臨床余録
2015年 3月 29日  元気とは

本多虔夫(まさお)先生が本を出版された。『元気ですごそう高齢期』(北辰堂出版)というタイトル。 大きな字で読みやすい。大事なところは太字に強調されている。 先生の50年以上にわたる臨床医としての、そして本多先生流の高齢期を生きる知恵のエッセンスが詰まっている本だと思う。

本多先生と出会ったのは僕が精神病院での臨床に行き詰まりを覚え、 当時横浜市立市民病院で児童精神科の臨床を模索していた渡辺久子に相談したことがきっかけ。 市民病院に神経内科のとてもいい先生がいるので相談してみたら、と言われ、電話した。 すると明日でもいつでも外来を見にいらっしゃいといわれた。その気さくな雰囲気に驚いた。 地下室のような狭い外来。先生が患者の話に耳を傾け、診察し、その結果を患者に説明する。 その話しぶりにまた驚かされた。それまでの精神病院での精神科医たちの話しぶりとのなんという違い。 その静かな口調を精神科医よりも精神科医的、と僕は思った。 外来が終わり、先生は僕を自分の椅子に座らせ、ご自分は診察ベッドにひょいという感じで座られた。 そしてさっき診た患者を僕はどう思うかと尋ねた。嚥下障害と構音障害の顕著な中年女性だった。 ALSですかと僕は答えた。違っていた。35年前のその場面を鮮明に思い出す。この先生のもとで勉強できたら、と思った。

さて『元気ですごそう高齢期』には〈一日一日を大切に生きるヒント〉という副題がついている。 僕が特に感銘を受けたところをあげる。

「長生きの幸運を社会に還元しよう」という章、健康オタク的なお年寄りが多い中、 健康それ自体をめざすのではなくそれを社会や周囲にお返しする。高齢期を生きながら自分を生かすということ。
「スローライフを心がけよう」ウサギではなくカメになる。 “スローライフ”と自分に言い聞かせることで不思議に心が穏やかになる。
「面倒がらずに、自分のことは自分でしよう」みずからの老いに甘えないということ。 はじめからできないと思わずできることをゆっくりと。これは在宅療養のコツだろう。
「元気とは」ここでいう元気とは大声で騒ぐような元気ではなく、前向きの心と健康感のこと。 痛みや変調がでてもやみくもに心配するのではなく「長く生きてきたのだからあたりまえ」と思えること。 「前向きの心」を言い換えると“レジリエンス”。〈健康〉の新しい定義を形作る概念だ。
そして最後に「自分らしい生き方を考える」の章がある。 先生の場合、高齢期を迎え、「自分の専門の神経内科にはこだわらず、社会が必要とするような仕事をしたいと考え、 あまりほかの医師が希望しない精神病院に就職しました。」とある。ここに本多先生らしさがあり、とても心を動かされた。

2015年 3月 22日  天までとどけ

むかし、子どもたちに読み聞かせ今でも忘れられない本がある。もう一度ぜひ読みたいと思いながらみつからなかった。 ところが先日ガレージの物を整理していたら出て来た。

『天までとどけ』(吉田絃二郎)、日本名作童話シリーズの一冊である。

漁師の父とふたり暮らしの弥一。学校から帰り夜になると毎日丘の上で大好きな父の船が見えてくるのを待っている。 ランプに灯をともして。ある嵐の晩、待てども待てども父は帰ってこない。ランプは消えてしまう。 弥一は物置からぼろや板きれを持ち出し火をつける。次の夜も火をつける。おとうが火をみつけて帰って来られるように。 燃やすものがなくなり物置き小屋をこわし火をつける。古い机や椅子をもやす。次の日もつぎの日も。 弥一は学校に行かず、先生が心配してみにくる。 教科書も燃やしてしまった弥一は「おとうが帰って来るまでは学校に行かん」とつぶやく。 心配した友達がしょんぼりとうずくまる弥一に話しかける。 おとうの火をつくるのにもう燃やすものがないと泣きながらいう弥一にみんな泣きだしてしまう。 ガキ大将の一郎が浜辺の古い船を燃やすことを提案する。小さな子どもたちの応援大作戦がはじまる。 えっさえっさ、板切れを持った子どもたちの行列がつづく。はじめは驚いてみていた大人たちも行列に加わる。 そのみんなの作った火は弥一ひとりの火よりずっと大きな、まるで天までとどくような火だった。 子どもたちが火を囲み、歌い、踊りだす。

