臨床余録
2016年 5月 29日  かかりつけ医はどこに

 5月23日朝日新聞「最期の医療」特集。 89歳の独り暮らしの女性。義理の娘と終末期の医療についてふだんから話し合い、 「管につながれて何もわからぬまま長生きしたくない」と言っていた。 重症脳梗塞で救急搬送され「助かったとしても植物状態」という説明を娘は受けた。 医師に患者の意志を伝えた。一命をとりとめ落ち着いたところで娘は病院を離れた。 数日後、戻ると患者には経鼻栄養が始まっていた。 事前に相談がなかったことを娘が抗議すると、主治医は「餓死させることはできない」と答え「回復させるには栄養が必要であり、 意識レベルが回復しつつあり終末期とはいえない」と判断したという。
 これはなかなかむつかしい問題をはらんでいる。 終末期や延命治療の定義の問題と治療選択の問題、その倫理上の問題である。 ぼくの立場からいうと、急性期病院の役割(救命的治療)をもう少し明確化したほうがよいのではないか。 脱水や栄養障害で患者が悪化していくのを病院医師は何もせずみていることはできないだろう。
 偶然だが今ぼくの患者が同様の問題を抱えている。 嚥下性肺炎で入院、治療で肺炎はよくなったが経口摂取は困難、経管栄養は本人も家族も希望せず。 どうしたらよいか困っている。
 その方は色々考えた末退院してじぶんの家に帰ることになった。 在宅でできる範囲で経口摂取をこころみる。 食べられず飲めなければもうからだがうけつけない、からだがほしがっていないと理解する。 病院からぼくのところに「在宅での看取りになる可能性がありよろしく」という連絡が来ている。 長く在宅診療をしている方である。ご家族との意志の疎通はわるくない。 患者さんにとってなにが必要なのかを一緒に考える基盤がある。
 病院医療と在宅医療は役割が異なる。在宅でできないことが病院ではできる。 逆に、病院でできないことが在宅ではできる。
 冒頭のケースは、本人や家族のニーズをわかってくれるかかりつけ医の不在が問題だと思う。 延命治療に関する選択をする時点から相談にのり、退院後の緩和ケア、看取りのプロセスを引き受ける、 そういう存在としてかかりつけ医がいればおそらく家族は病院とぶつかることもないであろう。

2016年 5月 22日  本多先生の水脈

5月22日、本多先生お別れの会が品川教会で開かれた。 荘厳なオルガンの響きや本多先生がリクエストしたというサクソフォンの枯れて澄みわたる音色もよかったけれど、 牧師様のお話の中の挿話、とりわけ晩年の本多先生が聖書部に属され、礼拝に際して教会の掃除をなさっていたこと、 礼拝の邪魔になるとして音がする掃除機は使わず、自らの手でごみを拾っていたこと、 そしてじぶんがそうできたことを感謝する言葉を牧師様への手紙に書かれていたこと、 その話がかすかに疼く痣(あざ)のようにぼくのこころに残った。300名を越えるひとが集まった。 名古屋や新潟からも本多先生に学んだ若い医師たちが、なつかしい巣にもどる働き蜂のように集まった。 本多先生という小さいけれども大きな流れを思った。船が作る水脈(みお)はしばらくして消えてしまうけれど、 本多先生の生きたあとの水脈はいつまでも消えないだろう。

2016年 5月 15日  本多先生が遺したもの(1)

手元にある本多先生の著書をふりかえってみた。みななつかしいものばかりだ。

『写真でみる神経学的検査法』1970年 医学書院
若き日の本多先生がモデルの写真を使い神経学的診察法をわかりやすく説明した本である。 「数分でできる検査」が一番初めに出てくる。 「長い時間をかけて診察をすることが不可能な場合、どれは絶対に欠かすことのできないものであるか、 どれはあと回しにしてもよいか、あるいはどのようにすれば短時間で、 大きな見のがしをしないで診察できるかを示したもの」と説明されている。 ここに本多先生の臨床の真髄(あるいは思想)のひとつが示されている。 ついで、意識障害患者の診かた、小児の診かた、神経系の詳細な検査、と続いていく。 ぼくにとって長い間いわば座右の教科書だった。

『神経病へのアプローチ』1971年 医学書院
複雑な神経系の構造および神経疾患の診断と治療をプログラム教程として著した。 最低限必要なことだけがわかりやすく書かれている。その簡潔さは本多先生らしい。 これは確か“アプローチシリーズ”のはじめの本で、ベストセラーになった。 そこで「心臓病へのアプローチ」「糖尿病・代謝病へのアプローチ」など同種の本が次々に出版されることになった。 第4版の表紙の眼瞼下垂の3パターン(動眼神経麻痺、重症筋無力症、ホルネル徴候) のように極めてクリアに疾患の特徴が示されている。短時間で知識を整理するには最適の教科書だろう。

