臨床余録
2014年 4月 27日  憂き川竹の身を想う(渡邊房吉を読む④)

「今日の治療費」という章を読む。
昔、医療が宗教家の手にあったころは、醫療報酬というものはなかった。職業的醫師が独立するようになり「任意的謝礼制度」が 発達した。病気を治してもらったり、苦痛をとりさってもらって、そのまま放任するということは、醇朴なる昔のひとの到底 堪えられないところであって、誠意を籠めた心からの謝礼(米、大根、魚、卵など)を送ってこれを感謝した。
徳川時代には強欲な医者がいて、薬礼を強制督促しその家の娘を憂き川竹の身に沈ませる(遊女の身にさせる)ような悲劇も 多かった。一方、当時の狂歌に「醫者の謝礼と谷川の花は取りに行かれずさき次第」というのがある。先方でもってこなければ 泣き寝入りという医者の苦境を訴えたものである。
そのうちに医師会が医療報酬制度を規定した。診察料、薬代、手術料その他医療全般に至るまで定められている。患者の生活 状態によっては「割引き」が許されており、ごく貧者にありては「全施療」もやむを得ないとされた。
診療報酬の規定は、各医師の報酬額が乱雑にならぬよう高低ともにこれを制限して統制を保とうという意に出発している。多く 貪ろうとするのを抑え、また余りにその低下せんことを防止する意もある。要するに標準額を定めたものであるからおよそ 中庸を得ているものとすることができる。

以上が要旨である。

往診にいくといつも帰りしなに“おみやげ”を僕にもたせてくれる家がある。じぶんの田舎から送ってきたからとその地の漬物、 お茶、羊羹など。庭でとれたトマトやきうり、夏の暑い日はアイスキャンデーだったり、自家製のパンや菓子など、ほんとうに さまざまだ。孵ったばかりの籠いっぱいのスズムシをいただいたこともある。房吉のことばを借りれば、「醇朴なるひとの誠意を 籠めた心からの謝礼」として僕はその気持ちを受け取ることにしている。ところで、診療報酬とは、ひとの生老病死を見守る 開業医の仕事の対価であるが、それはまたより質の高い医師としての仕事をとおして患者の方に還元されていかなければなら ないものと考えている。

2014年 4月 20日  おきなぐさ

そしてひばりがひくく丘の上を飛んでやって来たのでした。
「今日は。いいお天気です。どうです。もう飛ぶばかりでしょう」
「ええ、もう僕たち遠いとこへ行きますよ。どの風が僕たちを連れて行くかさっきから見ているんです」
「どうです。飛んで行くのはいやですか」
「何ともありません。僕たちの仕事はもう済んだんです」
「こわかありませんか」
「いいえ、飛んだってどこへ行ったって野はらはお日さんのひかりでいっぱいですよ。僕たちはばらばらになろうたって、 どこかのたまり水の上に落ちようたって、お日さんちゃんと見ていらっしゃるんですよ」
「そうです、そうです。なんにもこわいことはありません。僕だっていつまでこの野原にいるかわかりません。もし来年も いるようだったら来年は僕はここへ巣をつくりますよ」
「ええ、ありがとう。ああ、僕まるで息がせいせいする。きっと今度の風だ。ひばりさん、さよなら」
「僕も、ひばりさん、さよなら」
「じゃ、さよなら、お大事においでなさい」
綺麗なすきとおった風がやって参りました。まず向こうのポプラをひるがえし、青の燕麦に波をたてそれから丘にのぼって来ました。
うずのしゅげは光ってまるで踊るようにふらふらして叫びました。
「さよなら、ひばりさん、さよなら、みなさん。お日さん、ありがとうございました」
そしてちょうど星が砕けて散るときのように、からだがばらばらになって一本ずつの銀毛はまっしろに光り、羽虫のように 北の方へ飛んで行きました。そしてひばりは鉄砲玉のように空へ飛びあがって鋭いみじかい歌をほんのちょっと歌ったのでした。
私は考えます。なぜひばりはうずのしゅげの銀毛の飛んで行った北の方へ飛ばなかったか、まっすぐ空の方へ飛んだか。
それはたしかに、二つのうずのしゅげのたましいが天の方へ行ったからです。そしてもう追いつけなくなったときひばりは あのみじかい別れの歌を贈ったのだろうと思います。そんなら天上に行った二つの小さなたましいはどうなったか、私はそれは 二つの小さな変光星になったと思います。なぜなら変光星はあるときは黒くて天文台からも見えず、あるときは蟻が言ったように 赤く光って見えるからです。


