ニューイングランド医学誌 5月28日号に「尊厳死に満場一致―医師幇助死の合法化」というエッセイが載っている。
カナダの最高裁判所で採択された。普通法が施行されている国では初めて。1993年には一度提案されたが否決されている。
この度の裁定でカナダの患者は2016年までに医師の幇助で死を選ぶことが可能となる。9人の裁判官は全員一致で合意。
この裁定に78%のカナダ国民が同意。カナダ医師会は反対を取り下げた。
従来論争の火が燃え上がるこの問題だが、何がこのような結果をもたらしたのか。
カナダの刑法は生命優先主義である。例え、本人の同意があっても自殺を援助するような行為は殺人とみなされる。
しかし、より高級な法である憲法は自律と尊厳を強調する。
患者の死に医師が関与する場合、causes of omission(DNRの許容)と
causes of commission(バルビチュレートの過剰投与の禁止)が区別されてきた。
しかし多くの法学者や裁判官はそれを非論理的とする。
1993年、英国のトップ裁判所は家族の同意があれば持続的植物状態のひとの鼻腔チューブからの栄養を中止できるかと問うた。
患者から管を抜くことが殺人になるのか、栄養を中止することは人間的行為なのか、
管はいれたまま餓死するのはいくらか倫理的差異があるのか、裁判所はこれらの問いと格闘してきた。
これらは人々の健康を考える際、harm-reduction argumentと呼ばれる。
生命、自由、安心(security)という憲章上の人権が最高裁によって引き合いに出される。
そして薬物中毒者や売春婦を扱う際に監督下にあるいはシェルターのもとで許容するほうが
そうでない場合と比べより安全(safer)であることが分かっている。
それと同様に医師の監視のもとの死は自殺よりもひととしてのsecurityを侵害しないと考えるのである。
裁判所はさらに踏み込んで、じぶんの死という個人的なことを決める能力を刑法が奪うことは心理的害や苦痛を引き起こし、
憲章上のひとの自由への権利を侵害することになるという。
その過酷な治癒しがたい状態(grievous and irremediable medical condition)に対する態度(response)は
個人の尊厳と自律性にとって死活の問題(a matter of critical)であるとする。
カナダ政府は自分の死を決定するに際して、認知症、
身体あるいは知的障害者など危険なslippery slopeにのせられやすい患者がいることの議論を喚起した。
しかし裁判所はそれらの人々のend of life decisionは既に医学システムのなかに組み込まれており、
医師の賢明なリスク判断に任せられるとした。
二つ難しい問題が残る。ひとつは“過酷な治癒し難い状態”をどう定義するかという点。
例えば、難治性うつ病は過酷で治癒し難い状態であるが終末期でも身体疾患でもない。
二つ目は宗教上のあるいは良心上の理由から医師幇助による死に反対している医師の権利を
どのように患者の権利と折り合いをつけるかということである。
以上の展開は、直感的に〈医師幇助による死〉に嫌悪感を催す(repellent)ひとを苦しめることになろう。
しかし、社会はやがて知ることになるだろう、
尊厳と安全を伴う個人の死への権利を否定することはよりいっそう嫌悪感をもたらすものであることを。
以上が要旨である。この決定は早晩周囲の国に波及すると思われ、
早速日本でも新聞に投稿記事が載った(朝日新聞 6月4日 「私の視点」林 俊行)。
安楽死の議論より終末期の治療の充実が先だという論旨。日本では終末期に医療系麻薬が十分使用されていないこと、
終末期における精神的苦痛に対する診療の貧困、
そして安楽死に類似する状態へと鎮静薬を使いこなせる麻酔科医の参加が日本では困難。
これらをまず解決すべきであるとする。
なるほどそうだと思う。今後の在宅医療を考える際にいわゆる平穏死(自然死)とは別に、
癌および非癌患者の終末期における平穏ならざる苦痛をどう緩和するか、我々の力量が問われている。
できるだけ苦痛を少なくしてさいごまで生きることを目標とする緩和ケアと
死を目標とする安楽死(医師幇助死を含む)とは異なることを再確認する。
慢性期精神障害者のグループホーム「おきな草」の患者さんを診るようになり、精神医学、
とりわけ統合失調症をもう一度深く勉強しなければならない。そう思ってきた。
それも新しく出たDSM-5ではなく、古い精神医学を。昔読んだ教科書は散逸してしまった。
そのひとつ、もう今は絶版のブロイラー『早発性痴呆または精神分裂病群』を中古で取り寄せた。
休日には医学書店に行き、古典的な精神医学教科書を漁った。
5月23日、他になにか読んでおくべき書籍はないだろうかと、ぼんやりとネットで統合失調症関連を調べていた。
すると、1994年にジョン・ナッシュという米国の数学者が統合失調症を患いながら
「ゲーム理論」の実績でノーベル経済学賞を受賞したこと、そして2001年その半生が映画化されアカデミー賞の作品賞、
監督賞を得たことを知った。僕は半ば衝動的にその映画「ビューテイフル・マインド」のDVDを注文した。それは翌日に届いた。
そして、驚いたことに5月25日の朝の新聞にそのひと、ジョン・ナッシュ氏が5月23日交通事故で亡くなったことを知った。
僕が「ビューテイフル・マインド」のことを知りそのDVDを注文したすぐ後にそのモデルとなったひとが他界した。
もちろん偶然である。これを因果律的に考えたらおかしなことになる。
だが、と僕は思う。これをまったく意味がない偶然と考えてよいだろうか。
単なる偶然にすぎないとして屑箱に捨ててしまうべきであろうか。それもなにかすっきりしない。
どこかもやもやしたものが残る。
