臨床余録
2015年 9月 27日  みまもり

 ひとり暮らしのMさんの具合が悪くなった。うとうとして動けなくなり食べることも困難になった。 呼ばれて僕がいったときには、近所の方や民生委員が付き添っていた。 普段から家族のようにMさんの見守りをしてくれているひとたちである。意識は混濁し、低栄養、貧血、浮腫などが目立つ。 かなりの高齢であることを考えると老衰といってよいだろう。以前から、病院だけは行きたくないといっていた。 看取りも視野にいれてそのまま様子をみることにした。家族はいないので、ヘルパーさんに加えて近隣のひとたちがケアの中心である。 夜中に近所のひとやヘルパーさんに助けを求めることもある。 助けといっても、行って吸い飲みの水を少し飲ませ、安心してもらうのである。 往診時、手を握り話しかけると「ああ、先生、ありがとう。私はもう死ぬのを待っているんです。」と言い、すぐうとうとしてしまう。 医療的処置は特にない。様子見という一種の見守りをしている。平穏に自然な生をまっとうできるのを願いながら。

 先日、隣地区ケアプラザの地域ケア会議に参加した。「見守り」をテーマにグループワークがなされた。 この地区でもひとり暮らしの高齢者が多く、民生委員やふれあい会、シニアクラブ、町内会などで見回り活動をおこなっている。 地区により熱心さ(切実さ)のちがいはあるがどこでも見守りが必要であることは一致していた。 見守りの人員がいない、ある地区では会長さんがまだ比較的若い主婦の方たちに話をして、 高齢者独居の方たちの見守り(見回り)に参加してもらっていた。 じぶんもまた見守られる者になるであろうことを考えればお互いさまということになるが、 高齢者どうしばかりでなく若い世代にも“お互いさま精神”がひろがるのはうれしいことである。

 超高齢社会、多死時代といわれる。ひとり暮らしでなくても老―老世帯が多くなる。 介護、看護、訪問診療に加えて近隣地区での見守りが大切になるだろう。見守りとは見て守ること。ひとがひとを見守る。 単に外側からみるだけではない暖かさがある。見守り。地域ケアのキーワードにしたいものだ。

2015年 9月 20日  ターミナルケアはアート

 ケアマネージャーさんたちに「在宅ターミナルケアを考える」というタイトルで話をした。 「考える」としたのは、僕が何かを教える立場にはなく、 同じ現場の仲間として「ターミナルケア」を一緒に考えたいと思ったからである。
 あらかじめ主催者が〈末期の患者を受け持った時およびサービス調整時の困難〉についてアンケートをとってくれた。 多くの問題がだされたが、その中で、①何をしてあげたらよいのかわからない  ②利用者や家族にどう向き合ったらよいのかわからない このふたつが僕には重要と思えた。

①は患者のペイン(苦痛、苦しみ)とそれに応じたニーズ(必要)の問題であろう。 ペインをシシリー・ソーンダース(英国ホスピス創始者)にならって、身体的ペイン、精神的ペイン、スピリチュアルペイン、 社会的ペイン、介護者ペインに分けて考えてみる。 ニーズとは、患者が解決や支援を必要とする問題であり、要求demandや希望hopeとは異なる。 マーズロウのニーズの層構造図で考えるとわかりやすい。 最下層に生存のためのニーズ(呼吸や飲食、症状コントロール)。 その上に役割、社会的活動などのニーズがあり、最上層に自律や自己実現といったニーズがくる。 例えば、身体的ペインであればニーズは疼痛緩和である。 家族との葛藤という社会的ペインであれば葛藤の緩和、じぶんの人生との和解というニーズになる(Needs-based Care)。 実際はひとりの患者のなかにいくつかのペインが複合してあらわれるので対処はよりむつかしくなる(Total pain)。

