臨床余録
2014年 1月 26日  雪の深夜でも嵐の早暁でも(渡邊房吉を読む②)

「今日の醫者」というタイトルの章を読む。

昔の醫者は殆ど概ね治療家になったのと異なり、今日(昭和14年頃)の醫者は研究者、教師、或は官吏、公吏になったり するものがある。その中で患者の治療に向くのが「臨床醫家」あるいは「実地醫家」である。さらにその中でも病院勤務以外の 醫者でみずから門戸を開いて独立すると市井の「開業醫」となる。

開業醫になるためにはおのれの志す科に従ってそれぞれの師を選びそのもとで数年間の実地練習を積まなければならない。 この点厚生省の案は卒業生をすぐ無医村に配備するといった無謀なことを歌っている。醫者になるまでの苦労(学資や結核 罹患リスク)のみならず開業後の醫者の苦痛も一通りではない。『ただ見れば何の苦もなき水鳥のあしにくまなき我が思い かな』の歌通り、世人の想像もつかぬ精神的並びに身体的苦痛を重ねている。醫者の不養生というが好んで不養生するの ではなくそのように仕向けられるのである。多忙な醫者は日に3度の食事も家族と正規的にたべられない。夜間も度々患者から 起こされて、おちおちと眠られない。雪の深夜でも、嵐の早暁でも患家からの依頼があれば道の遠近と患家の貧富とを問わず 往診しなければならぬ。

蓋し醫は司命済生の仁術であり、寧ろ一つの宗教とも称すべき天業であるから、患者のためには遂におのれを逆待して顧みない ような場合も多い。醫者は決して患者をおろそかにすることはない。それは厚生省のいうように患者がほしいからでなく、 金がほしいからといった下劣な欲念からではない。患者の安危を念とするときは内心が、ホルモンのような神聖な刺激を肉体に 及ぼし、やむにやまれない意気を発奮させ、憤然として患家に赴かせるようになるのである。それがために心身の疲労困憊も 顧みず、ためにおのれの健康を害するようなこともすこぶる多い。

「醫は仁術」はよいとしても「ひとつの宗教とも称すべき天業」という箇所には驚かされる。房吉にとって醫はあくまで神聖な ものであり、醫者は自己を犠牲にしても患者に尽くす者でなければならない。往診が開業医の大事な役割であったことがわかる。 “雪の深夜でも嵐の早暁でも”というフレーズに現代の開業医である僕は悩まされそうだ。“患者を思うこころがホルモンの ようにからだに作用し”“やむにやまれぬ意気から憤然として患家に赴き”といった房吉独特の表現が面白い。

2014年 1月 19日  渡邊房吉を読む①

『醫療制度改悪案を解剖す』第一篇「開業醫制度の検討」から読んでいくことにする。

「本邦には情味豊かな開業醫制度というものがあって、醫学と醫術とを普く国民の上に施している」ではじまる。 「情味豊かな」という形容句が独特である。「情味」とは「人間らしい思いやりやあたたかみ」(広辞苑)房吉が開業醫を どう考えていたかがこれだけでわかるような気がする。「醫学と醫術とを・・」以下はややパターナリステイックな趣きが あるが、ハリソン内科書序文の“The practice of medicine combines both science and art”を思い出させる。医学と医術が 国民すべてに施される人情味豊かな開業医制度。「この制度は萬邦に比類なき本邦独特の美風であって」と自己称揚している。

次に「今日の醫育」として医学教育の歴史と現状に触れている。医学の進歩は驚くべきであり、聊かでも油断している醫者は 直ぐにその進歩から取り残される。進歩は当然専門分化をもたらす。都会と山村僻地での開業医の違い(後者は全科に広く 能力を持つ医者が必要)について述べているが、現在われわれがぶつかっている問題が既にここに出ている。

学位制度にも触れ、博士号と優秀な臨床家とは全く別であると述べている。健全な見方である。

「醫学は駿々として進歩し一日も停止しないのであるから、・・醫者は絶えず読書し、休まず研究して自家教育を施さねば ならない」医学会や講習会において新知識を涵養吸収すること、多くの医学雑誌でおのれを教育することの必要性を説いて いる。勉強家房吉の残した汗牛充棟の書籍を思い出している。

