こんなタイトルの文章が、The lancet 2017 2月25日のeditorialに載っている。以下に抄訳する。
2017年の英国における高齢者へのヘルスケアというAge UKからの総括的報告だされ、家族や友人への無償の社会的ケアを行なっている人々が低く評価されていることを医学専門家は注目するよう促している。人口の五分の一がこれにあたりかなりのグループである。これら介護者のうち二百万人以上は65歳以上であり41700人は80歳以上である。65歳以上の介護者の三分の二は彼ら自身健康に問題を抱えている。
この無償の共感的集団は社会にとっての巨大な重荷を支えその役割負担は年々増える。急速に高齢化する人口へのケアについて我々の抱く方策は、彼らの伴侶や両親の介護への責任を理解し、尊厳と自立をもって愛するひとに献身する、身体的精神的社会的困難を理解するものでなければならない。
これらの介護者が医療と交わる場面では彼らの負担は眼に見えない。彼らのかかりつけ医にさえも見えない。医学の専門家は彼らにたいしてどんな援助ができるだろうか。伴侶、両親、子どもとの関係での無償の介護はむつかしい状況を提示する。自分自身の医学的問題での苦痛に関してさえも介護者は援助が必要と認めたがらない。恐らく伴侶や両親を介護するとき援助を求めることへのステイグマ(汚名、恥の感覚)があるのだ、だがこのステイグマは介護を受ける個人と尊厳をもって介護にあたる人との関係の中でどの当事者にも仇(あだ)となる。
英国のプライマリーケアの資源は乏しい。介護者の問題に関して臨床医が取り組めることは多い。以前からlancetでは、介護者の問題が隅に追いやられてはならないと主張してきた。しかし65歳以上のひとが救急入院する数は増えている。
英国の社会的ケアの貧しさは緊急課題である。高齢者のニーズにもっと応えられるべきであると報告は述べる。過去5年間の日常生活のニーズの少なくともひとつが満たされないという高齢者が48%増えているのに介護者が彼らと過ごす時間は増えていない。入浴、ベッドからの起き上がり、トイレ、食事などが介助されない高齢者が増えているのは裕福な先進国として恥ずべきことである。
このあとは、英国の税金の問題への言及、そして英国政府は高齢者およびその介護者を安心させられるようなプライマリーケアへの対話と歩みよりをすべきであるとして終わる。
僕が興味をもつのは、介護者が必要な援助を望まないというところ。日本人にも多い。それは援助を求めることに伴うステイグマ(shame)のためだとしている。本当はじぶんがすべて世話しなければいけないのにそれができない。その不甲斐なさ、情けなさ、恥ずかしさ、そのために安易に介護を頼めない。そういうことであろうか。それに付け加えて、日本人の場合、安易に介護に頼ろうとしないのは、ひとに迷惑をかけたくないという気持ち、ひとが自宅にはいることへの抵抗、ひととしてのプライド、自恃の精神、それが極端になれば共倒れさえも辞さないというところまで行ってしまう。そのような心情があるのではないだろうか。
そのときに何ができるのか。介護のマニュアルではなくその介護者固有の物語(ナラテイヴ)に耳を傾け窮地にあるそのひとを思うこと、お互い様ですよといえること。そのひとの経験しているステイグマを胸に刻むこと、忘れないこと、それを意識して援助すること、それをせずに上から目線で援助するならそのひとの(自分はだめ人間、親も助けられないといった)無力感を増強させ、援助することがかえってshameにshameを上乗せしてしまう。あるいは、一気に介護拒否にいたるであろう。
また、マニュアル化した介護であまりにてきぱきと処理してすましてしまうとそのひとのshameと感じていたプロセスは無視されてしまう。
昨日厚労省から発表された2016年国民生活基礎調査で老老介護の割合が75歳以上で30.2%、65歳以上で54.7%で過去最高を更新した。状況はますますきびしい。
附記:僕らは、その介護者のことを何もわかっていない、何もしらない、その謙虚さにまず立つべきであろう。Constructive use of ignorance( Hilde Bruch)の意味するところを勉強しなければならない。
