日本ALS協会神奈川支部総会が横浜市西区で開かれた。会長の岸川さんはじめレスピレータをつけて参加した患者さん3名、その他
車いすの方、発症して間もない方とそのご家族など雨もよいの日にもかかわらず多くの方が集まった。原因も治療法もいまだに
わからないこの致死性神経難病に罹患したひとや家族をどう支えるか。医師にとって非常に重い課題だ。この病気と日々どのよう
に向き合って生きているのか交流会でひとりひとり話してもらう。痰の吸引、胃ろう管理、呼吸器管理、在宅ケアの在り方など
さまざまな問題が出される。どんなに小さいことでも話してよい。疑問は他の家族がじぶんの経験から答えてくれることもある。
比較的こじんまりしたこの会のよいところだ。
僕はふたつのことを話した。
ひとつは、この病気には進むにつれていくつか節目がある。診断を受けたとき、歩けなくなったとき、喋れなくなったとき、
食事がとれなくなったとき、そして呼吸が苦しくなったとき、である。それぞれの節目で本人と家族は苦悩しながらいずれかの
選択を余儀なくされる。例えば、食べられなくなったとき胃ろうを作る、あるいは作らない。呼吸が苦しくなったとき人工呼吸
器をつける、あるいはつけない。それを単に生死の選択(いのちの選択)と考えるのではなく、例えばそれを“じぶんの人生を
さいごまでじぶんらしく生きるというシナリオ”の中に受けとめてみたらどうであろうか。その筋書きのなかに家族や友人、
医師や看護師、介護スタッフなども何らかの役割を与えられて登場するであろう。ひととの関わりをとおして、あるいは時間の
蓄積のなかでシナリオは何度も書き換えられるだろう。そしてさいごに、例えば「レスピレータをつけない」という選択をする
とき、その選択には単に死を選ぶという決断とは違った深い意味がこめられている筈である。
もうひとつは、十年間訪問診療したのち最近僕が看取ったALS患者さんのこと。人工呼吸器のもと最後の数年間は完全閉じ込め
状態となりコミュニケーションもとれなくなったが、家族と患者はことばがなくてもふしぎに通じあっているようにみえた。
患者の無言のまなざしを受けながら僕の診察や処置も、より繊細さを要求された。そのような日々の行きつく果ての看取りは、
悲しみとともに或る種の達成感をももたらすようであった。
ALSの患者を前にすると僕はいつも医師としてその無力を思い知らされる。しかし、この無力のなかにこそ醫の原点ともいう
べきものはあるのかもしれないとひそかに思い返すのだ。
附記:サッカーワールドカップ、日本は一試合も勝てず敗退した。ひとの“そのひとらしさ”は負けたときにあらわれる。勝った
ときではなく負けたときにその人間はあらわになる。ザッケローニ監督は退任のあいさつの中「結果の責任はすべて私にある。
責任を取りたい。日本代表を離れなければならない。素晴らしいチームだったと思う。もう一度選ぶとしても同じメンバーを選ぶ」
と述べた。その悲しみを秘めた誠実な表情に“人間ザッケローニ”をみたような気がした。日本中が落胆の谷間にある今僕はこの
監督が好きになった。
6月16日「認知症のひとと家族を見守る多職種ミーテイング」(地域ケア会議)事例検討会。退職後物忘れが目立ちはじめ、
毎日の生活に支障が出はじめた女性。独居のため妹が心配し、生活の援助つまり介護の準備をはじめる。はじめは従っていた
本人はそのうち介護を断るようになる。姉妹の関係は悪化する。熱心な包括支援センターのスタッフも拒否される。姉の今後を
心配し介護に関わっていた妹は何故嫌われるようになったのか。丁寧で良心的なケアマネージャーなど地域スタッフが本人の
ためを思って考えたケアプランが何故受け入れられなかったのか。実はこれに類似したケースはまれではない。多職種で検討
するのにとても教訓的な事例だと思う。
認知症と診断された。できるだけ早く早期対応しなければならない。早期診断、早期対応である。(ついこの間までは早期診断、
早期治療といっていた。しかし有効な早期治療のないことが明らかとなり、より大切な早期対応になったのだろう)この事例も
本人を助けるために早期対応をめざした。しかし本人を助けるのではなく、本人の不安を助長させることになった。認知症の
ひとは特にそのはじまりの時期は不安である。早期対応があるとしたら、この不安を和らげ安心感をもってもらうことである。
