『病から詩が生まれる 看取り医がみた幸せと悲哀』(大井玄)という本が出た。大井玄氏は
認知症に関する多くの著書で僕の眼を開かせてくれた人。特に純粋痴呆という概念は臨床的に重要と思っている。これから
読むのが楽しみ。目次だけあげてみる。[認知症高齢者とまじわる 老年期を歩む 医師はこころも診る 地域医療の現場から
人生の最期に学ぶ、その醍醐味 友人・身近な人の死に思う 社会と医学と詩]
神奈川県医師会報に神医歌壇という短歌の投稿欄があり、僕はその選者をしている。医学と短歌、どう関係があるかと
思うかもしれない。関係がないといえばない。あるといえばある。
胸水のひとつかみほどのこれるをいずこの桃か花明りせる 岡井隆
例えばこの医師の歌をどう読んだらよいであろうか。この歌の意味内容を日常的なことばで説明することはできない。
その背景に散文では表現できない感情と思いの交錯があり、それを短歌にしている。そこに詩がある。詩でしか表現
できない臨床の場面があるということなのだ。
理由なく涙いずると聴く午後の庭にひそけし芽起こしの雨
診察を終えて立ち上がる渚から静かに退いてゆく波がある
「英国の保健医療制度における家庭医の役割」と題する講演会が横浜内科学会―総合診療研究会の主催で5月14日開かれた。
日本人で初の英国家庭医療専門医:general practitionerである澤憲明先生によるお話。以下が要旨。
プライマリ・ケアの専門医としての家庭医の地位が上昇、研修医にとって満足度が最も高い診療科である。患者の90%以上が
医療サービス全般およびGP診療所に満足している。プライマリ・ケアのプライマリとは「初級の、基本の」ではなく、「主要な、
最も重要な」という意味でつかわれる。住民はじぶんの好みの診療所を選択し登録する。5人の家庭医がグループ診療する。
何でも相談にのる(全科診療)。毎日一人がオンコール当番(電話相談)。昼休みに一人2~3件の在宅診療も行う。時間外は
専門の家庭医が担当するので澤Dr.のような普通のGPは週末や夜間は働かないという。家庭医はゲートオープナーであり多職種で
患者のケアをする。検査はほとんどしない。例えば、問診と診察で肺炎は診断できるので胸部レントゲンは撮る必要がない。
よくある重篤な疾患を診断する確率はプライマリ・ケア医はスペシャリストよりも高いことが知られている。家庭医療専門医
試験では“患者中心の医療面接”が必須のスキルとされ澤Dr.自身このレベルに達するのに3年を要したという。その他、
助産師主導の産科ケア、地域を守る(業績払い制度)、受療行動の最適化、薬剤処方における外部監査、プライマリ・ケアの
科学的根拠(人間中心性、ケアの継続性、包括性、GPの総合的に診る能力、かかりつけ機関)などそれぞれ英国らしいプラク
ティスについて語られた。
僕自身の診療をふりかえる。
全科診療は無理だが、何でも相談にのる(たとえば独居老人の家のテレビの故障の相談など)姿勢だけはもっているつもり。
患者中心の面接技法は開業してから、特に研修医を受け入れていた頃、必死に勉強した。患者との信頼確立に必須であり、
患者中心でありながら医師をも守るスキルであることを知った。講演後、澤先生にふたつ質問した。ひとつは、2025年
問題に関連しての在宅看取り率。英国では35%という答。日本よりすこし高い。もうひとつは、じぶんがずっと診てきた
患者のターミナルに際して、週末や夜間に亡くなるような場合、時間外専門医にまかせているようだが、医者としてそれで
割り切れるのか。この質問に澤先生ははっきり「割り切れる」と答える。時間外専門医(じぶんのクリニックとは全く関係は
ないが)を信頼しているからだという。だが、医者は割り切れても患者の側は割り切れる(と思う)のかという問いには
「それはわからない」ということだった。英国に育った僕の妻にこの話をすると、「英国人はある面冷たいの、皆それに慣れて
いるのよ、日本人とはその辺がちがう」と言うのである。英国の家庭医療は(この講演からの全体的印象では)包括的かつ緻密、
クリアカットでスマート、といったところで「さすがだなあ」と感心せざるを得なかった。その点、診たあといつまでも「あれで
よかったのだろうか」とじくじく考え込んでいる僕の臨床とはだいぶ違うと感じた。
5月9日朝日新聞に「尊厳死法は必要か」というタイトルで、3人の論者の主張が載っている。
医学的治療の果てで治癒不能のまま生きていかざるを得ない状態がある。たとえば、脳卒中後の遷延性意識障害あるいは重度の
認知症、ALSでレスピレータをつけた場合の終末期(特にトータルロックトイン状態)などである。これらは、尊厳の奪われた
生の状態(不自然な生)とみなすことができる。そのような場合に備え、あらかじめ終末期医療への希望を記す書面として