そのひとの生涯に対する僕の関心とその死の記事とが偶然に重なった。
しかしこれはユングの言った「意味のある偶然」かもしれない。
いわば広大な必然性の海のなかに浮かぶ偶然性の島にたまたま僕は流れついた、そんな風に思ってもみるのだ。
花曇りの午後、時間があったので野毛山を歩いて往診。時々ぽつりぽつりと空から雫が落ちてくる。
動物園への坂道をそれて左の階段をあがる。野球の練習の声の聞こえる中学校に沿って細い道がつづく。
ユズリハや椎の葉が密生して空はみえにくい。登りきると奥に佐久間象山の碑のある小公園。杏の木のある一角で息をととのえる。
フウの大木のところに来ると下に池がみえる。
エノキ、マテバジイ、スダシイの茂る道沿いにゆっくり下ると小さな広場がありそこに菩提樹、文殊といった珍しい木々、
それを見おろすようなタブノキの巨木がありリスたちが遊んでいる。
そこからさらに下って池のある広場に着くとすぐ池のおもて、
濃緑の丸い葉の中から少しくびをもたげたクリーム色の蓮の花が目にはいる。
奥の方には花弁の縁から濃淡のグラデーションのあるピンクの蓮が咲いている。
鈍色の水の上に咲く花々のそこだけに光が集まっているように見える。しばらくベンチに座る。
落ち込んだままやや停滞していた精神にすこし光が与えられた気がした。
往診のその方は1年ぶり。みずからを〈世捨てびと〉という。その平坦ならざる半生を聴く。
その後半の何年かに医師として僕も関わってきた。
〈世捨てびと〉の境遇に行きつかざるを得ない話を聴いて僕のなかに潮騒のように響くものがあった。
コーヒーをご馳走になりながら何か不思議なさわやかさを感じていた。
今は人生を達観しているというその方は「先生もどこか達観しているようにみえます。
社会的に成功して地位のある人で達観しているというのは稀有のことです。」と言った。
5月9日土曜の朝日新聞、日野原重明先生の「シュバイツァーの最後の日々㊦」というエッセイを読んだ。 その中に≪Happiness is nothing more than good health and a bad memory≫というシュバイツァーの残した言葉が紹介されている。 「健康と忘却に勝る幸福はない」と訳されている。 「恐ろしい非人間性の罪」とシュバイツァーが憤った20世紀の大戦の記憶を失ってはならないと日野原氏は考える。 と同時に「シュバイツァーの〈忘れることの幸福〉の言葉通り忘れなければ生きられない過去や先の不安を、どう忘れるかもまた、 人生の終わりを考えるにあたっては、大切なことなのかもしれない。」とエッセイを締めくくる。はて、と思った。 「忘れることの幸福」とは何か。「忘れなければ生きられない過去」とは何か。 Memoryを記憶力ととればbad memoryは悪い記憶力つまり忘却ということになるのかもしれない。 しかし、シュバイツァーはそういうことを言おうとしたのであろうか。あるいはそうなのかもしれない。 だが、Memoryを記憶(内容)や思い出ととるとどうなるか。 ≪健康に勝る幸福はない、そしてひとつの悪の記憶に勝る幸福もない≫ということになるであろう。 ここでは幸福という言葉の意味が反転し深まっている。例えば、父が僕の中に残したニューギニアの記憶を忘れないことの幸福。 悲惨な過去の記憶を忘れることの幸福ではなく、それを忘れないことの幸福。 つまり、忘れてはならない記憶を忘れないでいる幸福である。そのように読む読みかたもあると思うのだが、どうであろうか。
僕が横浜市立友愛病院(現在の横浜市立脳卒中・神経脊椎センタ―の前身)に勤めていた頃、
そこに多くの脳卒中の患者さんから慕われているひとりの老医がいた。柴田哲夫先生。
元内科医で定年後からリハビリテーション医学を学び、独特な風格で患者さんのこころをつかんでいた。
「脳卒中のリハビリとは生活の再建であり、QOL(生活の質)の向上である。
人間らしく生きるには安静は害であり、からだは地球に対して垂直に起こしておかなければならぬ」ひとりひとりの患者に向き合い、
丁寧に診察し、こう噛んで含めるように説明していた。
この「からだは地球に対して垂直に」という表現が珍しくそして面白く、僕の記憶にしみついた。
柴田先生の著書『養生閑話』の中の一節に「内科医からリハビリ分野へ方向転換して第二の人生への出発とした。
それから25年が経過し、これまでに7千人ほどの脳卒中患者さんのお相手をさせてもらったことになるが、
麻痺を治すという医学の力の限界を知った。最近では自分の見苦しくない老後の生き方を患者さんから学ぶ毎日である。
人生の幸福は老いの品位をどう保てるかにあると思う。」と書かれている。
ところで「地球に垂直」で思い出すのは最近しきりに唱えられるフランスの介護技法ユマニチュード、
その4つの柱のうち「見る」「話す」「触れる」に続く「立つ」である。
筋肉、呼吸機能、骨を鍛えるには立っていなければならない。
こどもが1歳で立ち上がり歩き始めるとき人間として持つ意識と同様なものが老人介護の立つことの意義につながる。
人間の尊厳は立つことによってもたらされ、これは死の直前まで尊重されるべきとされる。
1日少なくとも20分間立つことができれば人は絶対に寝たきりにならないという。
今おどろくのはこのユマニチュードの大事な柱、「立つ」ということを夙に柴田先生は「からだを地球に対して垂直に起こす」
という独特な表現で指摘していたことである。
さらに「見る」「触れる」「話す」という他の柱についてもその丁寧な診察により実践されていたように思う。
晩年の先生はさらに患者から生き方を学ぶという姿勢をみせそれがさらに患者から慕われることにつながっていったようだ。
このような先生と同じ病院で働く一時期を持つことができた幸運を思うのである。
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