久しぶりにランセット を読む。
世界アルツハイマーデイの行事が毎年9月には行われる。NPOのアルツハイマー病インターナショナル(ADI)が病の認識を世界に広めることを目ざしている。2024年の目標はアルツハイマー病への偏見と差別が存在することを伝えることである。偏見と知識不足は適切な時期の診断や治療およびケアの妨げになる。ADIの報告では過去5年の間にアルツハイマー病に対する態度に大きな変化がみられた。認知症に対する広範囲な偏見に光をあてることは、認知症の人々へのケアのために大切な課題である。
2024年のADIの報告は、世界アルツハイマーデイに合わせて出されたが、2019年の初めの報告につらなるものである。この報告は認知症への全般的偏見の指標を定めるという野心的な目的をもっていた。そのために155の国の認知症の人、ケアギバー、ケアプロフェッショナル、一般市民への大掛かりな調査が行われた。
2019年、2024年のADIの報告の重要な所見の一つは、ほぼ3分の2のケアプロフェッショナルが認知症は正常な老化の一部だと思っていることである。認知症は脳の病理的変化によって認知障害が生ずるというメッセージはケアプロフェッショナルや一般市民に伝わってはいない。
2024年のADIのポジティブな所見は認知症のリスク減少の知識がふえたことである。修正可能な因子があるにもかかわらず、25%の回答者は認知症は防げないと考えている。逆に、認知症予防の知識は、回避しうる病を発症した人への偏見を増やすととらえられている。
認知症関連スティグマは様々な形で現れる。2024年ADIレポートは4つの形を報告している。
① パブリックスティグマ:一般市民のなかにある認知症のネガティブステレオタイプ、偏見、差別である。
② セルフスティグマ:認知症の人がその症状を恥ずかしいと思い、社会からひきこもる形である。
③ 構造的(structural)スティグマ:認知症の人がソーシャルケアにアクセスすることができなくなる不利益を生じさせる政策や規制の形である。
④ 関連(affiliate)スティグマ:ケアギバーや家族が経験し社会的孤立を引き起こす形である。
不幸にも、2019年以後一般市民の態度は改善していない。3分の1の回答者は認知症の人は危険と思い、3分の2は衝動的で予測がつかないと考えている。約40%は病気は家族のサポートが足りないためとしている。しかし、90%以上は医学的診断の重要性を信じ、認知症の人のライフは改善しうると信じている。従って、予防についての知識のみならず認知症についての態度や誤解を改善することが重要である。
より貧しい国では認知症の知識が乏しいため病気が進んでから診断(神経病に対する恐れもあって)されることが多い。
2050年には認知症の人は153millionになるといわれ認知症に伴うスティグマを知ることが大切になる。
以上が抄訳、以下が感想である。
*しばらくキッドウッドを精読してきたが、このアルツハイマー病インターナショナルの報告を読むと、今は亡き彼の遺産はほとんど引き継がれていないのではないかという印象を持たざるを得ない。パーソンフッドに焦点をあてて認知症の人をみればスティグマの入る余地はない。そこにあるのは理解(つまり共感)とリスペクトだからである。
*Stigmaスティグマという言葉の意味をふりかえる。ギリシャ語の聖痕や烙印に由来。精神疾患など個人の持つ特徴に対して周囲から否定的な意味付けをされ不当な扱いをされること。深く掘り下げた書物としてアーヴィング・ゴフマンの『スティグマの社会学』がある。
*2023年に日本で成立した認知症基本法は認知症の人の基本的人権の尊重、国民の理解の普及、生活上の障壁の除去、家族に対する支援などスティグマ(上記訳文の①から④)を排除する意図が盛られている。共生の思想はまさにスティグマ排除の思想でもある。
1 ケアの文化とより広い文脈
西洋社会の文化では、知識が高い位置を占め、人間の感覚は隅に追いやられ、工業生産や戦争のために高齢者や心身に障害のある者は収容された。
ポスト産業主義の精神、情報への異常なまでの関心、自律的で自分の能力に自信を持つ個人の極端な重視、経済第一主義などの文化的背景はその人らしさを大切にするパーソンセンタードアプローチとは全く相容れない。
2 新しい文化と古い文化