“天までとどけ 天までとどけ お月さま まっか おほしさま まっか きんたろうのような かおして  天までもえろ 天までもえろ もえろ もえろ”

この童話がことさらいま胸にこたえるのは、いうまでもなく3・11があったからだ。 数知れない「弥一」がいるはずだ。 そうして、もう燃やすものがないとひそかにみずからのいのちの火を燃やし続けているにちがいない。 災害を免れた僕はそれを忘れまいと念じるだけでなく、 ひとびとの味わっている苦難への想像力を燃やし続けなければならないと思うのだ。

2015年 3月 15日  4年目の3・11

東北の被災地を忘れないこと、3・11を風化させるな、とテレビがいう。僕の中ではどうだろう。 あのときに比べれば何かが変わっているかもしれない。それを風化といわれれば仕方がない。 だが風化させないというのはなにもあの時のことをいっときも忘れず、 常に考えているということではないだろう(そんなことができるはずもない)。 そうではなくてあの時のこころの体験がしぜんにじぶんの生き方のなかに組み入れられている、そのような毎日を生きるということ、 そういうことではないだろうか。

3月11日の朝日新聞、「ひととき」欄に印象的な詩が載った。

海辺で待つ

3・11に
海辺で待つ

まだ帰らぬ人を待つ
海辺に立って
沖をながめやる
そっと水に手を入れる
手をつなげるように
海のどこかにいる人と
あの日、どこかへ突然に
いってしまった人と
つながるために
波が運んでくる、あの人の
声とぬくもり
波が伝えてくれる
まだ帰らぬ人を待つ
ここ3・11の地で
じっと、
そっと、
静かに待つ
どこかにいる
鳥や、月、太陽が知っている
自分は水に手を入れて、
感じるだけだ

帰らぬ人を、
これ以上ふやしたくない
  待ちたくない

戦地に人を送って

(宮城県石巻市
千葉 直美)

2015年 3月 8日  ふりかえるということ

タクシーから降りる時忘れ物はないか座席をふりかえる。すれちがったあと「あれ、だれだったかな」とふりかえる。 一日遅れの日記を書くとききのうの出来事をふりかえる。なにかと振り返りながら僕らは生きている。そして日々の臨床でも。

ひとりの比較的若い患者を看取った。そのケアを巡って何かもやもやしたものが僕の中に残った。 訪問看護師、ケアマネジャーとカンファレンスを持った。 この種のカンファレンスは直接的にデスカンファレンスと呼ばれているがどうも響きがよくないので、 ふりかえりカンファレンスと呼ぶのが良いと思う。

「弱く傷つきやすい乳幼児と家族に関わることが感情を喚起される複雑な仕事であることを考慮すると、 すべての領域にまたがる臨床家にとって立ち止まり内省する時間を持つことは、とても大切なことである。 臨床家は自分が担当する家族の前で体験したことにつき、じっくり考えるための時間と場所をもち、 この難しい仕事に取り組むことにより、湧き上がる個人的な感情を仲間と分かち合う必要がある。」(デボラ・ウェザーストン)