互恵性reciprocality、人間は相互にはかり合う関係の中で生きる。お互い様精神の深い意味を知ること、寄り添うことによって自分への理解、自分をふりかえる力がどれだけ深まるか、援助させてくれてありがとうといえるようにならなければならない。
長く他区の精神科にかかっているという女性。からだ中が痛くてつらいので診てほしいと来院。予約外のいきなりの受診なのですこし待ってもらうことになる。看護師の観察では待合室でスマホをいじり、その様子におかしいことはない。さて、診察。つらそうな表情。「全身の痛み」について聞く。肩を中心にあちこち痛むし、両手足にしびれがある。整形外科受診し頸椎に問題があるかもしれないとリリカとロキソニンが投与されたがちっともよくならない。肝炎で消化器内科にかかっている。時どき尿道炎の治療するが薬のアレルギーを起こしやすい。ひとり住まいで家事に苦労している。それだけでなく眼が疲れる。眼科に行ったが異常はない。ひとりでいるのが寂しい。食欲も急に落ち、眠れない。精神科のドクターに話し、薬を調整してもらっている。風邪をひきやすく葛根湯も服用している。
さて、僕の方は、できるだけ口をはさまず、なるほどね、たいへんだなあ、よく頑張ってますね、といった対応をしていく。すでにあらゆる診療科にかかっているのである。少し僕の方から聞いてみる。色んな科で診てもらってからだの方は大丈夫そうだけれど、・・・どうなんだろう、最近ストレス的なこと、何か変わったこと、つらいことでもあったのかな? すると、「そうなんです。1週間前衝撃的なことがあってからなんです」という。僕の方は、その衝撃的なことの方へいくと時間はかかるだろうし大変なことになる、でもここまできたら聴くしかないだろうなあ、・・とすぐに返事をせずにいると、・・「やっぱりロキソニンをのみながら、痛みをできるだけ抑えて、時間が経つのを待つしかないんでしょうか」という。僕は、そうだね、そうかもしれないね、と相変わらずあいまいな受け答え。ところが、である。彼女は何かきっぱりと、どちらかといえば晴れやかに「先生、私の話を聴いてくれてありがとうございました」と言って立ち上がり診察室をあとにしたのである。
僕はもっとこじれることを予測していただけにちょっと驚いて彼女の後姿を見送った。僕が自信をもってはっきりしたことを言わなかったために彼女はがっかりして、この医者もだめだと思って出ていったのだろうか。それとも僕が彼女の話に耳を傾け、そのことで(つまり僕が彼女を映し出す鏡の役割を演じることで)じぶんで答をみつけて出て行ったのだろうか。後者ではないかと僕は思うのだけれど・・・。
ワンルームマンションに住む独り暮らし男性のことである。ビールを届けに来た宅配のひとからの通報を受けて区の担当が行ってみるとベッド上で動けず、食事もとっておらずぐったりしている。長く入浴もしていない。病院嫌いでどこにもかかっていない。診てほしいと連絡あり。
在宅医療相談室のスタッフ、これからお願いするケアマネ、介護スタッフとともに訪問した。玄関から台所、その奥の居間に至る床はビールの空き缶で敷き詰められ歩くのに難儀する。開け放しのトイレは床、便器、壁すべて(便によるのだろうか)茶褐色にこびりついている。患者は薄暗い部屋のベッドの上で暑い日なのに冬のように重ね着をして上半身を起こした形で寝ている。両便失禁状態で濡れている。挨拶をして、とりあえず着替えを促すと「動けないのにどうしろというんだ」と怒りだす。手を貸そうとすると「そこを持つな、そのやり方はだめだ」と怒鳴る。腕や足を動かそうとすると痛い、触るなと怒鳴る。これは困ったなと思いながら話を聴いていくと、2~3か月前から足の力がぬけて動けなくなった。今つらいのは「眠れないこと、一度でいいからぐっすり眠ってみたいんだよ、先生」という。眠剤を処方して毎週訪問することにした。
