診察室で病気のひとを診る。そのひとがどんなひとであってもそこに病むひとりの人間がいる限り、手を差し伸べ、
その肩に手を置き、その言葉に耳を傾ける。診察をし、その苦痛を少しでも減らし、その不安を和らげるにはどう
したらよいかを考える。往診の場合は、病いの床に膝まづき、呼吸の乱れに耳をすます。不安に満ちた表情に
「大丈夫ですよ」と声をかける。病む者、傷つく者、老いゆく者、苦しむ者、そして死すべき者としてのひとの、
その弱さあるいは脆さに寄り添い、ヒューマニテイーというものを分かち合う。これが、僕のやや理想化された
医者という仕事のイメージだ。
ふりかえってみると、僕の幼少時、夜の自宅に熱のこどもをつれてよく近所のひとがきていた。町医者であった父は、
当たり前のように、淡々と茶の間に患者を寝かせ、黒い往診鞄から取り出した注射を打ったりしていた。ときには、
夜中に呼ばれて往診にでていった。その父の無言の背中が記憶に残っている。
ときどき、不思議な気持ちになる。彼、あるいは彼女が病むことがなかったら、決して言葉を交わすようなことは
ないであろうひとの傍らに寄り、ことばを交わす。そのひとの生活を構成する一メンバーに僕もなる。病むひとを
通して医者としての僕の世界はひろく深くなる。
医者の仕事とは何なのか。
医者doctorは、doc(教える)tor(ひと)に由来する。治療や養生の仕方を教えるということであろうか。
Doctorには「医者」の他に「修繕屋」という意味がある。また、「呪医」、「まじない師」といった意味もある
(『ファウスト』に魔女をまじないをする医者として風刺する場面がある)。動詞としては、「治療する」という
意味の他に、「飲食物に混ぜものをする」、「計算などをごまかす」、「文書、証拠を不正に変更する」、といった
意味もあり、驚かされる。必ずしも神聖な、良いイメージばかりではないのだ。
「ひとにもたらされる運命のなかで、ひとりの医師になるということ以上に偉大な機会、責任、義務というものは
ない。・・・」とはじまるハリソン内科書初版にあった序文は最近の版ではなぜかその大部分が削除された。
その初期の丈高いこころざしは去った。時代の趨勢は医者のイメージを否応もなく変えていく。
10月23日朝日新聞によると、在宅患者を紹介された医者が業者に手数料を支払うことを禁止することが検討
されている。比較的高額な在宅訪問診療料を利用して在宅ビジネスが横行する。このままには放っておけないと
厚労省も考えたようだ。
それら施設の患者は安定しているのに月2回の訪問診療を自動的に受ける。状態把握のためには必要という。
そこまでは納得できないわけではない。しかし、いざ具合の悪いときには往診してくれず、救急車を呼びなさいと
いわれるのでは何のための高額の訪問診療料なのかわからない。
“算数の苦手な医者にかかるべし”
そういえば、こんな川柳があったっけ。
“往診料ねぎられている夏の路地”
“往診の礼にと言いて孵りたる籠いっぱいのちさきスズムシ”
こういうのんびりとした風景をなつかしく思うことがある。
医師であり詩人でもあったWilliam Carlos Williamsについての書“House Calls with William Carlos Williams ”
を読んだ。(house calls は往診の意)
We sit and talk,
quietly, with long lapses of silence
and I am aware of the stream
that has no language, coursing
beneath the quiet heaven of
your eyes
往診先の病者との対話をこのように表現する詩人の世界に
憧憬をいだく自分を発見する。
過度の安静は害ということは医学的常識となっている。だから、歩けなくなったと嘆く患者さんに「動きなさい、
筋肉をきたえなさい、さもないと寝たきりになってしまいますよ」といって励ます。あるいは、おどかす。だが、
残念ながらいくら励ましてもおどかしても、それで筋力訓練をして歩けるようになるひとはわずかだ。その理由が、
この本を読んでわかった。筋肉を鍛えなさい、体操をしなさい、よく歩きなさい、と言うだけでは駄目なのである。
生きるということの「構造」を考える。
WHOが2001年に発表した「国際生活機能分類」(ICF)の生活機能モデルによると、人が生きること(生活機能)は
①心身機能
②生活動作
③社会参加
の3つのレベルからなる。
それぞれが影響しあっているが、この中では特に社会参加が大切。仕事とは限らず、家事への参加でも避難所での子供の
世話でもよい、生きることに何らかの役割や目的があれば、それが生活機能に反映され、そしてそれが心身機能(例えば、
歩行機能)の改善につながる。つまり、③から①への方向であって、①から③ではない。いわゆる病気の場合は、この逆で、
①から③への流れである。
この生きることの3層構造は、マーズロウのニーズの階層(ヒエラルキー)やリハビリ医学における障害の3種
(impairment-disability-handicap)を思い出させる。
また、QOLの意味:LIFEの3層構造(生物学的生命:biological life-日々の生活:everyday life-人生あるいは
生涯:bibliographical life)にも対応している。
この本で再確認したことは、リハビリテーションとは「機能回復のための訓練」のことではなく、「全人間的復権」、
「人間らしく生きる権利の回復」のことであること。つい、僕たちはこのリハビリテーションの理念を忘れ、安易に
考えがちである。
もうひとつ学んだことは、廃用症候群ということばを用いず、生活不活発病とした意味。「廃用」いう言葉のもつ不快な
ひびきだけでなく、廃用までいかない中間の状態をただしく示していないという問題などがあり、廃用症候群は使わず、