この事例では恐らく妹は本人の物忘れ症状による生活障害のこまごました点をきちんとチェックし介護スタッフに報告していた。
スタッフはデイサービス、ヘルパー導入といったいわばマニュアル化した介護を導入し本人を助けようとしたが、それが逆に
本人のできることまでを奪い、プライドを傷つけ、結果として介護全拒否に至ってしまった。認知症と診断されたからといって、
そのひとのすべてが認知症であるわけではない。認知症という診断に惑わされて、その“ひと”をみようとしなかった典型例で
ある。早期対応をあせり、信頼関係を作る前に“まず介護ありき”の失敗例ともいえるだろう。
『神田橋條治精神科講義』のなかに、精神科の領域では一般に勉強している人の方が治療は下手になる、痴呆症の看護では特に
そうだという話がでてくる。ひとには凸凹がある。勉強家の看護師は認知症のひとの凹んだところ(記憶力が落ち、状況判断が
悪くなり、感情の抑制が低下するなど欠けた部分)を見つける勉強ばかりするので看護は下手になる。凹んだ部分を補う凸の部分
(すぐれたところ、残された機能など)を軽視しがちである。結果として看護に必須のそのひととの良い関係をもつことができない。
これは看護師に限らず、認知症のひとに関わるすべてのひとがこころすべき言葉だと思う。
筋萎縮性側索硬化症(ALS)のNさん(70歳女性)が亡くなられた。僕の初めての往診は平成15年12月なので現在まで訪問 診療は10年を越えたことになる。2週間おきに気管カニューレの交換を、2か月毎に胃ろうチューブの交換をした。処置のあと 胸の聴診でエアが正常に入っていることを確かめ、酸素飽和度と血圧を測る、そして頭側のベッドにまわり彼女の短く整えられて いる髪をおさえるようにして後頭に手を添え持ち上げる。娘さんが熱いタオルで首の後ろ側を拭くためである。これがルーチーンに なっていたが、手のひらを介して彼女と触れ合う貴重な時間であった。娘さんは喀痰吸引をはじめ、レスピレータや胃ろうの管理に 熟達し、肺炎その他の合併症を起こさなかった。残念ながら最近はいわゆるtotally locked-in-stateでコミュニケーションがとれ なくなっていた。問いに対してイエス、ノーで答えるために保たれていたまぶたのわずかな動き、眼球の動きもなくなった。にん げんの身体に備わる随意的な動きのすべてが完全に失われた。明瞭な意識のまま外界と交流する手段が何もなくなった。感覚は保た れるので背中の痛みも顔の痒みも正常に感じる、しかしそれを訴えることができない。いわば身体の中に意識が閉じ込められた状態。 それでロックトインと呼ばれる。診察時、その仏像のような神秘的な無表情に向き合いながら、僕じしん不思議な時空間のなかに いる感覚をもった。診ている彼女から逆に僕のすべてが、心のなかまで見られているような感じがしたのである。いま彼女は解き 放たれた。そして彼女のなかにいた僕も解き放たれた。・・・のだろうか。ご臨終を告げたあと、10年間ほぼ完璧にケアをこな してきた娘さんをこころから褒めそしてねぎらった。それに対して彼女は僕に「このままでは先生が大丈夫かなと思っていました。 ほんとうに長い間ありがとうございました」と涙でくしゃくしゃの顔で言うのであった。
Sさんの月一回の往診日、「先生、今日は何の日か、ご存知?」いきなりそう聞かれた。5月29日。さて、何だったかな。しばし
考えたがわからない。「横浜大空襲の日です」と教えてくれた。Sさん。現在80代女性。昭和20年当時は女学生だった。学校
からの帰り、突然の空襲警報に近くの防空壕に入ろうとしたが怖くてはいれない。急いで母のいる家に帰ると水を飲んだ。保土ヶ谷
の高台からは富士山が見える。すると富士に向っていたB29の編隊が直角にこちらに向かって飛んでくる。直角に来ると危ないと
聞いていた。街から煙があがった。桜ヶ丘からも煙。彼女の家はそこから少し離れているが水道、ガスが止まった。初音町にいる
知り合いが心配と、母は歩いて出かける。西区の霞橋あたりは死体の山でその先に行くのに難渋した。死体をかきわけるように
して大岡川に出たが、水を求めて飛び込んだのか大勢の人は皆死んでいた。あなたは家にいてよかったと帰ってきて母は言ったと
いう。8月、彼女の一家は群馬に疎開していた。赤いごはんがでた。お赤飯かと喜んだら粟のごはんだった。8月15日。ラジオ
