毎年恒例の「本多虔夫(まさお)先生を囲む会」に列席した。ことしは国際文化会館に本多先生の“弟子たち”8名が集まった。
そこに行くと、きびしいながら何かぬくもりがある、そこにいるとじぶんが成長できる、そのような場所にひとは集まる。
本多先生とはそのような雰囲気の方である。
医学部卒業後、ふつうは大学の医局に入るのだが先生はすぐに米国ジョンスホプキンス大学に留学され、
そこの神経内科のチーフレジデント(日本人では初)になられた。
帰ってからも大学には戻らず横浜市民病院の臨床医、聖路加国際病院神経内科のコンサルタントとして活躍された。
そのもとには自然と医者が集まった。よくある同じ大学出身のグループではなく、さまざまな大学からの医者である。
本多先生が医者や大学の権威などというものとは無縁の道を歩み、ひとりの医者として自立した生き方を僕らに教えていた。
大事なのは、医者の業績や名声ではなく、臨床の実力と人間性であること。それを言葉ではなく、その存在で示しておられた。
「医学にヒューマニテイーを」という本多先生のこころざしに共鳴する医師8名の集まりは今回がさいごになる。
医学の進歩は、皮肉にもひとがどう老いたらよいのか、どのように死を迎えるべきなのかをわからなくさせてしまった。
そのような社会に対して、本多先生は新たに「老いと生活」に関する会を準備しておられるようである。
さいごまで先生と歩みをともにしたいものだ。
在宅医療は、病院や診療所に来ることが困難な患者さんのために、往診あるいは定期的に訪問診療をすることである。
対象は病むひとであり、そのひとの持つ疾患ではない。
さらに、みなければいけないのはそのひとの生活の在り方であり、その人柄であり、家族である。
正確な病状の把握は必要だが、同時に大事なのはそのひととの信頼関係である。
その信頼関係は1回や2回の診察でできるものではない。
かかりつけ医として診療所に長年通うひとを診る中で自然にできあがるものである。
医師が患者を知ることは、患者が医師を知ることにならなければならない。
在宅医療の質をどう評価するか。なかなかむつかしい。ひとつは在宅看取り率。患者さんが人生を生ききりその最後を自宅で迎える。
そのさいごまで医師が支えることができるかどうか。
この方は何がなんでもさいごまで診てあげなくては、という医師の思いと、
何がなんでもこの先生にさいごまで診てほしいという患者の気持ちが一致するような関係、それがあるのが一番望ましい。
それまで長年、高血圧のため他の医師が診ていた方が癌を発症した。往診をしないその医師に代わり訪問診療をはじめた。
痛みが目立つようになったが、幸い医療系麻薬で緩和された。しかし、食べる量が減り、日中もうとうとするようになった。
予想される経過をお話し、いざというときは訪問看護師あるいは医師がいつでも訪問するとお話していた。
痛みや呼吸の苦しみもない静かな経過であった。従って、そのままおだやかに最後を迎えられると思っていた。
ところが、一度は断った緩和ケア病棟に入院されそこで亡くなられた。この方の場合、いわば“接ぎ木医療”といえる。
医師との関係が短く、症状はコントロールされてはいたが在宅看取りが可能になるには何かが足りなかったのだろう。
もうひとり。長年僕が診ていたやはり癌の方で、「最期は家で先生に診て頂くから安心です」と常々話していた。
動けなくなりオピオイドでも呼吸苦が目立ち、みているご家族がつらくなり、病院に入れるべきか迷いが見えたとき、
鎮静剤(セデーション)を開始した。その結果、静かな眠りのまま在宅で亡くなられた。
この方の場合ははじめの方と比べ症状コントロールは困難であったが、
医師との間で長い間に醸成された比較的深い信頼関係があった。それが在宅看取りを可能にしたといってもよいであろう。
在宅医療それだけを取り出し、その質を評価するのはむつかしい。
在宅医療の質とは、おそらくそれを可能ならしめている人と人との関係の質に規定される。
この関係の質がもっとも鮮明にでるのが在宅看取りであると思う。
高血圧の息子さんと一緒に糖尿病で通っていた88歳の女性のことである。
頭の明晰な話好きの老婦人で、待合室の本を何冊も借りていくひとだった。
腎不全を併発し透析のできる病院に入院した。そこで肺癌がみつかった。肺癌も診ることのできる総合病院に移った。
頭痛を訴え意識がぼんやりすることがあり癌が脳に転移していることがわかった。
そのため別の病院でガンマーナイフ治療を受け、腫瘍は縮小し元気になった。再び総合病院にもどった。
息子さんから緩和ケアやadvance care planningについて僕に相談があった。
同じ頃、病院担当医から肺癌の種類を知るために気管支鏡を行いたいと言われた。
なぜやるのかもうひとつ納得できなかったが、“簡単な検査”といわれて同意したという。
結果は組織がよくとれず不明。翌日になっても意識が戻らなかったが透析しているひとは麻酔から覚めにくいと言われた。
やっと覚めたが検査する前とは違う。ボーとしたまま、すっかり元気がなくなった。
生検がうまくいかなったので今度は造影CTを撮りたいと言われた。
そう聞いてなにか「おかしい」と思った息子さんは、そのやり方にはじめて抗議した。
そして母親を緩和ケア的に診てくれる別の病院に転院させた。
以上の話を聴いて、ほんとうのところはわからないが、それにしても、と僕は思う。
透析中で脳転移のある肺癌高齢女性に侵襲のある検査をするのはどうなのか。
少なくとも息子さんには検査の意義が伝わっていなかった。医学的用語を交えて説明されてもわかりにくい。
そんなとき、例えば「先生のお母さんならどうしますか、この検査をやりますか」と聞いてみるのはどうだろうか。
