臨床余録
2015年 6月 28日  声をうしなう

 西区訪問看護ステーション主催研修会、横浜市総合リハビリセンター内田亜紀先生によるレクチャー 「難病のひととのコミュニケーション」を聴く。在宅ケアの現場で本人が何をしてほしいのか。 聴き取ろうとしても聴き取れない。 「もう一度言ってくれますか」と聞き返すことが本人にさらに困惑あるいは気恥ずかしさを与えるのではないかと介護者は苦しむ。 よくある状況である。
 ALSのひとを中心にさまざまな支援の方法が示された。 昔ながらの文字盤、トーキングエイド、伝の心などコンピュータ機器、視線を利用、あるいは脳波など。 また聴き取りの上手なヘルパーさんのやり方が示された。 最後に「身近にいる人は微細な変化を感知できるすぐれた感知器であり、 その人の感知を上回る技術は存在しない」(日向野和夫)という言葉が紹介された。 これはほんとうだと思う。 先週書いたKさんの場合も彼の“ことば”をその表情の微細な変化を通して長年ケアしている奥様が見事にキャッチしていた。

 ひとりのALSの患者さんを思い出す。足の指のわずかな動きでコンピュータ画面上の文字を選び文章を作る。 あるいは奥様が文字盤を読み上げその文字のところで彼がまばたきする。それをつなげ文章にする。 そのプリントコピーが当時のカルテにはさまれており厚さは1㎝を越える。ぱらぱらと読み返してみた。 或る日のプリントには次のようにあった。

 「まずはモルヒネをふやしていただき感謝します。苦しさは少なくなったようです。 抗うつ剤や抗不安薬を少な目にして、モルヒネの効き具合をみています。胸の閉塞感、涙、胸のバクバクの苦しさはまだあります。 耳がきこえにくい。視野狭くなった。お尻がなおりません。苦しさの数値のまとめ方アドバイスお願いします」
  
 往診医である僕はこのような“ことば”と向き合いながら、さまざまなことを学んだ。 人工呼吸器がつけられ酸素濃度は正常であるのに、かれは〈苦しさ〉を訴え続けた。 苦しさの中身、あるいはその複雑な成因を考えざるを得なかった。苦しさの構造といったことも考えてみた。 あるいはそれは死と背中合わせのスピリチュアルな痛みであったのか。苦しさというより苦しみといったほうがよいのか。 そんな彼とのやりとりは次第に、安楽死の問題、セデーションの問題に触れることが多くなる。 そして、或る時ほとんど動かなくなってきていた足指でやっとつむぎ出した言葉が「そろそろわたしにくぎりを!」であった。 僕は沈黙をもって答えるしかなかった。いかなる僕の言葉も「うそ」に思えたのだ。13年も前のことである。

2015年 6月 21日  往診のつゆぞら

梅雨の合間の或る日の午後、やや遠方に住むひとの往診に向かった。1年ぶりである。 14年前にALSを発症、2年間、僕の診療所に通った。10年前に人工呼吸器を装着、胃ろうが造設された。 地域の医師がかかりつけ医として定期的に往診してくれている。今日は神経内科医としてひさしぶりの往診である。 ほぼ約束の時間に着いた。ベッドにあおむけのKさんに挨拶する。人工呼吸器の静かな乾いた音が聞こえる。 まぶたを少し挙げ僕の方に目を向ける。それだけがじぶんでできる動きである。奥様から今の様子を聴く。
胃ろうから半固形の流動食が日に3回注入される。顔の筋肉のわずかな動きを利用していたコンピュータは使えなくなった。 刻むようにつむぎ出していた言葉はなくなり、コンピュータ上での囲碁もできず、テレビもみなくなった。 耳に近づけたプレーヤーから、図書館で借りてきたCDの小説などを聴いている。 月に1回くらい車椅子で公園などに外出していたが、座ることも困難になり外にはずっと出ていない。 毎日、ヘルパーさん(訓練をうけて喀痰吸引ができる)が5時間きてくれる。 午前2時間は介護保険によるサービス。午後3時間は自立支援による援助。その間に奥様は買い物など家事が可能となる。 週に3日、訪問看護師が来る。その時、通常の身体診察やケアのほかに必ずカフアシストをつけ、強制的吸気―呼気を5回くりかえす。 この機械のために痰はぐんと減った。 市民病院よりレンタルし、臨床工学士が来て設定してくれた。 呼吸器の高圧アラームが鳴ると吸引する。Kさんはヘルパーが新しく喀痰吸引の資格をとるための“練習台”を買って出ている。 そのことですこしでも社会に貢献できればいいとかんがえているようだ。週3回のリンパマッサージも長く続けている。 このためか皮膚のトラブルがなく快いという。
診察上、弛緩性四肢完全麻痺、まぶたのわずかな動きでイエス、ノーを推測する。 僕は聴力も落ちたというKさんの耳元で話しかけたが、その微かな反応の理解には奥様の助けを必要とした。 しかし、挙げられたまぶたの奥の眼には活きたひかりがあった。その眼がなにかを語っていた。 奥様とは非言語的な交信というか、以心伝心でコミュニケーションが可能である。 優秀なケアスタッフに支えられて、在宅療養としてはとてもうまくいっていると思う。 僕はあえて今後のことについては考えまいとしている。Kさん自身が今なにを感じているのか。なにを考えているのか。 それはわからない。瞬間の幸福という言葉が僕のこころを揺曳する。1年ぶりの往診を終え、外にでた。 どこか別の深い世界に触れたような心もちであった。梅雨空の一角がやや明るい色に見えた。