これは宮沢賢治の短編『おきなぐさ』のさいごの部分である。うずのしゅげはおきなぐさの別名。この4月、精神障害者の終末期を 含む医療と介護のためのグループホームが保土ヶ谷区に開設された。この施設の名前が「おきなぐさ」。宮沢賢治の『おきなぐさ』 からですと説明を受けた。それだけでこのNPO法人施設を立ち上げたひとたちの精神のありようがわかる気がした。場所が決まり 建物もできあがったが来てくれる精神科医がみつからず困っていた。施設申請の期日が迫っていた。僕に来てはくれないかと 相談にみえたのが2月の大雪の翌日。精神障害者のために長く西区で地味な活動を続けている人たちである。僕のなかで何かが 疼いた。引き受けることになった。在宅診療で手一杯(の筈)であるのを知っているスタッフから「先生、だいじょうぶなん ですか」と言われた。いまは一介の町医者。だが医師としての出立に際して迷わずに精神科医を選んだ日のじぶんがまだどこかに 残っていたのであろうか。

2014年 4月 13日  “雑談”の効用

「開業医は患者と世間話や雑談ばかりしている」と診療所に来る研修医がレポートに書くことがあるという。開業したての頃は 実は僕もそう思っていたふしがある。いまから思えば。

4月3日のNew England Journal of MedicineにThe Virtues of Irrelevanceと題するエッセイが載っている。

「面白いベルトだね。それはどこで買ったの?」「きみはヤングスタウンから来たみたいだけどスティーラーズファン、 それともブラウンズ?」
医学的問診のはじめにこんな問いが医者の口から発せられる。 スポーツ、衣類、食べ物の嗜好に関する話が臨床にとって さほど価値あるとは思われないが、それは実は目の前にいる患者と関係を作るうえでのチケットやガイドになりうる。 これら臨床と関連のないはじめの質問は4つの意味を持つ。①医者が患者をひとりのユニークな個人として認めることを伝える。 ②医者は患者と日常的な経験を共有していることを示す。③患者が心地よいと思うささいなものにも医者は注意深く心を向け ようとしていることを伝える。④医者は患者との会話を歓迎している(open to a conversation with the patient)ことを示す 。そしてさらに一見臨床と無関係なコメントは“I have time for you”というメッセージを伝える。それらは患者に“warm up” させ、その不安やおそれを和らげる作用がある。軽いユーモアや笑いはつらい話のなかの芳香となりうる。経験を積んだ臨床家は それをよくわきまえている。患者はよく医者のアドバイスよりも隣のおばさんやヘアードレッサーのそれを優先する。医者も かれらの世界、つまりかれらの笑い、家族のつながり、Tシャツやエレガントな杖といった生活に目をむければかれらの一種の 隣人になることができる。1930年代の医者は往診をよくしていた。医者はコミュニテイに入り込み患者の家を訪問したから会話は おのずから医学以外の共有する生活の経験に及んだ。短い外来面接時にこれら往診での親密さを再現するのは不可能だが、 はじめのわずかの時間、目前の医学的話題を越えて患者と触れ合うことは可能である。この半世紀、往診は減り、外来での 患者との会話の時間が減り、医学内外の人間関係の在り方も変わった。患者は電子記録の中に半ば消え、“iPatient”になった。 医療面接のはじめに医者であることよりもいかに人間であることを示せるかが重要だ。殆どの医学生はもともとこのような人間的 対話のスキルをもっていた。しかし医学教育がその成長を奪ってしまった。いまこそ医者と患者とのほんとうの関係というものの 価値を認識するべきときである。


