本多虔夫記念高齢生活研究室第5回講演勉強会に参列した。
山崎章郎先生の「住み慣れた地域で生きて逝く」というタイトルの講演。
前日いちにちかけて山崎先生の有名な『病院で死ぬということ』を再読した。
25年ぶりである。印象に残っていたのは、難治性の痛みに苦しむ女性に看護師が薬ではなく一杯の暖かいコーヒーをもっていく場面。
痛みが和らぐのである。当時の僕はほんとうに驚いた。
今回読み直して特によいと思ったのは、最後の方の「息子へ」というエッセイ。
癌を知らされないまま苦しむ男性患者の誠実な生き方に医師は動かされる。
そして、いつのまにか彼を患者ではなくひとりの友人としてみていたことに気づく。
そんな風に描かれる医者の姿のなかに山崎先生の原点があると思った。ひとりの外科医としての内省のまなざしが深い。
南極船の中でのキューブラー・ロスとの出会い。ホスピス医への転身。
ホスピスの限界から外へ。地域のなかへ。山崎先生という文脈がよくわかる。
じぶんの経験をとても大事にしている。つまり医者としての生き方が丁寧で誠実だ。
講演が終わり、デイスカッションの時間、僕は手をあげた。
癌の患者を看取るに際して、身体の痛みの殆どは現在、薬物でコントロールできる。
生きるのが一番つらい時期とは、身体の痛みではなく、自律(自立)と尊厳が損なわれる時期、
つまり生きている意味を見失う時期であるということ。山崎先生の今日のお話のなかでそのことが一番印象に残り、
最もだいじなことのように思った。それをその時どう支援できるのかという問題があるが、それはほんとうにむつかしいと思う。
もう一つ、感銘を受けたのは患者遺族会の存在。
僕たちは早く死を忘れたくなるが、そうではなく死をふりかえる、一種の文化としての看取りがありうるのだと思う。
こんな感想を僕は述べた。
それに対して山崎先生は、患者の苦しみを聴くということ、そのことで患者の苦しみの理解に向けて新しい関係が生まれる、
そのことが援助につながる。そのように答えられた。
講演の内容がどこかから持ってきたものでなく、飽くまでじぶんの実践の中から生まれてきたものであること、
そのことが聴く者のこころに深い印象を刻みこむことになる。素晴らしい講演会だった。
90歳男性Mさん、息子とふたり暮らし。消化器癌のため病院にかかっていたが、治療法も尽き訪問診療となった。
2週おきに往診した。帰りぎわに「何かあればいつでもケータイに連絡してください」と伝えるのが常だった。
それを忠実に守るかのように、父が苦しそう、手がふるえる、食べなくなった、熱がある、ふらついて転ぶ等々、
父の容態の変化のたびに息子さんが僕のケータイに電話してきた。何度かに1回は緊急往診したが大体は電話での応答で安心してもらえた。
定期の往診日、Mさんは僕が行くとニコニコして、好きな食べ物の話などをぼそぼそと話してくれる。
「先生が来てくれて“大丈夫”と言ってくれるだけで父は安心するんです」と息子さん。
僕の父が元気なころ息子さんやMさんを診ていたという事を知った。病院からの紹介で診療がまだ短期間にもかかわらず僕に親しげにしてくれるわけがわかった。
僕のうしろに僕の父がいるという不思議な感じがした。
3ヶ月後の或る日、朝から反応がなくなり、その日の深夜Mさんは亡くなられた。
臨終の宣告後、少しじっくりと息子さんの話をききたいと思った。
短い期間ではあったが、父を介護する彼の素朴で真率な人柄に僕は感じるところがあったからである。
彼は、じぶん自身の仕事の苦労や失敗、父の仕事の変遷、性格、地域で活躍したことなどを話してくれた。
そして、「介護を通して今まで知らなかった父を知ることができました。
父はこんなことを考えていたのか、こんなことがあったのかと父を看病している間にわかったんです」と述べた。
僕は、このような息子に介護されて旅立った父親の幸福を思った。介護することで介護されるひととの関係は深くなる。
死の瞬間までその関係は成長するといってもよいだろう。介護という行為は、関わるひとの鎧(よろい)を取りはらう。
介護は介護する者にもひかりをあてる。そしてそのこころを耕す。
あたらしい父を発見する息子は、同時にあたらしいじぶんを発見する。
介護が喪失に伴う悲しみを残すだけではなく、看取りのあとの家族にかえって生きるちからを与えることもありうるだろう。
介護のダイナミズムを僕は学ぶ。
90歳ひとり暮らしの女性Kさんのことである。結婚したが離婚、子どもはいない。公務員として65歳まで働いた。
以後は自宅で水墨画、篆刻(てんこく)、お茶、書道、三味線、組みひもつくり、袋つくりなど多くの趣味を楽しんだ。
この2~3年なにもしなくなり、物忘れが目立つと遠方の従妹に連れられて僕の外来を訪れた。
小柄で細身の老女である。その無表情の顔にきざまれている深いしわ。るいそう、脱水が目立つ。
お勝手ができなくなり、最近は万年床で、長く入浴もしていないという。
とても通院は無理であり、介護保険を申請し訪問診療をすることになった。2週間後地域ケアプラザのスタッフとともに往診した。
僕の医院にきたことは覚えていない。寝たまま動けなくなっていた。
ここは自分の家、ここから動きたくないとささやくようにしかしはっきりと述べる。
ヘルパーさんに毎日はいってもらい食事のケアとおむつの交換、保清をお願いする。当面、医師が毎週みにくることにした。
つぎの訪問日、ぐったりした表情で寝ており、枕元には着物と帯、さまざまな布や糸が置かれている。
