臨床余録
2014年 11月 30日  独り居の豊かさ

「先生は、どう思われますか。私は、ここでたったひとりで暮らしていますから老人会の集まりに誘われることがあります。 私が寂しいだろうと思って、声をかけてくれるんです。でも、私はここにひとりで暮らしていて、孤独を感じたことはありません。 むしろ、そういう老人会などの集まりにいるときに深い孤独を感じるのです。話が合わないのです。 耐えられないのは、そういう場所で必ず聞く、お嫁さんの悪口。 私は息子のところに来てくれたN子さんのことをありがたく思うことはあっても悪口なんて・・・。 この間もパジャマをプレゼントしてくれた。“暖かそうで、買いたくなったので買いました  いつも素敵なお母さんへ”と書いたカードがついていて、買いたくなったから買いましたなんて・・、そういうのが嬉しい・・。」

こう述べるひとは僕が20年以上前から診ている老婦人。最近は月に一回訪問診療をしている。 冒頭の彼女の言葉は、デイサービスや地域のシニアの集まりについて僕が触れたときのものである。 確かなのは彼女が、同世代のひとの集まりに行くよりもひとりで本のパズルを楽しんでいる方がよいと考えていることだ。 そして不思議というか、面白いのはそういう彼女の方に周囲のひとたちが近づいてくるようにみえること。 たとえば、隣の方は彼女の代わりにいつもゴミ出しをしてくれている、向かいの若い奥さんはいつも新鮮なお魚を買って来て、 場合によると料理してくれたり少し手のかかる肉じゃがを作ってくれる、 長年通っていた花屋のご主人は花と一緒に新米を届けてくれる、昔の教え子が季節のこころのこもった手紙をくれたり、 訪ねてきたりする、等々とても豊かなひととの関係があるようなのだ。そして息子さん一家は東京から暖かく見守っている。 訪ねてきては「おばあちゃん、今日は何してほしい?」と聞くようなお孫さんもいる。孤独を愛し、 一見つきあいが悪いようにみえて何故なのだろう。僕は彼女の話を聞きながら考える。そしてアメリカの老作家、 メイ・サートンのことを思い出したりする。


「さあ始めよう。雨が降っている。
窓の外に目をやると、楓の数葉はすでに黄ばんでいる。 耳を傾けると、オウムのパンチのひとりごとや、やさしく窓を叩く雨を相手のお喋りが聞こえてくる。
何週間ぶりだろう。やっと一人になれた。“ほんとうの生活”がまた始まる。奇妙かもしれないが、私にとっては、 いま起こっていることやすでに起こったことの意味を探り、発見する一人だけの時間を持たぬかぎり、友達だけでなく、 情熱かけて愛している恋人さえも、本当の生活ではない。なんの邪魔も入らず、いたわりあうことも、 逆上することもない人生など、無味乾燥だろう。それでも私は、ここにただひとりになり、 “家と私との古くからの会話”をまた始めるときようやく、生を深々と味わうことができる。」 『独り居の日記』(メイ・サートン)

2014年 11月 23日  4つの風

FOUR WINDS乳幼児精神保健学会に参加した。町医者としてじぶんの地域に這いつくばるように仕事する毎日のなかで、 学会は次第に縁遠いものになりつつある。しかし、この学会には参加しなければならないと思った。 こどものいのちとは何か、といったラデイカルな問いを地道に掘り続ける唯一の学会であり、 さらに今年は被災地の一つ郡山(大会長は菊池信太郎先生)で開催されたからである。 もう一つ際立つことは、この学会のはらむ多彩な声だ。外国から招かれる講師に今年はフィンランドから、 カイヤ・プーラ先生、日本からノンフィクション作家の柳田邦男氏、日本大学工学部加藤康司氏、 復興現地からの報告として宮城の本間博彰先生、岩手の鈴木廣子先生、ランチョンセミナーは体育学の中村和彦先生、 そして渡辺久子会長の基調講演。現場からの声として、郡山市立小学校の先生、幼児教育の先生、看護師、保育士、 建築学研究者などによるシンポジウム。バイオリニストの天満敦子さんによる演奏もあった。
フィンランドの北ラップランドのひとたちは厳しい雪のなかで4つのとんがりを持つ独特な帽子をかぶり、 東西南北“4つの風”を聞き分け行くべき道を知ったという。1996年フィンランド、 タンペレで開かれた世界乳幼児精神保健学会を機に日本のFOUR WINDSが結成された。 ラップランドとはまったくちがうが生きる厳しさという点では同様である被災地東北で象徴的な“4つの風”のことを思うのである。

