臨床余録
2015年 2月 22日  そのひとらしさに添うとは何か

妻とふたり暮らしの70代の男性。脳梗塞で片麻痺となり在宅療養している。 夜間、頻尿のためトイレまで歩くが時々ころびそうになる。寝ぼけて食べ物を探しまわったりお茶を温めようとしたりする。 妻はそれにつきあうので寝不足と疲れがたまっている。このままでは共倒れになる恐れがある。 歩行のリハビリが必要と思われるのに、本人は“頑固”でデイケアもデイサービスも利用しようとしない。 医師の方からうまく本人を説得してほしい。

こんな内容のケアマネジャーからの手紙を持って患者と妻が来院した。
妻は介護負担もあるけれども同時に夫をケアすることにやりがいを感じている様子でもあった。 患者にリハビリとしてデイサービスをすすめたが「私はその必要を感じていません」ときっぱり断られた。

晩年の父のことを思いだす。歩行が困難となり、終日ソファに寝て過ごすようになった。デイサービスをすすめてもいかなかった。 入浴ができなくなる。そこで訪問入浴をすすめたが頑として首を縦にふらなかった。 「若いひとたちが来てよってたかって服を脱がして裸にして・・そんなことをしていいんですか」ともつれた口調で僕や看護師に言った。 頑(かたく)なだなと僕は思った。それから数か月後、僕は父を自宅で看取ることになる。

今、僕は、デイサービスや訪問入浴をかたくなに拒んだ父を“父らしい”とふりかえっている。 冒頭の患者さんの場合もその頑固さに妻はどこか“夫らしさ”をみて受け入れているようにみえる。

“そのひとらしさ”を尊重するケアといいながら、そのケアプランに従わなければ簡単に“頑固”と決めつけてしまう。 ケアの落とし穴だ。

そのひとらしさとは何なのか。考えるとむつかしい。ひとに知られているじぶんの他に、ひとには知られていないじぶんがいる。 じぶんに知られているじぶんの他に、じぶんにも知られていないじぶんがいるだろう。色々なじぶんがいるのだ。 だが僕自身をかんがえるとその中でも一番安心できるじぶん、落ち着けるじぶんが多分いると思う。 どうもデイサービスや訪問入浴を拒んだかたくなな父と似ている。困ったものだ。

2015年 2月 15日  往診はアートである

①“I think that the loss of the house call has been the biggest blow to the art of medicine in this century. Not only the patient lost this precious attention, but the physician has not found a replacement for the lost intimacy.” 「HOUSE CALLS」(PATCH ADAMS)

②ハーレム地区に住む患者を医師として初めて往診、 その際に聴診器も血圧計など診察道具を持参するのを忘れてどう診たらよいのかわからず当惑、 ただ座って癌末期の男性患者の手をとり言葉を交わし、その妻の苦労話を聴いて帰ってきた。 上司からはその無防備な行為を叱責された。 ずっと落ち込んでいたのだが、2-3か月ののち患者が亡くなり、2年後思いがけずその妻から医師へ手紙が届く。 そこには夫が亡くなる前に診に来てくれたことへの感謝が述べられ「私達家族はあなたのことを決して忘れません」と書かれてあった。 (House Calls:Sandeep Jauhar, N ENGL J MED 35;1;21 NOV 18, 2004)

③鷲田清一氏によると、クリニックという言葉は元は「クリニコス」というギリシャ語で「belonging to the bed」と訳されている。 ベッドのそばにいる、あるいはベッドにアタッチしているという意味。 「いま、日本に臨床医ってほとんどいないでしょう。・・患者さんがやってきて、それを診察室で待っている。 これは「臨床医」とは言わないんです。 臨床医というのはベッドサイドに行くことですから、お医者さんが患者さんのところに出かけていかないといけない。 つまり日本語の本来の意味からいったら、往診医しか「臨床医」と名乗ったらいかんのですよ。」 (鷲田清一・徳永進『ケアの宛先』)