2014年 1月 12日  昭和14年の渡邊房吉

年末年始の空白の時間、何気なく祖父渡邊房吉の著書を手に取った。『醫療制度改悪案を解剖す』昭和14年発行、 醫事公論社、40銭。

ふるい本で開くと薄茶色のページがぼろぼろとほどけてくる。房吉が日本刀を手に持ち磨いている写真が表紙。 そのページの見開きにこの本のまとめが箇条書きで記されている。当時の厚生省衛生局が立案した医療制度案に対し いくつかの点を挙げて反対している。この案は、日本の家族制度に由来する開業医制度を破壊し、ソ連風の公営制度を 模せんとする。この案は、医道精神が皇道精神に合致融合するものなることを認めていない、等々。

房吉の肩書は全国医師連合会委員長。東大卒の外科医。神奈川県医師会長を18年間務め、日本医師会の理事でもあった。 医師が国手と呼ばれ医道精神が皇道精神に合致融合することが求められていた時代のことである。

それにしても厚生省案に対して房吉の挙げる反対文は、「国家のため、日本国民として思想的に反対する」をはじめとして、 「医学のため・・」「医術のため・・」「医道のため・・」と列挙され「国民のため・・」はおまけのようにさえみえる。

ところでこの本の出版された昭和14年という時代をふりかえってみよう。昭和6年満州事変が起こる。昭和12年 日中戦争がはじまる。そして昭和14年国民精神総動員委員会設置。零戦誕生。ドイツのポーランド侵攻、第2次世界大戦 はじまる。つまり戦争のまっただなかでこの本は書かれているのである。ときに檄文調になる房吉の精神の高揚も 理解できないわけではない。

さて現代である。昨年末以後偶発的戦争が隣国との間で起こりうる状況が指摘されている。安倍首相が靖国神社に参拝し、 中国、韓国との関係はさらに悪化した。勤勉で優秀な、そしておそらく患者思いの優しい医者が情況によっては先の 日中戦争の第731部隊のような医師たちに変貌する、それが戦争である。

戦前の房吉の著書をひもときながら今さまざまな思いが去来する。

この本の主旨である医療制度改悪案が詳述される第2篇の前に第一篇として開業医制度の検討という章があり、そこに 今日の医育、今日の医者など題して房吉による説明がある。戦前~戦中の書物ではあるが、現在ももしかするともうひとつの 〈戦前〉かもしれないのだ。当時の情況を知るのはおそらく無駄ではあるまい。しばらくこの本を読んでいくことにしようと 思う。

2014年 1月 5日  トウカエデ

ひとりの老女が亡くなった

一年前から衰弱が進み
外に出なくなった
ほとんど何も喋らなくなった
背を丸く床を這うようになった

ある昼過ぎの往診
卓袱台(ちゃぶだい)のお盆に食べたあとの茶碗、小皿、汁椀
そしてお箸がきれいに揃えられている
なにも語らない老いのこころを思った

そのうちふとんから出られなくなった
ひざまずき脈のために手を触れると
「ああ、先生」
とかすかに震える声で言った
それが僕の聞いたさいごの言葉になった

食べられなくなった
手あしが曲がり固くなった
痩せてさらに小さくなった
そしてある朝、ふっと呼吸が静かになった

小学校の裏の崖下
奥まった路地の一角
小さな家の仄暗い居間
10年前ご主人をやはり僕が看取った所だ

削げて凹んだ頬
骨のかたちも露わな手足
眼窩の奥、濁って小さく埋まっているふたつの眼

老いに伴う身体の虚弱がゆっくり進み
精神の枯渇もそれにぴったり寄り添うように進んだ
そのためか不安も苦痛も訴えなかった

冬のさなか
庭のトウカエデはその葉を
すべて落とし裸になった
枝々が天に向かって逆立つ
だが
その枯れた枝々の美しさを
誰も口にしない

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