年末、新聞の切り抜きの山を崩しながら夏頃の記事が目に入る。「子育て相談室」欄。
「3歳の子が、手を洗ってないのに洗ったなどとうそをつく。許してよいのか。
どう叱ったらよいのか」という質問に“「うそはダメ」懇々と説明を”と題して医師が答えている。
「やっぱりうそはよくないですよね。
・・・うそはついちゃいけないよということを子どもとのつきあいの根本原則としたほうがいいと思います。
・・・お母さん、お父さんが怖すぎませんか。・・・このくらいのことなら、やさしく言い聞かせる程度でいいのかもしれません。
・・・・どんなことでも、とにかく子どもが(うそはダメと)わかるまで懇々と説く。しつこいと思われてもいい。
・・・小さい子にわかってもらうのは大変なこと。でも、できないことじゃないと思うんです。
“言葉でわかるように育てる”ことは、とても大切なことだと思います。」
3歳の子どもが小さなうそをつく。なぜだろうか。お母さんが怖いこともあるだろう。遊びや空想のうそもあるだろう。
かくれんぼ、おとぎ話、神話も一種のうその世界だ。
秘密を持つのもうその世界かもしれないが、思春期ではむしろ正常なこころの発達のしるしである。うそはひといろではない。
うそへの想像力が必要だ。
しかし、そこからあと、そもそも嘘とは何だろう、と考えるのではなく、
また親子関係に加えてその子の遊びの時間や友達集団の有無など育ちの環境を考えるのではなく、
ひたすら言葉でわからせる方へ向かう。
「しつこいと思われてもいい」懇々と説明して「うそはダメ」と言葉でわからせることが大切、と医師は言う。
そういうことが可能であろうか。無理にわからせることはその子のなかに別のうそ(歪み)を芽ばえさせないだろうか。
言葉だけでわからせること、それはむしろ一番してはいけないことではないのか。さしたる根拠があるわけではない。
僕の直感である。
2015年12月3日ニューイングランド医学ジャーナル、パースペクテイヴ欄エッセイを読む。
フランスの医師、ルネ・ラエンネックは妊婦の心臓を診察するのに打診や触診は役に立たず、胸に直接耳をあて心音を聴いた。
1816年のことである。ただ女性の場合直接耳をあてるのは失礼にあたり紙を丸めて円柱形にして聴いた。
これが聴診器の発明につながった。聴診器は医者と患者との間に節度ある距離をもたらした。
しかしながら、こんにち、このつながりはすりきれてきている。聴診器はほとんど時代遅れのものになっている。
聴診は消えゆくアートである。心雑音を聴く医師は超音波で容易に音の鑑別ができる。
エコーは人間の耳よりよく病気を見分ける、しかしその代償はいかばかりか?
いつか小型のエコーが聴診器のかわりに医師のポケットに入る日がくるだろう。
医学的革新は我々をより良い医師にし医学の外観を変える。例えば電子カルテ。
遠隔地の患者の情報がすぐわかり(その患者が触れて冷たいのかどうかはわからないにしても)転医の必要性をしめす。
遠隔ケアはますます一般的になりつつある。ケアが電子化されればされるほど我々は患者から引き離されることになる。
ラエンネックの医学への遺産は聴診器を使ってベッドサイドで患者をみる技術を教えたことである。
近代医学は電子聴診器を使用してベッドサイドで心音を聴けるようにした。
心膜摩擦音の分析、第2コロトコフ音、グラハム・シュテイール拡張期雑音などを通して臨床と病理の関連を明らかにする。
そしてその音は患者自身も聴くことができ、患者―医師関係が強化される。
聴診はベッドサイドで最もよく教えることができると以前から言われている。
しかしここで我々が大事なポイントと思うのは、電子聴診器により患者と医者が結ばれる時、
それは聴診の教育ばかりか患者のケアや臨床医学の実践についての教育にもなるということである。
我々はコンピュータのスクリーンではなく顔と顔、手と胸を通してベッドの患者にフォーカスをあてることができる。
ラエンネックは彼の発明した装置のためのみならずそれを使う仕方によって医学を刷新したのである。
彼の遺産は、片方の耳にあてるチューブに限られるのではない。
我々はある意味で患者の一部にならなければならないというアイデア、つまり、
身体的に患者に関わることで彼らがどう感じているかを感じ、どう苦しんでいるかを感受し、
何を言おうとしているのかを理解することができるという思想、それが彼の遺産なのである。
検査データの照合することをして我々を臨床医たらしめるのではなく、我々は自身を“患者のベッドに赴くもの”
(those who visit patients in their beds)とさせたいものである。
