The lancet 11月26日号の論説(Editorial)の「認知症を持って生きる人びとへの受け入れがたいケアの現実」
(The unacceptable reality of care for people living with dementia)という文章を読む。
イングランドとウェイルズでは2015年の死因で認知症が初めて虚血性心疾患を越えた。
認知症による死亡率は2010年の2倍である。
この変化の原因は高齢化、診断の進歩などもあるが、他の疾患の予防や治療の進歩もある。
またそれだけ多くの人が認知症を持ちながら生きているということである。
認知症の治療に関するいくつかの研究を加速させる注目すべき国家的努力はあるものの、
これまでは成果に乏しく、いま認知症のひとに真に必要とされるのは人間中心の適確な共感的サポートとケアである。
英国ベースのアルツハイマー慈善協会の発表した調査は認知症をもつひとの家庭ケアの質について
ショッキングな実態を描きだしている。ある人びとは、しばらくの間食事や水を与えられず、
尿で濡れ汚れた衣類のまま眠り、何週も入浴せず、受け入れがたい仕方で報告される、あるいは全く報告されないこともある。
52万人のホームケアワーカーがいるが、38%は認知症のトレーニングを受けておらず、
43%がトレーニングを希望したが、50%以上が拒否されている。
多くの国が急増する認知症をもつ高齢者のケアの必要性に格闘している。
ベストのケアは普通私的な援助でなされ、多くのひとの手には届かない。
ドイツと共に国家的認知症戦略を持たないふたつのG7国のひとつカナダは、最近新しいレポートを出した。
29の提言を含む、認知症に優しい共同体のための国家戦略である。しかし、これでも十分ではない。
認知症のケアは要求水準が高く、個別的で共感に富むものとして、コミュニテイーの努力に組み込まれなければならない。
英国におけるすぐにも必要な第一歩は、献身的で、教育を受け、適切に経済的に保証され、
みなに尊敬されるような(well-respected)、そのようなホームケア戦力(home-care workforce)をつくることである。
以上が抄訳である。さまざまなことを考えさせる文章だ。今、在宅で診ているNさんが思い浮かぶ。
アパートに独り暮らし。認知症がすすみ寝たきりとなった。
近くに住む家族は忙しく(?)Nさんはしだいにやせ、褥創ができた。
ケアがないまま放置された上記のケースに近かった。ケアマネに頼まれ訪問診療をはじめた。
ヘルパーさんに栄養のアドバイスをし、皮膚のケアの仕方を教える。
丁寧に関わることで、かたことの荒っぽい言葉しか出さず表情も険しかった彼が穏やかな態度になった。
ついで排泄に伴う皮膚のトラブルに対し訪問看護師を導入、やさしくてきぱきとしたケアの結果、
今はそれなりに良い状態が維持されている。Nさんと家族の間には積み重なる葛藤があるらしく十分な協力は得られていない。
我々もあえてそこには踏み込まず、Nさんが少しでも安楽に過ごせるにはどんなケアが必要かを淡々と考えている。
訪問診療している方の大半は、多かれ少なかれ認知症を抱えている。そのひとりひとりのケアの在り方を省みる。
おおよそNさんが今苦労しているような問題をみな抱えていながら、ケアマネ中心にそれなりの介護が施されていると思う。
その中で僕が大切に思うのは担当のヘルパーさんたちのたたずまいだ。
単なるビジネスライクな関係ではない親身な思いと感情がどのヘルパーさんのケアする姿にも感じられる。
特に認知症ケアのトレーニングは受けていないと思われる。
みな、厳しく優しいお母さん風な態度でケア(というより世話といったほうがよいか)をしている、ように見える。
これはもしかすると英国人にはない日本人特有のものかもしれないと思うことがある。
そのひとは87歳ひとり住まいの女性。数年前から物忘れ。転んで骨折し手術した病院を尋ねても覚えていない。
大事な通帳を失くす。冷蔵庫にトイレットペーパーをしまう。管理している駐車場の料金を値下げする。
適切な衣類を着られなくなる。骨折をくりかえし寝たきりになった。数ヶ月前から訪問診療をはじめた。