2014年 11月 16日  オープンダイアローグとは

精神になんらかの変調を来した患者さんと向き合い、話に耳を傾ける。教科書から得た知識を呼び出し、問いかける。 その応答の仕方や話の内容から診断をつけ、薬を処方する。やむを得なければ入院治療を検討する。 これが伝統的な精神科診察法である。これに根本的に異議を唱えるものとして、R.D.レインの反精神医学があった。 しかし、それは僕にとっては思想としての意味が大きく、その実践には壁が高すぎた。 理想として反精神医学をかかげながら実際は伝統的精神医学に頼っているのである。
さて、最近まったく違う方角から、驚くべき声が聞こえて来た。それが、オープンダイアローグ。 文字通り、開かれた対話。フィンランド、西ラップランドで1980年代から実践されてきた。 精神に変調をきたしたひとが、まず医療センターにコールする。専門スタッフ数名がそのひとの家に24時間以内に赴く。 そして、「状態が改善するまで毎日」患者や家族、関係者をまじえて「対話」する。 このような介入により、抗精神病薬をほとんど使うことなく、病院に入院することもなく、患者の80%以上が改善するという。 参加者は患者を含め全員が発言を求められる。何をいってもいい、どんなおかしなことを言ってもいい。その発言にだれかが応答する。 それは感想であって、評価や否定ではない。 治療法、薬を使うかどうか、入院が必要かどうか、本人も含め全員が居る場所で決める。
このようなやり方でどうして急性の精神変調がなおるのか。 オープンダイアローグの理論的背景として「グレゴリー・ベイトソンのダブルバインド」と 「ミハイル・バフチンのポリフォニー」が提示され、コミュニケーションの作法としての詩学(poetics)があり、 その3原則として、①不確実性への耐性 ②対話主義 ③社交ネットワークのポリフォニーがあげられる。 これらを理解するには時間が必要だ。日本にも「べてるの家」の実践がある。 どこが共通点で、どういう違いがあるのか、これから学んでいく必要がある。

2014年 11月 9日  何が正しいと言えるか?

悪性脳腫瘍で余命半年と宣告を受けた29歳のアメリカ女性が「安楽死」した。 安楽死が許されているオレゴン州に移住し、医師から致死薬を処方され自ら命を絶った。 その是非をめぐり米国内で議論が巻き起こっている。「今日は不治の病のため、 尊厳死を選んだ日」と彼女は書いた。医療倫理学の会田薫子氏はこれは安楽死ではなく医師による自殺幇助であると述べ(朝日新聞)、 長尾和宏氏はこれは尊厳死ではない、日本での尊厳死とは自然死、平穏死のことだと述べている(日本医事新報)。
故シシリー・ソーンダースは“Living with Dying”の中でつぎのように書いた。 “death with dignity”と言う言葉は①個人の生あるいは死を選ぶ自由、その尊厳 ②医師は苦しむ患者が望む場合、 苦しみを和らげる手段が他にない場合、患者の生命を終わらせることができる ③(ⅰ)患者には無効な治療に身を任せない自由がある。 (ⅱ)医者は患者の苦痛を取り除くためには、命のリスクがあっても、薬物を使うことができる。
以上、尊厳死という言葉は、①②③のいずれをも指す曖昧さをもつので使わない方がよいとソーンダースは書く。 ①②は安楽死に関連し③はホスピスケアにつらなる。安楽死は死が目標となるが、 ホスピスケア(緩和ケア)は苦痛のない生が目標となる。ふつうに考えれば、このアメリカ女性は何故緩和ケアを受けなかったのか、 と思う。

だが、死に直面していた彼女の<ほんとう>が僕にはわからない。彼女の死が安楽死なのか、 尊厳死なのか、それとも自殺の一種なのか、それはむしろ2次的なことではないのか。 それより彼女はどのように生きどのように死とむきあったのか。彼女のほんとうの苦しみ、その深さ、重さ、広さ、 それは僕には永遠にわからない。その遠さを噛みしめながら僕は立ち尽くすしかないのだ。

2014年 11月 2日  新しい革袋に新しい酒を

10月27日、第7回みなと認知症セミナーが開かれた。代表世話人として毎年、何か新しい、役に立つことをと考える。 今年は舞岡病院院長の加瀬先生から新しく指定された認知症疾患医療センターとしての役割について、 小阪憲司先生にレビー小体型認知症の臨床とケアについて、お話を伺った。二つともこの会では初めての領域である。
専門病院として疾患医療センターはかかりつけ医から多くの患者を紹介されるが、 紹介されてそのまま任されてしまうことの問題を指摘された。実は、そうならないように今、 かかりつけ医がいかに認知症のひとを診ていけるか医師会で研修していることを発言した。 逆の問題として、センタ―で診断だけつけてかかりつけ医に戻されても、その後の対応をどうしていいのかがもっと困る。 鑑別診断をして薬の処方を指示するだけでセンターの役割は果たされるのだろうか。疑問に思った。
小阪先生はレビー小体型の認知度がまだまだ低く過少診断の状態であること、 アルツハイマー型の周辺症状とされるBPSDがレビー型では中核の症状となること、初期には物忘れは目立たず見逃されやすいこと、 ケアの在り方、家族会の活動などを話された。ご自分が発見し、長い時間をかけて少しずつ世界で認められてきた苦労の大きさを思うと、 困難のなかでじぶんのテーマをとことん追求する医師としての誠実さに打たれる。
認知機能の変動(せん妄との違い)、レム睡眠行動障害、幻覚(特に幻視)妄想、うつ、など症候学的に非常に興味深く、 僕自身の専門領域でもあるので、適度な知的興奮を味わいながら講演を楽しく聴くことができた。

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