N社の薬の臨床研究でデータ操作の不正があったことがわかり社会的な問題となっている。
N社の後援で行っている神奈川県パーキンソン病研究会が今年は中止となった。世話人会の健全な判断だと思う。
僕が世話人をしている認知症関連の研修会を後援してもらっている会社についてもデータ処理をめぐって一部疑いの風評があったのでどうしたらよいか、
少し悩んだ。最悪の場合、その後援を断るシナリオもある。結局、問題のないことがわかった。
これら製薬会社とその後援を受けている学術研究会との関係の在り方を西区の理事会に議題として提出した。
西区でさまざまな学術研修会を行う際にもこのような検討を経るべきではないか。だが、
僕らのなかではこのような問題への意識が希薄であることがわかった。なかなか議論がでてこない。
つまり皆じぶんの問題として考えるようにはいかない。
結論をすぐに出すのはむつかしいので今後も検討する課題としてほしいとお願いした。
いわゆる正義をふりかざすべきではないだろうとは思う。静かにみえる水面に一石を投じること、そのことに意味がある。
そして、波紋はじぶんにはねかえることを知っている。
『近藤先生、「がんは放置」で本当にいいんですか?』を読んだ。彼の本は『患者よ、がんと闘うな』以来、
最近の『余命3か月のウソ』などに至るまで大体読んできた。今度の本も、またかという思いもしたが、
“医療否定本”(*)という烙印を押されて苦戦を強いられている彼を思い、購読したのだった。
終章に近く、「人は亡くなっても、残された人の心の中に生き続ける」という言葉が出てくる。
亡くなったあとに残されるじぶんのイメージはできればよいものでありたい。手術や抗がん剤で苦しみぬいて
死ぬとそのイメージが残り、残された家族は苦しむ。苦しまずに死ぬことは家族のためでもあるという。
それには手術や抗がん剤を受けないこと。彼の一貫したテーマだ。ここで僕が惹きつけられたのは、
ひとは死んでも生き続ける、というところ。ふつうは死んだらそれっきり、それで終わりと思う。
だが、ここではひとは死んでも死なない、生き続ける。“残された人の心の中に”。多くの患者さんの死に
立ち会ってきてこう思うようになったという。これは深い真実だと思う。彼の本にこの言葉を見出すことが
できたのはうれしい。
*近藤誠は別に医療を否定などしていない。どうみても患者を苦しめることしかしていない癌医療の現実に
対して異議を唱えているのだと思う。
秋の休日、相模湖近くの里山に住む友人の医師を訪ねた。数年前、子どものために一家で移住した。 丁度その日は彼の子の通う学校の学園祭。1年生から12年生までの一貫教育。教科書は使わずすべて教師の手作りの授業。 成績表もテストもない。そのかわり学期の終わりにひとりひとりの子に担任が丁寧なことばで手紙のような言葉を書いたり、 あるいは詩を渡したりする。各教室に紹介されているその学習の様子をみるとその授業が本物であることがわかる。 黒板の上に、時計の文字盤を中心に各学年の身体とこころに応じた学習課題が描かれている。各学年は広大な庭に 自分たちのテーマの家を作る。門の外にみえる北欧風の美しい建物が今年の作品。1年後には壊して新しい家を作る。 小学生である友人の子は昨年泥の家を作ったという。また彼は近くの田んぼを割り当てられ米作りをしており、 その収穫を楽しみにしている。田んぼのそばをきれいな小川が流れ、小さな魚や沢蟹が遊んでいる。 子どもは手で魚を捕まえそれがオスかメスかを見分けられる。川の好きな12年生の男の子が3年生のその子を夏休みに 毎日のように川に連れていき教えてくれたそうだ。草花に青虫が這い、イナゴやコオロギが足元を飛び回っている。 コスモスが美しい山道をゆっくり歩いて行くと100年以上前からという古い大きな家の縁側で作りたてのそばが一杯500円で 食べられた。その家の人たちと友人の子供たちや奥さん(元看護師)は親しげに話しながら同じ里山の仲間として楽しそうで あった。ここでは子どもたちにテレビやスマホは要らない。それ以上のひとのぬくもり、生きることに根差した深い学び、 自然との触れ合いがある。『子どもは・・・篠木眞写真集』の冒頭にある「子ども時代に 心の池が 満たされると 生涯 涸れる ことのない 泉になるでしょう」という短い詩を思い出した。そして何か別世界を通ったような不思議なすがすがしさを 感じながら僕は帰りの横浜線に揺られていた。
横浜市主催の研修会で「認知症診療におけるかかりつけ医の役割」について話した。日本医師会雑誌に以前載せた論稿を
資料として配布した。以下がその要点。
かかりつけ医に認知症の早期発見・早期対応が求められている。かかりつけ医は
専門医のまねをしたり、それを目標にする必要はなく、むしろかかりつけ医でなければできない診療を意識して行うべきである。
認知症らしきひとがみえたら、ひとりで背負うことはせず、その診断に困るようなら専門医に紹介する(専門医との連携)、
介護の対応に困ったら地域包括支援センターに相談する(介護との連携)。そう割り切ってよいのではないか。ただし、
その患者をもう診ないのではなく、逆にその医療と介護の連携の中心にかかりつけ医はでんと座りつづけ、認知症そのひと全体
(病気、生活、人生)を引き続きみていくようにしたい。そのことで患者と家族の拠りどころになれるとよい。かかりつけ医が
認知症のひとを診ていく際に注意することは、症状を細かくほじくり出すことはせず、いわばアバウトにそのひとを診ていく
ことである。認知症はあってもそのひとが変わってしまうわけではないので、認知症にとらわれすぎず、高血圧など認知症以外の
病気やそのひとのよいところ、好きなこと、残っている機能に焦点をあてて診ていく。そうすると患者さんに安心してもらえると
思う。長谷川式スケールはあえてやる必要はない。それよりも患者さんの生活の様子、一日の過ごし方などを尋ねることで認知症か
どうかのヒントは得られる。また患者さんの日々の生活に目を向けることで本人や家族の大変さがわかり介護(何を援助したら
よいのか)のヒントになる。つまり、認知症の場合、そのひとの生活を知ることが医療(診断)にも介護にも必須ということになる。
ここが、大事なポイント。一方、かかりつけ医として認知症のひとの身体の診察は丁寧に行うこと、必ず血圧を測り胸に聴診器を
あてること、そのことで認知症の患者の信頼感は増すであろう。信頼関係が確立しないと治療もケアもうまくいかない。最後に、
厚労省のプリントにのっていないかかりつけ医の大事な役割(かかりつけ医しかできない仕事)に在宅診療と看取りがあることを
忘れてはならない。
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