臨床余録
2017年 9月 24日  わからないこと

集団的個別指導の通知が来た。「内科、在宅医療支援診療所」という区分の診療所の中で(トータルではなく)患者一人あたりの診療点数が(他の診療所に比し)高すぎるとされたことになる。週4日の外来診療(昼休みに往診)以外に、週2日は終日訪問診療で、現在月に60名以上の在宅患者を診ている。レスピレータ、HOT、IVH等医療依存度の高い患者を病院から頼まれると一人あたりの点数は高くなる。緊急往診や夜間の往診も多い。24時間365日緊急コールの携帯を離すことはない。月2回の定期訪問だと点数が高くなるので、状態が落ち着いている患者は1~2か月に一回の訪問としてきた。往診料はもらわず、患者さんによっては高負担の加算は算定しない。それでも、月一回定期訪問の診療管理料が新たに算定可能になり応援されていると思っていた。在宅診療は町医者のミッションである。依頼があれば断れない。在宅での看取りも多くなった。ときにバーンアウトの一歩手前になりながら診療に魂を込めて来た。それができるのは医者として人間として、在宅で出会う人々からはかり知れないものを学ばせてもらっているからである。何がいけないのか。在宅患者の割合が高くなれば時間あたりに診ることのできる患者は減り、ひとりあたりの診療点数は高くなる。地域包括ケアシステムが唱えられ今後さらに在宅診療を希望する患者が増える予測のなかで手を抜くわけにはいかない。一方で在宅を推進せよといいつつ他方で在宅を控えよとは矛盾ではないか。

2017年 9月 17日  SpecialtyがGeneralityを支える

 9月16日(土)午後の訪問診療を終え、わたぼうしカフェ(認知症カフェ)に顔を出し、夜の7時新幹線で京都に向かう。日本神経学会総会に出席するためである。神経内科専門医であり続けるためには研修会や学会に出席して獲得しなければならないポイントがある。僕は開業医としての仕事に追われて必要なポイントがとれず、1年の保留期間の間に足りないポイントをとることになった。さもないと専門医が剥奪される。それも仕方がないかなとも思ったが、やはりもう少し専門医にこだわることにした。

 日本内科学雑誌9月号は2017年日本内科学会講演会、“超世代の内科学-generalityとspecialtyの先へ-”と題する特集を載せている。特別シンポジウム〈理想の内科医像〉の中で川越正平医師は在宅専門医の立場から、「在宅医療に取り組むかかりつけ医は、生活の視点と疾病の軌道(臨床経過や予後を知ること:筆者注)を武器に、患者の人生に寄り添うことができる。患者にとってしばしば難解である医療の伝導役として、病院と地域をつなぐ役を果たす。」と述べる。総合内科医である松村正巳医師は、「多くの内科医には生涯キャリアのステージに応じた役割がある。専門性を有しながらも、それぞれの立場に応じて臓器横断的診療マインド(ジェネラルな診療への志:筆者注)を保つことが現在の日本の理想の内科医と私は考える。」と述べている。

 僕はこの松村医師の言葉にほぼ同意する。精神科医として出発したが、本多虔夫先生に出会い神経内科専門医となった。さらに英国に留学し神経病理学を学んだ。専門の中の専門である。それが今の開業医のジェネラルマインドにどう寄与しているかと言われれば直接には全く関わりはない。ただ、例えば脳の切片を切り出し、染色し顕微鏡下にその微細構造の変化を調べること、それを論文にまとめるために極度に濃縮した時間を持ったということ、そのことは今のじぶんの臨床の土台を支えている。そう思う。また、医師としての出発に際し、精神科医を志したということは僕の医師としてのアイデンティティーに深くつらなっている。ひとりの町医者としていま病むひとを前にした時、臓器的側面からそのひとを診ると同時に、ジェネラルにそのひとを全体として診ることをこころがける。そのgeneralityを支えているのは、神経内科医および精神科医という僕のspecialtyなのだと思う。

