古代人は“よき死”という概念をもっていた。それは国のための戦闘における栄誉ある死であった。
“A Good Death-Ebola and Sacrifice”と題するエッセイが2014年9月25日のニューイングランドジャーナルに載っている。アフ
リカで猛威をふるうエボラウイルスによるひとりのリベリアの医師Dr.Brisbaneの死についてである。
筆者はアメリカ人医師でDr.Brisbaneの友人。リベリアのモンロビアJFK記念医学センターで災害救急医学の研究を共にしてきた。
Dr.Brisbaneはドイツで医学を学び、市民戦争、独裁政治下の血なまぐさい状況でも医師として働いてきた。コーヒー園も経営し、
8人の子どもの父親で6人の養子もそだてている快活な救急医学専門医師。
2014年6月、リベリアで初めてエボラ患者が地方の病院に発見され一人の医師と数名のナースの死亡が報告された。その病院から
スタッフは逃げ去った。モンロビアのJFK記念医学センターにエボラが発生したらどうするか。どう患者を隔離するか。スタッフは
どうして自身を守ったらよいのか。何も方策はなかった。Dr.Brisbaneの顔から笑顔が消え、まるで難破船のようになった。そして、
筆者にぶっきらぼうに「モンロビアを去れ」と言う。
ある朝、若いDr.Irelandが明らかに恐怖の面持ちで救急にエボラらしい患者がいると告げた。その患者は狭い場所に多くの患者と
共に6時間放置されていた。Dr.Brisbaneその他の医師がそこに直行すると、周囲の患者や家族はすでに何かを察知していなくなり
ナースは患者から遠く離れて立っている。患者を隔離室に運ぶのにベッドごと運べない。そこでDr.Brisbane, Dr.Borborと2人の
用務員は素早くガウン、グラブ、マスクをつけ、マットレスごと患者を持ち上げやっと隔離室に運んだ。患者は喘ぎはじめ5分後に
死んだ。その日の遅く、検査室からその患者は確かにエボラに感染していたと報告された。その次の週、私(筆者)はモンロビア
を去る。
Dr.Brisbaneはいつも体温計を持ち歩き発熱をチェックしていた。お守りとして病院でも中折れ帽をかぶっていた。持ち前のジョー
クで周囲を和ませていたが、それは一種の絞首台のユーモアにもみえた。
筆者がアメリカに戻った数日後、リベリアの友人からコールがありDr.Brisbaneがエボラにかかり隔離室に入ったことが知らされた。
次のコールで彼が死んだこと、そしてすぐに埋葬されたことが知らされた。ついでDr.Borborと Dr.Irelandの死も知らされた。
Dr.BrisbaneはJFKにとどまる必要はなかった。じぶんのプランテーション農園にリタイアして妻や孫やひ孫と安楽に暮らすことが
できたのだ。彼はエボラを恐れていた。それでも私達は知っていた。彼が毎朝、救急病棟に赴き彼の患者たちを診ていたことを。
医師とナースは患者をケアすることを義務づけられている。どんなに条件がわるくてもそうである。しかし同時に我々は自分自身
および家族にたいする義務もある。とくに仕事が生命の危険を伴うときには患者の生命とじぶんのそれとの間で引き裂かれることになる。
Dr.Brisbaneはそのような状況下、極めて不十分な医療環境、不十分な感染コントロール技術の中患者のケアにあたりその結果
自らの命を終えた。
彼の死は我々を人間としてひどく落ち込ませる(Dr.Sam Brisbane’s death diminishes us as a people)。しかしながら、
彼の死を恐ろしく不正義なものとみなしている妻やご家族に申し訳ない気持ちで一杯になりながら、深い喪失感を我々も味わい
ながら、なおかつ、我々の友はよき死を死んだ(died a good death)のだと信じるのである。患者をケアして自らを犠牲にした
すべての医師およびナースの死がそうであったように。
以上が要旨である。極めてmovingなエッセイだ。Dr.Brisbaneはなぜリタイヤしなかったのか。考えさせられる。カミュの小説
『ペスト』のなかの医師リウーを思いだす。そしてイラク戦争のさなか「明日殺されても私はじぶんの仕事をするだろう」と
語ったイラクの医師のことを思い出す。医師であることの栄誉とそれゆえの悲惨ともいうべきものを思うのである。
これは、癌の終末期の女性から、いきなり「先生、わたしはなおりますか」と問われて口ごもる僕に、彼女が言った言葉である。
横浜市医師会報にエッセイの原稿を依頼されて、このことについて書いた。その一部を以下に載せる。
いまふりかえると、この問いは恐らく、“なおる”という言葉の日常的な意味を越えたところに発せられたのではないか。彼女は、