科学的、客観的、3人称の世界にいる医者に、家族という切実な2人称の世界に入って来てもらうのである。
むこう側にいる医者に、こちら側に来てもらうといってもよい。
医者との間にこのような“対話”が成立するのはなかなかむつかしいとは思うのだけれど。
『intoxicated by my illness』(邦題:『癌とたわむれて』アナトール・ブロイヤード著)を読んだ。
著者はニューヨークタイムズの著名な書評者であったが癌を告知される。
その後、死にいたるまでの14カ月に書き継がれた文章が集められている。
ブロイヤードという人間の個性がきらめいている。
極めて印象的なふたつの箇所がある。
ひとつは、「患者が医者を診察する」という章。「わたしの理想の医師とは、わたしの詩を、わたしの文学を「読む」人です。
病気がわたしを浄化し、わたしの最悪の部分を弱め、わたしの最善の部分を強めたことを見抜いてくれる人です。
・・・死ぬこと、あるいは病気になることは一種の詩です。」
「医師は、彼が医師でわたしが患者であるがゆえに、不可避的に、わたしにたいして優越感をもっています。
しかし、彼に知ってほしいのは、わたしもまた彼にたいして優越感をもっていること、彼はわたしの患者でもあるのであって、
わたしは彼にたいして診断を下している、ということです。」
患者を診断しているとき、医者は患者から診断されている。なんという逆転の発想だろう。
診断されているのは、医者の感受性、詩を読むちから、魂へのまなざし、生命の悲劇的感覚のしるし、
運命に立ち向かう憤然たる欲求、医学への批評、フィジシャンでありつつメタフィジシャンであること、人間性の音色、
ストーリーテラーとしての能力等など。
ふたつめは、彼のキーワード、「スタイル」「ストーリー」そして「隠喩」に触れて彼を批評した文章。
「ブロイヤードは、病気や治療による侮辱に抗して身体と自己とに誇りを持ち続けることとのの重要性を説く。
彼は、これをスタイルと呼ぶ。」(ワシントンポスト)
「ブロイヤードは、無名の病気などという考えがどれほど耐えがたいか、病気を隠喩的なものにし、
自分自身のものにすることがどれほど必要か、病気を病むとき、また死んでいくとき、
自分なりのスタイルをもつことがどれほど大事かを書いている。病気になったとき、
人はみなストーリーテラーにならなければならない。自分の病気のストーリーを、隠喩を作らなければならないと書いている。」
「究極的に必要なのは、自分の病気を所有すること、自分のものにすることだ、と彼は言う。」
(オリバー・サックスの序文より)
「アナトールは、彼の最も得意とすることをしながら、すなわち、人生と、自分を取り巻く環境とについて論評しながら、死んだ。
そして、そう、希望していたとおり、死んだときも生きていた。」(アレクザントラ・ブロイヤード)
彼は69歳で亡くなったが、これらすぐれた読者に恵まれていた。(序文を書いたオリバー・サックスも癌で先ごろ他界した)
「みなと認知症セミナ―」が終わった。毎年講演の立案(内容と講師)に苦労する。
これが終わると今年も終わったなという感じがする。
医療と介護の二本立て。今年は竹下淳子さんに4月からはじまった認知症カフェ「わたぼうし」について、
佐々美弥子様には傾聴法、回想法について話していただいた。
医療面として横浜市総合医療センター診療所塩崎一昌先生に認知症鑑別診断と若年性認知症の人と家族の集いについて
お話しいただいた。
「わたぼうし」は以前、地域の会議で僕が「認知症カフェがあったらいいですね」と発言したことがきっかけになったらしい。
戸部地域ケアプラザのスタッフ、地域診療所スタッフ、家族会「あけぼの会」のメンバーなどがかかわっている。
毎月第3土曜日に開かれている。認知症を心配する方や家族が病院を受診する前にまず相談する場所であってよい。
おいしいコーヒーとお菓子が50円でサーブされ、スタッフはゆったりとした雰囲気のなかでいらした方の話に耳を傾ける。
カフェの在り方はあえて固定したものとせずその時どきの流れにまかせており、今のところそれでうまくいっているようだ。
傾聴法、回想法はトレーナーとしての佐々さんがごじぶんのライフワークとして取り組んでいるもの。
グループ回想法と個人回想法がある。ケアプラザのスタッフが参加し訓練を受けている。
僕じしんは認知症のひとに接する際に、そのひとを知るためにごく自然に生まれや仕事、家族のこと、思い出などを問いかける。
認知症とはいっても昔のことは覚えている方が多いので、生き生きと話をしていただける。
僕の知らない時代のことが多く興味深く耳を傾ける。むかしの話を聴くことはそのひとの隠された扉を開けてもらうようなものだ。
できればそれを療法とか治療法とは呼びたくない。ひととひととの対話であってほしい。
そういう診療の場面での回想の在り方について質問したが、回想法は厳しいトレーニングが必要であり、
単にそのひとの思い出に触れるというようなものではないとされ、やや噛み合わなかった。
塩崎先生は診療所型認知症疾患医療センターの長として膨大な数の認知症疑いのひとを診て来たそのデーターを示された。
てんかんによる認知症がかなりあるということを知った。また若年性認知症の家族会の取り組みが紹介された。
老化というプロセスの途上の、ひとつの状態として、認知症はある。今や誰がなってもおかしくない。
そういう時代に生きている。僕がなってもあなたがなってもお互いさま。そんな精神をもって生きていきたいものだ。
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