〈うつ病対策の医療連携を考える会〉という精神科医と内科医による集まりに出るように誘われた。うつ病の勉強と自殺予防、
さらには「住民の心の健康の向上」を図ることを目的として立ち上げられたと案内状に書かれている。11月13日、
『がん患者のうつ病対策』と題するO大学精神科教授による講演を聴いた。在宅医療への関わりなど新しい志向もあるが、
内容的には残念ながら現状に対する深い切り込みには欠けたものだった。以下、やや批判的感想である。
まず思うのは、がんと告知されてうつにならない患者がいるだろうか、ということである。つまり、どんなひとでもおちいる、
その意味では正常な反応としての「うつ」(「悲嘆」といったほうがよいかもしれないが)があると思う。その上で、
さらにうつ病という深いレベルの病態におちいる患者がいるであろう。そういう識別的アプローチがないと、正常なうつ反応を含
めてすべてをうつ病とすることになってしまう。
単なるうつ病でなく、がん患者のうつ病を問題にするなら、キューブラー・ロスの心理的5段階:否認、怒り、取引、うつ、受容、
への言及があってもよかったのではないか。僕じしん今これは、予定調和的すぎると思っているが、少なくともこころというものを
固定したものでなくプロセスとして理解するのに有効だと思う。
次に、うつ病のひとの治療およびケアを「対策」と表現することへの違和感である。「対策」の意味を辞書でひいてみる。
「相手の態度や事件の情況に応じてとる手段・策略」(岩波国語辞典)、とある。揚げ足取り的な意味ではなく、ことばに
こだわるのはその使い方にそのひとの精神の姿勢がおのずとあらわれると思うからである。「対策」ということばに僕は、
客観的な冷たいまなざしを感じてしまう。(「対応」の方がまだやわらかで優しいと思う)
がん患者の苦しみを“pain”としてとらえ緩和ケアの対象としてみていく考え方(『Living with Dying』:Cicely Saunders)
があるが、講演ではこれにも触れられなかった。painにはphysical pain, mental pain, social pain, spiritual painがあり、
個々のpainは全体としての痛みtotal painの中に位置づけられる。従って、うつが認められた場合、精神的痛みとして
それだけに焦点をあてるのではなく、身体的痛みや社会的な痛み、スピリチュアルな痛みを含むトータルな痛みのなかで
それと向き合う。とりわけがんのひとは死と背中合わせの世界を生きるのである。うつ病として抗うつ剤を投与するだけでは
患者のニーズにこたえることはできないだろう。
じぶんの家とはそのひとの生活の居場所であり、人生の主要な舞台である。だから、在宅医療は必然的に患者中心医療に
なっていく。終末期のがん患者が在宅でケアされるとき、うつに陥った場合でも住み慣れた環境で家族に囲まれているので、
病いを持ちながらさいごまで生きようとするちから(レジリエンス)は比較的保たれるのではないか。
以上の感想を整理して、次の3点の質問をした。
①がん患者の場合、うつ病と「正常な反応としてのうつ」との境界線をどう考えたらよいか?
②がん患者が、病院、ホスピス、在宅でケアされた場合、うつのそれぞれの場所における現れ方の違いはないか?
③在宅医療が今後ますます大事になるが、そこでの精神科医の役割をどう考えるか。
惜しいことに、どれに対しても十分な答はもらえなかった。
じぶんで考えていくしかないようだ。
医学界新聞に連載されていた頃から注目して読んでいた。今度それが1冊の本になり、読みとおした。僕自身が何となく 思っていたことの論点が整理され、より明確になったといえる。また、新しく眼を開かせられた視点も少なくない。 そのいくつかを挙げてみたい。
以上、この本は高齢者を診るための、スキルあるいは知恵に満ちている。こどもや成人の医療をそのまま適用することの
できない高齢者のための医療というものがあるのだということがとてもよくわかる。
ただ それにしても と僕はおもう
なにかさびしい そもそも老いとは何か
老いがなぜ問題なのか 老いとは
診られるもの いやがられるもの 対応すべきもの
としてあるだけなのか そうではないだろう
老いは 何よりも生きられるためにある
どんなにみすぼらしく みじめなものであっても
老いは 老い自身によって 生きられなければならない
いま 老いの入り口にいる僕は そう考える。
11月4日、[FOUR WINDS 乳幼児精神保健学会主催 エリザベス&キャスパース チューターズ先生特別セミナー]に出席した。
これは広島での大会ののち、東京でもその世界的レベルの乳幼児治療を学ぶことができるように慶応大学三田キャンパスで