で放送があった。よく聞こえなかった。「にほんはまけちゃったー」と小さな子が大声で泣いていたのを覚えている。その日の
夜は眠らず、友達と神流川(かんながわ)に行き、その河原で朝まで讃美歌を歌って過ごした。「わたしたちは皆どこかに連れて
いかれると思っていたのね。それでただひたすら歌い続けたんです」どこにも連れていかれなかった。戦争は終わり、消えること
のない記憶がこころに刻みつけられた。
僕はしばらく彼女の話の余韻に浸っていた。西区は僕の地元。僕の母は群馬県藤岡の出。僕の小さい頃遊んだ神流川の清流は
なつかしい。テレビやネットではない、書物からでもない。それらのメデイアからは恐らくもっと詳しい情報が得られるであろう。
そうではなく、僕が20年以上前から診ているSさんという患者さんの口からなまの記憶として横浜大空襲そして8・15が
<いま>語られたということが重いのだ。
5月26日認知症サポート医連絡会が開催された。横浜市高齢支援課と連携して各区に3人のサポート医がいる。厚労省主催の
研修を受けて資格を得る。その役割は①かかりつけ医のための研修企画 ②医師会と地域包括支援センターとの橋渡し ③かかり
つけ医の相談役・アドバイザー とされている。
医者は認知症を通して医療の限界とケアの重要性を知る。「医療は医者、ケアは介護者、だいじなのはその連携」というところ
から出発し、「だから医者は介護のことをよく理解しないといけない」というレベルからさらに進んで、「そもそも医療は介護
から発展してきた」つまり医療の元に介護がある、別の言い方をすると介護は医療を包む、という認識に至る。医者は、従って、
介護を当然マスターしたうえで医療に携わるのでなければならない。
しかし、認知症サポート医でさえ以上の点に自覚的に取り組んでいる医者はまれで、「サポート医に何をしろというのか」と
他人事のような発言をする医師もいてがっかりする。
西区で僕は今サポート医として、医師と介護者むけに「認知症セミナー」を年1回開催している。4か月に1回包括支援センター
で「認知症のひとと家族を見守る多職種ミーテイング」を開き事例検討をしている。また、サポート医として、主としてケアマネ
ジャーを通してかかりつけ医の診ている認知症患者の問題の相談にのり、必要に応じて往診している。介護や医療を拒否する若年
性認知症のひとの訪問診療も行っている。身を粉にして働くケアマネや介護者、そして献身的な家族に出会い、僕自身はっぱを
かけられることも多い。
5月19日医学界新聞に医療人類学・文化精神医学のパイオニアであるアーサー・クラインマン教授(ハーバード大学アジアセン
ター所長)の来日講演録、“On Caregiving”が載っている。今日の医療におけるケアの位置を三つのパラドックスから説明して
いる。一つ目、従来、ケアすることは医師の実践の中心をなすものであったが、しだいに臨床の中心からケアが乖離しはじめて
きた。二つ目は、医学生は皆ケアの実践的、情緒的、精神的(モーラル)な側面に関心を持つ。しかし、卒業時にはその殆どが
失われる。つまり、医学教育の中に医学生のケアへの関心を奪う何かが存在する。三つ目は、医療技術の進歩、例えば電子カルテ
には病いの語り、ヘルスケアの経験、ケアの課題について記載する箇所が殆どない。ケアは断片化され、個人やその経験の微細な
部分を理解することは重要視されない。ケアは負担(burden)ではなく、実存的な行為であり、生き方(way of being)であり、
精神的な経験や倫理的熱望の基礎的側面なのである。今日の皮相的なグローバルな文化的潮流の中にあってケアすることは、しば
しば真に倫理的な関与に値する実践なのだ。
以上が講演前半の要旨。このあとも「臨床の対話に有用な、ケアへの文化的アプローチ」「ケア再活性化の方策」などについての
講演が続く。
認知症の医療とケアの在り方を考えるにあたり、ケアをめぐるパラドックスの一つ目にあげられた「従来、ケアすることは医師の
実践の中心をなすものであった」ということばを思い出そう。医師としての本来の在り方を取り戻すべき時である。そしてこの
ような思いをできれば他の認知症サポート医と共有したいものだ。
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