いつも薄暗い部屋でベッドに臥床しラジオを聴いている。
微笑を浮かべ、「先生、何やっても死ぬときは死ぬんです」と箴言的なことばをぽつりと呟いているような人である。
今日は少し違った。雨戸を閉めたままの暗い部屋で、横臥しているのは同じだが、
ラジオがかかっておらず、じっと何かを考えこんでいるようにもみえる。「先生、長く生きるのも楽じゃないです。
死ねないんです」という。(つらいんですか、生きているのが)「そうですね」。
(気持ちは)「ふさぎますね」(さびしい?)「さびしくはないけど・・こんな格好でごめんなさいね、せんせい、
せんせいの顔をみるとなにか安心できるんです」
血圧を測りひととおりの身体診察をし、心配のないことを告げ、次回の往診日の紙を置き、僕が帰ろうとした時だった。
彼女が何か独り言をいっている。「わたしは、天罰のようなものです。いま、こうしてここにいるのは・・。
べつに悪いことしたわけではありませんが、ふつうのひとならすることを、わたしはしてこなかった。
それでいま、わたしはこうしてここにいるのです。警察に厄介になるような悪いことは何もしてません。
だけど・・・ふつうだったら・・人としてやらなければいけないことを・・わたしはしてこなかったのです。
・・・さびしいです・・」こう話しながら静かに涙を流している。
僕は驚いた。なんということだろう。こういう言葉を僕はどうして予想できただろう。
これが重度の認知症のひとの言葉だろうか。
僕は少しオロオロして答える、そんな・・天罰だなんて・・そんな風に考えないで・・。
あなたはあなたじしんの人生を生きるという仕事を立派にしてきたではないですか。
・・考えすぎないで。・・・夕方のヘルパーさんがおいしいごはんを用意してくれるといいですね。
また、来ますからね。こういって僕は彼女の家をあとにした。
降りしきる落葉が寒風にふたたび舞い上がるような感情に襲われた。僕らは認知症のひとをわかったつもりになっている。
・・・それは僕らの驕りにすぎない。そんな気がする。
ニューイングランド医学誌2016年10月13日号。
Hearing without Listeningというタイトルのエッセイを読む。
ICUの回診をする前に夜勤の看護師からあらかじめ情報をもらう。コンピュータは介在しない。
このナースたちとの関係はリアルで人間的だ。ナースは我々の眼を見る。
我々はこの短い交流の時間、ナースにすべての注意を向ける。回診前の準備完了である。
回診(work rounds)は大グループでなされる。
主治医、ICU医、シニアレジデント、インターン、医学生、薬剤師、栄養士、呼吸器専門医、ケア代表者、
そして各病室の外に立つ担当ナースである。これらスタッフの大部分は自分のコンピュータ、
移動式ワークステーション(workstation on wheels―WOW)を持っている。WOWは部屋から部屋へ移動する。
前の晩の出来事をふりかえり、情報を交換し方針を決める。
WOWのおかげで我々はすべての情報を自分の目の前にみることができる。
キーに触れるだけでバイタルサイン、レスピレータのデータ、血液検査結果、画像、
併診結果などほとんどすべてのデータにアクセスできる。
発表者(presenter)はコンピュータの前に立ち過去12時間の出来事、
そしてそれに対して何がなされどう計画されたのかを述べる。患者の状態をまとめる。
他の一人が検査データを読み、もう一人は画像と心電図、一人は投薬内容。様々なメンバーが関わり、皆WOWに集中する。
“teaching attending”として私はその集団を守るコリーのようにみつめ、そして聴く。
ほんのわずかの人間しか発表者には注意を払っていないことを発見する。
殆どはスクリーンをみつめ、ボックスを弾きデータをチェックしている。
儀式を終え、WOWを満足させ、その日の計画を作る。
私は空虚だった。我々のすべてが参加したが、work roundsによってほんとうの仕事がなされたとは感じられなかった。
チームが従うべき計画はできた、
しかし知的な交流というものがほとんどないので患者の問題に関してグループとしてのマインドを活用するということがなかった。