以上が要旨である。開業して14年、診療中の“雑談”は僕にとって患者の生活を知るために欠かせないものになっている。だから “雑談”はirrelevantではなく飽くまでrelevantなものである。それは患者さんの介護を考える意味でも、在宅での独居老人の 過去を知るためにも、認知症のひとの診断をする作法としても、いわゆるnarrative-based medicineの方法的アプローチとしても 重要なものである。極端にいえば患者さんが診察室に入ってきてから、診療を終えて出ていくまで、言葉のみならず態度、しぐさ、 表情やまなざしに至るまでirrelevantなものはないといってもよいだろう。

父のことを思いだす。戦地ニューギニアのジャングルで片眼を失いながら奇跡的に生き残り、戦後小児科開業医としての仕事の かたわら近所の子供たちを集めて少年野球チームを作った。まるで“雑談”の枠を越えたその活力はどこから来たのだろうか。 患者と早朝テニスやダンスを楽しみ、晩年は患者とカラオケに興じたりしていた。そんな父を僕はどちらかといえばひややかに みていたかもしれない。なんというirrelevantなことをしている医者かと。そのころはそれが僕という医者の決定的狭さである ことを知る術もなかったのだ。

2014年 4月 6日  だれのための在宅医療

75歳、独居のYさん。高血圧と狭心症で通院していたが膝の痛みで診療所に通うのも困難となり、たまに往診するようになった。 そのうちひとり暮らしの大変さを訴えるようになり他区の娘さんのところに引っ越した。ケアマネの依頼でその地区の往診専門 クリニックに紹介状を書いた。そのクリニックから在宅医療の説明を娘さんが聞いた。月2回の定期往診に毎週訪問看護がは いるといわれた。予想以上の診療費となるのを知った。迷ったすえ訪問診療を断った。車で1か月に1回僕の医院につれてくる ことになった。

ここに在宅医療の問題点のひとつがある。まず患者がいてその困っていること(ニーズ)があり、それを満たすために医療と 介護があるはずである。ところが上の例ではまず訪問診療(というよりその診療費体系)があり、それに患者があてはめられる ことになる。

彼女のように、診療所に来ることは困難だが状態はそれなりに安定し、特別な医療処置を必要としない患者はすくなくない。 このような場合、月1回の定期訪問とし、何かあればケータイ(24時間いつでもと伝えてある)に連絡をもらい必要に応じて 臨時往診する。これでほとんどの場合、患者や家族のニーズにこたえることができる。患者の費用負担もリーズナブルのはずだ。 僕は10年以上このスタイルでやってきた。ただ診療点数は月2回に比し、約6分の1となる。これでは在宅専門のクリニックにとって やっていくのは困難だろう。その辺に矛盾がある。

全国保険医新聞の第一面に4月1日から実施される診療報酬改定を受けて、「“在宅”続けられない」と大見出し。「同一建物」の 居住者に対する診療報酬が大幅に引き下げられるためである。たいへんだなと思いつつ医者としてなにか恥ずかしい感じもする。 なによりもその「建物」に在宅医療を必要としているひとがいるのか、いないのか。つまり在宅医療が施されないとそのひとの いのちや生活が損なわれる、そのような切迫した現実があるのか、ないのか。あるならばまずはそこに赴きそこに病むひとを診る べき、と普通は考える。それに見合う報酬があるのかないのかは診療のあとに付随してくる問題であり、患者を診ながら、 あるいは診るまえに議論するのは本来おかしなことである。だが、これはおそらくきれいごとすぎるといわれるのであろう。

それにしても、と僕は思うのだ。プロフェッショナルな医師としての職業倫理(*)というべきものをやはりどこかに持って いなければ、僕たちはそもそも医者ではなくなってしまう。


*Medical Professionalism(David Thomas Stern 2006)の4つの柱:①Excellence ②Humanism ③Altruism ④Accountability

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