生活不活発病という語を提唱している。
「生活不活発病」が著者のライフワークになったきっかけは、患者さんに「お大事に」と声をかけた時、「今、どういう
つもりで言ったのですか」という恩師、上田敏先生の一言だった、というのもなかなか味わい深い。
ふりかえってみると、僕の患者さんで、ベッド上生活のひとや車いす生活のひとの中に「生活不活発病」のひとが少なからず
いるような気がする。「生活不活発病」という概念は超高齢社会にあって有効だとは思う。問題は、日々の生活を活発化させる
原動力になる社会参加の機会が、認知症のひとばかりでなく、多くの老人で奪われていることだ。
日々の臨床のなかで、老いの多様な姿をみていると、その「不活発な生活」のなかにあって、みずからの老いの苦さを
噛みしめながら、人生の終末を静かに生きているようなひともいて、そのような方に対して、その外側にいる医者という
立場から何かを言うのは、ためらいがある。まして、そのようなひとを、「生活不活発病」とは、到底呼ぶ気にはならない。
その生活が、「不活発」にならざるを得ないほどの、人生の苦汁が、その姿ににじみ出ているようなひともいる。
働くことはもとより、動くこともできない、ただそこに臥床して「在る」ことしかできない老いの究極のすがたを前に
したとき、僕たちはさまざまな思念をいだく。そして、もしかすると、「不活発」という語もまた「廃用」と同じように、
ネガテイヴな烙印とならないかと懸念するのである。
住み慣れた地域で高齢者が暮らしていく(aging in place)ために多職種連携が大切とされる。医師は自分ひとりで
仕事をするだけでなく、多職種の枠組みの中でその役割を果たすことが期待される。看護師も必要とせず、ひとりで
こつこつと開業医の仕事をこなしていた僕の父の時代とは明らかに異なるのだ。
「地域社会でいちばん大事なのは「インターデイペンデンス」(interdependence)、つまり相互にサポートしあう関係です。
誰の世話にもならないという意味での「独立」(independence)ではなく、いざというこきにはこのインターデイペンデンスの
ネットワークを使える用意ができているということ、これが本当の意味の「自立」です。命の世話は、
すべてインターデイペンデントなものです。」 『語りきれないことー危機と傷みの哲学』(鷲田清一)
dependenceは依存。interは「中」「間」「相互」という意味だから、interdependenceは相互依存。しかし、
それでは何か意味が薄くなる。Interdependenceを市川家國先生は「多職種協働」という意味で使っていた。
しかし、何故ひとりでコツコツやっているだけではいけないのか。
色々な要因があるだろうが、ひとつは平均寿命が延び、虚弱高齢者や認知症のひとが激増したことが大きいだろう。
これらのひとに対しては、医療だけでなく、介護が重要になる。医者がひとりで頑張ってもうまくいかない。
ケアマネージャーによるケアプランの作成、デイサービスの送迎、訪問介護の生活支援、訪問看護師による医療的ケア、
薬剤師による訪問指導、PT,OT,STによるリハビリ、訪問歯科医による口腔ケア。まさに多職種である。超高齢化社会に
independentな医師としてあるためには、多職種の人たちとのinterdependentな関係が必要なのだ。
最近、二つ、多職種の会に参加した。
ひとつは、神奈川在宅緩和医療研究会(9月25日)。『在宅医療における薬局の役割』(薬局の上手な活用法)と題する、
保土ヶ谷区Y薬局の在宅における実践報告。薬についての丁寧な説明はもちろんのこと、休日でも必要があれば訪問する、
患者に触れる、見ることの大切さ(例えば薬疹)、麻薬回収時のグリーフワークなど僕の薬剤師に対する今までのイメージを
超えるものがあった。このように在宅患者の目線に立った熱心な若い薬剤師がいることは一種の驚きであり、嬉しくもあり、
そして心強い。
もう一つは、9月30日、西区浅間台地域ケアプラザでの『第5回認知症のひとと家族を見守る多職種ミーテイング』
参加メンバーは認知症サポート医(私)、各包括支援センタースタッフ、行政高齢支援課、訪問看護師、社協、家族会、
民生委員、シニアクラブの方々など。前半はメンバーの自己紹介と問題提起、後半は事例検討。小規模多機能型施設を
利用中の認知症をもつ独居高齢者の例。ケアがうまく機能せず生活が破綻しかかった時の地域包括が中心となった連携の
在り方が報告、討議された。認知症のひとのケアのマニュアルはない。このような事例検討の積み上げにより、地域ケアの
総合力が向上していくことを期待している。
医療と介護の〈壁〉のひとつの要因として、双方の使っている「ことば」が違うと言われることがある。医療と介護、
ことばが違うのは或る意味当然であろう。だとしたら、まさにその違いを知ることによって、患者のための協働を可能な
ものにしていく、それが今、問われているのだと思う。
「高齢者の退院支援、病院・かかりつけ医 橋渡し」
「市、全区に在宅医療拠点」
「西区で来月 モデル事業」
という見出しで10月4日朝日新聞朝刊に記事が大きく掲載された。
この事業の「目的は、在宅専門の医師を増やすことではない。かかりつけ医の方々に外来診療の傍らで少しでも在宅医療
関わってもらうこと」という増田理事の言葉も載っている。
ひとつのモデルを提示してみよう。
以上がかかりつけ医主体の在宅医療のひとつのモデルあるいはシナリオである。うまくいくかどうかはわからない。 横浜市と毎月討議を重ねてきた内容をもとにしている。在宅療養相談室および訪問看護師の役割が重要であり、 その頑張りがキーポイントのような気がする。
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