僕が病院勤務医だった頃、その自宅近隣に往診医がいないために退院させられない患者さんがたくさんいた。 15年前、父が倒れ、診療所を引き継ぐにあたり、これからは患者さんの役に立てる往診ができると思った。 はじめの1~2年全力疾走して、うつ病になりかかった。 ADAMSがいうように往診はアート、つまり人間を相手にするわざだと思う。熟練が要る。 横綱の白鵬が平幕だった頃、その取組を見ていてこれは凄いと思った。 相手が押し相撲だろうと突っ張りだろうと四つ相撲だろうと、相手に応じてじぶんの態勢を変え、 相手の力を吸収するようにして勝ち相撲に持っていく。その柔らかさ、ふところの深さに驚いた。 在宅医療に勝ちも負けもないけれど、往診医もかくあるべしと思った。 しかし、上記②のように、未熟で無防備ともいえる往診であっても患者や家族に深い意味を刻むことがある。 まれに、感謝されず徒労感だけが残ることもある。在宅医療の現場をまさに3K職場と思うひともいる。 しかし、病み衰えたひとのところに行きケアする(関心を向ける、世話する、配慮する)ということは、 人間が人間として生きることの本質に根差している。 だからこそ、それがどんなに大変なことであってもひとはそこから充実感や喜びを得るができるのだと思う。

2015年 2月 8日  良いことと悪いこと

2月2日、日本人フリージャーナリストが「イスラム国」に殺害されたニュースが新聞の第1面全面記事として載っている。

たまたま車のなかで故吉本隆明の講演記録を聴いていて、ふたつ、僕のこころに刺さってきたことがある。

ひとつは、シモーヌ・ヴェイユの言葉をひいて、それが革命戦争であろうと民族戦争であろうと、 戦争とはいったい何かといえば、それは国と国との戦争なのではなく、 じつのところはその国の為政者(国家権力)とその国の大衆との間の戦い、それが戦争なのだということ。

もうひとつは、親鸞の思想に触れて、ひとは良いことをしていると思っているときには本当は悪いことをしていると思ったほうがよい、 逆に悪いことをしていると思っているときには良いことをしていると思ったほうがよい、 それで人間というのはバランスがとれるのだということ。そこに、人間のなかでの善悪というもの、倫理というもの、 善行・悪行というものにおける微妙で大きな問題があるということ。

これが今回の事件とどう関係するのか、言うのはむつかしい。 しかし、戦争、正義、良心、悪との戦いといった言葉があまりにも当たり前の意味で使われているのをみるとき、 吉本隆明の言葉の前で立ちどまざるを得ない。深く考えなければならない。

2015年 2月 1日  アウシュヴィッツ

アウシュヴィッツ強制収容所が解放されて70年目である。1月27日、ビルケナウ収容所跡で記念式典が催された。 僕は戦後生まれ。だからアウシュヴィッツのそのときを同時代的に知ることはない。 しかし、いま僕にとってアウシュヴィッツとは何であるのかを問うことはできる。

僕がアウシュヴィッツを訪ねたのはロンドンの留学から帰って数年目だったと思う。 ロンドン滞在時、「日本人の戦時行動と自己否認」という集会にシンポジストとして出た。 その際インデイペンデント紙の記者ベンジャミン・ポグラン氏からプリモ・レ―ヴィの 『If not now when?(今でなければいつ?)』を贈られた。アウシュヴィッツに行かねばならないと思ったのはそのときだった。

宿も確保できないまま、ワルシャワからクラクフへ移動した夜の、真っ赤な血をながしたような空を忘れることはできない。
オシフィエンチム(アウシュヴィッツ)は異様な静けさだった。 それはおそらく言葉を受けつけない空の深さ、建物の重さ、空気や大地の冷たさのせいだったであろう。
アウシュヴィッツから帰って、ずいぶん経ってから僕は散文ではなく、 短歌のかたちでようやくそのとき刻まれた思いや感情の一部を言葉にすることができた。

『夜と霧』読みたる杳きおののきにプシュケの森を歩みきたりぬ
紅殻の煉瓦の壁を撃つ雨の音吸われゆく悲歌のごとくに
監視塔虚ろなる眼はくろぐろと秋の時雨に濡れておりけり
囚われし子らはからだを刻まれて収容所医学のために死ににき
「焼却炉の玄関」に働く医師ひとりきのうのわれのごとき微笑に
                歌集『錐体路』(2002年)

何のためにアウシュヴィッツへ行ったのだろうか。
それは恐らくじぶんに会うためだ。
アウシュヴィッツとはじぶんだったのだ。

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