これまで認知症の性質を理解するために二つのパラダイムを比較してきた。パラダイムはそれぞれ「ケアの文化」を示している。古い文化から新しい文化への移行は、欠けている項目を付け足すようなことではなく、全く新しい観点から認知症の特徴を見直すことである。
新しい文化では、認知症の人を恐ろしい病気を持った人とするような病人扱いはしない。新しい文化は認知症の人それぞれの独自性に焦点をあて、彼らが達成したことを尊重し、彼らが耐えてきたことに思いやりを持つ。生命の源泉として感情を再び取り戻し人間の存在が本質的に社会的であることを重視する。どのような症状を持つかはケアの質に決定的に依存する。
古い文化は一般に、認知症の人々の心理的ニーズの存在を否定するか、安定剤で消し去ってしまう。そして認知症の人を疎外と隔離、忌避と拒絶の中に置く。古い文化には最低限の相互行為しかなくその殆どが基本的な身体介護である。
新しい文化は心理的ニーズに応えることに全力を傾ける。その結果安らぎやゆとり、癒しのケアがもたらされ得る。安心して自分の障害を受け入れることができ、認知症である事実を恥ずかしいと感ずることがなくなる。新しい文化が提案していることは知的能力が低下している人々を同じ人間として見ることである。集団的無意識の中に長く隠されていたコミュニティの感覚を再び取り戻すこと。そこは平等にお互いを受け入れることができる場である。このような励ましがあれば私たちは自分たちの老いの事実と死ぬ前に認知症になるかもしれないという可能性さえも容易に受け入れることができる。
認知症の再検討は、人であることは何かについて新鮮な理解を私たちにもたらした。今はやりの個別性と自立性の重視は根本的に疑問に付され、本当の相互依存関係に光があてられた。弱さや限りがあることや、死にゆくことや、死が受容しやすくなり、技術ユートピアの尊大な希望は完全に取り去られる。理性は不当に長い間占拠していた台座から降ろされ、私たちは感覚を持つ社会的存在として本姓を取り戻すことになる。心の癒しについて計り知れないほどの豊かな概念を見つけることになるだろう。
『DEMENTIA RECONSIDERED the person comes first』Tom Kitwood を読み終えた。第1章から第9章まで大事な論点のまとめになっていると思う。
日本語訳は『認知症のパーソンセンタードケア 新しいケアの文化へ』高橋誠一訳である。だいぶ省略したが、わかりやすく加筆した部分もある。
今回再読したきっかけは、2023年に認知症基本法が制定され、認知症の人との共生社会の実現が理念として定められたことである。認知症の人と共に生きることとは、認知症の人を排除せず同じ人間として認め共に生きることである。逆に言えば、それまでは人として排除してきたということになる。共生社会の実現と言っても、認知症の人を深く理解しなければ共に生きることはできないだろう。
認知症の人を理解する仕方として従来からの脳病理医学的理解の仕方(標準パラダイム)があるが、そうではなくキットウッドは新しいパラダイムとしてその人らしさに焦点をあてる認知症の人の見方を提示し論じている。認知症基本法における共生社会の理念は、まさしくこの第9章における新しい文化の概念と響きあう。
2023年にもうひとつ大きな動きがあった。脳のアミロイド斑を除去してアルツハイマー型認知症を治すというレカネマブが登場したことである。この治療法の臨床的有効性はまだ明らかになってはいないのだが、これこそアルツハイマーのパラダイムシフトだとあちこちで講演が行われている。
一方、キットウッドはその人らしさ(personhood)に焦点をあてたケアによって認知症は回復する(rementing)と述べている。その言葉の内実を知るには彼の思想のすべてを詳しく読む必要があった。
認知症の人のニーズの5項目(慰め、結びつき、共にいること、携わること、自分であること)や前向きな働きかけの12項目、そして悪性の社会心理の17項目、デメンチアケアマッピングという方法をケアにむすびつけること、などを考えると、認知症の回復rementing(標準パラダイムでは不可能とされてきた)もありうることに思えてくるのである。
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