上肢に出血斑、大転子部に褥創あり。部屋はだんだんきれいに片づけられ人間が住める状態になってきた。食事は希望するものをヘルパーさんに買ってきてもらう。介護用ベッドも入った。訪問の前に電話すると「ああ先生、よろしくお願いします」という。日により「今日はからだがだるいんだよ」といったり「先生、一人? 忙しいところをきてくれるんだ」といったりするようになった。内服だけでは排便がうまくいかず、訪問看護師に定期的にきてもらうようにした。在宅ケアのはじめから1か月半、坐ることも立つこともできない。しかし、「どこが悪いのか病院でみてもらって・・先生、何とかまた歩きたいんだよ」というようになった。
このようなひとのケアをどうすすめたらよいのかマニュアルはない。遠すぎては彼の問題に答えることはできない。逆に、近すぎては何かおおいかぶさられるような窒息感をこのようなひとは感ずるだろう。遠すぎず近すぎず自然な距離というものが大事。そして、淡々として動じないこと、相手がどんなに感情的になってもやることはやるという態度、そして一貫して揺れない(consistent and firm)態度であろう。在宅医療の勘どころだ。
それから、彼がどういう人間なのか、彼の生まれや生い立ち、仕事、家族などを今まで何も尋ねることをしていない。自然にこういう流儀になっている。彼の素性を知ったうえでケアをするのではなく、それはどうあろうと目の前にいる彼を誠実に診るというスタイルである。彼との関係性がある程度できてから、診療の合間にさりげなく尋ねることで、もしかすると彼の過去の歴史について聴かせてもらえるかもしれない。そんな感じだ。彼をみながら学んでいる。
「この家で母を看取ったので わたしにはわかるのです いまのじぶんのことが もうすぐだめになることが あの頃はみな じぶんの家でみていましたから としをとってみな家で亡くなりました 近所のおばあさんのことをおもいだします よるの10時になると 毎晩出てきて そっちの崖のほうに歩いていく あぶなくて 決まって娘さんがおばあさんに寄り添うんですけど どんどん行こうとして だめなのです それでむりやりつれかえって あのおばあさんも家で亡くなりました わたしの母も だんだん食べなくなって いらないって おかゆをつくってあげても それもいらないって食べない それで すこしして亡くなったのです せんせいのお父さんに看取っていただきました わたしは まだ食べられるけれど わかるんです だんだん食べなくなった母やあの 夜になると出てきた近所のおばあさんに わたしが近くなってきたのがわかるのです」
こう述べるのは96歳のMさん。月に1回往診している。彼女が言うように僕が子どもの頃はほとんどのひとが病院ではなく家で亡くなった。それが逆転するのが1976年(昭和51年)。病院にCTスキャンが導入された年だというのは象徴的だ。病院医療への期待が高まり治らない病気がなおるという気持ちを皆が持つようになった。病院でもなおせない病気の終末期や老衰の人びとまで病院に押し寄せ、そこで死ぬようになった。日常生活から死が締め出され、死は病院のなかに閉じ込められた。死は非日常的なもの、忌むべきタブーとなった。だがMさんはちがう。母を看取り、その死へのプロセスをMさんも生きてきた。その記憶がこんどはじぶん自身の死を見据えることを可能にしている。「わたしももうすぐです」といとも平静に語る、ほほ笑みを浮かべて。
「病院では患者が医者たちとシスターたちとに心から感謝をしながらわれ先にと死んでいく。そして、どの患者も、病院が規定した死に方をする。それが歓迎されるからである。」
「僕は以前は死がまだこんなではなかったにちがいないと考える。そのころはだれもが、果実が種を秘めているように、自分の内部に死を秘めているのを意識していたにちがいない。子どもは小さな死を、大人は大きな死を秘めていた。女はそれを胎内に、男は胸中に秘めていた。とにかくだれもが死を宿していて、そのために特殊な落ち着きと物静かな品位とを感じさせた。」(『マルテの手記』リルケ)
僕は、リルケのいう“特殊な落ち着きと物静かな品位”をMさんにみている。
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