リビングウィルを残す。そして、一定の条件のもとでは治療を中止しても医師は罪に問われないという法律を作る。これが
尊厳死法が必要という立場。
だが、ほんとうにそうか。仮に、尊厳のない状態というものがあるとして、その時、そのひとを死なせるしか尊厳を保つ方法は
ないのか。医療やケアの方法をとことん考えずに死にたいひとを死なせてあげるのが人道的、といってしまってよいのか。尊厳
死の前に尊厳をもって生きる権利がある。その法律がまず必要ではないか。これが第2の立場。
ひとの終末期医療にあって、例えば、胃ろうをつける、つけない、レスピレータをつける、つけないといった問題につき、医者の
話を何度も聞き、その時どきで本人も家族も一生懸命考え苦しみ悩んだすえある選択を行う。それこそが「尊厳のある治療」なの
ではないか。そこに、もし法律ができるとひとはあまり考えなくなる、悩まなくなる。治療をやめる結論が簡単に得られ、議論の
質も量も薄まってしまう。この患者にとって何がベストなのかを納得できるところまで話あうことができれば、法律に頼らないで
済む。つまり、医療とりわけ終末期に法律は要らないのではないか。これが第3の立場。
さて、僕はこの第3の立場で今までやってきた。そして今でもこの立場が“醫”の本質に一番近いのではないかと思う。引き続き
考えていくべき問題だろう。
附記:5月22日朝日新聞「声」欄のトップに“死のふちで「生きること」を選択”という35歳の女性の
文章が載った。生後7か月の子が心肺停止でレスピレータ装着され、絶望の淵で延命治療中止を願った時期を越え、現在は子
成長に感動し誇りを感じているという。尊厳死法に反対する立場である。
切り取ったまま放置していたやや古いNEJMのエッセイ(MAY29,2008)を読む。The moral of the storyと題するもの。
20か月の男の子が嘔吐でをプライマリーケアクリニックを受診。両方の鼓膜が赤く腫れており中耳炎と診断。熱はあるが脱水は
ひどくない。しっかりしたように見える母親に水を十分与えるように話して診察は終わろうとしていた。
帰ろうとした患者が診察室のドアノブに手をかけたとき(doorknob moment)振り向き、「ところで先生、もうひとつ聞きたいん
ですけど」と切り出す言葉(by-the-way question)が、それまでのシナリオを全部ひっくりかえすことがある。このケースでは、
帰る間際、母親は実は一昨晩、この子は階段から転げ落ち、頭を打っている、という話を明かすのである。そこから医師の内省の
うずまきがはじまる。頭部外傷の危険な徴候のひとつは嘔吐。その疑いのある患者をじぶんは急性中耳炎と診断し帰そうとして
いた。頭部外傷を否定できるのか、頭の中で考え、もう1度子どもの頭部の診察をし、傷やあざなどのないことを確認し神経学的
にも異常ないと判断。アモキシシリンとアセトアミノフェンを与え、再び吐いたりぼんやりすることがないか(what-to-watch-
for signs)をみるように指示して帰す。さらに母親の電話番号を書きとめ夜に電話をかけ、子は問題なく元気であると知る。
それで話は終わらなかった。じぶんは何故このケースをそんなに不安に思ったのか、その疑問につきまとわれる。それは恐らく
頭を打ったということが受診の理由ではなかったこと。嘔吐が主訴であり、それは中耳炎によるものとして、door-knob question
が来るまで頭部外傷を考えもしなかったその点にある。患者のナラテイヴを適切に聴くとはどういうことかと問いなおしが始まる。
じぶんのナラテイヴが患者のそれを打ち負かすほどに強すぎると、大事な情報が得られなくなる。このケースから、レイモンドカー
ヴァーの小説『ささやかだけれど役に立つもの』を思いだし、20年以上前にじぶんのpreceptor(非常に優秀な医師)が誤診した
子どもの死について思い出す。モラルについて問われてその先輩医師は、医学とは知識、判断、経験そして運だと答える。臨床は
bad outcomeのケースも含めてcollective memoryを抱えながら、よく見そしてもう1度考えよという声を聴くこと、そしてすべて
大丈夫なのかをあとで知るためにペーパータオルの上に患者のケータイの番号を書いておくことを忘れないように、と結ばれる。
臨床におけるナラテイヴは聴かれるためにある。Door-knob questionはひとつの警鐘であり、医者にとってもDoor-knob momentは
じぶんへのふりかえりの瞬間でもあることをこのエッセイは教えてくれる。それからもうひとつ、じぶんの臨床の歴史、そのなかの
多くの物語、多くの失敗の苦い記憶を忘れないこと。それが僕にとってのThe moral of the storyなのだと思う。
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