呼ぶとちいさく目をひらきハイと返事する。布や糸について聞くと「昔それでよく袋を作ったの」と教えてくれる。
配達されるお弁当をヘルパーさん介助で少量たべるのみ。からだがそれ以上ひつようとしていないと思われた。
初診から1ヶ月後、心配した従妹が、できれば入院させてほしいと言ってきた。
入院は本人が希望せず、じぶんの家を離れたくないとはっきりと述べていること、
入院という場所の移動で本人の認知症はさらにすすむであろうことなどをお話しした。
そして、介護スタッフと連携を密にして見守っていきたいと話し、入院しないことで納得していただいた。
そのかわりゼリー食やとりやすい栄養食を口から本人の希望に合わせて工夫する、
ヘルパーさんの訪問回数をふやし夜間も安心できる体制をつくること(定期巡回随時訪問制度の利用)にした。
或る往診日、ふとんに寝たままジュースを飲んでいるので起こそうとすると「私は座るのがきらいなの、枕も要らない」という。
ひとりで寂しくないですかと問うと「ぜんぜん。私はずっとひとり、小さいときもそうだった」とぶっきらぼうに答える。
足がだいぶむくんできたのをみた従妹が「なにも食べずに動けない、見ているのがつらいので入院させ点滴してほしい」と再び僕に訴える。
もう一度本人の意向に添うことを確認し、入院することの功罪(プラス<マイナス)を話し合った。
初診から2ヶ月目、地域でカンファランスが開かれた。
地域ケアプラザスタッフ、区役所高齢支援課スタッフ、ケアマネ、近隣の二人、民生委員、従妹、そして主治医として僕が参加。
近隣のふたりは昔からのKさんの知り合い。普段からゴミ出しなど手伝ってきた。
寝たきりになってからヘルパーさんがいない時間に訪問し、声かけしてくれている。
Kさんの衰弱がすすんでいること、Kさんが自宅でさいごをむかえられるよう皆でこれからも見守っていくことを確認した。
動けなくなり褥創ができた。介護用ベッドを入れ、訪問看護師に毎日処置をたのんだ。ケアマネが訪問入浴を手配した。
Kさんは「ありがとう。こんなにしてもらったらばちがあたるよ」といったりすることもあったが、大体は無表情で無言。
診察時血圧を測れば「痛いよ、やめてよ」と辛そうな顔で言うし、
胸の聴診するにも「寒いよ、さむいからもうやめてよ」と小さく叫ぶことが多かった。
衰弱がさらにすすみ、Kさんは初診から5ヶ月、亡くなられた。ある朝訪問したヘルパーさんが気づき、連絡してくれた。
前の晩まで大きな変わりなく、静かなさいごだった。
今ふりかえり、ひとつの場面を思い出す。亡くなる少しまえだったと思う。
ある日の往診時、一緒の看護師が「Kさん、先生が今日も来てくれてうれしいですね」と話しかけた。
するとKさんはきっぱりと、「うれしくない!」、と答えたのだ。それがKさんらしくて僕は嬉しく、笑みを隠すことができなかった。
◇附記◇
Kさんというひとり暮らし高齢者の在宅看取り。ひとつのモデルになるかと思う。Kさんはじぶんの意志がはっきりしていた。
普通は、心配だから入院といわれるとじぶんの意志ではなくまわりへの迷惑を考えて入院を受け入れる方が多い。
そのとき家族は本人よりもじぶんたちのこころの方が問題になっている。自律と安全の対立で安全が優先されるのである。
Kさんの場合は、近隣の方たちの見守りのちからも大きかった。24時間連携の医療および介護の存在もあっただろう。
それらのケアの在り方をみてはじめは不安を訴えていた家族は安心し、途中から在宅ケアに信頼をよせてくれた。
これらすべてが集まって好ましい看取りをもたらしたのだと思う。
あとでわかったことだが、Kさんは遺言、それも公正証書遺言を作っていた。じぶんの人生のおわりを正しく見据えていたのだ。
それも僕たちに感銘を与えた。
「医者は人々のために働く責任を負っています。」
引き出しの奥からしわくちゃの切り抜きがでてきた。平成6年12月19日の新聞記事。
ひとりの若い女性医師が仕事と育児の両立について取材を受けたときのもの。
子育てについて語っているなかに、この言葉がぽつりとでてくる。
僕はこの言葉のまえにたちどまる。意味はあきらかだ。しかし、釘づけにされる。
医者とは何かということが、つまり医者の定義がさりげなく提示されている。
簡明でありながら意味するところは深い。ぼんやり仕事している僕の頭脳にやさしくくさびをうちこまれる。
記事には、帰国子女として医者になるまでの苦しみやそれゆえの日本社会に対する批判的まなざしがはぐくまれていく過程が記されている。
「苦しいひとを応援する人間になりたいと医学部にはいったのです」と述べる。
ここには、ひとりの医師となることの責任(responsabilite:他者の苦しみに対する応答)というものが端的に示されている。
医者の仕事には経験がひつようだ。
しかし、経験を積むほど医者は、この若い女性医師が発した清冽な水のような自己表明から遠くなる。なぜだろうか。
日本医師会は、赤ひげ大賞として、地域の医療に貢献した医者を顕彰している。
それぞれ素晴らしい実践にちがいないが、彼ら赤ひげたちはおそらく、
じぶんたちは医者として「人々のために働く」あるいは「苦しい人を応援する」という当然の仕事をしているにすぎない、というだろう。
この古い新聞記事をみながらそんなことを思った。
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