これは乳幼児精神保健の臨床家が日本で行なった講義の一部を抜粋したものだが、在宅ケアに関わる臨床スタッフにもあてはまる。

死への経過をたどる患者のかたわらで何ができるのか。治癒をめざした医療はできない。キュアではなくケア。 そこで看護師は本来のちからを発揮する。医者は医療の原点に引きもどされる。 つまり苦しむもの、死にゆくもののかたわらにいて、その不安や苦痛をどう和らげるかという問いをつきつけられる。
看護師は問う。苦痛は除去されたか。家族を支えられたか。希望していた在宅死はなぜかなわなかったか。 患者と家族の言動をふりかえりながら考える。 終末期の患者や家族のケアにはそうではない場合よりずっと多くの時間が必要だったとふりかえる。
かかりつけ医として僕は、医学的経過をふりかえる。 Physical pain, Mental pain, Social pain, Family pain, Spiritual painのそれぞれの具体。 それらをトータルなペインとして僕はとらえることができていただろうか。 患者が昏睡に陥りすでに身体的苦痛はないと知ったあとにも、発熱や喘鳴に対して家族のみせた反応、 それを僕はやや神経症的な過剰反応として受け取っていたが、それは患者の代わりに家族が苦しんでいたと考えるべきではなかったか。 いわば二人称の痛み(柳田邦男)である。そして今ふりかえりながら思うのは、 二人称の痛みはすぐれてスピリチュアルな痛みといえるだろうということである。 このようなことに僕は患者を診ているときは気づくことはなかった。

2015年 3月 1日  プライマリー

90歳の女性。数年前、緊急往診で心筋梗塞と診断し、市民病院に入院。治療後再び独居生活に戻った。 逆紹介で外来通院していたがいつからか来なくなった。ケアマネから依頼され訪問診療をすることにした。 それまで処方された薬はほとんどのんでいないことがわかった。路地奥の小さな一軒家。狭い屋内で彼女なりの生活を楽しんでいた。 庭の花を眺める。台所に立ってお茶をつくる。近くに住む息子が時々来て世話をする。そんな日々であった。数年が経った。

いつもは這うことはできるのに今日はそれもしない、 どうもおかしいとヘルパーさんから僕に電話があったのは丁度午後の診療の終わる5時すぎ。すぐに看護師と訪問した。 玄関はいつもしまっているので庭から入る。入ってすぐの4畳くらいの部屋に横たわり眼をつぶっている。耳は全く聞こえない。 うっすらと目は見える。揺り起こすと「あら、先生、今月はちっとも来ないから、もうおしまいかと思ってました」と大きな声でいう。 血圧、呼吸は問題ない。足を動かさず起き上がれない。 足をそっと動かすが「痛くありません、私はいつもと同じ、どこもわるくありませんよ、先生こんな時間にありがとうございます」 と繰り返す。下肢に脹れも皮下出血もなく明日まで様子をみることにした。隣りの寝室に運び布団に寝かせた。
翌朝、外来診療前に訪ねた。唸り声が聞こえる。左下肢が腫れ、股間節から膝にかけてまだらに皮下出血がみられた。 大腿骨頸部骨折。紙に「入院」と書いて見せる。きのうは絶対にいやですといっていたが今日はさすがに拒むことはない。 近くの総合病院に電話した。救急担当医から病状経過のほか今のんでいる薬の名を聞かれた。何ものんでない、と答えた。 「心筋梗塞をやっているのに何の薬ものんでいないのですか」といぶかしげであった。救急車を呼んだ。

薬は何ものんでいない。しかし、定期的に彼女を訪ね、その生活ぶりはみてきた。薬を処方してもきちんと服用できなかった。 どこも苦しいところがなければ薬は要らないと思うのだろう。 90歳を越えた彼女の毎日に心筋梗塞の予防薬の入り込む余地はなかった。 僕が診ているのはそのようなひとりの老いた女性の生きている時間。病院医師が診るのは過去に心筋梗塞を起こした彼女のいのち。 どちらがどうだというものではない。ただこの際立った対照はあらためて僕に病院医療と在宅医療の違いというものを考えさせる。 違わなければおかしい。そしてお互いにお互いを必要としている。 だがどちらがプライマリーかと問われれば、僕は、そのひとが毎日住んでいる場所での医療と答えるだろう。

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