ドクターズルームで小グループになり、WOWはわきに置かれたときはじめて、チームメンバーはお互いに交流できた。
或る日、二人のシニアレジデントが来た。彼らの回診にはWOWはつかない。
我々がケースを取り上げるとき彼らは発表者の眼をみつめるのでそれに応答せざるを得ない。
レジデントは夜間の患者の状態を知っているのでWOWに頼る必要がない、かわりに彼らはグループに眼を向け、
我々は彼らに眼を向けることになる。必要な情報がほしいときだけコンピュータに頼る。
各患者の情報を知り、頭のなかでオーダーするという単純な行為を通して、
発表者は他者と交流するために各ケースの大事な要素を合成する。
WOWの中にある情報を単に読み上げることのかわりに、
理解したことを各患者のケアを進めるための情報化された決定へと活用することができる。
こうしてコンピュータは位置を変える、我々の主人から我々の召使へと。
スクリーンの催眠的な力から解き放たれて、我々は再び他の人間と関わることができ、
我々の知識や技術を満足すべき生産的なやり方で蓄えることができる。それは結局患者の利益になるであろう。
我々が解放されることは我々に患者との直接的関わりをもたらすことになるだろう。
適切な場所に置かれて、WOWは我々に、聞きそして聴くことを許す装置となるだろう。
以上が要約である。医療のIT化が叫ばれ電子カルテの利用が広がる。電子カルテどうしの交流が可能となる。
在宅医療の分野ではスマホやタブレットを利用し患者情報をやり取りするシステムの導入が議論される。
便利だがこれらはどちらかというと情報を「聞く」ことが主体である。
機械的、受身的に情報を受け取るだけといってもよい。
それに対してひととひととが直接に会い情報をやり取りするとき、情報は「聴く」ものである。
相手に集中し、相手の眼をみて耳を傾ける。頭で聴き、心で聴く。聴いた情報をじぶんの中で咀嚼し相手に応答する。
医療や介護の情報はひととひととのリアルで人間的な交流によりやり取りされることが肝要だ。
無味乾燥な情報のやりとりではなく、
関わるひとの感情や思いといったものをも(しばしば非言語的メッセージとして)含んだ情報が望ましい。
ほんとうの仕事をしていると感じるのはそのような情報の交換ができたときである。
そのことをこのエッセイは僕らに教えている。
80歳男性。動作や歩行が遅くなり、
しばしば夜間せん妄(幻視に伴う興奮状態)を認めるため僕の外来に通うようになった。
夜間の症状は落ち着いた。発症から10年。認知症が目立つようになった。
夜間の排泄のケアが妻だけでは無理で訪問介護を利用するようになった。
1度だけ入院したがあとは妻と訪問介護や看護で在宅療養を続けている。
この病気としてはよくやれていると思う。
訪問チームから報告書が送られてきた。
最近、朝起きられなくなり訪問介護や訪問リハビリがないと昼近くまで寝ていることが多くなった。
自宅にひきこもりがちで歩行能力は落ちてきている。転倒リスクは高くなった。
体力が低下し外出はタクシー利用。食事は取れているがやせてきた。
以前は毎日バスで外出し妻が買い物している間、カフェでコーヒーをのむのを楽しみにしていた。
バスは無理になったがタクシーで外出していることに僕は感心する。
動けないから家から出ないのではなく出ようとしている。
老化に認知症やパーキンソニズムが加われば治療がうまくいったとしても徐々に動く範囲は狭まり、
認知症も進む。それは異常ではなく、そういうものなのである。
誤解を恐れずにいえば、それが正常なのだ。
古い正常から新しい(病状は進行したが)正常(通常あるいは平常)へ、
ニューノーマルへ移行したと考えてみてはどうだろうか。
そして見落としてはいけないのは(報告書には詳しく書かれていないが)
彼がニューノーマルの中で自分のできることはやろうとしていることである。
そこに僕らは彼の尊厳(単なるプライドではない)、自律への意志、レジリエンスを見る。
それを見ることができないとリスペクトフルなケアはむつかしいだろう。
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