2015年 6月 14日  瞬間の幸福

「全国初の高齢精神障害者に特化したグループホームの制度化はどのようにして実現したか」と題する講演が13日開かれた。 演者はグループホーム「おきな草」管理者で精神保健福祉士の櫻庭孝子さん。第一回横浜市精神科医会ミニレクチャーとして開かれた。 出席した医師は8名、こじんまりした集まりであったが中身は濃かった。
彼女と話していると精神障害者福祉に関する知識が並大抵のものではないことがわかるのだが、 やはり「おきな草」に至るまでのその軌跡はいばらの道だったと知る。
1982年の横浜での第一号精神障害者のための作業所(浦島共同作業所)を出発点として「西区はーとの会」による、 集う場(はーと工房)、住む場(第一戸部荘)、働く場(エプロンよこはま)、就労訓練の場(パソコン工房DELTA)、 そして街での生活を総合的に支援する場(生活支援センター西)と次々に活動をひろげ、 今回の高齢精神障害者の介護と看取りのためのグループホーム「おきな草」にたどり着く。
このホームは、加齢とともに身体機能の衰えが著しく、 もはや介護、看護なくしては一日の生活が成り立たない状態にある精神障害者を24時間、365日、介護・看護でささえ、 看取りまで安心してくらしてもらえることを目標としている。そのキーワードは、〈かかわりの質〉と〈しあわせな瞬間〉。

しあわせな瞬間とはなにか。瞬間の幸福をもたらす時間。精神病院で高齢化し手足は萎え、行き場所の失われた人たちが、 おきなぐさに来た。きれいなはなが咲き乱れる花園ではない。 しかし、かれらはそれまで味わったことのない瞬間の幸福を日々味わっているにちがいない。 精神病院のクロノスの世界ではなくカイロスの世界を生きているのにちがいない。 櫻庭さんが想っている宮沢賢治の『おきなぐさ』の世界である。

2015年 6月 7日  エンドオブライフケア

6月5日朝日新聞に「末期の緩和ケア:質の高い看取り 伝える」と題する記事が載った。 横浜市瀬谷区を中心にひろがる死に直面した患者への具体的な援助の仕方などのノウハウをカリキュラムにし、 全国の医療・介護職を対象に養成講座を開く。人生の最終段階におけるコミュニケーションの秘訣を伝え続ける在宅医、 2800人の患者を看取った経験をもつという。「援助的コミュニケーションの基礎:反復と沈黙」について研修が行われる。
患者の投げかける言葉を反復することで“確かに受け取った”という合図を患者に投げかえす。臨床医としての基本である。 かつてカールロジャースが主導したクライアント中心療法の技法として広まった。 非指示的精神療法だがおうむがえしととられかねない点もあった。在宅医療に携わる多くのスタッフがこの研修を受けに集まる。
気をつけなければならないだろう。機械的反復は援助とはほど遠い。
患者の言葉をくりかえす、その時の声のトーン、ものごし、まなざし、表情、 姿勢といった非言語的メッセージこそが大切なのではないだろうか。
援助という言葉をかかげて死を待つひとと向き合うことのリスクにも気づくべきだ。 援助という行為はにんげんのhubrisとぎりぎりに接している。それに気づくときおのずとひらけてくる態度があるのでないか。
なぜ「援助的コミュニケーション」なのだろう。ただのコミュニケーションではいけないのか。対話ではいけないだろうか。
「人生の最終段階」という言葉もまだなじめない。何か大仰で使いにくい言葉だ。

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