臨床余録
2016年 4月 24日  患者さんが教えてくれること

 日曜日、独り暮らしの高齢男性Kさんが動かなくなっていると朝のヘルパーさんから電話がはいった。 野毛山の向う側に月1回の訪問診療。予想はしていた。この数カ月、食が細くやせてきていた。 特にこの1か月はそれが目立ち先週往診したばかりだった。
 2~3年前まではやっと歩いてワンカップを買いに出ていたがそれもできなくなった。何かたべたいものはないのか。 耳がほとんど聞こえない彼のため、いつも白板にことばを書いた。昨年までの彼は寿司とかうなぎとか言っていた。 たまたま訪問が一緒になったヘルパーさんに、こう言ってるけどと言うと、「わかりました、買ってきましょうね」 (不思議にみなやさしいお母さんのようなヘルパーさんばかりだった)と言ってくれた。
 他に何かほしいものはないの、と聞くと、いたずらっぽく笑って、これ(親指と人指し指で○を作った) それからこれと小指を出した。お風呂や散髪がきらいで、ヘルパーさんや訪問看護師さんを困らせていた。
 トイレまで歩くと息が切れ、酸素飽和度は80%前後に下がる。 せっかく用意した在宅酸素の鼻腔カニューレをめったにつけることはなかった。
 部屋には奥さんの遺影が飾ってある。やはり僕が数年前にこの部屋で看取った。
 肋骨の浮きあがった彼の胸にさいごの聴診器をあてながら、僕はなぜ少しの酒も彼に許さなかったのだろうかと思った。 在宅医として何をすべきか、みな患者さんが教えてくれている。それを受けとれるかどうかは医者の深さなのだ。

2016年 4月 17日  てんしのよう

おさないといえばあまりにもおさないひとつのいのちを みとることになった おなかのなかにいのちのひがともり  はぐくまれ はぐくまれ このせかいのひとすみに おどろきとかんきのなきごえをもって  うまれいづるはずのいのちは せいたんの ひとつきほどまえ あるせんこくをくだされる そのときの  おとうさん おかあさんの こころのしょうげきをおもう それは いま くまもとをおそっている おおじしんの  かつだんそうの おおゆれの むじひなふるまいに るいするものであったかもしれない みとるということは  さいごまでそのいのちが いきたきおくを のこされるひとのこころのへやに ていねいにていねいにしまうこと  それはびょういんではなく じぶんたちのいえでしかできない たとえみじかくても じぶんたちかぞくのいちいんとして  じぶんたちのいえで このこはいきた そののうみつなじかんこそみとり とおもったのではないか  たいいんしたそのひのゆうがた おうしんした もうわずかかもしれないせいごよっかめのいのち  やわらかいふとんのうえの そのかわいいむねのけなげなうごきを ひざまずきしばしみつめる  ちょうしんきをそのちいさなむねにあてると てあしをけんめいにうごかしなきだした  おとうさんがむねにだきあげるとすぐなきやんだ おかあさんのおっぱいをよくのんだ それからすうじつもたたない  あるしんや ぼくはよばれた そのときどのようにふるまうべきか なにをいうべきか くりかえしかんがえていた  しかし ひろいへやのなか あたらしいふとんのうえにおかれ いまはもううごかない そのほんとうにちいさなからだをみて  ぼくはそれまでかんがえてきた かたるべきしなりおを すべてわすれてしまった ことばがでてこなかった  そのちいさなからだにどうふれたらよいのか わからなかった  せかいがそのちいさなすがたにすいこまれていくようなかんじがした きれいなねまきにつつまれ まるで  だれのせいでもないよ というかのようにやすらかにめをつむり くるしみのかけらもみせず  まさにいまてんにめされていったというように しずかなふかいかなしみのなか ぼくは じぶんにかせられた  おもいせんこくをしなければならなかった

