臨床余録
2013年 9月 29日  オスラーと在宅診療

9月21日(土)、聖路加国際病院トライスラーホールで行われた、日本オスラー協会講演会に行った。 僕の恩師である本多虔夫先生が声をかけてくださったのだ。土曜日の外来を終え、午後の訪問診療はなしにして駆けつけた。 「芸術活動を入れた教育カリキュラムの効果」「医学生・看護学生・医療人への生老病死再入門」「William Oslerの魅力」 といった興味深い研究発表は聴けなかったが、講演には間に合った。
アメリカでの生活の長い市川家國先生の「21世紀の医学教育:EBM, PBLの次に来たもの」と題する講演。 従来の医師のプロフェッショナリズムというと、医師としての技量や医師の看板への期待といったものであったが、これからは 医師の社会的役割への期待が大きくなるだろうという。そしてinterdependence:多職種協働がキーワードとなる。 また、最近のディオバンの研究疑惑に敷衍して、日本の研究者の倫理観について触れられた。 アメリカではCITI(Collaborative Institutional Training Initiative)を受けていないと臨床論文は書けないが、日本はうけて いなくても書ける。CITI Japan Projectの必要性。などについて話された。

研究者の倫理、特にCITIの詳しい内容についての説明は、やや縁遠い感じがしたが、その中で旧日本軍の731部隊のことが 医学的常識と示されている点、少し驚いた。驚く日本の現状がおかしいのだが。
最後に、今後はCollaborative Community Service Initiative(多職種コミュニティサービス自発先取)という方向性が大切と された点、今の僕の周囲の問題意識と合致する。いわゆる地域包括ケアシステムである。

ところで、久しぶりに、オスラー『平静の心』を開いてみた。「医学の座右銘」に「黙々と働く医師たれ」という章がある。 若い開業医に向けた講演記録だ。

「一般開業医である諸君は、応用は別として、科学の進歩とは直接の関係を持たないかもしれない。 だが諸君の果たすべき務めは、はるかに優れた神聖なものである。自分の立派な仕事を見せんがために、世の人々の前で明かりを 点けようなどと考えてはならない。・・・最も優れた医者とは、往々にして世間にその名があまり知られていない医者であることが 多い。・・・諸君の仕事は、村や地方で、大都会のスラム街で、鉱山の仮小屋や工場町で、金持ちの家で、そして貧乏人の小屋と いったあらゆる場所で、いわば下士官や兵卒として黙々と働くことであり、一生をかけてヒポクラテスの言う、知識、賢明さ、 人間性、誠実さなどの模範を示すことにある」

オスラーにこのような視点の文章があるのを今までみのがしていた。「諸君の仕事は」以下の部分は全然ふるくない。それどころか、 まさに今の在宅診療の諸相、その精髄をあらわしているではないか。

2013年 9月 22日  ウガンダの赤ちゃん

 ウガンダの赤ちゃんの記事(日医ニュース:平成24.12.5「母と子の絆」澁井展子)をときどき思いだす。1950年代、 ウガンダの母親はひとりで出産すると新生児をすぐに胸につるした三角巾の帯に入れる。その中で赤ちゃんはおむつを つけず裸のまま四六時中肌身離さず育てられる。おっぱいを飲みたい時はすぐ前にある母親の乳房に吸いつき眠りたいときは 眠る。母親は赤ちゃんが何を欲しているかを肌の感触で察知する。従って赤ちゃんは満ち足りて静かであり殆ど泣くことがない。 母親がそのしぐさを感じ取りすぐ応えてくれるから泣く必要がないのだ。赤ちゃんは賢くいつも機嫌がよい。お座りや首のすわりは 早く、その目は自分の意志を持ち、母親をしっかりと見据える。生後1年までこうした育児が続く。
 赤ちゃんを早く自立させようとして母親から離そうとするのが(例えば離乳)普通の考えかもしれないが、ここではその逆に 母親からいっときも離さないことが結果として早く自立させることになる。そこが興味深い。確かルソーの『エミール』にも 似た記述があったと思う。(その後、ウガンダにも近代的な分娩施設が造られ、吊り帯で育てられなくなった赤ちゃんからは、 以上の素晴らしい特徴は消えてしまう)

 三角巾の帯で吊るすのではないが、日本にもこれと似た育児法があるのを最近知った。『おむつなし育児』(三砂ちづる著) -五感を育てるーという本。何かいいことがあるからおむつをはずすのではない。おむつをしない方が赤ちゃんは気持がいいはず だという考えが出発点。そして、肝心なのはおむつをはずすこと自体が目的なのではなく、排泄という最も原始的で大切な機能を 介して母親が赤ちゃんに寄り添い、いつくしむこと、それによって赤ちゃんとの目に見えない共感性が自然に高まっていくで あろうこと、とされる。

 これとややおもむきの異なる育児の仕方をやはり最近経験した。アメリカの母子によるsign languageだ。言葉は喋れない乳児でも、 いわゆるジェスチャーで簡単なコミュニケーションが可能になる。たとえば、手をもむようにするとおっぱい。上にあげると抱っこ。 口にあてると食べたい。両手をたたくようにするともっと。といった風。このやり取りをみていると何か不思議な感じになる。 お母さんと赤ちゃんが対等なのだ。今2歳になったこの子は親に対してわがままとは違う、いわば一人のひととして自己を主張して いるようにみえる。好物を口にすると満面の笑顔、好きな音楽を繰り返し要求してご機嫌、面白いとげらげら笑いがとまらない、 そのかわりいやなものは断じてノーだ。変なぐずつきはなく、泣くことも少ないようにみえる。