じぶんが“なおらない”ことを知っていた。単に“なおらない”のではない。すでに死に直面していた。その崖っぷちでこの問い
は発せられた。
じぶんの死に真向かう時に生ずる痛みは、身体の痛みとは異なる。そして、いわゆる精神の痛みとも異なる。死ぬ瞬間まで、
ひとは生きなければならない。そのプロセスで何が起こるのか。健康な身体が消える、歩いたり、喋ったり、笑ったり、泣いたり
する日常が消える、風呂に入って汗を流したり、冷えたからだを温めたりする夜の時間が消える、窓を開けてさわやかな空気を
吸い込む朝の時間が消える、遠くから帰ってきたひとを軽くハグするぬくもりが消える、大事なひとと共にする夕餉のまたとない
時間が消える、仕事の労苦や喜びが消える、社会との関わりが消える、友人たちが消える、家族が消える、そして明晰に考える
頭脳もしだいに消えてゆくだろう。さいごには、死の手前で、何もできず、ただそこに横たわるだけの、ひとつのいのちが残る。
ひとの生を構成するすべてが失われたかと思われたとき、それでもそこに微かにゆらぐ炎のようなものがある。
「先生、わたしはなおるでしょうか」という言葉は、燃えつきようとして、なおもゆらめくこの小さな炎の痛みを表わしていた
のではないか。その痛みをぼくに伝えようとしたのではないか。
この小さな炎を守るてのひら、そのような言葉があるだろうか。だれか教えてほしい。
さらばよさらば、束の間の夏の光の烈しさよ。
(ボォドレール)
この「臨床余録」を書きはじめて丁度1年になる。週に1回、その週の出来事あるいは目にした文章をふりかえり、エッセイ風に
書き記す。1年後の今日を予想することもなく、何かに奮い立って、「書かねば」ということでもなかった。
ただ、背景に3・11があるのは間違いない。あの日以来、考えながら生きる、生きながら考える、ということが日々のスタイル
になった。そして、単に考えるだけでなく書くという行為に移す。書くためには考えなければならない。
“ふりかえり”(reflection) という語がある。この語は、反省と訳されることもあるが、むしろ内省という深い意味で考え
たい。内省を経た反省。僕にとって書くことの意味はこの“内省的ふりかえり”ということにほかならない。
きのうは夏。
今日は秋。
時が僕のなかを過ぎ去るのではない。
時間のなかを僕が通り過ぎたのだ。
毎週土曜日の朝日新聞に日野原重明先生のエッセイ『102歳 私の証 あるがまゝ行く』が載る。今回は「上手な医療の受け方」
というテーマ。大事な2つのポイントについて述べている。まず、医者にかかる前に受診の目的を確認すること。例えば、頭痛を
とってほしい、時々あるめまいの原因をしりたい、病気なのか、助言がほしいなど。次に、その症状がいつから起きたのか、
今までの病歴、その他アレルギーの有無など健康情報を整理しておき分かりやすく医師に伝えてほしい。以上の2点。そして、
故幸田文さんの「私はよい患者になることは、言葉からできなくてはだめだと思いました」ということばを引用している。
日野原先生らしさを感じながら、僕は別のことを思う。
ひとは何か“困ったこと”“苦しいこと”が生じたために、ほんとうは行きたくない病院や診療所を訪れる。そのことを当然、
医者は知っていなければならない。あたりまえのように医者の前に坐る患者は、患者からみれば決してあたりまえではないのだ。
そのことをわきまえている医者の態度はおのずからそのようなものとして外にあらわれるであろう。
なぜ受診したのかは、普通備え付けの問診用紙があり、詳しく書けるようになっている。日野原先生のいう事前の準備は(この
用紙に書ければ)必ずしも必要ないと僕は思う。それとは別に、何よりも、患者さんへの“今日はどうされましたか?”という
医師のはじめのことばのトーンが大事だと思う。これはいわゆるopen-ended-questionで、何でもいいですよ、どうぞ、という
ことなのだが、その時の医師の態度がゆったりとふんわりとしたものでないと幸田文さんのように「しどろもどろになって・・
忙しい先生に申し訳ないと思って・・」という思いをいだかせてしまう。
“よい患者”になどなろうとしなくてよいのではないか。ありのままの「しどろもどろ」でよいのでないか。しどろもどろの
なかにそのひとがいる。
“よい患者”を求めるまえに医者はじぶんをふりかえるべきかもしれない。
医者はみな忙しい。その忙しさを決して外には見せず、ひまげで、ふんわりといつも空の雲をみているような医者。だから、
患者がいつでも気楽に声をかけられる。そして、いざとなったらどんなときでも、どこからでも、いくらでもどうぞ、と患者の
ためにじぶんを投げだせるような、そんな医者のすがたを思うのである。
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