開かれたものである。Kクリニックから提示された複雑で困難な症例へのスーパービジョン。司会・通訳は渡辺久子。
約200回に及ぶ治療(両親の面接とこどものプレイセラピーの詳細な経過)が提示され、セッションごとの問題点がまとめられ、
お二人からの懇切なコメントがなされる。濃密な3時間だった。
キャスパース先生が、広島で話された内容のプリントを読んだ。
彼自身の複雑な生育歴が盛り込まれたもので、ずしりと重い。
1937年ラトビア生まれ。もともと家庭医だったが、のちに精神科医(精神分析家)となった。(ちょうど僕と逆のコース)
両親と妹を含む一家4人は1944年、ソ連の侵攻を恐れ(彼の、やはり医師である父の父はソ連に処刑されている)、
ドイツの避難所に逃げる。そこで1950年カナダに避難民として受け入れられるまでの過酷な5年間の少年時代を過ごす。
精神的不満や怒りの表現は抑圧され、強迫傾向と吃音に苦しむ。しかし、この体験がのちに精神科医になる基盤となる。
乳幼児精神医学、とりわけ精神的トラウマの世代間伝達(intergenerational transmission of trauma)の問題、
さらにトラウマの文化的背景への関心に結びつく。
広島を訪れた今彼が思うのは、日本人が体験したトラウマの質。
戦争がもたらすトラウマは、世代から世代に伝達される。その記憶は意識的なレベルでは消えても、より深いレベルでは消えず、
トラウマの残遺として我々の精神に影響を与え続ける。
トラウマが圧倒的な重さでのしかかるとき、ひとは様々な防衛機制(否認、分裂、抑圧、解離など)を用い、
精神をシャットダウンし、記憶はfrozen state凍結状態(zero processゼロプロセス)に入る。トラウマが重ければ重いほど、
記憶はより深く凍結され、届きがたいものとなる。このようなトラウマが次の世代に伝えられるときそれは無意識のレベルで
行われる。信頼するおとなによる乳幼児への性的虐待、ナチのホロコースト、スターリンの粛清など。
彼みずから精神分析を受ける中で両親のレジリエントな生き方を見直し、彼らはトラウマという負債だけでなく
“命の灯を燃やし続ける能力(the ability of keeping the light of life burning)”をも彼に伝えてくれたことに気付く。
そして、ひとが持つ他者や周囲の環境との危険で破壊的な力関係は実はじぶんの心の在り方によることをつかんでいく。
昨年、94歳で亡くなった僕の父のかげがちらつく。
さきの大戦で、死を運命づけられて送られたニューギニアで〈玉砕〉を免れた父は、戦後の日本をどのような思いで生きて
きたのだろうか。父の遺した何冊もの著作を読むが、そこにはほんとうのことのすべては書かれていないのではないかと思う。
臨終の床で、父は全身を小刻みにふるわせながらうなされていた。
あのとき、僕は、父は今、ニューギニアの密林のなかをさまよっている、と思っていた。
父は、“ゼロプロセス”の記憶を抱えたまま死んだのではないのか。
その未解決のプロセスは、無意識の深いレベルで、僕のなかに引き継がれているような気がする。
11月1日、西区在宅医療相談室が開所した。
オープニングセレモニーの司会を務めた。
横浜市と西区が協働で行うこのモデル事業で僕たちがためされていることは、いかに地域の人たちの生活を大切にする医療と
介護を実現できるか、そのためにいかに僕たち医師ひとりひとりがお互いにそしてまた医師以外の職種の人々と肩を組めるか、
ということである。
新しく歩を踏み出す。
丁寧に、たゆまず、down to earthに。
じぶんのシナリオに沿って動くのではない。
与えられた場所で、与えられた仕事をする。
それだけである。
じぶんで考えた(と思う)仕事も、結局は与えられたものなのだ。
じぶんを包む流れのなかで、じぶんだけができる仕事をする。
10月28日の朝日新聞に、76歳のウラデイーミル・アシュケナージのことが載っている。母国ロシアの作曲家ラフマニノフに
再び取り組むという。その心もちを聞かれて「大事なのは、自分ではなく音楽」。「音楽に仕えるものとして音楽に誠実で
ありたい」と述べている。深く打たれた。そこに、真の芸術家のたましいを見る思いがするのだ。
大事なのは、じぶんではなく医療。その中身。
音楽家のことばを借りてこんな風にいってみる。
究極の指揮者はいるかいないかわからない、見えなくなる、すなわち透明になる。
医者もそうあるべきではないか。
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