それこそが、ラテン語のclinicusの文字通りの意味であり、それはギリシャ語のklinikeから来ており
“病のベッドでのプラクティス”(practice at the sick bed)ということなのである。
我々をベッドに近づける装置は我々に治療者としての新しい生命を吹き込んだ。
聴診器は診断し教えるのに役立つが、とりわけ我々を患者に結びつけ、
患者とのつなぎを強化しあまりにもかぼそい患者とのリンクを保護することができるのだ。
以上は抄訳である。僕は精神科医として出発した。精神科医にとって聴診器は2次的なものだった。
じぶんの眼や耳で患者の心を診ること。眼や耳がいわば聴心器であった。
その後総合病院の神経内科医を経て15年前に開業し、バイタルサインと胸の聴診だけはどんな患者さんでもするように努めて来た。
とりわけ認知症の方には必ず「胸の音を聴かせてください」と話しかけ、耳を澄ます。
会話は困難になった方でも聴診器を介してつながる感覚、患者さんからみればじぶんのいのちの音をこの医者は聴いてくれている、
と思ってくれることを期待して。病識がなく介護も治療も拒否というひとでも聴診はめったに拒むことはない。
外来患者で「色んな病院にいきましたが初めて胸に聴診器をあててもらいました」という方が時にいる。
このエッセイに興味をもったのは、このような僕の問題意識と重なったことが一つ。
もうひとつは“tether”という言葉。辞書では、(牛や馬をつなぐ)つなぎ縄。「束縛」あるいは「足かせ」という意味。
このエッセイでは患者とのつながりと言う良い意味で使われている。
逆にいうと、患者とのつながりといっても患者からすると足かせという意味が奥にはあるのだなと思う。
その意味の二重性が面白い。
或る独居の認知症女性に軽めの薬を1錠だけだしている。2週間に1回受診してくれる。
「薬がきれる前にきてくださいね」と僕は言う。この1錠のくすりのtethering effectともいうべきものを思いながら。
久しぶりに、Tさん(認知症進行期)のご家族がみえた。
当院に通えなくなったため、地域の在宅専門医による月2回の訪問と毎月1回血液検査をしてもらっているという。1年が経過した。
状態は落ち着いており血液検査にも何の異常もない。
さて、糖尿病など内科疾患は何もなく、しかも毎回何も異常がないのに何故毎月血液検査するのか。
また、訪問開始時あるいは状態悪化時はさておき、1年以上状態が安定している方に2週間に1回の訪問診療が必要なのか。
診療報酬が先にあるのではなく、患者の必要(ニーズ)が先になるべきである。
診療報酬の枠内で許されるなら不必要な診療をしてもよいということにはならない。
逆に、患者がそれを必要としているなら、診療報酬とは無関係に必要なことをやるべきであろう。
それこそが在宅医療の質を高め、在宅医の社会的な評価につながるはずである。それがいまだにさかさまになっている。
2016年度診療報酬改定に向けた議論が中医協で進む。
そのうち在宅医療では一律に評価するのではなく、重症度に応じて評価が予定されている。
例えば、「医学的に必要な回数以上に訪問診療(月2回以上訪問すると点数が大幅に増える)を受けている患者に、
循環器疾患、脳血管疾患、認知症、糖尿病等が多いとして、評価引き下げも示唆されている。」(全国保険医新聞)
経過を注視したい。
年に一回の日本神経学会主催、専門医のための生涯教育講演会に出た。医学は進歩する。
その最先端の知識をまとめて聴くことができる。貴重な機会だ。
今回は ①タウオパチー(アルツハイマー病その他)の臨床と基礎(順天堂大学 本井ゆみ子医師)
②「頭痛学」からみる片頭痛の病態と治療(慶應大学 鈴木則宏医師)
③パーキンソン病の診断と治療の新たな展開(関東中央病院 織茂智之医師)
④脳卒中診療の最新の話題(順天堂大学 田中亮太医師) である。
それぞれその領域のエキスパート・ドクターが各40分間講義する。
一介の町医者である今、病院勤務の頃と違って、毎日多くの神経難病の患者さんや脳卒中の患者さんばかりを診るわけではない。
それでも日々の臨床の背景としてこれらの知識を蓄え、それをつねにアップデートする努力を惜しむべきではないだろう。
航海には経験が必要である。しかし、経験だけでは安全な航海は望めない。海図を正確によむ能力が必要なのである。
これは本多虔夫先生のさらに先をゆく日野原重明先生の言葉であったと思う。
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