2016年 4月 10日  The Family of Man

ガレージの本を整理している中から昔大事にしていた写真集が出て来た。 『The Family of Man』エドワードスタイケンが68か国から503枚の選りすぐりの写真を集めて一冊の本にした。 詩人のカールサンドバーグが序文を書いている。

ジェームスジョイスの詩が添えられた男女の抱擁の写真からこの本は始まる。 さまざまな国のさまざまなカップルのすがたWe shall be one personというIndianの言葉がはさまれる 妊娠、 出産場面The universe resounds with the joyful cry I am( Scriabin )さまざまな母子のすがた 子の成長  少年少女のいきいきとしたすがた 戦争孤児 大家族 生活の諸相 労働 鉱山 農業  家事Eat bread and salt and speak the Truth( Russian proverb )食卓 祭り  音楽Music and rhythm find their way into the secret places of the soul.( Plato ) 学問  世代交代As the generation of leaves, so is that of men.(Homer)老い 孤独 飢餓  貧困For Mercy has a human heart, Pity a human face….(William Blake)Nothing is real to us but hunger.(Kakuzo Okakura) 祈り アンネフランク ホロコースト ・・the mind is restless, turbulent, strong and unyielding… as difficult to subdue as the wind(Bhagavad-Gita)労働争議 裁判 核Who is the slayer, who the victim? Speak.(Sophocles) 夫婦We two form a multitude. 国連憲章 そして子どもたちのすがた そしてさいごのぺージにあの忘れることのできない写真  小さな男の子が妹の手を引いて森のなかに入っていくうしろ姿  A world to be born under your footsteps….(St.-John Perse)

改めて素晴らしい写真集だと思う。添えられた詩句も深く考えさせるものばかりだ。 人間はみな同じ、しかしみなちがう。人間はみなちがう、しかしみな同じ。ひとつの家族。そんなつぶやきがごくしぜんにもれてくる。

2016年 4月 3日  Displacement & Zero Process

 エリザベス&キャスパーズ・チューターズ先生講演会「子どものトラウマと心理発達」に参加した。 前半は、キャスパーズ先生の“子ども時代のdisplacementとそのパーソナリティ形成に及ぼす影響”と題する講演。 Displacementがキーワード。Displaceは「(本来の場所から)はずす、取り除く、退去させる、強制移住させる」の意。 (Dis-は名詞に付けて「除く」「剥ぐ」「奪う」などの意味の動詞をつくる) キャスパーズ先生自らがdisplaced childrenの一人であったことを通して、広島、福島、 そして現在のシリア難民の問題をdisplacementという視角からひとのこころに与える影響つまりトラウマについて語る。 一見何でもないようにみえる引っ越しでも子供の内的世界に心を乱すような空想を引き起こすこともある。
 日々の臨床のなかでは、高齢のひとのdisplacementに思い至る。 ショートステイや施設入所は地理的な意味の身体のdisplacementであるとともにこころのdisplacementでもある。 「居場所」という言葉の含蓄を思う。居場所を強制的に移動させられる。不安定になる方がいて当然だろう。
 心が押しつぶされるような圧倒的な体験(性的虐待、戦争、大災害などによる家族の死)の場合、精神はシャットダウンし、 ゼロプロセスあるいは凍結状態に入る。このゼロプロセスという言葉も今回の講演のキーワードのひとつ。
 日頃の外来あるいは在宅診療で、難治性の不安あるいはうつに苦しむひとは少なくない。どうしてよくならないのだろうと考える。 その何人かは、過去に、いわばこころがつぶれそうな過酷な体験があることに気づく。 その出来事からはかなりの時が経ち、そのひとみずからその体験に触れることはない。こころの奥に封印されているかのようである。 これをゼロプロセスという概念で考えると理解できそうな気がする。 ゼロプロセスはキャスパーズ先生の同僚であるDr.Joseph Fernandoが提示した言葉。 その論文“Trauma and the Zero Process”を取り寄せ読み始めている。

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