2017年 9月 10日  妻を亡くした男たち

 80歳の女性Aさんは重度の心不全。酸素吸入なしでは生きられず、動くのも息切れのため制限され、食事や睡眠もソファの上でとっていた。隔週の往診時、いつも「先生、聞いてよ」ではじまる。内容は夫のこと、「先生、このひと、先生がいる間はいいけど、先生が帰ると途端にひとがかわるの、鬼のようになってペットボトルでたたくのよ」「そんなことするわけないじゃない」と当惑顔で夫。「奥さんのこと心配してますよ、薬もとりに行ってくれるし、買い物もしてくれるし」と言うと「買い物って、どこか遊びにいってるだけ、肝腎のものは忘れて買ってこない」「このひと何もやらないしできないから私が苦しいけど夜中に起きて台所仕事するのよ」「入院?入院したら病院で殺されちゃう。絶対いや。ここで先生に死亡診断書かいてもらいます」と心不全の悪化を懸念する僕のすすめを退ける。往診を終えて玄関で夫に「大丈夫ですか」と聞くと、「私は大丈夫です。病気で言ってるんで仕方ないですね」と少し表情を和らげる。このような状態が1年以上つづいた。
そんなAさんが亡くなった。訪問診療中ついに彼女から夫への感謝の気持ちは聞くことができなかった。ご夫婦の長い生活の歴史がある筈で、立ち入ることはできない。しばらくして夫と話した際、「毎日、写真に話しかけています。まだいないのは信じられない。寂しいですね。」と下を向く。

 もう一人。75歳女性Bさん。いくつかの生活習慣病が重なる状態で長く医院に通院している方である。ご主人は勤務の間を縫って時々通院していた。どうしてなのだろう、BさんもAさんと同じように、受診するとじぶんのことよりも夫のことを喋る。顔をみるとむかむかする、無理して働いてもらわなくていいのに、帰ってくれば何も喋らず酒ばかり飲んでいる、注意すればどなり返すだけ、「出て行け、ぶっ殺してやる」とどなる、私も言い返すけど、妻のことはどうでもいいと思っている、といったことをえんえんと喋り続ける。最近は一緒に受診することがあり、夫は苦笑いするばかりで一切反論しない。
そのBさんが、ある朝突然死した。夫は茫然自失といった状態だった。それからしばらくして、夫が受診。「まだ信じられませんね。寂しいですね。仕事から家に帰ってドアあけると中が真っ暗なんです。ああ、いないんだなあって。毎日、仏壇に水とお供えをして遺影に話してますよ。」とうっすら涙を浮かべる。

 医院のスタッフは、「やっぱり男のほうがやさしいのかしら」という。僕はふと敗戦直後、学生の吉本隆明が太宰治の家を訪ねた時の挿話を頭に浮かべる。

「太宰さんも重かった時間がありますか? どうすれば軽くなれますか」「いまでも重いよ、きみ、男性の本質は何だかわかるかね?」「わかりません」「マザーシップだよ。優しさだよ。きみ、その無精髭を剃れよ」(吉本隆明「現代学生論」『擬制の終焉』所収)

 そして、やや飛躍するが、シュヴィングが『精神病者の魂への道』の中で述べた“母親愛”Mutterliebe と“母なるもの”Mutterrichkeitの違いを思う。AさんやBさんの心もちは女性的で“母親愛”である。それに対して、その夫たちの態度には“母なるもの”のまなざしを感ずる。太宰の述べた「マザーシップ、優しさ」とはこのことだったのではないかと思うのである。

