臨床余録
2014年 3月 30日  はるうららかなひのごごに

まあせんせい せんせいがきてくれるとは なんてありがたいことでしょう もうだめです しんぶんよんだり てれびみたり  にわにでたり おもしろくないです もうおさらばしていいのに おむかえにこない たのしみないです にゅーすないです  こんなせまいきたないところに せんせい なんともないです むかし しゃこうだんす しぎん すいぼくが いうこと ないです もうやることやったから あらせんせい おもいもかけずせんせいにきていただくなんて ひとりぐらしでのんき  こんなとしよりのところに せんせいがきてくれる なんとかぶじにすごしています きゅうじゅうよんまでいきるなんて  いつのまにこんなにとしとって しんぱいなことは ありがとうございます おかげさまで ぼろぼろ みみもきこえず  めもだめです ひとりぐらしできらくです まいにちびょうきのむすめがきてくれます べつにようもないんだけれど  いきています こうして

きのうの午後、近所の路地のひとり暮らしの老女を訪ねた。上はそのときの彼女のことば。数年まえ心筋梗塞で緊急入院させた。 退院後しばらく僕の診療所に通っていたが、いつのまにか来なくなっていた。心臓を患った記憶もおぼろになっている。 病院で山のようにだされた薬もとっくにのまない。心配になったケアマネから頼まれ月に一回訪問している。

「ひとりで生きる 新しい幸福の形はあるか」というタイトルの文章(高橋源一郎)が3月27日朝日新聞論壇時評に載っている。 都築響一の描く『独居老人スタイル』に触れ「経済的には恵まれているとはいえない老人たちの暮らしは、不思議な幸福感に 満ちている。」と書く。例えば「半世紀近くも、ビルの掃除の仕事で生活費を得て、誰にも見せず、誰からの影響も受けず、 自分だけの絵を描き続けてきた人。」「仕事のストレスもなく、煩わしい人間関係もなく、もちろん将来への不安もなく -ようするに毎日をものすごく楽しそうに暮らしている、年齢だけちょっと多めの元気な若者」たちの姿。

冒頭の彼女も「ものすごく楽しそう」とはいえないが、それなりの生活を送っているようにみえる。

家という居場所で生きているかぎり保つそのひとだけの、目には視えないかすかな“幸福のかたち”。それを、僕は町医者という立場からこれからも見守っていくだろう。

野毛山の桜がようやくひらきはじめた。

2014年 3月 23日  Reflective practitioner

『日本プライマリ・ケア連合学会誌』に「省察的実践家入門」というシリーズが連載されている。その第5回にバリントグループの ことが紹介されている。医師患者関係をよりよいものにするためのグループセッションでハンガリーの精神分析医のマイケル・ バリントが英国のGPを対象にタヴィストッククリニックではじめたもの。ひとりが症例を(事前の準備せずに)提示しその患者に ついて困ったことやわからないことについて話す。提示者を除いたグループで「あなたがこの医者だったらどう感じるか」 「あなたがこの患者だったらどう感じるか」「この医者患者関係をどう思うか」といった点につき話し合う。そのあと提示者が グループに加わりじぶんがこの患者をどう考えたかを述べ、行われた議論に対してコメントを行う。このグループセッションには 約束ごとがある。議論が終わったらその内容は一切口外しない、他者を批判しない、正しい答えを探さない、押し付けない。 「あなたはこうすべきだった」「私はどうすべきだったのでしょうか」といった言葉は控えられる。問題解決が目的なのではなく、 医師患者関係について参加者がふりかえる(省察する)ためのものだからである。このセッションにはリーダーがいて症例の要約、 質問の整理、出された意見や感想を精神分析的に言語化していく。医師が患者にいだく感情と患者が医師にいだく感情、 それぞれを客観化し言語化する。このようにして医師はじぶんをすこし遠い地点から眺める(ふりかえる)能力を身につけていく。 これは医師が生涯仕事を続けていくためには是非とも必要な能力であるとされる。

ここには日本ではまだ余り知られていないが、非常に大事なことが含まれている。精神科医ではなくGPが対象というのがさすが 英国である。日本でも精神科でなくプライマリ・ケアの雑誌にのっているのがいい。医師患者関係の在り方を本気で考えている 家庭医が出てきつつあるようだ。

僕の場合はどうか。精神的問題を抱えた患者さんのカルテは診療後しまわずに僕の診療机にもどすようにしている。もう一度 ふりかえり書き残した記事を加える。夜のじぶんが昼の診療をふりかえる時、みえなかった問題がみえることもある。こういう 言葉を言うべきであったと思いつくこともある。ただ一人ひとり十分というわけにはいかない。こじれたむつかしい患者は身近の 精神分析医にきいてもらいコメントをもらうこともある。じぶんに対する批判的まなざしは維持されなければならない。 それにしても僕が今まったくあたらしいこと(例えばフェイスブックを使いこなし日本のバリントグループのスカイプセッションに 加わるなど)をはじめるのは容易ではない。現在のじぶんのスタイルを変えるのではなくそれを意識的に深めていく必要があると 考えている。

