1週間の夏休み。どこにもでかけなかった。旅行することをからだが欲していない。そういうときはからだのいうことを聴くしかないのだ。そのかわり比較的自由な時間とぜいたくな静けさが与えられた。ふだんはこまぎれの時間しかないので長い本が読めない。この休暇で去年から読み続けていた本を一気に読み終えることができた。
「私の名はアダム。私は人間である、夫であり、父親であり、緩和ケア小児科医であり、研修副部長である。うつと自殺願望の既往があり、回復期のアルコール依存症である。」こう始まるエッセイ(NEJM376; 12 MARCH23 2017)を読む。
数年前、私はある美しい秋の夜、トネリコの天蓋の下、自宅近くの国立公園で、もう家には帰らない決意で座っていた。数ヶ月の間、虐げられ、オーバーワークでネグレクトされ認められていないと感じていた。自分が誰で何であるかわからなくなった。ひどいうつに陥り、家に帰り眠るため酒を飲むだけの生活が続いた。その後は回復に向かうのだが、筆者は2人の同僚医師が自殺したことに触れ、精神疾患にまつわる烙印について語っていく。その烙印のために彼らは他者の助けを拒み命を落とすことになった。筆者は、さらに多くの苦しむ者がいるはずと考え、200人の聴衆のいる病院グランドラウウンド講義で自らのアルコールとうつとその回復過程について話した。聴衆は静まりかえり、そして共感の大喝采で答えてくれた。恐れと恥のなかでじぶんは行き延びて来たが同じように苦しむ多くの人を取り巻く文化が変わらなければならない。そのために自らの回復過程から学んだいくつかの重要なポイントを提示していく。
一つ目は、セルフケアについてである。我々の厳しいストレスに満ちた仕事に対処できるように計画を立てなければならない。筆者の場合、カウンセリング、瞑想、運動、サポートグループなどを利用した。自己認識(self-awareness)を高めるように努めた。医学と個人的生活との境界を確かめ、自己の必要のヒエラルキーを再調整した。私は人間であり、夫であり、父親であり、そして医者なのである。人をケアする前におのれのケアができなければならないことを学んだ。
二つ目、ステレオタイプ化。アルコール依存症にまつわるそれは浮浪者あるいは怠け者である。自分は回復期グループミーティングに参加しホームレスから会社社長まで様々な人が苦しんでいることを知った。一人ひとりにストーリーがある。これは自分の臨床のふりかえりにもなる。
三つ目、ステイグマ(烙印)である。精神的問題がそもそも医学の専門家たちから烙印をおされていることは皮肉である。どうやって彼らは自分たちの職場の半分以上が燃え尽き症候を呈していることに耐えているのだろうか。最近、医学生が自殺した。「われわれはみな彼女が医者になれるほど強くないと懸念していた」という者がいた。私たちはみなこの恥かしい言葉に責任がある。彼女を自殺から守れるかどうかは私たち次第なのだ。
四つ目は、脆弱性(vulnerability)についてである。他人のフェイスブックの完璧な生活ぶりをみると、私たちは自分のあるがままを隠して反応しがちである。失敗が創造性、革新、発見そしてレジリエンスを作り出すこと、そして脆弱性が人としての成長につながるということを忘れがちである。
五つ目は、プロフェッショナリズムと患者の安全である。それゆえにこそ、メンタルヘルスは重要であり、治療にむけて壁をつくってはならない。
最後のレッスンは支援のネットワークをつくることについてである。それは回復の基盤となる。はじめは小さく、配偶者から、ついで家族、友人、同僚と支援の網を広げていけばよい。
筆者は、自分の回復過程を通して自分がよりよい医者になれたことを実感する。新しく見つかったパースペクティブ、パッション、忍耐は、それまでなかった人に共感する力を与えてくれた、と述べるのである。
以上が要旨である。平成29年8月23日朝日新聞に「医師過労防止 地域医療と両立めざせ」と題する社説が載った。5月と7月に長時間労働が原因で自殺した研修医に労災が認定された。長時間労働を避けよ、しかし患者が必要な医療は提供せよ、といった苦しい論調だ。長時間労働の中身が問題であろう。