附記:“母親愛”とはじぶんのためにひとを愛すること、それに対して“母なるもの”とは相手に添ってそのひとのありのままを愛する態度のことである。

2017年 9月 3日  晩年を準備する

lancet July29, 2017 “Preparing for later life today”と題するEditorialを読む。
英国政府は年金受給年齢を2037年には68歳にあげることを決定した。年金が初めて導入された1948年には65歳の人の平均余命は13.5年だった。それが、2013-15年には19.7年に延びた。日本では老年の定義を65歳から75歳にすることが提案されている。
 世界の人口が老齢化しているのは否定しがたい。日本人は最も高い平均余命を示しているが、最近の調査では老齢に伴う疾病のため、長く生きることが必ずしもよく生きることにつながらないとされている。死因となる疾患は減少しているが、アルツハイマー病その他認知症による死亡が著明に増えている。
 2015年には4700万人が認知症を患い21世紀の大問題となっている。Gill Livingstonらによる委員会(commission)は認知症にどう対応したらよいか、提案している(lancet on line July 20 2017 “dementia prevention, intervention, and care”)。
 認知症は老年に伴う不可避のものであるということは長く医学の精神構造を支配してきた。治癒することはないが、抗コリンエステラーゼ剤で経過を緩和することができると委員会は指摘する。
 委員会における新規の生活経過リスクモデル(novel life-course model of risk )はこの病気の原因に関する我々の理解を変化させうる。このモデルは、危険因子を単に老年とするのでなく人生の各フェイズにおける危険因子を組み入れる。ここから、著者らはもし特定の危険因子がないとしたら疾病の発生が減る割合(population attributable fraction: PAF)を引き出す。遺伝因子で重要なapolipoprotein E ε4alleleは病気の7%、一方修正しうる9つの危険因子を除いたらより大きな効果を期待しうる。中学教育を受けないことは8%、45歳以上で高血圧、肥満は3%、聴力喪失は9%、65歳以上のうつ、糖尿病、運動不足、喫煙、閉じこもりなどが15%とされた。まとめると、これらの因子を取り除くとすべての認知症のケースの35%を防ぎうるとしている。従って、認知症は老年の病気とみなされるべきではなく、臨床的にはサイレントだが中年(mid-life)の病気とみなされ得る。
 委員会は認知症をもつひとへのケアにも光をあてる。Social contactのPAFは高血圧や運動不足と同じ位高い。ケアは普通家族により行われるが、彼らの生活の質は低く、40%の介護者は著明なうつあるいは不安を経験している。
 認知症の発症を5年遅らせることができるなら、有病率を半分にできる可能性がある。これは中年でのより強力な介入により可能となるだろう。認知症ケアは、医学的なものだけでなく、社会的、支持的ケアにまで広がるべきであり、個人に合わせたもので、家族の支援も組みいれるべきである。このように見方を変えることは老年の病気を予防し得るものと考える機会となる。より長く生きると予想される我々であるから老年の準備は今から始めよう。

以上が要旨である。認知症の原因を多因子的に考える。人口寄与割合(population attributable fraction: PAF)がキーワードだがややわかりにくい。例えば高血圧や糖尿病で脳梗塞になれば認知症は悪化する、社会的引きこもりも悪影響を及ぼすのはわかる。しかし、高血圧あるいは引きこもりが直ちに認知症を引き起こすわけではない。原因というより間接的危険因子というべきものだろう。これら危険因子が除かれれば、認知症の35%は防げるとする結論には驚かされる。委員会の原論文のはじめのサマリーを読むと、“theoretically be preventable”とされている。62頁の長い論文だが読んでみよう。

附記
1.「人生100年時代構想会議」なるものが日本政府により計画されている。“The longer, the better” とは決して言えないこの時代、上からの構想には抵抗感がある。たまたま健康や才能、あるいは環境に恵まれsuccessful agingを享受している人たちから何かを学べるとは思えない。人生100年時代の到来は〈今ここ〉に生きている一瞬の生の中身をますます貧しいものにするだろう。
2.「晩年とは死とむきあう年である。それは本人の心がまえにかんするもので、生理的年齢とは無関係である。」「晩年は矛盾にみちた時代である。死を泰然としてむかえるためには、現世への未練が少ないほうがいいのに、死に近づくほど、生活では現世の人間との連帯が必要になる。」『われらいかに死すべきか』(松田道雄)医者も普通の市民。松田さんは、つねに市民の視線で生と死を考えていた。

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