2014年 3月 16日  地域力

3月10日、第7回西区「認知症のひとと家族を見守る多職種ミーテイング」が藤棚地域ケアプラザで開かれた。 認知症サポート医として司会をする。地域民生委員、事例発表するケアマネ、各地域包括ケアマネ、社会福祉協議会、 在宅医療相談室、在宅患者家族会、区役所高齢福祉課スタッフなどが出席者。自己紹介と各自の抱えている問題の簡単な 提示のあと本題の事例検討に入った。多職種からのさまざまな考えが出され、問題をより多面的にみることができることが 目標であり、唯一の正しい答を得ることが目標ではないことをはじめに確認した。そこが病院で行う症例検討との違いである。 90歳の認知症女性の例。家族のさまざまの思いが錯綜し、介護サービスの導入がスムーズにいかなったがようやくおちついて きた。ただしケアがお嫁さんひとりの肩にかかってしまっているケース。さまざまな意見が出された。僕もじぶんの考えを 述べたが、それが正解で終わりとならないところがよかった。フラットな関係性が育ってきているなと思った。このような 事例検討を積み上げていくことで、いわば“地域力”が育っていくことを期待する。一人ひとりがじぶんの持ち場で問題を考え、 解決できなければ力になってくれそうな誰かに相談する。そのなんとかしようとする力、それが地域力なのではないか。来年度も 年4回、各地域ケアプラザを巡回して行っていく。

3月11日、西区地域ケア懇談会が開かれた。年2回、西区の医療とケアのより良い連携のために10年以上前から開かれている。 西区医師会で誇れるもののひとつがこの会だろう。今回は昨年11月オープンした西区在宅医療相談室の実績報告が大きな議題。 この相談室が在宅医療に関して病院、かかりつけ医、ケアマネ、包括支援センターなどからのあらゆる相談を受け必要な連携の 橋渡しをする。それがひとつの大きな柱。もう一つの柱は西区の4つのエリアの各リーダー医師が困難事例の相談にのり、 さらにエリア内の在宅医療に関して医師同士の連携の調整にあたること。モデル事業がはじまり4か月、そこそこの実績が でている。この日の出席メンバーは西区医師会医師2名、地域病院医師とケースワーカー、各包括支援センター4名、ケアマネ 研究会2名、訪問看護連絡会、訪問介護連絡会2名、西区歯科医師会、薬剤師会、西区区役所2名そして相談室の2人、 オブザーバーとして横浜市から4名。オブザーバーを除いてすべての参加者に意見を述べてもらった。連携の中心として相談室が できたことで今まではばらばらに動いてうまくいかなかったことも円滑にいくようになったといった意見が多かった。たっぷり 1時間、西区全体が見渡せるような充実した会だった。

2014年 3月 9日  3年目の3・11

もう3年たつのか。あの日僕は午後の予約外来で、遠方から来たひとりの女性の、初回の精神療法的面接の最中だった。 その人生の後半期にもたらされた精神の負荷の重さと症状との関連に思いをめぐらせているまさにそのとき大揺れが来た。 しかし、目の前のひとのこころの深い問題から現実の混乱へとすぐにじぶんを切りかえることができなかった。僕は待合室や その他の部屋を見回ったあと面接を続けた。その方はその後1年以上通い、徐々に精神を回復し治療を終了することができた。 3・11が来ると、あの日の診察室を思い出す。精神療法と大震災。どういうわけか今、この奇妙な組み合わせについて 考えている。


僕が市民病院の時から診ている、今は80歳になる女性がいる。病気でからだが不自由になったあとも自立した生活を送っている。 もう随分前になるが或る午後の外来で、雑談風の話のなか「私はいま夫とふたりの生活ですが、毎日の夕食のとき今日が “最後の晩餐”だと思っています」と笑いながら話した。彼女のさりげない言い方にかえってその言葉が陰影ふかく残った。 のちにご主人は亡くなられたが、その報告を僕にしながら「全然涙がでてこなかった、なぜか悲しいという感じがしなかった んです」と穏やかに述べた。仲のよい気品のある老夫婦のことである。僕はすこし驚いたが、“最後の晩餐”の日々の果てに そういうこともあるのだなと思った。彼女のことばはその後も僕のこころのなかに丁寧に仕舞われていたようだ。3・11以後、 しばしば意識の中心に浮かび上がるようになった。“これが最後の晩餐かもしれないな”おそい夕食を食べながらそうつぶやいて いるじぶんに気がつくことがある。


『郡山物語』(福村出版)が発刊された。「未来を生きる世代よ!」震災後子どものケアプロジェクト:編者 菊池信太郎、 柳田邦男、渡辺久子、鴇田夏子
 
はじめのページを読む。

この物語を福島の子どもたちに捧げる
おとなから子どもへ
いつかおとなになったあなたから、あなたの子どもへ
そして、まだ見ぬ未来の子どもたちへ
つづく、つづく
物語がつづく
明日がつづく
未来へつづく

2014年 3月 2日  父の往診

僕がまだ市民病院で働いていた頃だったと思う。或る冬の日、父の往診に付き添うことがあった。患者さんは90代の老女で 殆ど盲目、昼間は独りで過ごしている。彼女は2週間に一度父が往診するのを心待ちにしていた。木戸を開ける音で父の来訪を 察知し、炬燵のなかで温めていた座布団を差し出す。きちんと着物姿で正座し、丁寧に挨拶する。体の具合を聞かれると 「だいじょうぶです」と短いことばでこたえる。着物の袖をまくり腕を卓袱台の上にさし出し血圧を測る。胸をひろげ聴診を する。決まった血圧の薬を渡され、それで終わり。老女は箪笥につかまってやっと立ち上がり、手探りで引き出しから往診代の 千円札を取り出す。丁寧に礼を述べながらそれを父に渡す。ほぼルーテイーンとなっているのであろうその動作はゆっくりだが よどみなく進む。父が歩けなくなったあとを受け継ぎ、約2年、その家で老女が亡くなるまでぼくは往診をつづけた。老女の こころのなかに住んでいる父のすがたをできるだけこわさないように努めた。彼女の生きる世界にとって父の往診はどのような 意味を持っていたのだろうか。忙しい診療の合間、ときどき僕はこの盲目の老女に対する父の淡い墨絵のような診察風景を 思いだし懐かしむ。

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