“Medicine is learned at the bedside and not in the classroom・・・・・Live in the ward.”William Osler
“ワーク・ライフ・バランス”といったスマートな言葉を使う最近の若い医師をオスラーはどう思ってみているだろうか。
故本多先生は、決められた時間内に仕事を終えるのも大事な能力、とおっしゃっていた。それもひとつの目標だった。
僕は今、在宅医療支援診療所の医師として15年間、24時間365日、患者とつながる携帯電話を持ち、働いている。オーバーワークといわれれば、そうかな、と思う。うつのエピソードも何度か経験した。以来、気をつけてはいる。だが、どのような状況で何が待っているかわからない。医者とはそういうものだろう。ゴールしたときに力を残しておきたくはない。
NHKスペシャル「細菌戦部隊はこうして生まれた」を観た。戦後72年、8月には先の戦争の番組が多く放映される。原爆、沖縄、インパール作戦、サイパン、本土大空襲などで多くの日本人が死んだ。その被害の様相からもう二度と戦争はしまいという趣旨の番組が多い。それに対して、これは日本の加害者としての側面をえぐりだそうというもの。匪賊と呼ばれた中国人を収容し、彼らをマルタと呼び人体実験をした。ペスト、チフス、コレラ、パラチフスなどの菌を食べものに注入して食べさせる、爆弾にして散布する。あるいは、-20℃に様々な条件を加えて凍傷実験をする。その人体実験に京大、東大、慶應など全国の医学者が協力していたことがわかった。
これらの内容の大部分は、英国留学中にBBCの番組で観たことがある。そして帰国後、数年してハルビンから旧731部隊跡を訪ね、その現場を僕自身の眼でみてきた。また森村誠一の『悪魔の飽食』にも詳しく記されている。しかし、ハバロフスク軍事裁判の記録として証言するなまの声がでてきたのはショックであり、その時代にじぶんが医者として生きていたとしたらじぶんは果たして抵抗できたのかという思いがある。番組は、これら医者たちの行為の後ろに当時の日本全体の雰囲気があったとする。当時の新聞には「暴虐極まる匪賊」「匪賊を殲滅せよ」などの記事が大きく載っている。
裁判の録音で最も印象に残ったのは、番組の最後、細菌学担当、柄沢医師の涙ながらの証言である。「今、私は、平凡な人間として、心の中を申し述べたい。私には現在、82になる母と妻ならびに2名の子がいる。自分は、医者でありながら、犯した罪の大きさを自覚し、自分にもし余生があり、あるいは生まれ変わることができるならば、人類のために尽くすことのできる医者になりたい」こんな言葉だったと思う。とつとつとした言葉だけに真実にあふれており、僕の胸を撃った。そして、さらにこたえたのは、刑に服し、日本に帰る間際、彼が自ら命を絶ったことだ。
Sさん。85歳女性。10数年前から周期的にうつ状態になり軽い抗うつ剤を服用しながら独り住まいを続けている。今日の午後(今年最高温度33℃を記録)、他区に住む家族が訪ねると居間に倒れていた。すぐに救急車を呼び近くの総合病院受診。検査上おおきな問題はなく脱水(恐らく熱中症)とされた。高齢で独居であり、入院を希望したが抗うつ剤をのんでいる患者を診る精神科の専門医がこの時間はいないので入院はできない、と1本点滴して帰された。困った家族がどこか受け入れてくれる病院はないか、僕に電話をしてきた。とりあえず水分補給をこころがけ、状態によっては明日往診する。また訪問看護師を毎日派遣できるので入院しないでも多分大丈夫でしょうと話した。
それにしても、服用している薬は1種類の抗うつ剤のみ、認知症はなくこれまでは自立した独居生活を送っているひとである。なぜ入院させてくれないのだろう。
別の患者さんを思い出す。休日診療所に来た統合失調症の女性、施設入所中で意識がぼんやりしてよく歩けない、以前救急入院した水中毒の症状に似ていると施設スタッフはいう。近くの救急病院に相談した。そういう患者をみる精神科専門医がいないと断られた。
以上の2事例、いたずらに病院救急医を責めるわけではない。だが、うつ病も統合失調症もcommon diseaseである。このままでいいとは思わない。
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