臨床余録
2014年 7月 27日  なぜ

子どもによる殺人事件がおこる。そのおぞましさはたましいがひしゃげるようなという形容がふさわしい。おとなは反省する。 心の教育をやってきたが不十分だった。もう一度命の大切さを教えなければならない。そう言う。・・・そうなのだろうか。僕の 直観はちがうと言う。そんな手垢にまみれた言葉が子どもに届くわけがない。こどもの問題はこどもの問題でありながらおとなの 問題である。

「これまでの経験から、成人した後に善人に変わるための明確な条件が、幼年期に強い悪の欲動の動きが存在していることである ことが明らかになっているのは興味深い。幼年期に激しいエゴイストであった人が、成人してからはみずからを犠牲にして人々を 手助けする市民になりうるのである。強い同情心を持つ人、人道主義者、動物愛護家が、小さい頃にはサデイストであり、動物を いじめる癖のある子供だったことも多いのである。」(フロイト『戦争と死に関する時評』1915年)

この文章を何度も読んで考える。すぐ前の章に、社会から悪と断罪されるすべての欲動の動きは、人間の原初的な本性に見いだ され、その代表が利己的な欲動と残酷さの欲動であることが述べられている。

このあと、人の悪しき欲動を作りかえる内的要因、外的要因についてフロイトは論じていく。内的要因としてのエロス、愛の欲求 であり、外的要因としての教育である。

子どものおかす悪とは何なのか。底のない絶望に突き落とされるような事件のあと、教条主義的にお題目をあげるのではなく、人 というものの本質的理解から、言葉の真の意味でラデイカルに、この問題は考えていかなければならないと僕は思う。

2014年 7月 20日  腕白小僧はどこに?

「あなたはまず腕白小僧を育てあげなければ、かしこい人間を育てあげることにけっして成功しないだろう。」
  (ルソー『エミール』)

地元の小学校(僕の母校)の校医として春と秋の健診がある。ひとりひとりの子の顔をみ、挨拶をし、胸の聴診をする、側弯の 有無をチェックする。
敷居のむこうに坐る子供たちが静かに待つように先生たちが何度も注意する。「騒いだらお医者さんが胸の音を聴けないでしょ、 何度言ったらわかるの!」注意された子どもたちはいっときシーンとなる。だが、じきにまた騒ぎ始める。健康だな。と僕は思う。 健診のあとの話し合いの時間、今年の○年生は大変なんです、荒れまくっていて、教師の話なんかきこうとしない。そう聞かされ た僕は、でもそういう子たちの中から将来大物がでてくるかもしれませんよ、と口をすべらせ、ちょっと場をしらけさせてしま う。

「へたに教育された子どもは、ぜんぜん教育を受けなかったこどもよりずっと知恵から遠ざかることが、あなたがたにはわから ないのだ。子どもがなんにもしないで幼い時代をすごしているのを見て、あなたがたは心配している。とんでもない。しあわせに 暮らしているのがなんの意味もないことだろうか。一日じゅう、飛んだり跳ねたり、遊んだり、走りまわったりしているのが、 なんの意味もないことだろうか。一生のうちでこんなに充実した時はまたとあるまい。」(ルソー『エミー ル』)

何度も読んでぼろぼろになった『エミール』(岩波文庫)の僕の好きな箇所だ。こどもはこどもを生きなければおとなになれない。 ひとは子をはやくおとなにしようとして結局いつまでもおとなになれないこどもをつくってしまう。こどもはとことんこどもで なければならない。そのためには、一刻もはやくこどもをおとなにしようとする社会からこどもを守らなければならない。

2014年 7月 13日  開かないドアのまえで

梅雨の合間の猛暑日、きょうはいちにち訪問診療。鉛のような疲れが残っている。朝いちばんに独居で末期ガンのYさんのアパートに 向かう。手元に置いておいた方がよいだろう医療系麻薬の処方箋を用意してきた。細いみちなのでやや遠くのパーキングに車を停め、 急ぎあしで行く。ところがその部屋のドアには鍵がかかっており、たたいても呼んでも開けてもらえない。耳を澄ますとドアの向こう 側からかすれた声でなにかを繰り返し言うのが聞こえる。わからない。彼には僕の声は届いている。しかしドアは閉じられたままだ。 わからないと言いながら途方にくれる僕はわかっている、彼がドアを開けに来ることができないほどに弱っていることを。当然こう いう事態はあるということを予想しながらあらかじめ手を打つことをしなかった。きのう電話したときも聴き取れないくらいその声は かすれていた。それを思いだしつつ僕は困惑の汗を拭く。そして一瞬、彼のことを遠ざける(憎むといったら強すぎるか)という感情が 走り去る。いい先生に来てもらえるようになったよ、と姉に話したという彼に今日で2回目の往診、こころの奥に彼と話をする時間を 仕舞ってきた。それが無駄になった。夕方までに訪問しなければならない患者は10人を越える。ひとりひとりが重い。そのなかでも 彼のことをまず第一に診にきたのだった。だが翻って彼の今を想像しじっくりと考えてみよ。じぶんを診に来てくれた医師がドアの 外にいるのに開けに行く力がない。そのことを伝えられない。その絶望的な悲しみ。それを差し置いて、それは一瞬であったかもしれ ないが、そのひとを忌避するという感情が湧き起る。そういう非人間的なものを持っているじぶんという存在を僕は隠すのでもなく 忘れるのでもなくしかと記憶にとどめなければならない。