②は、死をまえにした患者や家族にどう向き合ったらよいのか、という問題であろう。 それはおそらくスピルチュアルペインに関わるものと思われる。スピリチュアルペインとは何か。 僕じしんもまだよくわからないのでいつも考えつづけている。じぶんの死に真向かうときに生ずるあらゆる痛み。 言いかえると、じぶんという存在とその意味が遠からずなくなるという事態に際しておこる痛み。 ひつようなのはその痛みを和らげてくれるようなかかわり。 それはたぶん、ことさら特別な何かをすることではなく、“ごく自然な良いケア”を淡々とおこなうこと。 身体的にも精神的にも社会的にもすべての機能を失い、ただそこに横たわるだけの存在になってしまっても、 なお「あなたは大切な存在ですよ」という気持ちがつたわるようなケアということになるであろうか。

 与えられた時間のなかで、僕の診た症例を多く提示し、うまくいかなったものも含めそれぞれのかかわり方をしめした。 ケアマネージャーさんたちの日々の仕事にすこしでも役にたつことを祈る。

2015年 9月 13日  きょうもまた認知症

 ①「認知症の早期発見と早期治療~いつまでも自宅で生活できるために~」  ②「職種を超えてみんなで行う認知症対策」こんな会の案内状がきょうもまた舞い込む。 あいかわらずの早期発見、早期治療、そして認知症対策。これらのタイトルで大体の内容は想像できる。 「対策」という言葉によってこのシンポに参加するひとの精神の立ち位置がわかる。なんという「上から目線」なのだろう。
 求められたので発言した。認知症のひとが受診するまでの時間が9.5カ月、受診から診断までの時間が6カ月。 これをもっと縮めなければならないとされる。 だが、診断までの時間が長いことは必ずしも悪いことではなく、周囲のひとの許容度や感受性との関連で考えることもできる。 診断されるまでの期間そのひとが「おかしく」存在していてもそれなりに生活できているということを(ネガテイヴだけでなく) ポジテイヴにとれないか。 「おかしい」ひとがいたら一刻も早く連れてきて診断をつけましょうという(かけ声をかける)やり方のほうがおかしい。 そのひとの具体的な苦痛、周囲との軋轢などを、その生きている場所に添い、より丁寧に時間をかけて扱うべきである。 人間的なアプローチには時間がかかる。もうひとつ、診断が遅れる(診断に抵抗がある)のは何故なのか考えたほうがよい。 そのひとにとって認知症という診断がつけられることの意味、社会や家族からの視線の変化、そういったものを想像できないか。
 このように話したのだが、20数名の医師のうちひとりの共鳴も得られなかった。

 これら医者の会とはべつに、最近、地域で、ケア会議、多職種ミーテイングが頻繁に行われ、そこには医者はほとんど出席せず、 地域の自治会、シニアクラブ、社協、患者家族会、民生委員、ふれあい会、ケアマネ、ケアプラザ職員など多くの方が、 夜にもかかわらず集まる。僕もできるだけ出るようにしている。先日の会では、妻を亡くし、 昼間から暗い部屋で閉じこもっている男性の事例検討が行われた。ある地区自治会会長さんは、 意見を求められ「これは俺のことかと思ってきいていたんだよ」と述べた。僕はこころを動かされた。 医者の会より学ぶことが多い。ここにはなにか鶴見俊輔的な空気がある。

2015年 9月 6日  Are you ready to die?

 ケア―マネージャーさんたちへの「ターミナルケア」についての講義をすることになった。 その準備のために『CARING FOR THE DYING AT HOME』(KERI THOMAS著)という本を読んでいる。
 「在宅での看取りは我々のハートに近い領域であり、多くのひとはこれを我々ができる最も重要なもの、 ケア全般のバロメータとみなしている。」
 英国的な叡智あるいは皮肉に満ちている本で第2章Death and dyingという見出しの下に、 「死と税金:人生のなかで唯一の確かなもの」とある。続いて「死ぬ準備はできましたか? もし、まだなら、何らかの準備を始めてもよいでしょう。この本を読むいかなるひとも今世紀中に死ぬのです。 死はつねに私たちのそばにあります。」という英国医学雑誌のEDITORIALに載った文章を引用している。

 この本を読みすすめながら、死、老い、ぼけ。これらは「医学的問題」ではなく、 「人間的課題」というべきであるとますます思うようになっている。

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