランのなかで死をめぐるadvanced care planningが重要な位置を占める。望ましい死(a better death)とは尊厳に満ち、症状がコントロールされ、いかにそしてどこで生を終えるかのより多くの選択肢が示され、遺族に望ましい経験をもたらすようなものである。死をめぐる話し合いを避けることはこのような利益を無にすることになる。

以上が要旨。英国の医師もやはり苦労していると知り、少し安堵する。医学の知識は勉強すれば身につけることができる。しかし、死をめぐる臨床はそうはいかない。医師としての経験の積み重ね、自分への内省的ふりかえり、患者一人ひとりの生への深いまなざし、そして老いや死への熟慮が必要となる。在宅医療はアート。Long way to goという思いがしきりである。

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