 以上、3通りの育児は、それぞれの国の文化を反映してやり方は異なるが、みな乳児とのnon-verbalなコミュニケーションを介して いる点で共通している。この言葉に頼らないところでの共感の経験は、おそらくその後の言葉を介しての親子関係の土台になるだろう。

ところで、一週間前、9月15日(日)西区公会堂でアフリカン・チルドレンズ・クワイヤー初来日コンサートがあった。 パーキンソン病のSさんの娘さんがボランテイアをしていて誘ってくれた。殆ど食べるものがないこともあるらしいウガンダの極貧の 地域からオーデションで選ばれた8歳から11歳の子供たち。今や世界中で活躍しているのを知った。ゴスペルやアフリカの伝統的な 歌とドラム、そしてアフリカの子ならではのしなやかで力強いリズムと踊り。日常経験することのないエキサイテイングな時間であった。その素晴らしいパフォーマンスを見そして聴きながら、今も地球上のどこかで戦禍と貧困の絶えることのないこの世界にもまだ希望というものがある、と強く思った。

2013年 9月 15日  認知症のひとを診る-かかりつけ医の役割

 このタイトルで先日、横浜内科学会で話をした。メインはいま注目の糖尿病と認知症との関係についての講義だったので、 私の話はいわば前座。

 言いたかったポイントをあげる。

  1. 認知症の早期診断がかかりつけ医に期待されている。しかし、ひとが認知症と診断されることのプラス・マイナスにかかりつけ医は敏感でありたい。診断されたひとの気持と言葉に耳を傾ける必要がある。早期診断することでそのひとに安心感を与えることができるとしたら、それはかかりつけ医がそのひとの今後の苦しい航海を見守る灯台のあかりに似た役割をはたすことができるときだ。
  2. 早期診断に長谷川式認知症スケールと脳画像は余り役立たない。しかし、この2つで診断できると誤解されていないか。認知症は生活のなかにあらわれてくるのだから、丁寧な問診と診察、ご家族との話から普段の暮らしぶりを知ること、これが何より大切。
  3. 認知症であったとしてもそれはそのひとの一部にすぎない。かかりつけ医は認知症のひとを診るのであって、認知症を診るのではない。認知症という診断にふりまわされてはならない。そのひとをトータルとして診ること、それができるのは専門医ではなくかかりつけ医である。
  4. 医療と介護の連携というときその目標は「そのひとの安心できる環境の確保」ということである。
  5. 認知症のケアには良いケアと誤ったケアがある。良いケアはそのひとの立場に立っておこなわれるので安心感を与える。その結果認知症は落ち着く。それに対して誤ったケアはそのひとの個性や主観を見ず病気だけを見て感情を傷つける。従って症状は悪化する。そのひととの良い関係の維持はそれ自体治療的である。(パーソンセンタード・ケア)
  6. 認知症のひとを診ると同時にその家族を見守ることが大切。認知症の辿る一般的な経過を説明する。そのステージに応じてケアの方法のあること、認知症は家族だけでみる病気ではないことを強調する。家族の話を聴くことの意味。介護離職、介護うつ、虐待の問題。
  7. 認知症が重度となりやがて終末期を迎えるとき、かかりつけ医には訪問診療が期待される。そのひとを以前から診ているかかりつけ医にとって、そのひとが食べられなくなったときはそのまま静かに看取るのがごく自然に思える。しかし、家族の思いやナラテイヴはさまざまであり、その多様性を尊重するのも又かかりつけ医の役割であろう。
2013年 9月 8日  7つのa

超高齢社会を迎えて今、かかりつけ医の在り方が問い直されている。そもそもかかりつけ医とは何か。ホームドクター、町医者、 GP、家庭医など様々な呼称がある。そのあるべき特性を挙げてみよう。まず、①all-round:どのような病気のひとも診る。 ②accessible:近所でかかりやすい。③around the clock:24時間いつでも相談にのる。往診や訪問診療をはじめ在宅での 看取りも行う。④at home:暖かく、安心感がある。何でも相談できる。⑤accountable:わかりやすく説明してくれる。 ⑥alliance:連携。必要に応じて介護や看護につなげてくれる。いざというときの病院紹介。⑦accompany:寄り添い続ける。 人生の伴走者的役割。これら“7つのa”は、飽くまで理想であり、実践するのは容易ではない。だが、日々の診療の合間に、 これらをふと思いだすことの意味は小さくない筈である。

2013年 9月 1日  医療ビジネスとかかりつけ医

8月25日の朝日新聞第1面に患者紹介ビジネス業の記事がのった。 在宅診療の必要な施設入所中の高齢者を業者が医者に紹介し、医者はその見返りに比較的高額の訪問診療料の一部を業者に 支払うという。医者と業者の間で患者は商品となる。なぜこうしたビジネスがあり得るのか。在宅医療を必要としている 高齢者が地域にふえている現状に、地域の医師会やかかりつけ医が十分に対応できていないことも原因の一つなのではないか。 地域の医師会やかかりつけ医がみずからの問題として考える必要がある。横浜市西区では市と協働で今、在宅医療連携拠点 モデル事業の準備をしている。西区在宅医療相談室を創設し、それをかかりつけ医、病院、介護、看護などとの連携・支援の 拠点にしていこうというもの。目標は地域住民ひとりひとりのための、かかりつけ医主体在宅医療システムの実現である。

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