『神経病の基礎知識』1977年 高木洲一郎 濱田秀伯と共著
神経系の解剖とその機能について詳しく書かれている。後ろに問題集つき。

『脳卒中・神経筋疾患のマネージメント』1989年 重野幸次と共著
治療ではなくマネージメントというのがこの本の新しさ。 完全な治癒が困難な神経疾患とどうつきあっていったらよいのかという本多先生の考えが示されている。 若い医師は脳卒中・神経筋疾患に対する厳しい学習と研修により正確な診断能力を身に着ける、 そしてガイドラインに示された治療法を完璧にマスターする。それでたぶん神経内科専門医の試験にパスするだろう。 だが真のneurologistになるためにはその先の何かを身に着けなければならない。 この本に書かれている内容はおそらくその何かに近いものだ。

『良き臨床医をめざして』1999年
本多先生の半生記。“Toward the Effective Clinician”という副題がある。 「良き臨床医」はgood clinicianではなくeffective clinicianであるとされているころを見逃してはならないだろう。

『脳卒中とリハビリテーション』2005年 星野晴彦と共著
横浜市立脳卒中リハビリテーション友愛病院の院長でもあった本多先生の リハビリに対する考え方が患者さんに役にたつように書かれている。 脳卒中に関する一般向け講義を依頼されたときずいぶん利用させていただいた。

⑦『元気ですごそう高齢期』2015年

⑧『ハッピーエイジングのすすめ』2016年

⑦は別のところで触れたが、⑧を含め、本多先生の遺したものを考える上でこの2冊は今後何度もふりかえることになるだろう。

2016年 5月 8日  人生は夢

本多虔夫先生を思っている。
1995年、先生が横浜市から派遣されてオデッサに行く機内で書き始めたという本『良き臨床医をめざして』 “Toward the Effective Clinician”を手にとる。 1999年4月に僕たちに謹呈された本で、先生が生まれてから60歳くらいまでのいわば半生記である。 その表紙のとびらに英語の詩があった。

Row, row, row, your boat
Gently down the stream
Merrily, merrily, merrily, merrily
Life is but a dream.

よく知られた詩である。この本をいただいてはじめに読んだときはこの詩に気づかなかった。 あるいは、気楽に読み飛ばしていたのだろう。今これを読むとさながらひびいてくる波のような感情がある。 本多先生が歌っているようだ。歌いながら、楽しく、人生は夢のようなものだよ、と楽しく歌いながら、 海のかなたに、ボートを漕いで、漕いで、僕たちに向かって、人生は夢だよ、漕げよ、漕げよ、 君たちのボートを漕げよ、と繰り返しうたいながら、海のかなたに逝ってしまった。

2016年 5月 1日  ありがとう

 4月29日、「高齢者生活研究室」第2回講演会が開かれ、準備のため早く品川の会場に行った。
講演は「高齢化社会で健康に生きる」と題して、聖路加国際病院の福井次矢先生が話をされた。 印象に残ったのは、健康寿命(平均70歳前後?)といわゆる寿命との差の大きさ。 日本人の医療への満足度の低さ(医療そのものは素晴らしいのだが)。日野原重明先生の90歳のときの脳MRI所見。 百歳の百の提言、その中の「1日の苦労は1日で。そのため心の防水区画を」ということば。 小学生への授業で述べられる「命とはじぶんに与えられた時間」とうことば。 いわゆる健康診断の意義について実はタバコと血圧以外はエビデンスに乏しいということ。 コレステロールの意味の変化。日野原先生の食事内容、基礎代謝など。

 本多先生のすがたは見えなかった。奥様に訊くとベッドから起き上がれずほとんど寝ておられるということだった。 そこまでいっているとは思わなかった。会のあとにご自宅にお伺いしてもよいか尋ねたが殆ど寝てますから、とやんわり断られた。

 5月1日、汗ばむくらい暖かい日の午後、妻と2人、日吉で薄いピンクの薔薇とカスミソウを病気見舞い用に包んでもらい、 電話もあえてせずに品川駅から歩いて本多先生宅を訪ねた。 奥様は少し驚かれたが本多先生が寝ておられる2階の部屋に案内してくださった。 先生はベッドのうえ両手をおなかに重ねてのせ静かに目を閉じておられた。 予想した通りのおやせになったすがただった。ぼくは先生の手をとり、妻は首や顔に手を置いて、呼びかけた。 なんどもなんども呼びかけた。目をとじたままだった。なみだがあふれでた。 どんなに先生にお世話になったか、どんなにいろいろなことを教わったか、 ぼくたちがここにいるのはせんせいのおかげであること、せんせいにおそわったことを必ず伝えていくこと、くりかえし話しかけた。 すると、ほんとうに一瞬ではあったのだけれど、せんせいははっきりと目を開け、笑顔をみせ、かすれ声ではあったが、 「ありがとう」とおっしゃってくださったのだ。
 奥様は、毎日往診の医師と看護師が来て、こころのこもったケアをしてくれると感謝されていた。 摂るのはずっとすこしの水だけ。痛みはフェントステープなどでコントロールされているようだった。 とても良いケアを受けているとぼくたちは知り、帰途についた。
 5月3日の朝、ほんとうに静かに先生は旅立たれた。

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