2014年 7月 6日  医学と戦争のリアル

7月1日、集団的自衛権行使が容認された。日本は、戦争のできる国へと変わろうとしている。

ニューイングランドジャーナルのマサチューセッツ総合病院症例報告にこの5月、珍しいケースが載った。“A Man in the Military Who Was Injured by an Improvised Explosive Device in Afghanistan”と題するもの。アフガンの戦場で29歳の米海兵隊員が仕 掛けられていた爆発装置で右脚の膝下と右手首から先が切断され、爆発とその破片による外傷が左上肢、左の大腿、腹部、尾骨、 皮膚、角膜、鼓膜に及んだ。爆発後彼は意識を失う。すぐに仲間が四肢の中枢部に強力な止血帯を施す。これがレベル1ケアと 呼ばれ、戦場救護施設で行われる。要請されたヘリコプターが彼を前方外科施設へと運ぶ。ここでレベル2ケアが施される。2つの 手術台、そして8ベッドからなる簡易施設。チームは戦闘医学を学んだ外科医、整形外科医、麻酔科医、ナースなどからなる。ここ では重症患者のトリアージュ、蘇生を含む初期外科治療が目標となる。ついで戦闘ゾーンでは最高のケア(レベル3ケア)が施され る戦闘サポート病院にヘリコプターで送られる。彼は挿管されたまますぐにCT撮影され手術室に運ばれる。何度かにわたる手術と 輸血がなされる。次にレベル4ケアのため、彼はまだ挿管されたままドイツのランドシュツールへと送られる。この病院は湾岸戦争の 頃からレベル4ケアの役割を担っており、あらゆるタイプの戦傷に対応するべくアメリカの資金援助を得、専門スタッフが常駐。彼の 腹部の創は閉じられ、さらなるデブリドマンが施され、人工呼吸器から離脱。そしてレベル5ケアを受けるため、米国国立ワオルター リード軍医学センターに送られる。彼の解放創はすべて閉じられ、リハビリのためサンジェゴ海軍医学センターに移る。ここには 個人に合わせたあらゆるリハビリプログラムが用意されている。手足の装具の適用からうつやトラウマ障害の有無、脳機能から社会 適応まで詳しくチェックされる。彼の生涯のケアとサポートは保障される。家族へのサポートも考慮される。
このケースは軍隊医学のいくつかの重要な特徴を示している。1つ目として、多重切断。2つ目は、医学的処置がなされるネット ワーク。レベル1からレベル5にいたる流れ。3つ目は、レベルを移動するスピード。ベトナム戦争当時は米国に戻るのに数週 かかったのに今は3~4日。このケースは重症の戦傷を負ったUS海兵隊員の成功したケアの例である。
患者の観点が最後に述べられる。「・・・サンジェゴでリハビリを始めた頃から記憶がはっきりしてきた。歩行器を使い、左足で 跳ぶことができた。どんなささやかで単純な作業であってもそれを成し遂げることは勝利だと感じた。家族や友人の助け、そして 信念により、今僕は殆どのことをひとりでできる。5分でできたことが今は20分かかるけれど。僕は忍耐を手に入れた。・・ ・・今、僕は車を運転し、ゴルフを楽しみ、スノーボードさえできる。気持ちさえあればできないことは何もない」


なんという凄さ。レベル1からレベル5に至る軍隊医学の驚くべき達成。そのことに感銘を受けるというより何か恐ろしさを 感じる。

この症例が世界でトップの医学雑誌に載った丁度1か月半後に日本で集団的自衛権行使が容認された。そのことが偶然とは思え ないくらい今、戦争をリアルに思う。

医学は戦争のためにあるのか。

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